2020-03-28

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説/『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子


『工藤写真館の昭和』工藤美代子

 ・読書日記
 ・張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説

『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『爽やかなる熱情 電力王・松永安左エ門の生涯』水木楊

日本の近代史を学ぶ

 昭和3年に入るとにわかに時局があわただしさを増した。日本の満州外交についてひと通り見ておこう。
 6月4日、奉天駅から南へ1キロの地点で満州軍閥の総領、張作霖が乗った列車が爆破され死亡する事件が起きた。時の首相田中義一はこの事件の処理を誤り、さまざまな手遅れをきたした挙句、結果的には満州の空に青天白日旗を招き寄せる結果になった。
 日本の対満州外交の失敗はこれより前の幣原外交から始まっていた。幣原喜重郎はそもそも中国内の軍閥間の内戦である奉直戦争(大正13年)のとき、日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚(ごはいふ)の逆襲にあって満州そのものが危機にさらされる情勢となったが、浜口首相、幣原外相は動かなかった。
 しかし、呉佩孚の部下だった馮玉祥(ふうぎょくしょう)の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。そのため幣原外交は一時的には名を上げたが、馮の反乱は裏で日本の軍部による暴力だったことがやがて判明した。よくいわれる幣原の“軟弱外交”の結果として、軍が文官の指揮を越えて手を出すきっかけとなった事件だったといえる。
 ところが近年になってモスクワの新情報が開示され、そもそもこの事件はソ連側スパイの謀略によって動かされていたことが、イギリスの調査でほぼ確実になった。事件から七十余年経ったころである。
 イギリス情報部の秘密文書によれば、実は馮の背後にはソ連=コミンテルンが張り付いていた。馮がモスクワからの指令で動いていた事実は、コミンテルンからの通信を逐一解読していたイギリス情報部の発表とも一致した。
 だとすれば、宇垣一成(うがきかずしげ)、板垣征四郎(いたがきせいしろう)といった日本の陸軍首脳は、イギリスとソ連の手のひらの上で「反日勢力」を支援していたことになる。
 ところがさらに、この事件にはまだ隠されていた重大な陰謀があったという驚くべき事実が伝えられた。
 平成17年末に刊行された『マオ』(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ)には、恐るべき謀略の実態が書かれている。
「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」
 かつて『ワイルド・スワン』を著した信頼度の高い著者の調査である。とはいっても、我々がこの論証の確度を確かめることはたやすくない。今現在、モスクワの情報開示は極めて不十分な環境に逆戻りしているからだ。
 だが、どうやら馮の問題だけにとどまりそうもないということは分かってきた。少なくとも張作霖爆殺事件に始まる満州事変から一次、二次上海事件、さらにはゾルゲ事件へ至る過程にスターリンの手が入らなかったものはないという可能性を知った上で、我々は昭和の激動をみてゆかなければならないだろう。
 顧問てるんの手先による諜報作戦、あるいは毛沢東のスパイ活動による策謀が、これから先、昭和の日本を随所で翻弄することになると思わなければならない。
 残念ながら、国際共産主義のそうした諜報活動=インテリジェンスに対するわが方の防衛意識ははなはだ心もとないものだった。また、たとえ現地の日本側から正確な情報が上がってきても、参謀本部がそれを選択しなかった事例もあったろう。
 こうした諜報活動の新事実は戦後60年近く経って、今ようやく明るみに出ようとしているのであって、昭和初期にそれを知る者は誰もいない。

【『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(日本経済新聞社、2006年/中公文庫、2009年)】

 読ませる。とにかくグイグイ読ませる筆力に圧倒される。否、筆力というよりは「物を語る力」というべきか。『快楽(けらく) 更年期からの性を生きる』(2006年)とは桁違いである。

 上記テキストは最も驚かされた内容の一つであるが、少しばかり調べたところ事実と認められるまでに至っていないことを知った。つまり史実ではなく異説に過ぎない。文章の巧みな人物が嘘を書くと素人はとてもじゃないが見抜くことが難しい。それが読み物であったとしても禁じ手であろう。というわけで「必読書」から外した。

 この説は「旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書から判明した事実」として紹介されているが、『正論』2006年4月号のインタビュー記事のプロホロフの説明によると「従来未公開のソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」としている。

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説 - Wikipedia

 張作霖爆殺事件は、ロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフにより、スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説が主張されたことがあった。2005年に邦訳が出版されたユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』でも簡単に紹介され、一部の論者から注目された。プロホルフは産経新聞においても同様のことを語っている。ただし、歴史学界で、通説を再検討するに値する説として取り上げられたことはない。

張作霖爆殺事件 - Wikipedia

 その後、河本大作〈こうもと・だいさく〉の処分が曖昧なことを天皇陛下が問題視し田中義一内閣が総辞職した(張作霖爆殺事件/満州某重大事件)。

 河本の後任として関東軍に赴任したのが板垣征四郎〈いたがき・せいしろう〉と石原莞爾〈いしわら・かんじ〉である。二人が柳条湖事件(1931年)を起こしたことを鑑みても関東軍の謀略体質が窺える。

 大東亜戦争については後知恵の大東亜共栄圏構想をもって義戦と位置づける歴史の見直しが保守層から起こっているが、果たして陸軍の動きが大御心(おおみごころ)にかなっていたかどうか甚だ疑問である。石原莞爾について昭和天皇は「わからない」と心情を吐露されている。

 工藤美代子は後に新しい歴史教科書をつくる会の副会長を務めた。かような立場にある人物が異説を歴史として語る行為は決して許されるものではない。

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