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2021-11-02

昭和11年の日常風景/『工藤写真館の昭和』工藤美代子


 ・日露戦争がきっかけで写真館が増えた
 ・昭和11年の日常風景

『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子
『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子

 下町の朝は、物売りの声で始まる。一番早いのが浅蜊(あさり)や蜆(しじみ)売りの声で、午前6時頃には、もう聞こえてくる。
「あさり~しじみ~」
 朝の空気をふるわすように、その声が響くと、工藤家の子供たちは家の中から全員で声を揃えて怒鳴り返す。
「あっさり~死んじめぇ~」
 外を歩く物売りに、この声が聞こえるのではないかと、初めはハラハラして子供たちを叱りつけていたやすだったが、近頃はあきらめている。どうしたって、毎朝1回は怒鳴らないことには子供たちはおさまらないのだ。
 大騒ぎで子供や弟子たちが、顔を洗ったり身づくろいをしていると、今度は納豆屋が町々を通り抜ける。
「なっとぉ~なっと、なっとぉ~」
 こちらは少年の声だった。肩から籠を下げている。その中には藁の筒に包んだ納豆と辛子が入っている。
 青森育ちの哲朗は納豆が好物なので、朝食の膳に出ない日はなかった。
 続いて、豆腐屋のラッパが悲しいような、くぐもった音で鳴る。朝夕、必ず2回、このラッパの音が聞こえるのだが、夕暮れの方が、より物悲しい感じがする。豆腐屋は天秤棒の両端に盥を下げて、ピチャピチャと豆腐を泳がせている。頼むと厚い木のまな板を出して、「はい、味噌汁ね、やっこね」と、料理に応じた大きさに豆腐を切ってくれた。朝の味噌汁に、きちんと間に合う時間に現れる。
 少し遅れて煮豆屋が、チリンチリンと、遠慮がちな鈴の音を響かせて、ゆっくりと荷車を引いて来る。お多福、うぐいす、うずら、ぶどう、黒豆など様々な種類の煮豆が、甘辛く味つけされていた。下町育ちのやすは、煮豆にちょこっとでも箸をつけないと気がすまないので、これも納豆と並んで朝食には欠かせなかった。
 冷蔵庫もなく、お手伝いさんもいなかったが、買い物は家にいて、ほとんどの用が足りた。午前中のうちに魚屋は、今日仕入れた魚の種類を経木に書いて、注文を取りに来る。夕方には頼んだ魚が配達される。八百屋も酒屋も必ず御用聞きに来た。
 子供たちは学校が始まる時間に合わせて、順番に家を出る。一番早いのは、平井にある府立第七高女に通う初枝だった。
 その日は朝から、しんしんと雪が降っていた。そして、どうしてか物売りの声が、雪に封じ込められたようにどこからも聞こえてこない。
 なんだか変だ――と、初枝は思っていた。ラジオも雑音ばかりで、ガーガーと嫌な音を立てるので消してしまった。
 多分、この大雪のせいであろう。それでも、やっぱり学校には行かなくちゃと、初枝はオーバーを着て手袋をはめた。それから、生まれて10日しかたっていない赤ん坊の顔を、ちょっと覗き込んだ。
 工藤家にまた男の子が生まれたのである。名前は敏朗とつけられた。目がクリクリして、全体にまん丸い赤ん坊だった。「あの子の仇名、南京豆がいいや」。そう思いながら、初枝はゴム長を下駄箱から引っ張り出して履いた。準備完了。昭和11年2月26日、午前7時30分だった。
 学校は、どんなことがあっても休んではいけなかった。頭から、固く信じ込んでいた。初枝だけでなく、同級生はみんなそうだった。だから、去年の秋に、台風で中川が氾濫し、平井の駅前の大通りが水浸しになった時は、なんと舟に乗って学校までたどり着いた。まさ、あの大通りを舟で渡るなんて……と、初枝は思い出すたびにおかしくなる。学校側が、ちゃんと生徒のために、舟を出して、高台になっている駅から、4~5人ずつ乗せて運んでくれたのだった。
 あの時はさすがに遅刻しても、先生に怒られなかった。しかし、今日はそうはいかない。8時45分までには、教室に入っていなければと、いつもより15分も早く家を出た。
 ほとんど小走りに、雪を蹴散らしながら靖国通りに出て、国技館の前の交差点のところで、信号を見ようと傘を上げたとたんに、異様な感覚が全身を打った。
 音がない。靖国通りの音が消えていた。市電が通っていないのだ。市電だけではない。車も走っていない。朝のあの喧騒が、ぽっかりと嘘のように雪の中に消えていた。
 その代わりに、今まで見たこともない光景が、目の前にあった。交通が遮断された大通りの真ん中に、佩刀(はいとう)して武装した兵士たちが、何十人も並んでいる。彼らの前には機関銃が一列に地面に据えつけられていた。
 武装した本物の兵士を見るのは、初枝は初めてだった。しかも、こんなにたくさん、いっぺんに白い雪を被って立っている。ぎょっとして、しばらく立ちすくんだが、また気を取り直した。なにがあったか知らないが、とにかく学校へ行かなければならない。敢然と、初枝は信号を渡り始めた。両国駅へ行くには、ここを渡るしかない。
 通りの半分くらいまで来たところで兵士の一人に呼び止められた。
「君、駅へ行っても電車は走っとらんよ」
「でも、学校へ行かなきゃならないんです」
 必死の形相で初枝が答えると、
「学校も今日は休みだ」
 と、はっきりした口調でその兵士は言い切った。初枝は通りの真ん中で立ち往生した。兵隊さんが嘘を言うはずはない。しかし、どうして、電車も通っていなければ、学校も休みなのか。駅へ行けば、その理由を書いた貼り紙でも出ているのではないだろうか。
 じっと初枝が兵士の顔を見詰めたまま考えていると、まるで外観にそぐわぬやさしい声で傍へ酔って来て説明してくれた。今朝早く、反乱軍が首相官邸その他を襲った。今はもう鎮圧にあたっているから心配はいらないが、千葉方面から援軍が駆けつけるらしいとの情報が入った。それで、我々は待機して、もしも反乱軍が来たら、ここで喰い止めて一歩も都心に入れないつもりなのだ。
 こう言われて、はっと気づくと、確かに機関銃はピタリと千葉の方角を指して並んでいる。
 とにかく家へ帰って、今日は一歩も外へでるんじゃない。家族にもそう伝えておきなさいと言われて、初枝はすごすごと家へ引き返した。

【『工藤写真館の昭和』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(朝日新聞社、1990年講談社文庫、1994年/ランダムハウス講談社文庫、2007年)】

 背表紙とハードカバーの表紙には「本所區東兩國」とタイトルの上に振ってあるが奥付にはない。工藤写真館があったのは現在の両国2丁目である。


 かつて私が仕事をしていた地域である。本書で知ったのだが戦前の国技館は回向院の敷地内にあったとのこと。東京大空襲で焼失し、現在の横綱1丁目に移転した。戦後は日大講堂となる。たぶん左側の高層ビルの位置にあったと思われる。

回向院と旧両国国技館

 やはりそうだった。この辺りは私にとって庭みたいな場所である。ツイートのURLをクリックしてGoogleマップを開いて右方向にスクロールすると、吉良上野介の邸跡がある。今でも吉良の頸(くび)を洗った井戸が残っている。更に右側に進むと両国公園がある。ここは勝海舟生誕の地だ。

 日常風景から二・二六事件への場面展開が秀逸である。「信号を渡り」という言葉が誤用かと思ったが、検索したところ当時は横断歩道がなかった可能性が高い(小林祐史:現在のような自動車が走る車道を、歩行者が横断するための横断歩道が登場し始めたのは、1950~1960年代(昭和30~40)から)。

 しかも哲朗が写真の仕事を始めたのは札幌である。我が故郷(ふるさと)だ。時代は異なれども不思議な感興が交錯する。

日露戦争がきっかけで写真館が増えた/『工藤写真館の昭和』工藤美代子


 ・日露戦争がきっかけで写真館が増えた
 ・昭和11年の日常風景

『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子
『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子

 もともと、日本全国で写真館が飛躍的に増えたのは、日露戦争のためといわれている。出生記念に兵士が写真を撮るのと同時に、家族たちも肖像写真を撮って、兵士に持たせた。まだ一般家庭に写真機などなかった時代に、人々は写真館で今生の名残となるかもしれない瞬間を凍結した。
 その思いは、昭和の代になっても変わってはいないのだろう。中国大陸がどれほど希望に満ちた約束の地であったとしても、兵士たちの顔には隠し切れない悲壮感や不安が漂っていた。
 カメラのファインダーを覗くたびに哲朗は、それを感じていた。普通の家族の肖像写真とは、空気の密度がまるで違っている。まだ10代後半や20代の初めの、若々しい兵士たちの顔は、いやにくっきりと、その輪郭を縁どる空気が濃く凝縮して見える。

【『工藤写真館の昭和』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(朝日新聞社、1990年講談社文庫、1994年/ランダムハウス講談社文庫、2007年)】

 今時は冠婚葬祭くらいでしか写真撮影を頼むことはない。私が小学校の半ばくらいまでは年に一度家族で写真館に足を運んだ。懐かしさと共に突然思い出が蘇った。私の父は若い頃からカメラを嗜(たしな)んでいてセミプロ級の腕前だった。ニコンのFシリーズを愛用し、時折新聞社からも撮影を依頼されていた。

 写真を撮りにゆくのはあまり好きではなかった。正装するのも面倒だったし、何にも増して家族で外出すると怒られることが多かった。私は幼い頃、少しボーッとしたところがあって、母から持たされたハンドバッグをどこかに置き忘れたりして、そのたびに凄い剣幕で怒られた。撮影直前のしゃちほこばった数秒間も堪(たま)らなく嫌いだった。

 日露戦争がきっかけで写真館が増えたのは知らなかった。一葉の写真が忘れ形見となる。切り取られた瞬間は彼が生きた確かな証であった。死者数8万4000人(日露戦争はやわかり | 日露戦争特別展2)を思えば、涙に掻き暮れた家族は数十万人に及んだことだろう。

 昔、写真は厚い台紙のアルバムに貼り付けていた。私の世代だと既にセロファンみたいなやつで挟み込むような体裁になっていたが、それでもやはり貴重品だったのだろう。フィルムタイプは現像を待たねばならなかった。そうした時間も一枚の写真の大事な要素だった。

 その後、連写機能が開発され、家庭用ビデオが発売され、デジカメ~スマホという流れを辿り、写真は単なる画像情報に格下げされた。ウェアラブルカメラや防犯カメラでは長時間の動画撮影が可能となった。

 無限の記録と一枚の写真との違いを思う。

2021-10-25

真相が今尚不明な柳条湖事件/『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子


『工藤写真館の昭和』工藤美代子
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒

 ・佐藤栄作と三島由紀夫
 ・「革新官僚」とは
 ・真相が今尚不明な柳条湖事件

 事件は昭和6(1931)年9月18日に、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖の満鉄(南満州鉄道)線路で起きた小さな爆発事件だった。
 一般的に「柳条湖事件」と呼ばれているこの爆発事件の首謀者は関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、同じく関東軍作戦参謀石原莞爾(かんじ)中佐だとされてきた。
 両者ともその事実を否定したまま故人となった。
 ところが戦後になって当時の奉天特務機関にいた花谷正少佐(最終階級陸軍中将)が「手記」を発表し、板垣、石原のほかに関東軍司令官本庄繁中将、挑戦軍司令官林銑十郎(せんじゅうろう)中将、参謀本部第一部長建川美次(よしつぐ)少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも一緒にこの謀略に荷担していた、と書いた。
 雑誌「別冊知性」(河出書房刊)に発表された花谷の手記は「満州事変はこうして計画された」と題するもので、戦史研究家・秦郁彦の取材に答えたとされる。
 だがその時点で、主役の登場人物はすべて物故しており肝心な裏付けはとれない。
 さらに、インタビューした秦郁彦自身による次のような記述を読めば、花谷発言の信憑性に疑問すら浮かぶ。

「私はこの事件が関東軍の陰謀であることを確信していたので、要は計画と実行の細部をいかに聞き出すかであった。最初は口の重かった花谷も少しずつ語り始め、前後8回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。みずから進んで語るのを好まない関係者も、花谷談の裏付けには応じてくれた。
 それから3年後の1956年秋、河出書房の月刊誌『知性』が別冊の『秘められた昭和史』を企画したとき、私は花谷談をまとめ、補充ヒアリングと校閲を受けたのち、花谷の名前で『満州事変はこうして計画された』を発表した」 (『昭和史の謎を追う』上)

 花谷はこのときまで62歳だったが、翌年死亡が伝えられている。すでに体調を崩していたための代筆とも考えられるが、それだけに真相がどれだけ語られていたのか、すべては死人に口なし、である。
 したがって、この一文をもって柳条湖事件を関東軍の謀略と決めつけるのはいささか無理がありそうだ。
 事件の背後にはもっと複雑な謀略が絡んでおり、事件の真相はまだ闇の中と言えよう。
 いわゆる「リットン調査団」の報告書も微妙な表現を用い、断定を避けている。
 岸が生涯の前半生を賭けた大仕事が満州経営であってみれば、その発端を切り拓いた柳条湖事件は極めて重要なポイントとして見逃せない。
 だが、軍部中心のこの事件の真相に迫るのは本書の主題から離れるので、史料がいまだにいかに不確実な事件かという事実だけを指摘するに留めたい。
 満鉄線の一部が何者かによって爆破されたということ、それを契機として日中間に銃撃戦が発生し、関東軍が自衛のために満州各地へ進出(錦州爆撃など)を開始した、という経過だけが明らかなのである。

【『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(幻冬舎文庫、2014年/幻冬舎、2012年『絢爛たる悪運 岸信介伝』改題)】

 吃驚仰天した。柳条湖事件を起こしたのが板垣征四郎と石原莞爾〈いしわら・かんじ〉であったというのは既成事実ではないのか? 慌てて検索したのだが工藤美代子の主張を裏づける情報は皆無であった。

 工藤は文章が巧みである。工藤の手に掛かればいかなる人物であったとしてもそれなりの物語にすることが可能だろう。我々は文章や言葉に直ぐ騙される。その最大の見本がバイブルである。あの文体は脳を束縛する心地好さがある。イエスという人物があたかも実在したように錯覚させられる。しかも西洋人はイエスの言葉を通して、更に実在の不明な神を信じているのだ。胡蝶の夢のまた夢といってよかろう。

 工藤の文章が危ういのは、「事件の背後にはもっと複雑な謀略が絡んでおり」と思わせ振りなことを書いておきながら、その根拠を全く述べていないところだ。事実に印象を盛り込んでおり、読者を誘導しようとする魂胆が透けて見える。

 歴史が厄介なのは、嘘を確認するために学ぶことがあまりにも多いためだ。その作業が疎(うと)ましく感るごとに歴史から遠ざかってしまう。嘘がどれほど罪深いかを知ることができよう。

 日本国民は満州事変を熱狂的に支持した。三国干渉(1895年/明治28年)以降、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉にしてきた日本人が諸手を挙げて喝采を送ったは当然であった。すなわち柳条湖事件はきっかけに過ぎず、たとえ同事件が発生しなくとも、別の事件で事変に至ったのは確実である。



工藤美代子の見識を疑う/『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔

2021-10-11

「革新官僚」とは/『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子


『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒

 ・佐藤栄作と三島由紀夫
 ・「革新官僚」とは
 ・真相が今尚不明な柳条湖事件

 一連の岸の活動は吉野とともに統制経済の道を拓き、整備拡充するものとなったが、世間はこうした官僚を「革新官僚」とか「新官僚」と呼ぶようになっていた。
「革新」といえば戦後は左翼を意味してきたが、当時の「革新」にイデオロギー色はない。敢えて言えば国家主義的な色彩が強かった。

【『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(幻冬舎文庫、2014年/幻冬舎、2012年『絢爛たる悪運 岸信介伝』改題)】

 言葉通りの「革新」であったわけだ。長年の疑問が氷解した。戦前から共産主義は「アカ」と呼ばれて毛嫌いされていたが、社会主義思想そのものは一君万民論と親和性があり、革命思想とは異なる広がりを見せていた(北一輝、大川周明など)。こうしたことが左翼用語に神経を尖らせてしまう要因となっている。

2021-09-24

佐藤栄作と三島由紀夫/『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子


『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平

 ・佐藤栄作と三島由紀夫
 ・「革新官僚」とは
 ・真相が今尚不明な柳条湖事件

 弟の栄作はどうだったのか。
 三島由紀夫が自決した昭和45(1970)年11月25日、首相を務めていた佐藤栄作はその死に際して、「気が狂ったとしか思えない」と短いコメントを残したとされる。
 だが、佐藤夫妻はかねてより三島の母・平岡倭文重(しずえ)を通じて三島本人とも昵懇(じっこん)だった。(中略)
 佐藤寛子の回想(※『佐藤寛子の宰相夫人秘録』)などを勘案すれば、佐藤栄作は、現役の総理として胸中とは違う無理に形式ばった発言をした可能性が考えられる。
 むしろ、岸の方が三島に対しては自分の理解を超えた不合理を感じていたのではないか。
 晩年、インタビューに答える次のような回答は彼の現実主義を見事に言い表している。

「三島由紀夫はね、いわゆる神がかりの考え方ですよ。ああなってくると、われわれの思想を超越している。政治家の世界では、真・善・美のうち美を追求する世界ではないと思う。政治家は善を追求し実現するけれども、美を追求し真理を探求するという世界ではない」
(『岸信介証言録』)

【『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(幻冬舎文庫、2014年/幻冬舎、2012年『絢爛たる悪運 岸信介伝』改題)】

 これは佐藤の肩を持ちすぎだろう。咄嗟に「形式ばった」言葉が出てくることは考えにくい。私はむしろ本音を吐露したのだと思う。三島由紀夫の自決は、米軍に守られながら戦後をぬくぬくと経済一辺倒で行きてきた日本人の本音を引き出した。半世紀先をゆく行為であったと思われてならない。もしも2020年であれば「楯の会」は巨大民兵組織となっていたことだろう。三島の炯眼(けいがん)はあまりにも先を見通していた。自らの信念を時代に打ち込むためには、あのような形しか選択し得なかった。


 岸の発言は彼が理想に生きる人物ではなかったことを物語っている。その現実主義ゆえに日米安保の改正を成し得たのだろう。自らも一度は凶刃に倒れている人物にしては軽い発言だと思う。

2020-03-28

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説/『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子


『工藤写真館の昭和』工藤美代子

 ・読書日記
 ・張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説

『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎

日本の近代史を学ぶ

 昭和3年に入るとにわかに時局があわただしさを増した。日本の満州外交についてひと通り見ておこう。
 6月4日、奉天駅から南へ1キロの地点で満州軍閥の総領、張作霖が乗った列車が爆破され死亡する事件が起きた。時の首相田中義一はこの事件の処理を誤り、さまざまな手遅れをきたした挙句、結果的には満州の空に青天白日旗を招き寄せる結果になった。
 日本の対満州外交の失敗はこれより前の幣原外交から始まっていた。幣原喜重郎はそもそも中国内の軍閥間の内戦である奉直戦争(大正13年)のとき、日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚(ごはいふ)の逆襲にあって満州そのものが危機にさらされる情勢となったが、浜口首相、幣原外相は動かなかった。
 しかし、呉佩孚の部下だった馮玉祥(ふうぎょくしょう)の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。そのため幣原外交は一時的には名を上げたが、馮の反乱は裏で日本の軍部による暴力だったことがやがて判明した。よくいわれる幣原の“軟弱外交”の結果として、軍が文官の指揮を越えて手を出すきっかけとなった事件だったといえる。
 ところが近年になってモスクワの新情報が開示され、そもそもこの事件はソ連側スパイの謀略によって動かされていたことが、イギリスの調査でほぼ確実になった。事件から七十余年経ったころである。
 イギリス情報部の秘密文書によれば、実は馮の背後にはソ連=コミンテルンが張り付いていた。馮がモスクワからの指令で動いていた事実は、コミンテルンからの通信を逐一解読していたイギリス情報部の発表とも一致した。
 だとすれば、宇垣一成(うがきかずしげ)、板垣征四郎(いたがきせいしろう)といった日本の陸軍首脳は、イギリスとソ連の手のひらの上で「反日勢力」を支援していたことになる。
 ところがさらに、この事件にはまだ隠されていた重大な陰謀があったという驚くべき事実が伝えられた。
 平成17年末に刊行された『マオ』(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ)には、恐るべき謀略の実態が書かれている。
「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」
 かつて『ワイルド・スワン』を著した信頼度の高い著者の調査である。とはいっても、我々がこの論証の確度を確かめることはたやすくない。今現在、モスクワの情報開示は極めて不十分な環境に逆戻りしているからだ。
 だが、どうやら馮の問題だけにとどまりそうもないということは分かってきた。少なくとも張作霖爆殺事件に始まる満州事変から一次、二次上海事件、さらにはゾルゲ事件へ至る過程にスターリンの手が入らなかったものはないという可能性を知った上で、我々は昭和の激動をみてゆかなければならないだろう。
 顧問てるんの手先による諜報作戦、あるいは毛沢東のスパイ活動による策謀が、これから先、昭和の日本を随所で翻弄することになると思わなければならない。
 残念ながら、国際共産主義のそうした諜報活動=インテリジェンスに対するわが方の防衛意識ははなはだ心もとないものだった。また、たとえ現地の日本側から正確な情報が上がってきても、参謀本部がそれを選択しなかった事例もあったろう。
 こうした諜報活動の新事実は戦後60年近く経って、今ようやく明るみに出ようとしているのであって、昭和初期にそれを知る者は誰もいない。

【『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(日本経済新聞社、2006年/中公文庫、2009年)】

 読ませる。とにかくグイグイ読ませる筆力に圧倒される。否、筆力というよりは「物を語る力」というべきか。『快楽(けらく) 更年期からの性を生きる』(2006年)とは桁違いである。

 上記テキストは最も驚かされた内容の一つであるが、少しばかり調べたところ事実と認められるまでに至っていないことを知った。つまり史実ではなく異説に過ぎない。文章の巧みな人物が嘘を書くと素人はとてもじゃないが見抜くことが難しい。それが読み物であったとしても禁じ手であろう。というわけで「必読書」から外した。

 この説は「旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書から判明した事実」として紹介されているが、『正論』2006年4月号のインタビュー記事のプロホロフの説明によると「従来未公開のソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」としている。

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説 - Wikipedia

 張作霖爆殺事件は、ロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフにより、スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説が主張されたことがあった。2005年に邦訳が出版されたユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』でも簡単に紹介され、一部の論者から注目された。プロホルフは産経新聞においても同様のことを語っている。ただし、歴史学界で、通説を再検討するに値する説として取り上げられたことはない。

張作霖爆殺事件 - Wikipedia

 その後、河本大作〈こうもと・だいさく〉の処分が曖昧なことを天皇陛下が問題視し田中義一内閣が総辞職した(張作霖爆殺事件/満州某重大事件)。

 河本の後任として関東軍に赴任したのが板垣征四郎〈いたがき・せいしろう〉と石原莞爾〈いしわら・かんじ〉である。二人が柳条湖事件(1931年)を起こしたことを鑑みても関東軍の謀略体質が窺える。

 大東亜戦争については後知恵の大東亜共栄圏構想をもって義戦と位置づける歴史の見直しが保守層から起こっているが、果たして陸軍の動きが大御心(おおみごころ)にかなっていたかどうか甚だ疑問である。石原莞爾について昭和天皇は「わからない」と心情を吐露されている。

 工藤美代子は後に新しい歴史教科書をつくる会の副会長を務めた。かような立場にある人物が異説を歴史として語る行為は決して許されるものではない。