2021-12-11

父は悪政と戦い、子は感染症と闘った/『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一

 ・父は悪政と戦い、子は感染症と闘った

『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

日本の近代史を学ぶ

 奥座敷で供された二つの塗り物膳(ぜん)には、季節の飛び魚の吸い物から黒鯛(くろだい)の刺し身、あわびの膾(なます)、焼き茄子(なす)などが所狭しと並べられ、白米の飯と素麺(そうめん)、清酒まで出して庄三郎がもてなした。
 弥左衛門〈やざえもん〉にすすめられ常太郎〈じょうたろう〉は初めて酒を口にした。陣屋からここまでずっと己(おのれ)の身を案じてついてきた島民達といい、科人(※とがにん)として流されてきた先で思いがけないもてなしを受け、戸惑いばかりが深まっていた。
「……流人の身でありますのに、なにゆえ皆様方がこのように温かくお迎えくだされるのかがわかりません」
「貴殿は何の罪も犯していない。それに西村履三郎〈※にしむら・りさぶろう〉様の倅殿だから」
 常太郎は顔を上げて目を見開いた。はるばる流されてきたこの島の人々が、父親の名を知っていることに驚いたようだった。
「河内随一と言われる大庄屋だったお父上が、大塩平八郎先生とともに、なぜ何もかも捨てて挙兵されたか、それを島の者たちはよく知っています」(中略)
「誰のためにお父上は蜂起に身を投じたのか? 出鱈目な幕政の結果、困窮し飢餓に瀕している民のためだ。お父上は、民のためにすべてを捨てて戦ってくれた。この島の民も同じく困窮している。お父上は、自分たちのために戦ってくれた、言ってみれば恩人なのですよ。そして、それゆえに貴殿がこんな目に遭(あ)うこととなった。お父上に対する感謝と貴殿への申し訳ないとの思いです。大塩先生の檄文はご覧になったことは?」
「いいえ。……存じません」
「もちろん知るはずがない。周りにいた方々も常に監視されて、とても常太郎さんにそれを伝えることなどできなかったはずだ。大塩先生の檄文には、『やむを得ず天下のためと存じ、血族の禍(わざわい)をおかし、この度、有志の者と申し合わせ、下民(かみん)を悩まし苦しめている諸役人をまず誅伐(ちゅうばつ)いたし、引き続き驕(おご)りに増長しておる大坂市中の金持ちの町人どもを誅戮(ちゅうりく)におよぶ』とある。『血族の禍をおかす』すなわち、貴殿や母上、親類縁者にも禍がおよぶことはお父上もわかっていた。貴殿は、当時数え六つ。可愛(かわい)い盛りだ。お父上も断腸も思いだったろう……。(後略)」

【『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2015年/小学館文庫、2019年)以下同】

 父親の履三郎は蜂起の後、伊勢から「仙台、江戸へと渡り、江戸で客死」した。幕府は墓所から遺骸を取り出し、大坂の地で処刑した(大塩ゆかりの地を訪ねて④「八尾に西村履三郎の故地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ)。

10月例会・フィールドワーク「西村履三郎・常太郎ゆかりの地を訪ねる」: 大塩事件研究会のブログ

 御科書(ごとがしょ)には「十五歳」とある。満年齢だと十四歳か。西村家は土地を没収され、一家断絶となる。まだ幼かった常太郎と謙三郎は親戚預かりを経て、15歳で配流(流罪)の処置が下った。

 飯嶋作品は歴史的事実に基づく小説である。言わば事実と事実の間を想像力で補う作品である。それを可能にしてしまうところに作家の創造性が試されるのだろう。

 大塩平八郎の乱が鎮圧され、1か月後に潜伏先を探り当てられて大塩が養子格之助とともに自害した際、火薬を用いて燃え盛る小屋で短刀を用いて自決し、死体が焼けるようにしたために、小屋から引き出された父子の遺体は本人と識別できない状態になっていた。このため「大塩はまだ生きており、国内あるいは海外に逃亡した」という風説が天下の各地で流れた。また、大塩を騙って打毀しを予告した捨て文によって、身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年にアメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説も流れた。これらに加え、大塩一党の遺体の磔刑をすぐに行わなかったことが噂に拍車をかけた。

Wikipedia

 幕府の恐れと影響力の大きさが窺い知れる。京の都が餓死者で溢れ、流民が大坂へ流れて治安が悪化したという。政治は無策から暴政へ様変わりしていた。大塩平八郎はもともと怒れる人物であった。激怒は憤激と焔(ほのお)を増し、自ずと立ち上がらざるを得なくなったのだろう。英雄とは民の心に火を灯す人物だ。その輝きこそが未来への希望となる。

「最後に言っておきますが、もうあなたが本土の土を踏むことはないと思います。赦免だの何だのを願えば、苦しむだけのことです。そんなことはありえないと、覚悟を決めるしかありません。もちろん全く道理に反することをわたしが申し上げていることもわかります。ただこの島へ来て苦しみ早く死ぬのは、本土へ戻ることばかりを願っている者たちです。それでは生きられない。苦しみしかないのです。本当の人生などどこかにあるものではありません。ここで生きていることが真のあなたの姿であり、あなたの本当の人生だと思ってください。まことに申しわけないことですが。
 もちろん、あなたがこれまで誰にも教えられなかったこと、大塩先生の蜂起に関して、わたしが知っている限りのことはお教えします。あなたには知る権限がある。なぜお父上が蜂起し、なぜあなた自身がここへ流されて、ここで生涯を送ることになったのかを。それを知らなくてはとても生きていけないこともわかります。わたしが知る以上のことを知りたければ、わたしの朋輩(ともがら)に託します。それは約束します」

「淡い期待は持つな」との戒めである。弥左衛門は「幼さを許さなかった」とも言える。つまり大人として遇したのだろう。現実が苦しくなると人の思考は翼を伸ばして逃避する。虐待された子供は幻覚が見える(『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳)。大人だって変わりはあるまい。苦しい現実から目を逸(そら)して都合のよい妄想に浸(ひた)る。弥左衛門は「生きよ」と伝えたのだ。「ただ、ひたすら生きよ」と。


 常太郎が流されたのは島後島(どうごじま)で、隠岐諸島(おきしょとう)の一つである。常太郎は狗賓童子(ぐひんどうじ/島の治安を守る若衆)としての訓育を受け、更に医学を学んだ。父は悪政と戦い、成長した子は感染症と闘った。

 私が全作品を読んだ作家は飯嶋和一だけである。丸山健二は途中でやめた。『神無き月十番目の夜』以降の作品を読むと、圧政-抵抗という図式が顕著で戦前暗黒史観(進歩の前段階と捉えるマルクス史観)と同じ臭いがする。「ひょっとしてキリスト教左翼なのか?」という懸念を払拭することができない。

0 件のコメント:

コメントを投稿