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2018-04-30

すべてのミュージシャンが必読すべき珠玉の短篇/『松風の門』山本周五郎


『一人ならじ』山本周五郎
『日日平安』山本周五郎

 ・壮烈な心と凄絶な生き方
 ・すべてのミュージシャンが必読すべき珠玉の短篇

必読書リスト その一

 ……そしていつでも話の結びには斯(こ)う云った。
「そうです、わたくしはずいぶん世間を見て来ました。なかには万人に一人も経験することのないような、恐しいことも味わいました。そして世の中に起る多くの苦しみや悲しみは人と人とが憎みあったり、嫉(ねた)みあったり、自分の欲に負かされたりするところから来るのだということを知りました。……わたくしにはいま、色々なことがはっきりと分ります。命はそう長いものではございません。すべてが瞬(またた)くうちに過ぎ去ってしまいます。人はもっともっと譲り合わなくてはいけません。もっともっと慈悲を持ち合わなくてはいけないのです」
 老人の言葉は静かで、少しも押しつけがましい響を持っていなかった。それで斯ういう風な話を聞いたあとでは、ふしぎにもお留伊は心が温かく和やかになるのを感じた。(「鼓くらべ」/「少女の友」昭和16年1月号)

【『松風の門』山本周五郎(新潮文庫、1973年)以下同】

「松風の門」と「鼓くらべ」のニ篇が与える衝撃の度合いは桁外れだ。「必読書」には『日日平安』を入れてあるが甲乙をつける必要はないだろう。

 新年の催しとして領主が金沢の城中で観能をし、その後で民間から鼓の上手な者が御前で腕比べを行う。お宇多というライバルとお留伊の二人も選ばれていた。旅の老人はお留伊に「友割り鼓」の話をする。

 十余年まえに、観世市之■(※極のツクリ部分/かんぜ・いちのじょう)と六郎兵衛という二人の囃子方があって、小鼓を打たせては竜虎(りゅうこ)と呼ばれていたが、ふたりとも負け嫌(ぎら)いな烈(はげ)しい性質で、常づね互に相手を凌(しの)ごうとせり合っていた。……それが或る年の正月、領主前田侯の御前で鼓くらべをした。どちらにとっても一代の名を争う勝負だったが、殊(こと)に市之■の意気は凄じく、曲なかばに到(いた)るや、精根を尽くして打込む気合で、遂に相手の六郎兵衛の鼓を割らせてしまった。
 打込む気合だけで、相手の打っている鼓の皮を割ったのである。一座はその神技に驚嘆して、「友割りの鼓」といまに語り伝えている。

 鼓打ちの間では広く知られた出来事であったが、老人はその後のエピソードを語った。

 老人は息を休めてから云った。「……市之■〈いちのじょう〉はある夜自分で、鼓を持つ方の腕を折り、生きている限り鼓は持たぬと誓って、何処ともなく去ったと申します。……わたくしはその話を聞いたときに斯(こ)う思いました。すべて芸術は人の心をたのしませ、清くし、高めるために役立つべきもので、そのために誰かを負かそうとしたり、人を押し退(の)けて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべきではない。鼓を打つにも、絵を描くにも、清浄(しょうじょう)な温かい心がない限りなんの値打ちもない。……お嬢さま、あなたはすぐれた鼓の打ち手だと存じます。お城の鼓くらべなどにお上りなさらずとも、そのお手並は立派なものでございます。おやめなさいまし、人と優劣を争うことなどはおやめなさいまし、音楽はもっと美しいものでございます。人の世で最も美しいものでございます」

 これから世に出てゆこうとする少女の胸に老人の言葉が響いたとは思えない。浅い経験は深い言葉に思いが届かない。老人が黙っていられなかったのは、お留伊が打つ鼓の音に何かを感じたためだろう。

 鼓くらべに臨んだお留伊は雷に打たれたように悟る。老人の悟りがお留伊の悟りとして花開く。私が知るどの仏典の譬(たと)え話よりもストレートに心を打った。小説を作り話だと侮ってはならない。現実社会も小説も脳が生み出すのだから。我々に求められるのは本書を読んだ後でどのような言葉を紡(つむ)ぎ出すのかということに尽きる。

2018-04-29

壮烈な心と凄絶な生き方/『松風の門』山本周五郎


『一人ならじ』山本周五郎
『日日平安』山本周五郎

 ・壮烈な心と凄絶な生き方
 ・すべてのミュージシャンが必読すべき珠玉の短篇

必読書リスト その一

 二人は馬を繋(つな)いで歩きだした。松風が蕭々(しょうしょう)と鳴っていた。前も後も、右も左も、耳の届くかぎり松風の音だった。宗利は黙って歩いていった。石段を登って、高い山門をくぐると、寺の境内も松林であった。そして其処もまた潮騒(しおさい)のような松風の音で溢れていた。(「松風の門」/「現代」昭和15年10月号)

【『松風の門』山本周五郎(新潮文庫、1973年)】

 池藤小次郎〈いけふじ・こじろう〉は伊達宗利〈だて・むねとし〉の右目を失明させた。10歳の宗利は小次郎に口外を禁じた。20年以上を経て宗利は江戸から帰郷する。神童と呼ばれ武芸にも学問にも秀でた小次郎は八郎兵衛〈はちろべえ〉と名を改め、見る影もなく落ちぶれていた。幼い頃、彼に対して捻(ねじ)れた感情を抱いていた宗利も鼻で笑った。

 農民たちの一揆に八郎兵衛が厳しい対処をした。穏便に収めようと考えていた宗利は八郎兵衛に謹慎を言い渡す。ここから物語は急展開を見せる。

 壮烈な心と凄絶な生き方を描いて周五郎の右に出る者はあるまい。この作品を発表した2年後には天下分け目のミッドウェー海戦があり日本軍の敗色が濃くなる。八郎兵衛夫婦のやり取りと比べれば、宗利と相談役の朽木大学の会話は宗利の底の浅さが露呈している。江戸300年の安定した歴史は主従の関係を絶対化したものだ。士農工商という身分はさほど厳格ではなかった(『お江戸でござる』杉浦日向子監修)が、武士の生き方は様式化され道にまで格上げされた。「君君たらずとも臣臣たらざるべからず」(『古文孝経』)との忠誠心は美徳であった。

 あまりにも深い心は人に知られることがない。ただ朽木大学のみが八郎兵衛の行為を理解した。

 風は変化の象徴である。風は何かを払い、そして飛ばす。読み手の心にも風が吹き渡る。



小善人になるな/『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通

2018-04-18

オラショ/『黄金旅風』飯嶋和一


『青い空』海老沢泰久

 ・オラショ

・『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

キリスト教を知るための書籍

「ところがそれは、般若心経(はんにゃしんぎょう)ほどのもので、ほんの一部にすぎないもののようでございます。天主教の経典は大層長い、何十巻にも及ぶもののはずでございまして、それぞれの一部ずつを大勢の者たちが、諳んじて後の世に伝えようとしたもののようでございます。私が覚えさせられましたのは、『タダの十二』と聞いております。そして、私が諳んじておりますその部の前後を覚えております者の名を教えられました」
「それが、富松なのか?」
「はい、そのとおりでございます。富松が『タダの十一』。私が『十二』。そして、その後、『タダの十三』は市助、『十四』が吉兵衛でございます。『十五』は、吉兵衛の話ですと新町に住む女だそうで、『十』も確か女だと、富松が行っておりました。もちろん、その前後の者たちとは、一切の関わりを持ってはならないと、親からもきつく言い含められておりました。が、5年ばかり前に私は、どうしてもその前後を諳んじている者に会ってみたいと思うようになりました」(中略)
 文字として書き残されたものが許されないのならば、記憶しておくしかない。経典を細かく章に分けて、それぞれを覚えの早い子どもに記憶させ語り伝えさせる。何十章にも及ぶ天主教の経典を、長崎の内町、外町を問わず何百人もの人々が、頭の中に刻み込み、それを後世に伝えようと大切にかかえている。

【『黄金旅風』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2004年/小学館文庫、2008年)】

 本書以前の飯島作品については、『汝ふたたび故郷へ帰れず』のリンクを参照のこと。

 本当にこのようなことがあったのかと、かなり時間を掛けて調べた。どうやら「オラショ」というらしい。動画も見つけた。



 長い歳月を経て形骸(けいがい)だけが辛うじて残ったのか。意味不明な呪文にしか聞こえない。それでも尚、「伝わった」事実が重い。伝えようとした意志の痕跡であることは確かだろう。

 本書以降、飯嶋和一はキリスト教を物語の主要な要素として扱っているが、初期作品のような輝きが鈍くなったように感じる。虐げられた人々が存在するのは「悪い社会」である。つまりキリスト教を光として描けば日本社会は闇とならざるを得ない。私がすっきりしないのは東京裁判史観の臭いを嗅ぎ取ってしまうためだ。善の設定が弱者に傾きすぎていて、権力=悪という単純な左翼的構図が透けて見える。

 それでも今のところ「飯嶋和一にハズレなし」である。

2015-11-11

国産発のジェット旅客機MRJが初飛行/『始祖鳥記』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一

 ・時代の波を飛び越え、天翔けた男の物語
 ・国産発のジェット旅客機MRJが初飛行

『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 暮し向きが定まれば、所帯を持つことを人は考える。子をもうけ、妻子を養うために日々を送って年老いてゆく。腕のいい表具師と言われ、他国木綿の移入で財をなした商才のある者と呼ばれ、あるいは運がいいと噂される。通常人が望むものが目の前にあっても、その時に幸吉がまず感じたものは耐えがたい腐臭だった。

【『始祖鳥記』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2000年/小学館文庫、2002年)以下同】

 日本で初めて空を飛んだとされるのは備前岡山の浮田幸吉〈うきた・こうきち〉(1757-1847年)である。7歳で父を亡くし傘屋へ奉公に出され、のち表具師となる。後年には晒(さら)し木綿商人となり、更には時計の修繕と義歯の製作も行った。

 一度目は失敗。幸吉は足を骨折した。初めて飛んだのは旭川にかかる京橋で天明5年(1785年)8月21日のこと。それ以降、「岡山の幸吉」「鳥人幸吉」と呼ばれた。折しも天明の大飢饉で各藩は世情の動向に目を光らせていた。幸吉の飛行は「天狗が出た!」と大騒ぎになり、当局はこれを見逃さなかった。世を騒がせ人々を不安に陥れたとして所払いの処分を受ける。

 人々にとって空は眺めるものであった。だが幸吉にとって空は翔(か)けるものであった。飛ぶ情熱は埋み火のように胸の底で燃え続けた。幸吉が感じた腐臭は、敗戦後の日本が国家として独立する力を奪われ、平和という名の下で高度経済成長を遂げてきた姿と重なる。平和は澱(よど)み、腐臭を放っている。

 マッカーサーは日本の再軍備を認めなかった。それだけではない。零戦(ぜろせん)の技術力を恐れたGHQは日本に飛行機をつくることも許さなかった。70年という歳月を経て、やっとジェット旅客機が日本の空を飛んだ。戦後レジームからの確かな脱却といってよい。ひょっとするとイランの核合意と同じ文脈にあるのかもしれない。


 50歳になった幸吉は再び空を目指した。

 飛ぶことは、すべてを支配している永遠の沈黙に抗(あらが)う、唯一の形にほかならなかった。

「飛ぶことは、すべてを支配しているアメリカに抗う、一つの形にほかならなかった」と思いたいところだが現実はそれほど甘いものではない。アメリカの国防戦略は日本を軍事化し、南沙諸島で中国軍にぶつける方針なのだろう。核保有国同士が戦争をすることは考えにくい。日本の世論はぬるま湯に浸かった状態から抜け切れないので、米軍はゆくゆく沖縄から撤収するに違いない。

 アメリカのジャパン・ハンドラーズに操られているだけなのか、それともアメリカの手のひらに乗ったと見せかけておいて実は別の戦略があるのかは、5年以内に判明することだろう。

 尚、幸吉初飛行の2年後の1787年には琉球国で飛び安里(あさと)が断崖から飛んだとされている。二宮忠八がゴム動力による模型飛行器を製作したのが100年後の1890年(明治23年)で、ライト兄弟の初飛行は1903年である。

2009-07-17

言葉の重み/『時宗』高橋克彦


 北条時頼と時宗、時輔(※時宗の異母兄)父子(おやこ)を描いた政治小説。飽くまでも歴史小説という形を用いた政治小説である。鎌倉時代を築いた武士とそれ以前に栄華を誇っていた公家との違い、天皇・将軍・執権というパワー・オブ・バランス、関東における武士の合従連衡などがよく理解できる。

 親子にわたる政(まつりごと)を縦糸に、そして国家という枠組が形成される様を横糸にしながら、物語は怒涛の勢いで蒙古襲来を描く。時頼と日蓮との関係を盛り込むことで、政治・宗教・戦争という大きなテーマが浮かび上がってくる仕掛けだ。お見事。

 私は以下の件(くだり)を読んで衝撃を受けた――

「そなたが関白でよかった」
 上皇は言って基平を見詰めた。
「近衛の一族はそなたを今に生み出すために代々我らの側にあったのじゃな」
 なにを言われたのか基平には分からなかった。それが最上級の褒めの言葉であると察したのは少し間を置いてのことである。
「ははっ」
 感極まって基平は泣きながら平伏した。抑えようにも涙は止まらない。五度に及ぶ混迷の合議、しかも半ば以上諦めていた裁定をたった一通の意見書が覆(くつがえ)したのだ。

【『時宗』高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)以下同】

 北条家の意向を受けた近衛基平が「蒙古からの国書に返書を出すべきではない」と折衝する。これには、蒙古に対する北条父子の深慮遠謀があり、基平は命懸けで訴え抜いた。最後の最後でようやく基平の意見は採用される。そして、上皇が感謝の意を表明するシーンである。

 真の褒賞(ほうしょう)は「感謝の言葉」であった。何という言葉の重み。金品でも土地でもない。国家を守るために命を張り、それに報いる言葉があれば、人は幸福になれるのだ。日蓮は門下に宛てた手紙の中で「ただ心こそ大切なれ」(「四条金吾殿御返事」弘安2年/1279年)と記しているが、まさしく心を打つものは心に他ならない。

 まだ天下が統一される前の時代に、国の行く末を思い、犠牲を厭(いと)わぬ人々が存在した。歴史に記されることがなかったとしても、礎石になる人生を選んだ男達がいた。

 泰盛は時宗の肩に手を置いて言った。
「そなたがここにおるではないか。そなたであればどんな山とて乗り越えられる。国は皆のものと言い切る執権じゃぞ。そういうそなたの言なればこそ皆が命を捨てたのだ」
 時宗は泰盛を見詰めた。
「そなたが気付いておらぬだけ。新しき国の姿はそなたの中にある。皆はそれを信じて踏ん張った。そなたが今の心を持ち続けている限り、我らも失うことはない」

 安達泰盛の言葉もまた最高の褒賞となっている。真実を知る者からの称賛が、喝采なき舞台を力強く支える。地位でも名誉でもなく、人間と人間とが交わす讃歌こそ究極の幸福なのだ。

   

北条時頼
北条氏略系図
北条時宗
北条時宗(NHK大河ドラマ)
北条時輔
北条時宗が見た北鎌倉を歩く
元寇
蒙古襲来絵詞