2020-09-15

三島由紀夫『武士道と軍国主義』/『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝


・『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦 市ケ谷決起への道程と真相』山本舜勝
・『君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫』山本舜勝
・『サムライの挫折』山本舜勝
・『三島思想「天皇信仰」 歴史で検証する』山本舜勝

『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市

 ・三島由紀夫「檄」
 ・三島由紀夫『武士道と軍国主義』

70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

(※暑中見舞いの)手紙に同封されていたのはB5版24枚の書類であり、『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』と表題のついた2篇からなっていた。
 自刃の年の7月、三島は、当時の保利茂官房長官から、防衛に関する意見を求められた。送られてきた書類は、その時三島が日頃からの持論を口述し、タイプ印刷に付したものだ。佐藤栄作総理大臣と官房長官が目を通した後、閣僚会議に提出されるはずだったが、実際には公表はされなかった。
 当時の中曽根康弘防衛庁長官が、閣僚会議に出すことを阻止したのではないかと、私は思う。
 この二つの論文は、三島の考えを理解するためには不可欠の資料であり、彼が国民に訴えたいと考えていた、いわば建白書である。(中略)

『武士道と軍国主義』

 第一に戦後の国際戦略の中心にあるものは核であると規定する。核のおかげで世界大戦が回避されているが、同時に、各は総力戦態勢をとることをどの国家にも許さなくなった。総力戦は、ただちに核戦争を誘発するからである。従って、第二次世界大戦後の戦争は、米ソ二大核戦力の周辺地域で、限定戦争という形態をとって行われるようになった。
 限定戦争の最大の欠点は、国論の分裂をきたすという事である。総力戦の場合、国民の愛国心の昂揚が、必然的に祖国のために戦う気分を創り出す。しかし限定戦争の場合には、それが曖昧であるため、反対勢力は互角の戦いを国家権力に対して挑むことができる。従って、限定戦争のある国では、平和運動や反戦運動が大きな勢力を持ち得、国論は分裂する。これは、必ずしも共産国家の陰謀のせいばかりとは思えない。
 共産国家は、閉鎖国家でその中での言論統制を自由に行なえる体制であるから、国論統一は、自由主義国家よりもはるかに有利に行なうことができる。アメリカの反戦運動の高まりを見ると、限定戦争下における国論統一の困難さが、これと比較してよくわかる。
 さらに、代理戦争は、二大勢力の辺境地帯で行なわれる戦争であるから、その地域の原住民同士が相闘うという形をとる。そしてこれは、民族独立とか植民地解放などの理念に裏付けられて闘われる。自由諸国としては正規軍を派遣して、これに対処しなければならない。これに対し、共産圏は『人民戦争理論』をもって、不正規軍によるゲリラ戦を闘う。この『人民戦争理論』によって、国の独立と植民地解放という大義名分が得られる点で、共産圏の非常な利点となるのは、ヒューマニズムをフル活用できることである。
 ゲリラ戦は、女や子供も参加する以上、彼らも殺されることは多々ある。世のヒューマニストたちは、正規軍の軍人が死んでも、それは死ぬ商売の者が死んだだけだ、として深い同情など示さないが、女や子供が虐殺されたとなると、大いに感情移入してヒューマニズムの見地から反戦運動に立ちあがる、ということになる。
 また、自由諸国のマスコミュニケーションは、国論分裂が得意である故、ヒューマニズムの徹底利用という点で、むしろ共産圏に有利にはたらく。なぜなら、自由ということを最高最良の主義主張とする以上、自国が加担している限定戦争に反対することは、自由の最大の根拠となるからである。
 以上の観点から、自由諸国は、二つの最大の失点を初めから自らの内に包含していることになる。日本も、その意味では同じことである。
 しかし、日本は、天皇という民族精神の統一、その団結心の象徴というものを持っていながら、それを宝の持ち腐れにしてしまっている。さらに、我々は現代の新憲法下の国家において、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないことに、非常に苦しんでいる。それは、新憲法の制約が、あくまでも人命尊重以上の理念を日本人に持たせないように、縛りつけているからである。
 防衛問題の前提として、天皇の問題がある。ヒューマニズムを乗り越え、人命よりももっと尊いものがあるという理念を国家の中に持たなければ国家たり得ない。その理念が天皇である。我々がごく自然な形で団結心を生じさせる時の天皇、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統。この二つを持っていながら、これをタブー視したまま戦後体制を持続させて来たことが、共産圏・敵方に対する最大の理論的困難を招来させることになったのだ。この状態がずるずる続いていることに、非常な危機感を持つ。
 我々は、物理的な、あるいは物量的な戦略体制というものにとらわれすぎている。例えば中国の核の問題。この核に対抗する手段を我々は持っていない。従って、集団安全保障という理念から、日米安保条約によってアメリカの核戦略体制に入ることを、国家の安全保障の一つの国是としている。しかし、アメリカはABM(弾道弾迎撃ミサイル)を持っているが日本は持っていない。従って、核に対しては、我々はアメリカの対抗手段に頼ることはできても、アメリカの防衛手段は我々から疎外されている。
 我々は、自分で防衛手段を持たなければならない。しかし、非核三原則をとる現政府下では、核に対しる核的防御手段も制限されていると言わねばならない。
 我々は核がなければ国を守れない。しかし核は持てない、という永遠の論理の悪循環に陥っているのである。
 この悪循環から逃れるには、自主防衛を完全に放棄して、国連の防衛理念に頼るしかない。国連軍に参加して、国連軍として海外派遣も行ない、国連管理下に核をおいてそれを使用することも時には行ない得る、こういう形で国防理念を完全に国連憲章に一致させることしかあり得ない。国連憲章の上に成り立っている新憲法を、論理的に発展させればそうなるだろう。
 しかし、どうしても自主防衛の問題が出て来る。これは、理念の問題ではなく、アメリカのベトナム戦争以来の戦略体制の政治的反映のせいである。ベトナム戦争の失敗以降のアメリカの孤立主義の復活が、アジア人をしてアジア人と闘わしめ、自らはうしろだてとなって、アメリカ人の血を流すことを避けるという方向にむかっている。つまり、これは『人民戦争理論』の反映であり、アメリカは、各国に自主防衛を強制して、自らは前面から撤退するという政策に変更しつつある。
 こうなると、日本はアメリカのアジア戦略体制に利用されるのだ、という左翼の批判にさらされても仕方がない。なぜなら、自由諸国は人民戦争理論というものを絶対に使わないからだ。
 そこで問題になって来るのが、日本人の自主防衛に対する考え方である。
 日本の防衛体制を考える時、最も重要で最も簡単なことは、魂の無い所に武器はないということである。すなわち、防衛問題のキイ・ポイントは、魂と武器を結合させることである。この結合が成り立てば、在来兵器でも、充分日本は守れると信ずる。この結論は、核の問題から導き出される。なぜなら、核は使えない、からである。
 使えない核は、恫喝(どうかつ)の道具として使うしかない。もし核を保有していなくても、そこに核があるのだと相手側に信じさせることができれば、それで充分に恫喝となり得る。持っていなくても、持っているぞと脅すことができれば充分に心理的武器となり得る。
 このことが、人間の心理に非常な悪影響を及ぼしたと思う。かつて、人間のモラルを支えたのは武器による決闘であった。自分の主張とモラルを通すためには、刀に頼るしかなかった。しかし、核の登場により、モラルと兵器との関係は、無限に離れてしまった。あるかないかわからないものに、人間はモラルをかけることなどできないからだ。
 故に、在来兵器の戦略上の価値をもう一度復活させるべきだと考える。つまり日本刀の復活である。むろん、これは比喩であり、核にあらざる兵器は、日本刀と同じであるという意味である。
 その意味で、武士と武器、本姿と魂を結びつけることこそが、日本の防衛体制の根本問題だとするのである。
 ここに、武士とは何かという問題が出て来る。
 自衛隊が、武士道精神を忘れて、コンピューターに頼り、新しい武器の開発、新しい兵器体系などという玩具に飛びつくようになったら、非常な欠点を持たざるを得なくなる。軍の官僚化、軍の宣伝機関化、軍の技術集団化だ。特に、技術者化が著しくなれば、もはや民間会社の技術者と、精神において何ら変わらなくなる。また官僚化が進めば、軍の秩序維持にのみ頭脳を使い、軍の体質が、野戦の部隊長というものを生み出し得なくなる。つまり、軍の中に男性理念を復活できず、おふくろ原理に追随していくことになる。こうして精神を失って単なる戦争技術集団と化す。この空隙(くうげき)をついて、共産勢力は自由にその力を軍内部に伸ばして来ることになる。
 では、武士道とは何か。
 自己尊敬、自己犠牲、自己責任、この三つが結びついたものが武士道である。このうち自己犠牲こそが武士道の特長で、もし、他の二つのみであれば、下手をするとナチスに使われた捕虜収容所の所長の如くになるかもしれない。しかし、身を殺して仁をなす、という自己犠牲の精神を持つ者においては、そのようにはなりようがない。故に、侵略主義や軍国主義と、武士道とは初めから無縁のものである。この自己犠牲の最後の花が、特攻隊であった。
 戦後の自衛隊には、ついに自己尊敬の観念は生まれなかったし、自己犠牲の精神に至っては、教えられることすらなかった。人命尊重第一主義が幅をきかしていたためだ。
 日本の軍国主義なるものは、日本の近代化、工業化などと同様に、すべて外国から学んだものであり、日本本来のものではなかった。さらに、この軍国主義の進展と同時に、日本の戦略、戦術の面から、アジア的特質が失なわれてしまった。
 日本に軍国主義を復活させよ、などと主張しているのではない。武士道の復活によって日本の魂を正し、日本の防衛問題の最も基本的問題を述べようとしているのだ。日本と西洋社会の問題、日本の文化とシヴィライゼーションの対決の問題が、底にひそんでいるのだ。

【『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉(講談社、2001年)】

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(S・G・タレンタイア)。これが言論の自由であり、自由主義の基底をなす。共産主義と自由主義は意思決定の方法が異なる。極論すれば命令か合意かの違いに過ぎない。是非を問えばイデオロギーに堕する。要はまとまった方が強いわけで、自由主義が優れていると思い込むのは錯覚であろう。

 自由主義には嘘をつく自由もあり、腐敗する自由まである。国民には嘘を信じる自由があり、腐敗を見逃す自由もある。自由はあっという間に放縦へと傾き、得手勝手がまかり通る。

 その国の国情は政治と報道に表れる。政治の大黒柱は国民を守ることであり国防が基礎となる。遠くはシベリア抑留、近くは北朝鮮による日本人拉致を見れば日本政府が国民を守れない、あるいは守る意志がないことは火を見るよりも明らかである。たとえブルーリボンバッジを胸に着けていたとしても信用することは難しい。国民に至っては北朝鮮がミサイルを発射しても安閑としている有り様で、75年も平和が続くと精神が麻痺して生命の危機を察知できないようだ。中国が国境を無視して日本の領海を自由に航行しているのは既に戦闘行為に入ったと見てよい。それでも尚惰眠を貪り続ける我々はいつになったら目を覚ますのだろうか?

 武士道とは侍の道であるが、侍は官人である。語源は従うを意味する「さぶらう」(侍ふ・候ふ)に由来する。服従するという意味から申せば「イスラム」と同じだ。音も似ている。並べ替えればスムライだ。主君に逆らうことができないところに武士道の限界がある。暴力を様式化し道にまで高めた文化は誇るべきものだが、権力の下位構造を脱するところには達していない。

 自衛隊については無論武士道が必要であろう。だがそれを精神性で捉えてしまえば大東亜戦争末期の日本軍と同じ轍(てつ)を踏んでしまう。スポーツに置き換えて考えれば理解できよう。具体性と合理性を欠けば精神論は戯言(たわごと)だ。

 三島は暴力とは無縁であった。その一方で激情の人であった。文で収まることを潔しとせず武に目覚めた。彼は思想のために死んだのではない。ただ美学を生きたのだろう。

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