2011-02-15

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・宗教の原型は確証バイアス
 ・自閉症者の可能性

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

宗教とは何か?
必読書 その五

 正真正銘の神本(かみぼん/神の如く悟りを得られる本)だ。著者のテンプル・グランディンは、オリヴァー・サックス著『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』(吉田利子訳、早川書房、1997年)のタイトルになっている人物。自称「火星の人類学者」は自閉症(※アスペルガー症候群と思われる)の女性動物学者であった。

 これは凄い。とにかく凄い。本書とトール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』とレイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を合わせて、「科学本三種の神器」と私は名づけたい。

 網羅、渉猟、越境の度合いが生半可でないのだ。本物の知性は統合に向かうことがよく理解できる。緻密さや細部で勝負する知性はカミソリみたいなもので、切れ味は鋭いものの骨肉を断ち切るところまで及ばない。それに対して豊かな広がりをもつ知性は、専門領域を通して高い視点を示すことで世界の風景を変える。

 テンプル・グランディンは自閉症患者が動物の気持ちを理解できるとしている。彼女は幼い頃から動物の感情を知っていたのだ。大人になるまでそれが特殊な能力であることに気づかなかったという。ここから様々な動物の生態を通して人間との違いや人類の歴史を綴っている。

 まあ、一回こっきりの書評で紹介できる作品ではないため、時間が許す限り何度でも書いてみせるよ(笑)。数多(あまた)ある驚天動地の内容で最も驚かされたのがこれ──

 動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。
 たとえば、食べ物が出てくる直前に明かりがつくボタンつきのかごにハトを入れると、ハトはすぐに、食べ物を手に入れようとして、明かりがついたボタンをつつくようになる。これは、確証バイアスによって、最初のできごと(ボタンの明かりがつく)が2番目のできごと(食べ物が出てくる)を引き起こしていると考えるようになるからだ。ハトは、たまたま何回かボタンをつついて食べ物が出てくると(ボタンの明かりがついているときに、かならず食べ物が出てくるので)、こんどは、明かりがついているときにボタンをつつくから食べ物が出てくるという結論を出す。
 ハトの行動は、ウサギの足のお守り〔行為のまじないとして持ち歩くウサギの左の後ろ足〕を持っていたらチームが野球の試合に勝てると考える人に似ている。それで、B・F・スキナーはこういった行為を「動物の迷信」と呼んだ。ピッチャーがウサギの足を持っていたときに登板した試合で勝ったのは、ハトが明かりがついたボタンをつついたあとに何回が食べ物を手に入れたのと同じことだ。どちらの場合も、相関関係が原因だと考えた。

【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン:中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

確証バイアス confirmation bias

 既に何度も紹介済みだが、相関関係と因果関係の混同である。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 つまり脳というシステムは、相関関係を因果関係に仕立てることで物語を創造していると言い換えることも可能だ。例えば歴史は権力者のトピックにすぎない。それゆえ歴史の大半は戦争という糸で紡がれている。圧倒的に膨大な量がある一般人の日常が年表に記されることは、まずない。捨象、切り捨て、無視ってわけだ。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。

 ここでいう「迷信」とは「非科学的」という意味であろう。だとすると殆どの宗教は迷信になる。なぜなら因果関係を証明することができないからだ。幸不幸の原因は神が下したものかも知れないし、家の方角の善し悪しかも知れないし、単なる偶然かもしれないのだ。

 たまたま朝一番でつけたテレビの番組で星座占いをしていたとしよう。あなたのラッキーカラーはピンクだ。ピンクのものさえ身につけておけば万事が上手く運ぶ。昨日、上司から叱られ、恋人と喧嘩をしたあなたの脳は敏感に反応することだろう。で、ピンクのネクタイを締め、颯爽と出社する。

 こうして一日の中の好ましい出来事は「ピンクのネクタイのおかげ」となるのだ。

予言の自己成就/『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』マッテオ・モッテルリーニ
人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 占いを信じる人は、占いに沿った思考となり、占いに当てはまらない事実は印象に残らなくなる。このようにして「占い物語」という人生が進んでゆく。

 ところが、ほかの豚も、これまた確証バイアスにもとづいて、囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには、何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いているときに中に入り、それから餌桶に近づき、地面を踏み鳴らしはじめた。足を踏み鳴らしつづけていると、そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて、タグが読みとれ、餌が出てきた。どうやら豚は、たまたま足を踏みならしていたときに餌が出てきたことが何回かあって、餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。わたしたちの脳は、偶然や思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。わたしたちは生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや、見つける必要があるもの学ばせる脳の同じ部分が、妄想じみた考えや、陰謀じみた説も生み出すのだ。

 これだ。多分ここから宗教が生まれたのだ。宗教という現象は人間特有のものではなかったのだ。とすると宗教感情がいかに脳の深い部分にあるか知れようというもの。動物にもあるわけだから新皮質より下部にあることだろう。きっと情動も絡んでいるはずだ。

 とはいうものの物語なしで我々は生きてゆけない。はっきりと書いておくが、かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。聖書や仏典が伝えられてから2000年以上も経過しているが、今尚人類は争い合っている。

 混乱はバラバラの物語が衝突し合っている姿といってよい。同じ宗教を信じていても考え方は違うだろうし、それこそ人の数だけ思想や価値観が存在するのだ。

 まして高度な社会になればなるほど、幸不幸はヒエラルキーや経済性に依存してしまう。我々の幸不幸は比較の中にしかない。

 結局、情報と情報をどう結び合わせるかという問題なのだろう。「私」という情報をどう扱うか? エゴイズムと無縁の物語はあるのか? 人生からそんな宿題を与えられているような気がする。



テンプル・グランディン:世界はあらゆる頭脳を必要としている
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱/『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
合理性を阻む宗教的信念/『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳
脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
スロットマシンプレーヤーの視点/『ゾーン 最終章 トレーダーで成功するためのマーク・ダグラスからの最後のアドバイス』マーク・ダグラス、ポーラ・T・ウエッブ
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2011-02-11

ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之


 ・ニューエイジで読み解く宗教社会学

『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀
『スピリチュアリズム』苫米地英人
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ニューエイジ・ムーブメントとは、アメリカ西海岸を発信源として1960年代後半から80年代にかけて盛り上がりを見せた霊性復興運動のこと。ベトナム反戦運動が高まる中、近代合理主義や伝統的キリスト教に反発する形でカウンターカルチャーと同時に現れた。

ニューエイジ・精神世界 1

 ヒッピー・ムーブメントも一緒だな。多分。彼らは叫んだ。「セックス、ドラッグ&ロックンロール」と。

 戦争や神様に対するウンザリ感は何となく理解できる。特にアメリカの場合、ヨーロッパと比較しても原理主義的傾向が顕著で、暴力性を帯びている。

妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ

 そして今もなお天地創造説を信じ、進化論を否定する連中が山ほどいる国でもある。

米国では大人の半分が天地創造を信じている/『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』ポール・ブルーム

 キリスト社会に亀裂を入れた一点においてニューエイジを私は評価する。ただし宗教性という次元では子供騙しにすぎないと考えている。

図1 ニューエイジ度の尺度

            反ニューエイジ的←→ニューエイジ的
世界観   二元論(善悪の対立、絶対者)←→一元論(自己変容)
実践形態      厳格な規律、上下関係←→ゆるやかなネットワーク
担い手の意識 教祖や教義を崇拝、他者依存←→自立的、スピリチュアル 

【『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之(渓水社、2003年)以下同】

 ま、わかりやすいといえばわかりやすいのだが、社会形態も同じように変化していることを弁える必要がある。結局、制度宗教への反発は社会への反発でもある。なぜなら制度宗教そのものが宗教の社会化であり、二次的社会を形成しているからだ。

 ヒーラスは、ニューエイジを「自己宗教(self religion)」と呼ぶ。彼は、1960年代の対抗文化の発達にともない、個人は聖なる存在に近いものとして捉えられはじめたと考える。そこでは、表現的個人主義(原文略)の広がりも影響して、自己発達、自己実現というテーマが絶えず重要な役割を果たしていた。

 私なら「宗教ごっこ」と名づける。「自慰宗教」でも構わない。そもそも「個人」という言葉は神と向き合う一人の人間を意味する。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 神に背を向けるのはよろしい。しかし、自らの内部に聖性や神秘性を見出そうとする時、そこに同じ神を見出すことになりはしないだろうか? はたまた極端な自然志向が動物的な生き方へと導く可能性もある。

 自己実現の「自己」にも、やはり神の匂いがする。実現と未実現とのヒエラルキーを避けようがない。未来を重んじることは現在を軽んじることでもある。

 また、ベラーらは、現代アメリカ社会に於いて「自己を宇宙的原理に高めてしまうほど徹底して個人主義的な」宗教形態を「神秘主義」、あるいは「宗教的個人主義」と呼んだ。宗教的個人主義の先行形態は、19世紀の思想家であるエマーソン、ソロー、ホイットマンに見いだせるが、この宗教現象は20世紀の後半になってから主要な宗教形態として発達してきていると分析する。もちろん宗教的個人主義は、ニューエイジそのものではない。しかし、「現代の宗教的個人主義は、自分のことを述べるのに『宗教的(レリジャス)』とは言わずにむしろ『霊的(スピリチュアル)』というような言い方をしばしばする」との言及からも分かるように、極めてニューエイジに近い宗教現象だといえよう。このような、「自己宗教」や「宗教的個人主義」として捉えられるニューエイジ思想は、自己を越えた他者や社会全体での関心を示すことのない、自己中心的な思想としてしばしば批判されてきた。

 スピリチュアリズムとは「非科学的な物語」といってよい。その意味では、意外かもしれないが鎌倉仏教の流れを汲む日本の大半の宗教が実はスピリチュアリズムと判断される。密教的系譜はおしなべてスピリチュアリズムである。

 筆者は、ニューエイジの思想的な特徴は、究極の「リアリティ(状態、目的)」とそこへいたる「手段(媒介)」から成り立っていると捉えている。ニューエイジでは、ホリスティック(全体論的)でトランスパーソナル(超個的)な世界観が究極のリアリティとしてあり、その究極にいたる手段として個人の聖性が強調されるのである。

 上手い説明なんだが、ニューエイジに接近しすぎているきらいがある。私は「内なるユートピア思想」がニューエイジの特徴であると考える。ひょっとすると制度宗教の戒律が時代性とそぐわなくなっているのかもしれない。

 つまり、ニューエイジ思想は、究極にいたる手段が、家族や地域共同体と分離した個人に力点がおかれる点で新しい宗教性を示しているのである。

 それが「宗教性」といえるのであれば、「社会性」に置き換えることも可能だろう。人と人とを結び合わせるのが宗教性であり社会性である。ニューエイジには散逸、離散、放射というベクトルがあるように思われる。

 続いて宗教の世俗化という骨太のテーマが展開される。特筆すべきは以下の部分──

 スタークとイアナコーニは、世俗化論一般を批判する際に、宗教に市場経済モデルを適用して、制度宗教を宗教企業、信者を宗教消費者ととらえる。従来の宗教社会学者は、宗教消費者に焦点を置き、表1、2に示したデータから宗教の世俗化、つまり人々の宗教での関心が低下していると結論づけてきた。これに対してスタークらは、信者の行動でなく宗教を供給する企業側に注目し、次のように問う。「もしも少数の怠惰な宗教企業しか存在しなかったとしたら、潜在的な宗教消費者はどのような行動をとるだろうか」と。
 スタークらは、自分たちの経済モデルに立地でした「供給サイド・モデル」の有効性を検証するためにいくつかの命題を提出している。本論との関連のみをまとめるなら、要するに、ある国で人々の教会出席率や教会所属率が低いのは、宗教企業が宗教消費者の多様なニーズにこたえるような形態となっておらず、結果的に個々人が教会に関心を示さなくなっているためであるということだ。

 言い換えれば、世俗化と誤解されている状況は、独占的宗教企業が人々に魅力的で亡くなったことに起因し、個人の宗教心が衰えたためではないのだ。(※スタークらの議論)

 宗教社会学と行動経済学の融合(笑)。教団と信者を需給関係で捉えることはあながち間違ってはいない。経済の発達に伴って「聖」と「俗」の二元論的世界観は崩壊する。霊媒師は政治家と変わり、生け贄はクリスマスケーキとなる。世俗化は社会のシステム化と関連している。

 宗教のパラダイムシフトが進展しないのは、欲望が多様化しているせいもあるのだろう。とすると人々が望んでいるのはカスタマイズ化された宗教なのかもしれない。

 宗教社会学入門としては良質なテキストだ。ただしネット恋愛に1章を割いてしまったことで、後半はかなり失速している。ヴァーチャル(仮想)の意味を履き違えており、それこそスピリチュアリズムの言い分と同じレベルになっている。

 電話を通して聞こえる声だって、音声を電気信号に変えているゆえヴァーチャルなのだ。つまり、脳が受け取る情報は仮想であろうと現実であろうと違いはない。スピリチュアリズムの短絡性や安易さをインターネットと結びつけようとして完全に失敗している。



世俗化とは現実への適応/『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世
「精神世界」というジャンルが登場したのは1977年/『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』鎌田東二編
ヴェーダとグノーシス主義