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2020-05-09

サンセベリアの植え替え/『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・不自然な姿勢が健康を損なう
 ・サンセベリアの植え替え

サンセベリアの土を考える
『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『土と内臓 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー
・『ナチュラル・ボーン・ヒーローズ 人類が失った“野生”のスキルをめぐる冒険』クリストファー・マクドゥーガル
『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二

身体革命

観葉植物をとり入れる

 観葉植物は屋内の空気によい効果を与えることで知られる(私たちの心理にも測定可能な影響を与える)。植物は毒性のあるガス(とくにベンゼン、一酸化炭素、ホルムアルデヒド)を吸収し、私たちのためにリサイクルしてくれる。土壌中の細菌が出す蒸気はセロトニンレベルを上げる(セロトニンには数々の効果があり、何より気分をよくしてくれる)。研究によれば、病人は植物のある部屋のほうが早く快復するという。空気を加湿してくれる(風邪や喉の痛みを予防する)。
 もし羽根でできた埃とりをあまり好きでないなら、植物が空気中から埃をとり除いてくれるだろう。(中略)観葉植物をとり入れると、屋内の埃が最高で40パーセント減る。これはアレルギーのある人にはとくに朗報だ。(中略)これに加えて、植物は肺に病気のある人に悪影響をおよぼすカビの胞子を分解してくれる。
 1989年、アメリカ航空宇宙局(NASA)はアメリカ造園建設業協会(ALCA)の協力を得て、宇宙ステーション内の空気をいちばんよく清浄に保つ植物を探る実験をはじめた。リストに入った植物は、屋内空間(家庭やオフィス)の少なくとも9平方メートルをきれいにする能力を持つ。セイヨウキヅタ、スパティフィラム、カンノンチク、セイヨウタマシダ、ゴムノキ、オリヅルランなどの植物は、みな空気をきれいにするすばらしい能力を持つ。なかでもすぐれているのがサンセベリア・ローレンティで、あなたが観葉植物に慣れていればまず枯らすことはないし、夜間に酸素をつくってくれるという恩恵もある。(中略)
 観葉植物を家のなかに入れたら、あなたの居間は空気農場になる。

【『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード:水谷淳〈みずたに・じゅん〉、鍛原多惠子〈かじはら・たえこ〉訳(飛鳥新社、2018年)】

 この件(くだり)を読んでサンセベリア・ローレンティを買ったのが昨年の8月のこと。本当はゼラニカの方が好みなのだが中々売っているところがない。その後、インターネットでゼラニカを手に入れたのだが実は小振りなハーニーだった(個性的で魅力あふれるサンスベリア40種類と傷んだ場合の復活方法)。

 サンスベリアという表記も多いが正確にはサンセベリアのようだ。「もともとイタリアのサン・セヴェーロ侯という人名に由来しているのですから」(Yahoo!知恵袋)。折に触れて植え替え方法を調べた。計画は常に緻密であるべきだ。ま、心配性なんだよね。相手は生き物だから。

 満を持して5月を迎えた。新型コロナウイルスの影響で自粛続行の5月である。私は勇んで土を買いに行った。目星をつけたホームセンターは2ヶ所。少しばかり遠いが後悔をしないための選択だった。ホームセンターの正面にダイソーがあった。シャベルを買おうと入ったところ、な、な、なんと土が売っていた。しかも数種類だ。いやはや驚いた(【100均】ダイソーで土【園芸・ガーデニング】をたくさん見てきた!)。さすがの私も「100円ショップ+土」で検索したことはなかった。そのうち位牌や戒名まで売り出すかもね。

 念の為ホームセンターに足を運んだ。土の量を踏まえるとホームセンターに軍配が上がった。土って安いのね。しかも大きいほど安い。持ってきたメモには「観葉植物用+鹿沼土」or「赤玉+腐葉土+軽石もしくはパーライト」と書いてあった。観葉植物用14Lと鹿沼土14Lを買った。二つで850円だった。ただし丁度よい植木鉢が見当たらなかった。一旦帰宅して近所のホームセンターに行った。思わず「ウーン」と唸(うな)ってしまった。こちらの方が土の種類が豊富だった。灯台下暗し。植木鉢を二つ買った。家に戻ると植木鉢がかなりでかいことに気づいた。やはりスケール(メジャー)を持ち歩くべきである。

 鹿沼土(かぬまつち)は土を名乗っているが実は軽石だ。ま、カニカマみたいなものだ。鉢底石代わりになるかどうか調べたところダメだった。しかも酸性であることが判明した。再度ホームセンターへゆき、鉢底石(10L)と苦土石灰(くどせっかい/20kg)を買ってきた。苦土石灰とは凄いネーミングだ。『苦海浄土』を省略したような名前だ。穢土(えど)より酷い名前だわな。

 風が強かったので作業は風呂場で行った。ローレンティとハーニーの土が全然違った。しかもローレンティは根が伸びた形跡がなかった。面倒なんで両方の土を混ぜて、買ってきた土も適当に投入した。鉢が大きいので石を多めに入れた。「ひょっとして天才?」と言いたくなるほどピッタリの量だった。子株・カビはなし(サンスベリア(トラノオ)の育て方や植え替え方法、増やし方(葉挿し、株分け))。本当は丸一日乾燥させた方がいいようだが2時間ほど放置して我慢できなくなった。

 上手く育ってくれればいいのだが。私はためつすがめつして眺めた。土をいじると元気が出てくる。生命を育むことは何という喜びなのだろう。

 そして大量の土が残った。構わん。数年後にはサンセベリア屋になるつもりなのだから。



老人ホームに革命を起こす/『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ

2020-02-12

口と手の形は、その主食の種類によって決められる/『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三


『好きなものを食っても呑んでも一生太らず健康でいられる寝かせ玄米生活』荻野芳隆

 ・口と手の形は、その主食の種類によって決められる

『人類史のなかの定住革命』西田正規
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット

 マダガスカルのそのほかの原猿(げんえん)類を調べるにつれて、指と歯の形が主食と関連するという視点は、霊長類一般に通用すると思うようになった。このアイデアを「口と手の形は、その主食の種類によって決められる」とまとめると、人類にも適用できるのではないかと、ある日私は考えついた。人類の主食は、その口と手によって決められている、と。マダガスカルの原野を行く長い単調な旅のあいだのことである。それは、身震いをするような経験だった。

【『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三〈しま・たいぞう〉(中公新書、2003年)】

 推理小説の趣がある。生きる姿勢で私が一番大切だと考えるのは「問う」ことである。学ぶ行為の奥に問うという自主性が働いている。島泰三の問いは単純にして深い。同じ霊長類でも手の形は実に様々だ。




 これを適応の結果(=進化)と考えることは自然だろう。ホモ・サピエンスの手は棒状の物を握るように構成されている。ヒトの骨格は立つようにできていて足の構造は走るようにできている(不自然な姿勢が健康を損なう/『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード)。

 ホモ・サピエンスの技術開発はハンド・アックス(握斧〈あくふ〉)に始まる。以降、手斧~槍~弓と進化するわけだが、いずれも「握る」機能が中心となっている。運動量が少ない野球に人気があるのはピッチャー=槍投げ、バッター=薪割り斧を想起させるためだろう。

 そう考えるとドアノブも握り玉式よりもレバー式の方が人体構造にしっくりくる。日常生活の自然な動作で「ひねる」ことは殆どないからだ。


 優れた問いは答えよりも重要だ。むしろ問いの中に答えがあるといっても過言ではない。



炭水化物抜きダイエットをすると死亡率が高まる/『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』吉田たかよし

「出る杭は打たれる」日本文化/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

必読書リスト その三

 アメリカでは「きしむ車輪ほど油を差してもらえる(声が大きいほど得をする)」のに対し、日本では「出る杭は打たれる」のだ。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美〈ふじい・るみ〉訳(早川書房、2005年)】

 出る杭は打たれ、打たれなければ出る悔い。12年前に読んだのだが当時とは受け止め方が違う。他民族の距離が近く、戦争に明け暮れてきたヨーロッパの歴史を踏まえれば自己主張するのが自然である。一方、日本のような同質社会では言葉を介さぬ阿吽(あうん)の呼吸が空気を支配する。日本男児には長らく多弁を嫌う伝統があった。「男は黙ってサッポロビール」(1970年)というわけだ。

 日本人は感性を解き放つ道具としては言葉を大切にしてきたが、他人を説得するための理窟を忌避してきたように見える。「理窟じゃない」「口先だけなら何とでも言える」「生意気を言うな」などといった表現には言葉を低い価値と捉える日本的な感覚が表出している。言葉とは「言(こと)の端(は)」で言(こと)は事(こと)に通じる。言葉が「事の端」を示し幹や根ではないことに留意すれば日本人の達観が理解できよう。

 村八分(火事と葬式で二分)は稲作の水利権を巡って始まったとする説がある。水の管理は村(集落)全体で行う必要がある。そこで勝手な真似をする輩が出てくれば皆が迷惑を被る。出る杭が打たれるのは当然で、むしろ積極的に打つ必要さえあったのだろう。ところがコミュニティが町や都市、はたまた国家へと拡大する中で同様のメンタリティが働けば新しい産業の創出が阻まれる。天才も登場しにくい。イノベーションを成し遂げるのはいつの時代も型破りな人間なのだ。ここに大東亜戦争以降、変わらることのない日本の行き詰まりがあるのだろう。

2019-12-16

不自然な姿勢が健康を損なう/『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・不自然な姿勢が健康を損なう
 ・サンセベリアの植え替え

『ケリー・スターレット式 「座りすぎ」ケア完全マニュアル 姿勢・バイオメカニクス・メンテナンスで健康を守る』ケリー・スターレット、ジュリエット・スターレット、グレン・コードーザ
『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
『一流の頭脳』アンダース・ハンセン
『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『土と内臓 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー
・『ナチュラル・ボーン・ヒーローズ 人類が失った“野生”のスキルをめぐる冒険』クリストファー・マクドゥーガル
『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二

身体革命

 固定された姿勢で座る人は、反復運動過多損傷(RSI)、眼精疲労、座骨神経痛、そのほか座った生活や労働に関連する多数の病気のどれかに苦しむことを避けられない。
 このライフスタイルが私の腰痛の原因である。私の身体が現代生活を送るには軟弱すぎたわけではなく、人体はそもそもこのような生活を送るようにできていないのだ。現在では、どのような姿勢であれそのまま動かないことが腰痛の原因の一つであることが知られている。

【『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード:水谷淳〈みずたに・じゅん〉、鍛原多惠子〈かじはら・たえこ〉訳(飛鳥新社、2018年)以下同】

 勝間和代が推(お)していた本だ。確かウォーキングについて検索していてヒットしたのだと記憶している。

毎日1万歩を歩くため、とりあえず、スマートウオッチを新しいのにしました。Huaweiの最新のやつ。 - 勝間和代が徹底的にマニアックな話をアップするブログ

 序盤から中盤にかけての構成が悪いのだがそれ以降は一気読みだ。現代病や生活習慣病の原因は椅子に長時間坐っていることに由来する。もちろん椅子が悪いわけではない。「動かない」生活が問題なのだ。元々義務教育は軍隊の前段階として生まれた。学校教育は児童を椅子に坐らせるところから始まる。じっとしていることが規律なのだ。

 文明の発達は身体の自由を奪った。工場労働者、タイピストからプロスポーツ選手に至るまで殆どの人々が同じ動きを繰り返すことで体の調子を狂わせている。

 この本を読んでいる方々の多くは、自然死ではなくミスマッチ病による死を迎えるはずだ。だがそれは、正しい(あるいは誤った)DNAを持って生まれてきたからではない。ミスマッチ病は、身体とその身体が置かれた昨今の環境との緊張関係によって生じると考えられている。
 これらの病気はいずれも私たちにはなじみ深い。たとえば、2型糖尿病は人類の誕生時から存在したものの、旧石器時代のヒト族(ホミニン)の環境と食事ではこの病気の遺伝子が発現することはほとんどなかった。当時、この病気につながるような加工食品も甘い食品も存在しなかった。時を200万年下ると、同じ遺伝子が有害な環境にさらされている。いまや、アボカド1個よりジャム入りドーナツを一袋買うほうが安い。
 初期人類はおそらく1年に大さじ10杯ほどの糖を摂(と)ったと思われるが、現代の欧米諸国ではこれが毎日の糖摂取量だろう。


 2型糖尿病は生活習慣病と言われるが確かな原因は判っていない。ただ、食事+運動不足+マイクロバイオームの変調は確かだろう。個人的には炭水化物に傾いた食事が最要因と考えてきたが、昔の日本人は現代人よりもずっと多くのご飯を食べていた。だとすると飽食、特に砂糖、植物油、食品添加物、防腐剤、抗生物質などが複合した結果なのだろう。

 ヒトの骨格は立つようにできている。人類の特徴として二足歩行が挙げられるが、進化を生き抜いた最大の要素は二足走法にあった。ヒトは動物の中で最も長距離を移動できるのだ。そして走ることと投擲(とうてき)能力が狩猟に生かされた。我々の祖先は肉(タンパク質)を食べることで脳が一段と大きくなった。

 一般的な歩行速度は時速4kmとされる。これが時速8kmを超えるとランニングの方がエネルギー消費量が少なくなる。土踏まずのアーチは地面からの反力を利用するためのショックアブソーバーとして働く。つまり足の構造は走るようにできているのだ。

 私は先月からランニングを開始したが早速効果があった。40歳頃から無呼吸症候群を発症し、更に寝返りを打っていないことに気づいた。朝起きると長時間クルマの運転をした時のようなダルさが腰に溜まっていた。通常は左向きの姿勢で寝るのだが最近はなぜか仰向きになっていた。2~3回走ると自然に寝返りを打つようになっていた。これは驚きだ。寝返りの仕組みがよくわからないのだが、自律神経系にスイッチが入ったのだろうと考えている。少しばかり体が目覚めたと言ってよい。


口と手の形は、その主食の種類によって決められる/『『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
文明の発達が国家というコミュニティを強化する/『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン

2019-08-25

囚人のジレンマと利他性/『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ・利己的であることは道理にかなっている
 ・囚人のジレンマと利他性

『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー

必読書リスト その五

 ところが、ある一つの実験によってこの結論は覆されたのである。30年ものあいだ、囚人のジレンマからまったく誤った教訓がひきだされていたことがこの実験で示されたのである。結局のところ、利己的な行為は合理的ではないことがわかった。ゲームを2回以上プレイする場合には。

【『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー:岸由二〈きし・ゆうじ〉監修:古川奈々子〈ふるかわ・ななこ〉訳(翔泳社、2000年)】

「設定」を変えれば全く異なった結果が出る。設定に縛られてきた30年間は脳の癖を示してあまりあり、人間の思い込みや先入観の強さに驚く。現実をゲームに当てはめてしまえば単純な図式しか見えてこない。むしろゲームの方を現実に近づけるべきだ。

 メイナード・スミスのゲーム(※タカとハトの戦い)は生物学の世界の話だったため、経済学者には無視された。しかし、1970年代後半、人々を当惑させるような事態が起こった。コンピュータがその冷静で厳格かつ理性的な頭脳を使って囚人のジレンマゲームをプレイし始めたのである。そして、コンピュータもまた、あの愚かで無知な人間とまったく同じ振る舞いをしたのである。なんとも不合理なことに、協力しあったのだ。数学の世界に警報が鳴り響いた。1979年、若い政治学者、ロバート・アクセルロッドは、協力の理論を探求するためにトーナメントをおこなった。彼は人々にコンピュータ・プログラムを提出してもらい、プログラムどうしを200回対戦させた。同じプログラムどうし、そして他のプログラムともランダムに対戦させたのである。この巨大なコンテストの最後には、各プログラムは何点か得点しているはずである。
 14人の学者が単純なものから複雑なものまでさまざまなプログラムを提出した。そしてみんなを驚かせたことは、「いい子」のプログラムが高得点を獲得したのである。上位8個のプログラムは、自分から相手を裏切るプログラムではなかった。さらに、優勝者は一番いい子で一番単純なプログラムだったのだ。核の対立に興味を持ち、おそらく誰よりも囚人のジレンマについては詳しいはずのカナダの政治学者アナトール・ラパポート(彼はコンサート・ピアニストだったこともある)は、「お返し(Tit-for-tat:しっぺ返し戦略とも言う)」というプログラムを提出した。これは最初は相手に協力し、そのあとは相手が最後にしたのとまったく同じことをお返しする戦略である。「お返し戦略」は、現実にはメイナード・スミスの「報復者戦略」が名前を変えたものである。
 アクセルロッドは再度トーナメントを開催した。今度はこの「お返し戦略」をやっつけるプログラムを募集したのである。62個のプログラムが試された。そして、まんまと「お返し戦略」を倒すことができたのは…「お返し戦略」自身だったのである。またしても、1位は「お返し戦略」であった。

 貰い物があればお返しをする。痛い目に遭わされれば仕返しをする。これは我々が日常生活で実践している営みだ。つまり既に形骸化したと思われている冠婚葬祭や、失われてしまった仇討ち・果たし合い(西洋であれば決闘)といった歴史文化にはゲーム理論的な根拠が十分にあるのだ。すなわち、いじめやハラスメントを受けて泣き寝入りすることは自らの生存率を低くし、社会全体のモラルをも低下させてしまうことにつながる。

 そう考えると「目には目を、歯には歯を」(より正確な訳は「目には目で、歯には歯で」)というハムラビ法典の報復律も社会を維持するための重要な価値観であったことが見えてくる。

 社会を社会たらしめているのは相互扶助の精神であろう。「持ちつ持たれつ」が社会の本質であり、互いに支え合う心掛けを失えばそこに社会性はない。

2019-08-23

利己的であることは道理にかなっている/『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ・利己的であることは道理にかなっている
 ・囚人のジレンマと利他性

『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー

必読書リスト その五

 この囚人のジレンマは、どうやったらエゴイストたちがタブーや道徳的束縛や倫理的規範に依存せず、協力しあえるようになるのかをはっきりとわれわれに示してくれる。どうしたら自己利益追求を動機とする故人が公共の利益のために行動できるようになるのだろうか。このゲームを囚人のジレンマと呼ぶのは、自分の刑を軽くするために相手に不利な証言をするかどうかの選択を迫られた二人の囚人の寓話がゲームの意味をよく物語っているからである。もしどちらも相手を裏切らなければ、警察は二人を軽い罪で起訴することしかできない。だから、両者が黙っていればどちらも得をするわけである。しかし、もし片方が裏切れば、裏切ったほうはもっと得をするのである。
 なぜか。囚人の話はおいておいて、二人のプレーヤーが特典を争う単純な数学的ゲームをしていると考えてみよう。もし二人が協力しあえば(つまり「沈黙を守れば」)、両者は3点もらえる(これを「報酬」という)。もし二人とも裏切れば1点しかもらえない(「罰則」)。だが、一人が裏切り、一人が協力したなら、協力したほうは得点をもらえず(「お人好しすぎたツケ」)、裏切り者は5点もらえる(「誘惑」)。だから、パートナーが裏切るなら、自分も裏切ったほうが得なのである。そうすれば少なくとも1点はもらえるのだから。しかし、もしパートナーが協力したとすれば、やはり裏切ったほうが得をするのである。3点ではなく、5点も入るのだから。つまり【相手がどういう行動にでようと、裏切るほうが得なのである】。ところが、相手も同じことを考えるはずである。だから当然の結果として、両者ともが相手を裏切る。それで3点とれるところを1点で我慢するはめになるのである。
 道理に迷わされてはならない。二人ともが高潔な人柄で実際には協力しあうとしても、それはこの問題とはまったく関係がない。われわれが追求しているのは、道徳がまったく関与しない場所で理論的に「最良」な行動であり、その行動が「正しい」かどうかはこの際関係ないのである。そして出た結論が裏切ることだったのだ。利己的であることは道理にかなっているのである。

【『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー:岸由二〈きし・ゆうじ〉監修:古川奈々子〈ふるかわ・ななこ〉訳(翔泳社、2000年)】

 原書は1996年刊行。上記リンクの順番で読めば理解が深まる。っていうか天才的なラインナップであると自画自賛しておこう。本は読めば読むほどつながる。シナプスもまた。

遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジーと本書、そして『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイドの3冊は同率1位である。文章ではシッダールタ・ムカジー、難解さではマット・リドレー、好みではマシュー・サイド。

 確かに「利己的であることは道理にかなっている」。騙(だま)す行為を見れば明らかだ。人を騙せば自分が得をする。騙すためには高度な知能が必要だ。なぜなら相手に「誤った信念を持たせる」必要があるためだ。つまり相手の気持ちを想像できなければ騙すことは不可能なのだ。詐欺師、宗教家、政治家、タレントを見よ。彼らは多くの人々を騙すことで懐(ふところ)を膨らませている。否、懐に入りきれないほどの資産を形成し、巧みな綺麗事を並べ立て、欲望を無限に肥大させる。

 ではなぜ我々のように平均的で善良な国民は詐欺を働かないのか? それは詐欺行為が横行すれば社会の存立が危うくなることを自覚しているからだ。大体普通の神経の持ち主であれば知人や友人を騙すことなど到底できない。ところがどっこいビジネスとなると話は別だ。腕のいい営業マンは値段を吹っ掛けた上で契約にまで持ち込むし、高額商品ほど粗利(あらり)も大きい。値引きをしたフリをするのも巧みだ。

 もっと凄いのは税金だ。ガソリンや酒類は二重課税(違法)になったままだし、いつの間にか国民健康保険料は国民健康保険税となり、自治体によっては有料のゴミ袋が指定されており、これまた税に等しい。しかも多くの国民は国民負担率を知らない。日本の租税負担率(所得税+国税+地方税+消費税+社会保障費)は42.5%(平成30年/2018年)である(国民に納税しろと命じるずうずうしい日本国憲法/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ)。

 実際は国民全員が所得税10%を収めれば国家予算は回るという。つまり、あの手この手を使って金持ちが税金を払っていないのだ。これまた「利己的であることは道理にかなっている」。

 ただし、この話はこれで終わらない(続く)。

2017-08-14

観照が創造とむすびつく/『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治


『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 ・観照が創造とむすびつく

『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 そこに不思議の場所がある。
 眼を閉じておのれの内部を凝視すると、そこに淡い灰色の空間がひろがっているのを感ずるが、その空間の背後に、不思議な場所があるように思われるのである。不用意にそこに近づいてそれを見ようとすると、その場所は急ぎ足に遠ざかってしまう。しかし、おのれを忘れ、その場所の存在をも忘れていると、それが意外に近いところにやってきて何事かを告げる。そういう不思議の場所が、すべてのひとの魂の内部から、身体の境をこえて外部に、どこまでもひろがっているように思われるのである。
 その場所、その未知の領域をさぐってみたい。

【『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治〈いわた・けいじ〉(講談社、1979年/講談社文庫、1985年)以下同】

 真の学問は独創に向かう。それは何らかの領域に一人踏み込んでゆく時の必然的なスタイルなのだろう。岩田慶治の場合、独創が文体にまで及んでいる。文化人類学という水脈を掘り下げ、真理という鉱脈を探る営みに圧倒される。

 アニミズム(精霊信仰)は「不思議の場所」から生まれたのだろう。自然の営為に神の意志を読み取ることでヒトは共生してきた。天神地祇(てんじんちぎ)を信ずればこそ人々は地鎮祭を行い、力士は土俵で塩をまくのだ。太陽をお天道様と呼び、その眼差しを感じれば、悪行にブレーキがかかる。

 その場所にたどり着いてみると、この世界が違って見える。おのれ自身が違って見える。そういう予感がしたのである。そこでは、木々の緑がより濃く、より鮮やかにみえるのではないか。生きものたちがより生き生きと活動し、おのれの生を超えたやすらぎをえているのではないか。われわれの尊敬してやまない古人の言葉が、単に観念として知的に理解されるだけではなく、現実に、ありありと、たしかな存在感をともなって聞こえてくるのではないか。その意味で、そこはわれわれにとってもっとも根源的な創造の場なのではないか。
 そこでは見ることが形づくることであり、観照が創造とむすびついている。

「観照が創造とむすびつく」との指摘がクリシュナムルティと重なる。岩田には『木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日』(人文書館、2005年)という著作もある。「私たちはけっして木を見つめない」(『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ)。

 この文章を読んではたと気づくのは、人類の原始的な宗教感情が言葉以前に生まれた可能性である。それはフィクションの原形といっていいだろう。

カミの人類学―不思議の場所をめぐって (1979年)
岩田 慶治
講談社
売り上げランキング: 793,988

2015-03-21

幸せの意味/『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット


キリスト教を知るための書籍

 白衣をまとった研究チームが、天才科学者の指導のもとに勤しむものだけが科学ではない。たったひとりで苦闘し、困難な地において途方に暮れたり危険に直面したりしながら、新たな知識を果敢に探りだそうとすることで求められる科学もある。

【『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット: 屋代通子〈やしろ・みちこ〉訳(みすず書房、2012年)以下同】

 これがフィールドワークだ。ダニエル・エヴェレットは26歳の時にブラジルの先住民ピダハンのもとへ行き、「30年以上にわたってピダハンと共に暮らし、学んだ」。目的は言語学研究にあったが、彼は伝道師として赴いた。ピダハンでは麻疹(はしか)が流行したため、1950年代から伝道師を受け入れるようになった。


 経費と給料がアメリカの福音派教会から払われる。だからわたしは、わたしが信じている神を崇め、キリスト教の神を信仰することにともなう倫理や文化を受け入れるように、「ピダハンの心を変える」ことに専念するのだ。私はピダハンについて何ひとつ知らなかったけれども、きっとできるし、変えなければならないと思っていた。

 古来、キリスト教は宣教師を世界中に派遣して文化的侵略を為してきた。「あなた方を救ってあげよう」というわけだ。大人が子供を教育するのに似ている。「教育することは正しい行為だ」との思い込み。そして実際に家庭や学校で行われているのは「操作」であったりする。正しい方向にコントロールするのが教育の目的だ、と殆どの大人は信じ込んでいる。西洋キリスト教は輪をかけて凄い。彼らには「神からの使命」が託されているのだ。病的な誇大妄想としか言いようがない。

 初めて見たピダハンの印象を「それはそれは幸せそうに見えた」と記す。どの顔も微笑んでいて、暗い表情の者は一人もいなかった。


 驚いたことに、これらすべてにわたしは心を揺さぶられてしまったのだった。わたしが信じたほうがいいと言ったというだけの理由では信じようとしないピダハンの態度は、必ずしも予期しないものではなかった。伝道の仕事が楽なものだと考えたことは一瞬たりともない。けれども自分が受けた衝撃はこれだけではなかったのだ。ピダハンに福音を拒否されて、自分自身の信念にも疑問を抱くようになったのだ。それがわたしには驚きだった。わたしは決してひよっこではなかった。ムーディ聖書研究所を首席で卒業し、シカゴのストリートで説話もこなしたし、救済活動でも話をした。戸別訪問もやり、無神論者や不可知論者とも論争した。信仰弁護論や個人伝道の訓練も積んでいた。

 つまりエヴェレットは訓練されたエージェント(代理人)であったわけだ。そんな彼が未知の文化から衝撃を受ける。そこには自分の知らない豊かな世界が広がっていた。宗教は価値観を束縛する。束縛された価値観は世界を狭い視野で捉える。信仰と無縁な情報は無意識のうちに切り捨てられる。

 ピダハンが突きつけてきた難問のもうひとつの切っ先は、わたしのなかに彼らに対する敬意が膨らんでいたことだった。彼らには目を見張らされることが数えきれないほどあった。ピダハンは自律した人々であり、暗黙のうちに、わたしの商品はよそで売りなさいと言っていた。わたしのメッセージはここでは売り物にならない、と。
 わたしが大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった。ピダハンからすればたんなる迷信であり、それがわたしの目にもまた、日増しに迷信に思えるようになっていた。
 わたしは信仰というものの本質を、目に見えないものを信じるという行為を、真剣に問い直しはじめていた。聖書やコーランのような聖典は、抽象的で、直観的には信じることのできない死後の生や処女懐胎、天使、奇跡などなどを信仰することを教えている。ところが直接体験と実証に重きをおくピダハンの価値観に照らすと、どれもがかなりいかがわしい。彼らが信じるのは、幻想や奇跡ではなく、環境の産物である精霊、ごく正常な範囲のさまざまな行為をする生き物たちだ(その精霊をわたしが実在と思うかどうかは別として)。ピダハンには罪の観念はないし、人類やまして自分たちを「矯正」しなければならないという必要性ももち合わせていない。おおよそ物事はあるがままに受け入れられる。死への恐怖もない。彼らが信じるのは自分自身だ。わたしが自分の信仰に疑いをはさんだのはじつはこれが初めてではなかった。ブラジルの知識人や、ヒッピー暮らし、それにたくさんの読書のせいで亀裂が入ってはいたのだ。ピダハンはその最後の一石となった。
 そんなわけで1980年代の終わりごろ、わたしは少なくとも自分自身に対しては、もはや聖書の言葉も奇跡も、いっさい信じていないと認めるにいたっていた。

 本書の白眉をなす場面だ。ピダハンの言語には過去と未来の概念がなかった。「現在」に生きるピダハンは将来への不安や過去に対する後悔がなかった。そもそも言葉がないのだから悩みようがない(笑)。「心配する」という言葉もなかった。幸せな彼らにキリスト教は不要であった。

「学ぶ」とは「出会う」ことなのだろう。そこに劇的な変化が訪れる。魂が触れ合うようなコミュニケーションが人を自由にする。その瞬間を読者はまざまざと見ることができる。

 溌剌(はつらつ)さや瑞々(みずみず)しさを失った学問が多い。老人の手慰みのような知識に私は興味がない。学問も宗教も人間を自由にするのが目的であったはずだ。そんな当たり前のことに気づかされる。

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観
ダニエル・L・エヴェレット
みすず書房
売り上げランキング: 9,597

2014-04-28

情動的シナリオ/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー


『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

 ・普遍的な教義は存在しない
 ・デカルト劇場と認知科学
 ・情動的シナリオ


『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 多くの人々は、宗教を単純に説明できると考えている。すなわち、情動的な理由から宗教が必要だという説明である。人間の心は、安心や安らぎを求めるように作られており、超自然的概念がそれらを与えてくれるように見える。このよくある説明には、さらに次の二つがある。

・宗教的説明は、死の耐え難さを軽減する(中略)

・宗教は、不安をやわらげ、世界を心休まるものにする。(後略)

【『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)以下同】

 昨日はエリザベス・キューブラー=ロス動画を見たため更新できず。私が『死ぬ瞬間』を読んだのはもう20年以上前だ。やはり映像の力は凄い。彼女は死を宣告された患者を大学の授業に招いた。衝撃的な光景である。求めに応じて全米各地の末期患者と語り合った。やがて彼女の献身的な行動がホスピスとなって結実する。その後、キューブラー=ロス女史が死後の世界にハマっていったことは知っていた。だが脳梗塞で倒れ、神を罵倒したことでアメリカ中から非難された事実は知らなかった。

 他人の死と自分の死は異なる。当然だ。彼女は明らかに死にたがっていた。しかし自殺することは彼女の人生観に反する。闘病を経てキューブラー=ロスは自分の過去を清算した。私は知った。菩薩道が仏道につながらないことを。どれほど他人に尽くしても越えられない壁があるのだ。エリザベス・キューブラー=ロスは聖女ではなかったが、愛すべき人間であった。彼女への敬意が深まった。

 宗教という宗教が説く幸福には必ず条件がつく。安心はタダでは手に入らない。「救われたい者はノルマを果たせ」というわけだ。

 情動にもとづく説明には、いくつか重大な問題点がある。まず、時に人類学者が指摘してきたように、社会における事実のいくつかは、その社会の理論が謎に対して答えを与えたり苦悩に対して救いを与えたりしているところでのみ、謎であったり、畏怖を引き起こしたりする。たとえば、メラネシアには、妖術から身を守るために驚くほどたくさんの儀礼を行なう社会がある。その社会では、人々は、自分たちがこれらの見えざる敵の絶え間ない脅威のもとに生きていると考えている。したがって、このような社会では、呪術的な儀礼や処方や予防策は、基本的に安心を与える装置であり、人々にこれらのプロセスをコントロールしているという幻想をもたらすと考えられる。しかし、ほかの社会では、人々は、こうした儀礼をもたず、このような脅威も感じていない。人類学者から見れば、これらの儀礼は、儀礼が満たすとされる必要性を作り出しているとも言え、おそらくそれぞれが互いを強め合ってもいる。

 宗教は「物語の装置」である。信者が別の文脈を見出すことはない。そして物語にはルールがある。細かいルールが。結果的には儀礼――あるいは修行、義務、寄付金――が本来であれば不要な必要条件を信者に突きつけるというわけだ。宗教が編む物語は不安に満ちている。

 神を信ずる者は神の怒りを恐れる。まったく「触らぬ神に祟り無し」とはよく言ったものだ。奴は気が短いからね。宗教は罪と罰の範囲をどこまでも押し広げる。ま、一種の不安産業だ。

 また、もし宗教的概念が特定の情動的欲求を解決する方法であるのなら、それはあまりうまくいっていないことになる。宗教的世界はしばしば、超自然的行為者のいない世界以上に恐ろしい世界であり、多くの宗教は、安心を生み出すのではなく、厚く陰鬱な帳(とばり)で包み込む。

 恐怖でコントロールされる人々よ、汝の名は信者なり。


マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光

2014-04-26

デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー


『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

 ・普遍的な教義は存在しない
 ・デカルト劇場と認知科学
 ・情動的シナリオ


『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 私たちの平凡な推論システムのはたらきは、宗教的思考を含む思考の大部分を説明する。しかし――これがもっとも重要な点だが――推論システムのはたらきは、私たちが内省によって観察できる類のものではない。哲学者のダニエル・デネットは、私たちの心のなかで起こるすべてのことが意識的で入念な思考とそれらについての推理からなっていると錯覚してしまうことを、「デカルト劇場」(※カルテジアン劇場)と呼んでいる(※『解明される意識』)。しかし、このデカルト的舞台の下では、すなわち心の土台のところでは、たくさんのことが起こっている。それらは、認知科学という道具を使ってしか記述できない。

【『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)】

 デカルト劇場についての説明を以下に引用する。

 ホムンクルスすなわち「意識する私」という中央本部のようなものを、脳の中のどこか(例えば特定のニューロン)に発見できるような思い込みを、デネットはギルバート・ライルに倣ってカテゴリー・ミステイクであるとしている。実際には、脳は情報を空間的・時間的に分散されたかたちで処理しながら意識を生産するので、脳の特定の部位を選び出して、特権的な意識の座と等価視することはできないのである。

Wikipedia

デカルト劇場:池田光穂
ダニエル・デネット 唯物論の極北 後編 - やっちんのブログ~心と脳、宗教と科学、この世とあの世の交わる道~

 ホムンクルスは「脳の中に小人がいる」という考え方である。ワイルダー・ペンフィールドは脳に電気刺激を与えることで、体性感覚の対応を「ペンフィールドの地図」として表した。これを元にしてつくった小人をホムンクルスという場合が多い。



 同様のモデルにブロードマンの脳地図がある。ただし脳機能局在論には反論も多い。緩やかに考えるべきだろう。

 簡単な例を示そう。目が見えるのはなぜか? 脳の中に小人がいるからだ。これがホムンクルス思考である。「では小人の目が見えるのはなぜか?」と重ねて問えば、この答えは呆気(あっけ)なく破綻する。

 我々は「脳の中心に自我が存在する」と無意識のうちに思い込んでいる。だが実際は脳に中枢は存在しないのだ(『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』アントニオ・R・ダマシオ)。

 殺人の動機について「太陽が眩しかったから」(『異邦人』カミュ)と答えれば、誰もが不条理を感じる。不条理とは物語が成立しにくいことを意味する。

 我々はさしたる疑問を持つこともなく自分の行為を説明する。ある場合においては頭の中で善玉と悪玉が会話をしているかの如く雄弁に説明する。ところが実は違う。理由は後からつけられていることを認知科学が明らかにした。「なぜそれを選択したか」は説明不可能なのだ。

 脳科学もこれを支持する。知覚よりも意識は0.5秒ほど早く作動する(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。人間に自由意志はなく(『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二)、我々が自由意志だと思っているのは解釈に過ぎない(『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック)。そして脳は認知バイアスを避けることができない。

 意識は氷山の一角に過ぎない。広大な無意識領域を我々は意識することができない。「見える」ということは「見えない」ことを含んでいる。見えている物体の裏側は見えない。そして自分の背後も。表象、イメージ、アナロジー、類型化、因果などの総称が思考である。思考は一点に集中して全体を排除する。

 パスカル・ボイヤーは人類に共通する宗教概念は脳の推論システムに基づく可能性を示唆する。ま、宗教が語る正義は所詮文学レベルの代物だ。日本の宗教界は鎌倉時代以降まったく進歩がない。ヨーロッパだってニュートンが登場しても目を覚ますことはなかった。もちろんニュートン本人も含む。

 科学の進展は著しい。特に1990年代に入り脳科学の研究が次々と開花した。科学は既に宗教領域に達し、そして追い越したと私は見る。

 道を拓いたのは『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ(1976年)である。これに『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ(1991年)が続いて意識のメカニズムを解明する。本書が2001年に登場し、『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース(2002年)、『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット(2006年)、『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス(2007年)、『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド(2009年)などが宗教を蹴散らした(※カッコ内はすべて原著発行年)。これに対して宗教界は沈黙を保っているように見える。っていうか、読んですらいないのかもしれぬ。

2014-04-25

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー


『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

 ・普遍的な教義は存在しない
 ・デカルト劇場と認知科学
 ・情動的シナリオ


『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 どうして人間はこんなことを考えるのか? なぜこんなことをするのか? どうしてこんなにも多様な信念をもっているのか? なぜ人間はこうした信念に強くこだわるのか? これらの疑問はノーム・チョムスキーの区別を借りて言えば、かつては【謎】(解こうにも、どこから手をつければよいかわからなかった)だったが、現在では【問題】(解凍の見通しぐらいはついている)にまでなっている。

【『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)以下同】

 2012年に読んだ本ランキング1位である。油断していたらもう品切れだ。このまま絶版となるかも。書籍の命は蝉のようにはかない。昨今の出版事情を思えば、望むと望まざるとにかかわらずデジタル書籍の時代に向かうことだろう。

 原著の刊行が2001年で『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス、『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネットに先んじている。これにニコラス・ウェイドを加えて「宗教機能学」と名づけても見当外れではあるまい(※ジェシー・ベリングは個人的に評価せず)。その嚆矢(こうし)がパスカル・ボイヤーである。


 宗教の起源についての説明のほとんどは、次のような示唆のどれかを強調する。すなわち、人間の心は説明を欲する、人間の心は安らぎを求める、人間の社会は秩序を必要とする、人間の知性は錯覚に陥りやすい。

 科学(因果関係)、心理学、社会学、認知心理学がそれぞれに対応する。

 続いて以下の驚くべき指摘がなされる。

・「特定の」宗教を信仰することなしに、宗教を信仰することもできる。
・「宗教」にあたる単語がなくても、宗教はありうる。
・「信じる」という表現がなくても、宗教をもつことはできる。

 実はニコラス・ウェイドが使用する「遺伝」という言葉への違和感は書評を書く段階で初めて気づいた。パスカル・ボイヤーも「宗教が『生得的』だとか『遺伝子のなかにある』」という見方には否定的だ。

 もし「宗教とは、宇宙の賢く不滅の創造主に従うことによって、どうすれば私たちの魂が救われるかを説く教えを信じることだ」と言う人がいたら、その人はたぶん、いろんな土地を旅したり、広くいろんなものを読んでいないのだ。多くの文化では、死者はこの世に戻ってきて生きている者たちを怖がらせると考えられているが、どの文化でもそうなわけではない。ある特殊な人々が神々や死者と交信できると考えられている社会もあるが、この考えもどこにでも見られるわけではない。また、人間の魂は死後も生き続けるとするところもあるが、この仮定もまた、普遍的なわけではない。私たちが宗教について一般的な説明を考え出そうとする場合、その説明はほかの宗教にも通用するものかを考慮すべきだろう。

 実際にフィールドワークを行っている人物ならではの視点だ。テキストはアブラハムの宗教を想定しているが、他の宗教にも同じ問いを突きつけている。つまり「普遍的な教義」は存在しないのだ。

 10代から20代にかけての読書は好きなものを手当たり次第に読めばよい。30代となれば何らかのテーマを決めて取り組む必要がある。そして現代社会の構造を思えば、やはり経済と科学は避けて通れない。人は40代にもなれば何らかの思想を持つ。そこから宗教性を探るのが正しい読書道だ。自分の死が20~30年先に見え始めた頃だ。

 信じる信じないというテーマは騙される騙されないという問題を含んでいる。妙な営業に引っかかったり、悪質な詐欺被害に遭ったり、社会の様々な分野で心理的抑圧を受けるのは、考える力すなわち判断力を奪われた結果といえよう。きちんと人や本から学んでおけば避けられた問題であると私は考える。

 知的格闘を経ていない信は浅はかなものだ。強靭な信は合理性に裏打ちされていることを忘れてはならない。

2012-09-04

民主主義と暴力について/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


民主主義と暴力/『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎

 続きを書くとしよう。

 民主主義は暴力に対抗し得るだろうか? チト微妙だ。するともしないとも言える。

 いじめをモデルに考えてみよう。私に子供がいたとする。更にその子が私の意に反しておとなしい子に育ったものと仮定しておく。

 我が子に対する教育はコミュニケーション能力を磨くことに主眼を置く。誰とでも仲よくなることができ、人の心を理解できる子供に育て上げる。

 で、私の子か、あるいは子供の親友がいじめられた場合どうするか? 「心ある大衆を集めて反撃せよ」と私なら教えることだろう。

 2対1という構図は、チンパンジーの権力闘争を多彩なものにすると同時に、危険なものにもしている。ここで鍵を握るのは同盟だ。チンパンジー社会では、一頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、集団に受けいれてもらうためにも、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。どこかで聞いたような話だが、それもそのはず人間の政治もまったく同じである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)以下同】

Pan troglodytes

 政治の淵源はチンパンジーにあったのだ。我々の先祖は偉大だ(笑)。つまり政治とは暴力の異名であったのだ。民主主義が政治手続きである以上、暴力とは無縁でいられない。

 下の階層に属する者が、力を合わせて砂に線を引いた。それを無断で踏みこえる者は、たとえ上の階層でも強烈な反撃にあうのだ。憲法なるもののはじまりは、ここにあるのではないだろうか。今日の憲法は、厳密に抽象化された概念が並んでいて、人間どうしが顔を突きあわせる現実の状況にすぐ当てはめることはできない。類人猿の社会ならなおさらだ。それでも、たとえばアメリカ合衆国憲法は、イギリス支配への抵抗から誕生した。「われら合衆国の人民は……」ではじまる格調高い前文は、大衆の声を代弁している。この憲法のもとになったのが、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)である。イギリス貴族が国王ジョンに対し、行きすぎた専有を改めなければ、反乱を起こし、圧政者の生命を奪うと脅して承認させたものだ。これは、高圧的なアルファオスへの集団抵抗にほかならない。

Pan troglodytes predation 2

 ボス猿vs.バトルロイヤル戦だ。重要なことは強いボスに従うよりも、ある程度利益を分配した方が進化的な優位性があると考えられることだ。実際、抜きん出たカリスマ指導者を持った集団は、指導者を失った途端に崩壊の坂を転げ落ちる。

 民主主義は積極的なプロセスだ。不平等を解消するには働きかけが必要である。人間にとても近い2種類の親戚のうち、支配志向と攻撃性が強いチンパンジーのほうが、突きつめれば民主主義的な傾向を持っているのは、おかしなことではない。なぜなら人類の歴史を振りかえればわかるように、民主主義は暴力から生まれたものだからだ。いまだかつて、「自由・平等・博愛」が何の苦労もなく手に入った例はない。かならず権力者と闘ってもぎとらなくてはならなかった。ただ皮肉なのは、もし人間に階級がなければ、民主主義をここまで発達させることはできなかったし、不平等を打ちやぶるための連帯も実現しなかったということだ。

Banksy Canvas Monkey Guns
Banksy作)

 そしていじめもなくならない。自殺も。警察庁の「自殺統計」によれば学生・生徒の自殺者数は微増傾向にあり、2011年に初めて1000人を超えた。

自殺対策白書

 この内、いじめが原因となっている数はわからない。だが一人でもいじめを苦に死を選んだ児童がいれば、決してそれを許すべきではない。

 意外と見落としがちであるが、暴力というのも実は文化と考えられる。まず始めに啖呵(たんか)を切る。突然殴ることは殆どない。次に相手の胸倉をつかむ。サルの世界でディスプレイと呼ばれる示威行為と一緒だ。つまり暴力は相手の命を奪うことを目的としていない。憎悪に猛り狂い、殺意がたぎっていたとしても、我々は相手の喉仏や鼻の下、眉間、耳の下を殴ることができない。ま、本気で喉元に手刀を入れれば、やられた方は死んでしまうことだろう。

 再び学校に目を戻そう。学校内で民主主義が実現されるのは多数決で何かを決める場合に限られる。実際はクラス委員や生徒会長を選出する時だけであろう。そしてクラス委員や生徒会長には大した権限がない。学校全体を仕切っているのは校長を始めとする教員たちであり、クラスを牛耳るのはいじめっ子なのだ。

 何となく日本を象徴するような話だ。校長先生がアメリカで、いじめっ子が暴力団と考えればわかりやすいだろう。

 革命とは政治主義の変更であって、国民全員に利益が分配される革命など存在しない。例えば米騒動を考えてみよう。現在、米に替わるものはマネーである。では貧しい人々が決起して、銀行を襲えばカネを奪えるだろうか? 無理だね。残念ながら銀行にカネはないのだよ。あってもせいぜい預金の20%程度であろう。あいつらは準備預金率というレバレッジで悪どく儲けているのだ。マーケットを見よ。デジタル化された数値がやり取りされているだけの世界だ。

 面倒になってきたので結論を述べる。我々はいざという時に暴力を振るえる覚悟がない限り、民主主義を実現することは不可能だ。更にすべての情報が公開されていない以上、投票行為すらメディアによって操作されてきた可能性がある。

 いじめを傍観する者が一人もいなくなれば、民主主義は完璧なものとなろう。

フランス・ドゥ・ヴァール

あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源

2011-12-25

他者の苦痛に対するラットの情動的反応/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】

 既に二度紹介しているのだが、三度目の正直だ。

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠

 カラパイアで米シカゴ大学チームの実験動画が紹介されていた。

ネズミは仲間を見捨てない(米研究)

 興味深い映像ではあるが、実験手法の有効性には少々疑問が残る。っていうか、わかりにくい。

 動画より下に書かれているカラパイアの記事は完全な誤読である。フランス・ドゥ・ヴァールが明らかにしたのは、共感や利他的行為も本能に基づいている事実である。つまり、群れ――あるいは同じ種――の内部で助け合った方が進化的に有利なのだ。

 もちろん、これを美しい物語に仕立てて本能を強化することも考えられるが、実験結果を読み誤ってはなるまい。

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール

 強欲は子孫を破滅させる。世紀末から現在に至る世界の混乱は、白人文化の終焉を告げるものだと思う。



英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ
マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
大塩平八郎の檄文/『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

2011-06-21

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール


『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール

 ・チンパンジーの利益分配

フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

 霊長類研究の世界的権威によるエッセイ。形式は軽いが内容は重量級だ。読者層を拡大する意図があったのか、あるいはただ単にまとめる時間がなかったのかは不明。ファンの一人としてはもっと体系的・専門的な構成を望んでしまう。勝手なものだ。

 霊長類といっても様々で、チンパンジーは暴力的な政治家で、ボノボは平和を好む助平(すけべい→スケベ)だ。ヒトは多分、チンパンジーとボノボの間で進化を迷っているのだろう。ドゥ・ヴァールの著作を読むとそう思えてならない。

 今時、強欲は流行らない。世は共感の時代を迎えたのだ。
 2008年に世界的な金融危機が起き、アメリカでは新しい大統領が選ばれたこともあって、社会に劇的な変化が見られた。多くの人が悪夢からさめたような思いをした――庶民のお金をギャンブルに注ぎ込み、ひと握りの幸運な人を富ませ、その他の人は一顧だにしない巨大なカジノの悪夢から。この悪夢を招いたのは、四半世紀前にアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相が導入した、いわゆる「トリクルダウン」(訳注 大企業や富裕層が潤うと経済が刺激され、その恩恵がやがて中小企業や庶民にまで及ぶという理論に基づく経済政策)で、市場は見事に自己統制するという心強い言葉が当時まことしやかにささやかれた。もうそんな甘言を信じる者などいない。
 どうやらアメリカの政治は、協力等社会的責任を重んじる時代を迎える態勢に入ったようだ。

【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)以下同】

トリクルダウン理論

「おこぼれ経済」だと。ところがどっこい全然こぼれてこない。私のところまでは。経常利益は内部留保となって経営効率を悪化させている。だぶついた資金が経済全体の至るところで血まめのようになっている。血腫といった方が正確か。その結果がこれだ。

利子、配当は富裕層に集中する/『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』河邑厚徳、グループ現代

 私たちはみな、同胞の面倒を見るのが当たり前なのだろうか? そうする義務を負わされているのだろうか? それとも、その役割は、私たちがこの世に存在する目的の妨げとなるだけなのだろうか? その目的とは、経済学者に言わせれば生産と消費であり、生物学者に言わせれば生存と生殖となる。この二つの見方が似ているように思えるのは当然だろう。なにしろ両者は同じころ、同じ場所、すなわち産業革命期にイングランドで生まれたのであり、ともに、「競争は善なり」という論理に従っているのだから。
 それよりわずかに前、わずかにきたのスコットランドでは、見方が違った。経済学の父アダム・スミスは、自己利益の追求は「仲間意識」に世で加減されなくてはならいことを誰よりもよく理解していた。『道徳感情論』(世評では、のちに著した『国富論』にやや見劣りするが)を読むとわかる。

 これは古典派経済学進化論を指しているのだろう。

 人間と動物の利他的行為と公平さの起源については新たな研究がなされており、興味をそそられる。たとえば、2匹のサルに同じ課題をやらせる研究で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪い方のサルは課題をすることをきっぱりと拒む。人間の場合も同じで、配分が不公平だと感じると、報酬をはねつけることがわかっている。どんなに少ない報酬でも利潤原理に厳密に従うわけではないことがわかる。不公平な待遇に異議を唱えるのだから、こうした行動は、報酬が重要であるという主張と、生まれつき不公平を嫌う性質があるという主張の両方を裏付けている。
 それなのに私たちは、利他主義や高齢者に満ちた連帯意識のかけらもないような社会にますます近づいているように見える。

 ということは予(あらかじ)め「受け取るべき報酬」という概念をサルが持っていることになる。しかも異議申し立てをするのだから、明らかに自我の存在が認められる。「不公平を嫌う性質」は「群れの健全性」として働くことだろう。

 では霊長類の経済システム(交換モデル)はどうなっているのだろう。

 アトランタ北東にある私たちのフィールド・ステーションでは、屋外に設置した複数の囲いの中でチンパンジーを飼っていて、ときどきスイカのような、みんなで分けられる食べ物を与える。ほとんどのチンパンジーは、真っ先に手に入れようとする。いったん自分のものにしてしまえば、他のチンパンジーに奪われることはめったにないからだ。所有権がきちんと尊重されるようで、最下位のメスでさえ、最上位のオスにその権利を認めてもらえる。食べ物の所有者のもとには、他のチンパンジーが手を差し出してよってくることが多い(チンパンジーの物乞いの仕草は、人間が施しを乞う万国共通の仕草と同じだ)。彼らは施しを求め、哀れっぽい声を出し、相手の面前でぐずるように訴える。もし聞き入れてもらえないと、癇癪(かんしゃく)を起こし、この世の終わりがきたかのように、金切り声を上げ、転げ回る。
 つまり、所有と分配の両方が行なわれているということだ。けっきょく、たいていは20分もすれば、その群れのチンパンジー全員に食べ物が行き渡る。所有者は身内と仲良しに分け与え、分け与えられたものがさらに自分の身内と仲良しに分け与える。なるべく大きな分け前にありつこうと、かなりの競争が起きるものの、なんとも平和な情景だ。今でも覚えているが、撮影班が食べ物の分配の模様をフィルムに収めていたとき、カメラマンがこちらを振りむいて言った。「うちの子たちに見せてやりたいですよ。いいお手本だ」
 と言うわけで、自然は生存のための闘争に基づいているから私たちも闘争に基づいて生きる必要があるなどと言う人は、誰であろうと信じてはいけない。多くの動物は、相手を譲渡したり何でも独り占めしたりするのではなく、協力したり分け合ったりすることで生き延びる。

 まず「早い者勝ち」。所有権が尊重されるというのだから凄い。どこぞの大国の強奪主義とは大違いだ。結局、コミュニティ(群れ)はルールによって形成されていることがわかる。これはまずコミュニティがあって、それからルールを決めるというものではなくして、コミュニティ即ルールなのだろう。分業と分配に群れの優位性がある。

 幼児社会はチンパンジー・ルールに則っている。ところが義務教育でヒト・ルールが叩き込まれる。こうやって我々は進化的優位性をも失ってきたのだろう。

 したがって、私たちは人間の本性に関する前提を全面的に見直す必要がある。自然界では絶え間ない闘争が繰り広げられていると思い込み、それに基づいて人間社会を設定しようとする経済学者や政治家があまりに多すぎる。だが、そんな闘争はたんなる投影にすぎない。彼らは奇術師さながら、まず自らのイデオロギー上の偏見というウサギを自然という防止に放り込んでおいて、それからそのウサギの耳をわしづかみにして取り出し、自然が彼らの主張とどれほど一致しているかを示す。私たちはもういい加減、そんなトリックは見破るべきだ。自然界に競争がつきものなのは明らかだが、競争だけでは人間は生きていけない。

 ドゥ・ヴァールが説く共感はわかりやす過ぎて胡散臭い。実際はそんな簡単なものではあるまい。ただ、動物を人間よりも下等と決めつけるのではなくして、生存を可能にしている事実から学ぶべきだという指摘は説得力がある。

 共感能力を失ってしまえば、人類は鬼畜にも劣る存在となる。そのレベルは経済において最もわかりやすい構図を描く。格差拡大が引き起こす二極化構造をチンパンジーたちは嘲笑ってはいないだろうか。



コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
集合知は沈黙の中から生まれる
「法人税の引き下げによる経済効果はゼロないしマイナス」/『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』菊池英博
進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
比類なき言葉のセンス/『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳
愛着障害と愛情への反発/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
強欲な人間が差別を助長する/『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
ものごとが見えれば信仰はなくなる/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
アンシャン・レジームの免税特権/『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン
マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
金融工学という偽り/『新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性』原丈人
大塩平八郎の檄文/『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

2009-07-11

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠


 ・ネアンデルタール人も介護をしていた

『病が語る日本史』酒井シヅ

 人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。

 例えば、こう――

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。

【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】

 飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。

 広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典

 つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。

 ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】

「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。

 人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。

 既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。

 せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。


頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

2008-12-21

赤ちゃん言葉はメロディ志向〜介護の常識が変わる可能性/『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン


『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック 声を出すと深い瞑想が簡単にできる』成瀬雅春

 ・赤ちゃん言葉はメロディ志向〜介護の常識が変わる可能性

『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫:石森愛彦絵
・『言葉の誕生を科学する』小川洋子、岡ノ谷一夫

 原初の言葉と音楽性との関係を探る学術書。専門性は相当高い。表紙がゴリラとなっているのがご愛嬌。

 乳児は「動き」よりも、「イントネーション」に反応するという――

 乳児とのやりとりがはじめての人も母親と同じくらい韻律を誇張し、乳児のほうもそれをよろこぶ。実験の結果、乳児は通常の発話よりIDS(※乳幼児への発話=赤ちゃんことば)を聞くのを強く好み、表情より声のイントネーションにはるかによく反応することがわかっている。未熟児も同様で、なでるなどの他のあやし方よりIDSのほうが鎮静効果がある。そして、子どもからの好意的な反応が非言語での会話をさらにうながすことになる。事実、韻律要素のひとつの機能は、大人同士の会話に必須のターン交替を引き起こすことにある。

【『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン:熊谷淳子訳(早川書房、2006年)以下同】

 私は弟妹3人を育てているからわかるのだが、実はこれ、凄い指摘だ。普通は表情や動作などの動きでアプローチしがちである。日本語が漢字の象徴性に依存していることを何となく実感しているためだろう。ひょっとしたら、「いないいないばあ」も、言葉のイントネーションに反応しているかも知れない。つまり、言葉を獲得する前段階では、視覚よりも聴覚がリードしているという事実を示している。

 これらの実験は、IDSでは“メロディがメッセージである”こと、つまり、韻律だけで話者の意図をくみ取れることを示している。そのメッセージがなんであれ、子どもにとっては良いものであるらしい。乳幼児が受け取るIDSの質と量は、乳幼児の成長率と相関することが示されている。

 赤ん坊が理解するのは、言葉ではなくメロディだった。吃驚仰天。これを証明するために、複数の外国語を赤ん坊に聴かせる実験が行われた――

 結果は歴然としていた。赤ん坊は提示されたフレーズの種類にふさわしい反応をした。どの言語の発話でも、無意味語の発話でも、禁止を表すフレーズには顔をしかめ、容認を表すフレーズには微笑んだ。だがひとつだけ、さほど予想外でない例外があった。日本語で話されたフレーズには子どもが反応しなかったのだ。(アン・)ファーナルドは、日本人の母親の場合、欧州言語を話す母親よりピッチ変化の幅が狭いためと考えた。この結果は、日本人の音声表現や表情が解読しづらいとする他の研究とも一致する。

 何と外国語であっても、赤ん坊はメロディの意味を正しく理解した。ということはだよ、老人性痴呆(認知症)=幼児化と考えれば、赤ちゃん言葉のメロディ志向はメッセージの伝達性を高める可能性がある。今、私は“介護の常識”を思いっきり踏みつけたところだ。足の下でまだもぞもぞしているよ(笑)。

 介護現場では、「要介護者の尊厳」に敬意を払うよう周知徹底されているが、実際はぞんざいな言葉遣いが横行している。大抵の場合、これに腹を立てるのは家族だ。はたから見ると年寄りを「子供扱い」しているように見えてしまうからだ。

 ところがどっこい、そうではないのだ。私の身内にも失語症(高次脳機能障害)患者がいるが、私は天性の技術で意思の疎通ができる。失語症や認知症の場合、とにかく短くわかりやすいメッセージを伝えることが先決だ。発話が無理であれば、手を挙げて答えてもらうため、「――の人?」と聞くのが手っ取り早い(「疲れた人?」「寒い人?」「家に戻って寝たい人」など)。慣れてくると、3回ほどの質問で言いたいことを理解できるようになる。

 介護現場というのは、理論よりも経験則に沿った行為が重んじられる。ゆっくりと話しかけ、文節を尻上がりに間延びさせ、敬語を割愛する。すると、素人が聞けば殆ど赤ちゃん言葉になってしまうのだ。ヘルパーの皆さん、理論はここに私が構築した。思う存分、赤ちゃん言葉を使用されたし。中には、「赤ちゃんプレイ」を好むジイサンだっていることだろう。



頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

2008-05-07

“思いやり”も本能である/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

必読書リスト その三

「本能」の定義が変わるかも知れない、と思わせる内容。取り上げられているのはチンパンジーとボノボ。同じ類人猿でも全く性格が異なっている。わかりやすく言えば、チンパンジーは暴力的な策略家で、ボノボはスケベな平和主義者。社会構造も違っていて、ボノボはメスが牛耳っている。

・動物の世界は力の強い者が君臨している。
・食べる目的以外で殺すのは人間だけ。
・動物は同種同士で殺すことはない。
・動物には時間の概念がない。
・動物は「会話する言葉」を持たない。
・快楽目的の性行為をするのは人間だけ。

 これらは全て誤りだった。丸々一章を割いてボノボの大らかな性の営みについて書かれているが、まるでエロ本のようだ(笑)。ビックリしたのはディープキスもさることながら、オス同士でもメス同士でも日常的に性的な触れ合いがあるとのこと。

 あまりの衝撃に翌日まで脳味噌が昂奮しっ放し(笑)。知的ショックは脳を活性化させる。読めば読むほど、「ヒト」はチンパンジーからさほど進化してないことを思い知らされる。ボノボはエッチだが、穏和なコミュニティを形成していて人間よりも上等だ。

 メガトン級の衝撃は、「“思いやり”も本能である」という考察だ。我々が通常考えている「人間性=非動物的、あるいは非本能的」という図式がもろくも崩れる。全てはコミュニティを存続させるため=種の保存のための営みであることが明らかになる。

 今世界は、米国というボスチンパンジーに支配されている。日本は自民党チンパンジーが支配し、大企業チンパンジーが後に続いている。ヒトがボノボに進化しない限り、滅亡は避けられない。そんな気にさせられる。

 野生チンパンジーに対する先入観は、さらにくつがえされる(1970年代、日本人研究者によって)。それまでチンパンジーは、平和的な生きものだと思われており、一部の人類学者はそれを引きあいに出して、人間の攻撃性は後天的なものだと主張していた。だが、現実を無視できなくなるときがやってくる。まず、チンパンジーが小さいサルを捕まえて頭をかち割り、生きたまま食べる例が報告された。チンパンジーは肉食動物だったのだ。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)以下同】

「ベートーヴェンエラー」とは、過程と結果はたがいに似ていなければならないという思い込みである。
 完璧に構成されたベートーヴェンの音楽を聴いて、この作曲家がどんな部屋に住んでいたか当てられる人はいないだろう。暖房もろくにない彼のアパートメントは、よくぞここまで臭くて汚い部屋があると訪問者が驚くほどで、残飯や中身の入ったままの尿瓶、汚れた服が散乱し、2台のピアノもほこりと紙切れに埋まっていた。ベートーヴェン本人も身なりにまったくかまわず、浮浪者とまちがわれて逮捕されたこともある。そんなブタ小屋みたいな部屋で、精緻なソナタや壮大なピアノ協奏曲など書けるはずがない? いや、そんなことは誰も言わない。なぜなら、ぞっとするような状況から、真にすばらしいものが生まれうることを私たちは知っているからだ。つまり過程と結果は、まったくの別物なのである。

 2対1という構図は、チンパンジーの権力闘争を多彩なものにすると同時に、危険なものにもしている。ここで鍵を握るのは同盟だ。チンパンジー社会では、一頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、集団に受けいれてもらうためにも、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。どこかで聞いたような話だが、それもそのはず人間の政治もまったく同じである。

 ふだん動物と接している人は、彼らがボディランゲージに驚くほど敏感なことを知っている。チンパンジーは、ときに私自身より私の気分を見抜く。チンパンジーをあざむくのは至難のわざだ。それは、言葉に気をとられなくてすむということもあるのだろう。私たちは言語によるコミュニケーションを重視するあまり、身体から発信されるシグナルを見落としてしまうのだ。
 神経学者オリヴァー・サックスは、失語症患者たちが、テレビでロナルド・レーガン大統領の演説を聴きながら大笑いしている様子を報告している。言語を理解できない失語症患者は、顔の表情や身体の動きで、話の内容を追いかける。ボディランゲージにとても敏感な彼らをだますことは不可能だ。レーガンの演説には、失語症でない者が聞いても変なところはひとつもない。だが、いくら耳ざわりの良い言葉と声色を巧みに組みあわせても、脳に損傷を受けて言葉を失った者には、背後の真意が見通しだったのである。

 下の階層に属する者が、力を合わせて砂に線を引いた。それを無断で踏みこえる者は、たとえ上の階層でも強烈な反撃にあうのだ。憲法なるもののはじまりは、ここにあるのではないだろうか。今日の憲法は、厳密に抽象化された概念が並んでいて、人間どうしが顔を突きあわせる現実の状況にすぐ当てはめることはできない。類人猿の社会ならなおさらだ。それでも、たとえばアメリカ合衆国憲法は、イギリス支配への抵抗から誕生した。「われら合衆国の人民は……」ではじまる格調高い前文は、大衆の声を代弁している。この憲法のもとになったのが、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)である。イギリス貴族が国王ジョンに対し、行きすぎた専有を改めなければ、反乱を起こし、圧政者の生命を奪うと脅して承認させたものだ。これは、高圧的なアルファオスへの集団抵抗にほかならない。

 民主主義は積極的なプロセスだ。不平等を解消するには働きかけが必要である。人間にとても近い2種類の親戚のうち、支配志向と攻撃性が強いチンパンジーのほうが、突きつめれば民主主義的な傾向を持っているのは、おかしなことではない。なぜなら人類の歴史を振りかえればわかるように、民主主義は暴力から生まれたものだからだ。いまだかつて、「自由・平等・博愛」が何の苦労もなく手に入った例はない。かならず権力者と闘ってもぎとらなくてはならなかった。ただ皮肉なのは、もし人間に階級がなければ、民主主義をここまで発達させることはできなかったし、不平等を打ちやぶるための連帯も実現しなかったということだ。

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

 霊長類は群れのなかにいると、大いに安心する。外の世界は、外敵がいるわ、意地悪なよそ者がいるわで気が休まらない。ひとりぼっちになったら、たちまち生命を落とすだろう。だから群れの仲間とうまくやっていく技術が、どうしても必要なのである。彼らが驚くほど長い時間――1日の活動時間の最高10パーセント――をグルーミング(毛づくろい)に費やすのもうなずける。そうやって相手との関係づくりに努めているのだ。野生のチンパンジーを観察すると、仲間と良好なつながりを保つメスほど、子どもの生存率が高いことがわかる。



進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
大阪産業大学付属高校同級生殺害事件を小説化/『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男
曖昧な死刑制度/『13階段』高野和明
社会主義国の宣伝要員となった進歩的文化人/『愛国左派宣言』森口朗