2021-12-07

エティ・ヒレスムの神 その二/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック


『エロスと神と収容所 エティの日記』エティ・ヒレスム

 ・エティ・ヒレスムの神 その一
 ・エティ・ヒレスムの神 その二

キリスト教を知るための書籍

 オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。手書きの日記は1941年3月に始まり、1943年10月に終わっている。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直訳(岩波書店、2011年)以下同】

 反響を呼ぶのは理窟ではない。真理が散りばめられた言葉である。これが悟りの証(あかし)である。

 エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた。彼女は何のこだわりもなく、直接、神に話しかけた。そして自己発見と神の発見、自己探求と神の探求、自己創造と神の創造はまるで当然のことのように一体化していた。彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信者たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。
 必要とされるのは、宗教的なもののこういした主観的次元を適切に扱いうる宗教社会学的視点だ。

 いや、そんなもんは要らない。個人の悟りを学問の枠組みにはめ込もうとするのが西洋世界の教父的伝統なのだろう。私としては、ただ言葉を味わい、真理の光を見つめ、自己観察の一助にするのが適切だと思う。

 私はブッダとクリシュナムルティの言葉に心酔する一人であるが、実はまだ瞑想を実践していない。エティ・ヒレスムに敬意を表して、今日から瞑想を実行する。彼女への哀悼の念を込めて。

  

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