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2014-07-14

無我/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダールタは、心とも体とも別の自己――すなわち、アートマン(我)――という考えを超え、ヴェーダで提唱されている誤ったアートマンの考え方の虜になっていた自分に気づいて唖然とした。実在の本質はわかれてはいない。無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった。アナートマンは何か新しい実在を表す言葉ではなく、すべての謬見を破壊する雷のごときものであった。シッダールタはあたかも瞑想の戦場で、無我を旗印に、洞察という名刀をふりかざす将軍のようであった。昼も夜もピッパラ樹の下に坐りつづけ、新しい気づきが稲妻の閃光のように次々と解き放たれていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

 出家したシッダールタは二人の師につくがやすやすと無所有処に至り、驚くべきスピードで非想非非想処(天界の最上位である有頂天)をも体得した。

2.ゴータマ・ブッダの出家と修行
非想非非想処と涅槃
滅尽定とニルヴァーナ

 悟りには明確な段階があるのだ。

 傍目からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階にあるからです。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃(サンガ新書、2009年)】

 諸法無我を悟った瞬間が劇的に描かれているのだが致命的な誤りがある。「無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった」――いくら何でも「本質」はないだろう。たぶん翻訳ミスだと思われる。アナートマンとは否定語のアン+アートマンで無我・非我と訳す。訳語としては非我が相応しいような印象を受けるが、非我だとまだ我の存在を払拭できていない。ゆえに無我が正しいと私は考える。

梵我一如と仏教の関係

 デカルトは徹底した思索の果てに我を見据えた。ブッダは瞑想の果てに我を解体した。我は錯覚であり妄想であった。トール・ノーレットランダーシュは意識の正体を「ユーザーイリュージョン」と喝破した。

「私が存在する」という感覚から欲望が生まれる。人生の悩みは一切が私に基づいている。つまり私とは、神・幽霊・宇宙人に匹敵する錯覚なのだ。生はただ縁りて起こるものだ(縁起)。生は川の流れのように一瞬もとどまることがない。そこに「変わらざる自分」を見出すところに凡夫の過ちがある。自分から離れて、ただ生の流れに身を任すことが自然の摂理にかなっている。インディアンは確かにそういう生き方をしていた。

2013-10-27

真理をどう捉えるか/『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン


 覚え書きを残しておこう。特筆すべき内容はない。言い回しや表現の仕方にキラリと光るものはあるが、斬新さを欠く。ティク・ナット・ハンは『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』が傑作すぎて、他の本はあまり面白味がない。読み物としてはアルボムッレ・スマナサーラの方がお薦めできる。

 われわれは形式上は釈尊がその晩年にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)において『法華経』を説いたとしているが、実際には近代の文献学的研究や調査から、この経典が釈尊の死後約700年ごろ、おそらくは紀元2世紀の終わりごろに現在の形に編纂され、書きとめられ、流布したことがわかっている。

【『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)以下同】

 まず大前提として大乗非仏説は正しい。次に大衆部(だいしゅぶ=大乗)を信じるのであれば、それはブッダの教えから派生した思想を信じることになる。とすると社会の変遷(コミュニティの変化)に伴って新しい仏教が誕生することを認めたも同然だ。

 何が厄介かというと、結局のところ「真理をどう捉えるか」というテーマに帰着するのだ。例えば日蓮を本仏と仰ぐ宗派がある。彼らにとってはブッダが迹仏(しゃくぶつ)となる。迹とは「かげ」の謂(いい)だ。ま、それなりに理論武装をしているのだが、いずれにせよ「真理が変わった」ことを意味している。明らかにマルクス主義の進歩史観と似た思想傾向が見てとれる。つまり遠い将来――あるいは近い将来――日蓮も迹仏となる可能性を秘めているのだ。

 後半の14章は本源的次元(「本門」)を扱っている。本源的次元では、釈尊が前半とは全く異なった次元、つまり時間と空間についてのわれわれの通常の見方をはるかに超越した次元にいることが示されている。それは生きたリアリティとしての仏、つまり法の身体(法身〈ほっしん〉、ダルマカーヤ)としての仏である。本源的次元においては、生まれることと死ぬこと、来ることと行くこと、主体と客体といった二元的観念にもはや関わることがない。本源的次元はそういったあらゆる二元論を超えた真のリアリティ、涅槃、法の世界(法界〈ほっかい〉、ダルマダートゥ)なのである。

『法華経』はそれぞれの章で、また一つの章のなかでも異なった場面で、歴史的次元と本源的次元のあいだを行ったり来たりしている。

 霊山会(りょうぜんえ)を歴史的次元、虚空会(こくうえ)を本源的次元と捉えるのは卓見だ。法華経のSF的手法。

 根本(オリジナル)仏教(あるいは「源流〈ソース〉仏教」とも呼ばれる)は歴史的仏である釈迦牟尼が生きている間に説いた教えから成り立っている。これが最初の仏教である。

 個人的には「最初の仏教」だけでよいと思う。大衆部の教えは政争の臭いを発している。本来の仏教は武装を目的とした理論ではなかったはずだ。とはいうものの正確無比な「最初の仏教」は現存していない。ゆえに上座部(じょうざぶ=小乗)を手掛かりとしてブッダの悟りにアプローチする他ない。

(※初期大乗の空という考えは)言い換えれば、いかなる物も単独では存在しないこと、どのような物も固定的な状態にとどまってはいないこと、絶えず変化している原因(「因」)と諸条件(「縁」)の集合によってはじめて生起するということなのだ。これは相互的存在性(インタービーイング)の洞察に他ならない。

 因縁生起(=縁起)と諸行無常。

 出家者の僧伽は五つのマインドフルネス・トレーニング(五戒)と具足戒(プラーティモクシャ。波羅堤木叉)をその拠り所としていたが、菩薩修行の独自の指針はまだつくられていなかったのだ。

 とすれば修行は目安でしかない。

 したがって、この三つの世界のどこにいても本当の平安と安定を見出すことはできない。それは、罠や危険がいっぱいある燃えている家のようなものだ。(「三界は火宅なり」)
 檻の中にいるにわとりの一群を想像してみよう。かれらはえさのとうもろこしを奪い合ってお互いにけんかをしている。そして、とうもろこしのほうがおいしいか、それとも米のほうがおいしいかをめぐって争っている。数粒のとうもころし、あるいは数粒の米をめぐっってお互いに競い合っているあいだ、かれらは自分たちが数時間後には食肉処理場に連れて行かれるということを知らないでいる。かれらと同じように、われわれもまた不安定さに満ちた世界に住んでいる。しかし、貪欲さや愚かさにがっちりと捕らえられているためにそのことが少しも見えていないのだ。

 まるで仏教内で争う各宗派の姿を思わせる見事な喩えだ。我々は三毒という煩悩の檻に囚(とら)われた存在だ。すなわち囚人なのだ。

監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一

 この声聞の道の成果である涅槃は、文字通りの意味はろうそくの炎を吹き消すように、「吹き消す、滅する」である。それは、流転輪廻という燃えている家をきっぱりと去って、もう決して生まれ変わらないということだ。しかし、愚かさを捨て去ること、涅槃を「消滅」と考えることはまだ真の解脱ではない。それは解脱の最初の部分ではあってもその全体像ではないのだ。涅槃とは消滅であるという考えはあくまでも、人々をして修行の道へと入らせる方便の教えなのである。

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(『涅槃経』)だ。涅槃(≒悟り)とは何かを実現することではない。煩悩の炎を吹き消すことなのだ。

 本当に誰かを愛しているなら、その人を自由にしておかなければならない。もしその人を自分の愛情のなかに閉じ込めておこうとするなら、たとえその絆が愛からできていたとしても、その愛は本物ではない。

 これが慈悲。

 話を戻そう。真理は理法である。真理を具体化したのが涅槃であるならば、真理とは「ある状態」を意味する。理は理屈というよりも、「ことわり」であり「道」と捉えるべきだろう。その一点においてブッダとクリシュナムルティは完全に一致している。だから経典を弄(もてあそ)んで学術的な論争をするよりも、クリシュナムルティを辿ってブッダを見つめる方が手っ取り早いというのが半世紀生きてきた私の現時点における結論だ。

法華経の省察―行動の扉をひらく

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男

2013-10-26

自由と所有/『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン


 ブッダとその時代の僧や尼僧たちは三着の衣と一つの鉢しか持っていませんでしたが、彼らはとても幸せでした。それは、彼らには最も貴重なもの――自由があったからです。

【『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)】

 ティク・ナット・ハンは世界を代表する仏教者の筆頭格ともいうべき人物である。「行動する仏教」または「社会参画仏教」(Engaged Buddhism)の命名者でもある。映像からは温厚篤実そのものといった印象を受ける。話し方も実に穏やかで威圧感がまったくない。たぶん権威を嫌う人物なのだろう。

 これを三衣一鉢(さんねいっぱつ)と称する。出家とは世俗の象徴である家庭生活を捨てることだ。そして修行僧は乞食行(こつじきぎょう)を営む。彼らが目指す山頂は悟りの境地である。そのために物欲の否定からスタートするわけだ。

 今、恐るべきスピードで富の集中が進んでいる。先進国における格差拡大の要因はそれ以外に見当たらない。つまり格差の拡大は富の収奪を意味する。

 富裕層が使いきれないほどの富を更に膨らませている。人間の欲望には限りがない。世界から飢えがなくならないのも欲望が膨張し続ける証拠であろう。

 大航海時代(15~17世紀)に始まる資本主義こそは欲望のビッグバンともいうべき大事件であった。その後は植民地主義、黒人奴隷、インディアン虐殺、アメリカ建国まで一直線上にある。

 余談が過ぎた。富裕層は心の安心を富で量る。逆から見れば彼らの富は不安に支えられているといってよい。なぜなら富が失われてしまえば彼らには何も残らないからだ。後継者が失敗する可能性もある。それゆえ彼らは独自のネットワークを形成する。ま、秘密結社やサロンみたいな代物だ。ヨーロッパの歴史は教会と秘密結社の歴史といっても過言ではない。

 不安ゆえにネットワークを作る。そして不安ゆえに秘密を共有する。そんな彼らが落ち着いてぐっすりと眠れるわけがない。彼らの富は貧しき者たちの疲弊と死によって築かれているのだから。

 富める者は富によって不自由である。所有と自由は相反する価値であることを我々は知らねばならない。

怒り(心の炎の静め方)

怒りは人生を破壊する炎
所有
無である人は幸いなるかな!/『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ

2012-10-21

布施の精神/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

「昼食はすみましたか」
「いえ、まだです」
「それなら、これをいっしょに食べましょう」

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)以下同】

 ブッダは常に言葉づかいが丁寧であった。インドでは現在にあっても不可触賤民が触れた食器をバラモン階級が使用することはない。「穢(けが)れ」に対する迷信はかように深い。そうであるにもかかわらずブッダは不可触賤民であるスヴァスティ少年に食事を勧めた。

 シッダールタはふたりの子どもに微笑んで、「みんなでいっしょにわけあって食べよう」と言ってから、白いご飯の半分をとりわけて、それにゴマ塩をつけてスヴァスティに渡した。

 少女スジャータと3人で慎ましい食事を摂(と)る。後年、ブッダが苦行を極めて死に瀕した際、乳粥(ちちがゆ)を与えてブッダの命を救った少女である。めいらくグループのコーヒーフレッシュもこの少女に因(ちな)んでいる。乳つながり。

 ブッダは静かに沈黙の中で食事を終える。

「きみたちは、どうして私が黙って静かに食事をしたのかわかりますか? いまいただいたお米やゴマの一粒一粒は、とてもありがたいものです。静かにいただくと、十分にそれを味わうことができるでしょう」

 これが「食べる瞑想」である。食事とは「他の生命」を摂取することだ。その意味で生は多くの死に依存している。植物の生を有り難いものとして押し頂く。香りを味わい、口に入った食感を意識し、咀嚼(そしゃく)に注意を払い、唾液と溶け合い、胃に収まり、臓腑に行き渡る様相を味わう。「他の生命」を体内に取り込む事実を明らかに客観的に見つめる。深く味わうことが供養にもなる。日常の食事は瞑想であり荘厳な儀式でもあった。

 会話を楽しみながら食事をするのが西洋の文化だが、生命に対する畏敬の念を欠いているように思われる。やはり日本で現在にまで伝わる「いただきます」の精神が正しい。

「きみが持ってきてくれたひとかかえの香草は、すばらしい瞑想の敷物になりました。昨夜と今朝、私はその上に坐って、平和に満ちた瞑想のなかで、すべてのものがはっきりと見えた。きみは私に大きな助けをくれたのですよ、スヴァスティ。私の瞑想行がもっと進んだら、その成果をきっときみたちとわかちあうことにします」

 ブッダは粗食を分かち合い、そして悟りの成果をもスヴァスティと分かち合うと告げる。ここに布施の精神があるのだ。アルボムッレ・スマナサーラの文章を読むと、より一層理解が深まることだろう。

 たとえばビデオをレンタルして一人で見るよりは、二人でわいわい見たほうが楽しいでしょう? たとえ自分がレンタル料を払っていても友達と見ればレンタル料以上の楽しみを得ているはずです。本当の楽しみは共有することで生まれます。いわゆる「布施」の精神です。幸福はそこから生まれます。物惜しみは布施の反対で、すごく苦しいのです。(中略)
 相手が求めようが求めまいが、ある程度のところで知らず知らずにわれわれはいろいろ共有します。幸福になりたければ、ものは「共有」するものなのです。

【『怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年)】

 ブッダは自らの振る舞いを通して教える。「教義に従え」などという姿勢は微塵もない。人間を型に嵌(は)めて矯正する思想とは一切無縁であった。ただ、しなやかに生の流儀を示した。

 寄付や供養を募る寺社仏閣・教団は多いが、彼らが分け与えるのを見たことがない。

2012-10-16

常識を疑え/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 スヴァスティは黙って両手でその人の左手をおし抱きながら、思いきっていままで自分を悩ませていたことを口にした。「私がこのように触れたら、あなたさまが穢れるのではないでしょうか」
 その人は高らかに笑って、首を振った。「そんなことはありません。きみも私も同じ人間なのだから。きみは私を穢すことなんかできないんです。人が言うことを信じてはいけない」

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

『小説ブッダ』は不可触賤民(ふかしょくせんみん)であるスヴァスティ少年の目を通して描かれる。ブッダが放つ人格の香気に吸い寄せられ、スヴァスティとブッダの人生が交錯する。

 少年の悩みは深刻なものだった。以下にそれを示す。

不可触民=アウトカースト/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男
両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

 ついでにもう一つ紹介しよう。

 女、子供を含めた11人の不可触民家族と仲間は、村のボスの家へ引き立てられた。家の前の広場には薪(まき)が山と積まれていた。
 ギャングたちが人びとを追い回している一方、村のカーストヒンズーは処刑の用意をせっせと整えていたのである。
 処刑は残酷極まるものだった。
 新聞などでは、11人全員射殺し、ケロシン(灯油)を浴びせ、薪にほうりこんで黒焦げにしたとあったが、それは事実ではない。実際はもっとひどいやり方で殺したのだが、余りにもむごたらしいので書くのをひかえたのだろう。
 ラジャン氏はそういい、彼の下(もと)に届いた報告を次のように語った。
 11歳になる少年を除いた大人10人は、男も女も、全員生きたまま手足を切断され、燃え盛る薪の山の中へ一人ずつ、順番に投げこまれた。もがき苦しんで転げ落ちるものは直ぐ焔(ほのお)の中へほうりこまれた。
 少年は生きたまま火中へ投じられ、数回にわたり焔の中から這(は)い出し、村人に許しを乞うたが、その都度火中に投じられ、遂に絶命した。
 芋虫となって焔の中を転げ回る人びとをクルミ(※シュードラ〈農民〉カースト)の女たちは長い棒で、ローストチキンを焙(あぶ)るように、屍体が黒焦げになり、識別不能になるまで丹念に転がした。
 これが真相です。ラジャン氏は暗い笑みを唇の端に浮かべていった。
「この事件も、警察がかんでいるのです。いつだって、不可触民虐殺の背後にはカーストヒンズーと“警察”がいるのです」
 ラジャン氏は語り継いだ。
「ギャング共は朝の6時頃村へ乗りこんできたのです。間もなく不可触民の一人が8キロ離れたところにある警察署へ急を知らせました。その頃は雨季前で、道が通じていたのです。
 ギャングの襲撃を知らせにきた農夫に、署長はなんといったと思います。
“500ルピー出せ。そしたら今直ぐにでも助けにいってやる”といったのです。
 署長の脇には、街の大ボスが椅子にふんぞり返り、署長と顔を見合わせニヤニヤしていた、とその農夫は証言しています」

【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】

「差別」という価値観が有する凄まじい暴力性の一端が窺える。日本における穢多(えた)、非人(ひにん)、被差別部落朝鮮人も同じ構図だ。ハンセン病(癩病〈らいびょう〉)患者を見よ。日本社会が1000年以上にわたって持ち続けてきた差別意識には一片の正当性もなかったではないか。

 余談が過ぎた。蓮華は泥の中から咲き、ブッダはカースト制度の中から誕生した。「きみも私も同じ人間なのだから」という一言には時代を揺り動かすほどの重みがある。

「きみは私を穢すことなんかできないんです」――言い換えるならば、バラモン(ブラフミン)やクシャトリヤは「穢(けが)れやすい」連中なのだ。掃き溜めに鶴、インドにブッダである。ブッダの優しい言葉の背景には辛辣(しんらつ)なまでの厳しさが聳(そび)えている。

「人が言うことを信じてはいけない」――常識は常識であるというだけで誰一人疑おうともしない。科学的な思考・合理的な精神に生きよ、との教えに少年の蒙(もう)は啓(ひら)かれたことだろう。わずか二言でブッダはインド社会の迷妄を鮮やかに斬り捨て、少年の悩みを断ち切ってみせた。ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。目覚めた人はまた、人々を目覚めさせる人でもあった。

 スヴァスティ少年はブッダに付き従い、やがて弟子の一人となる。挿入された一つひとつのエピソードは南伝パーリ語経典や阿含経を中心に膨大な経典に散らばる断片的記述を収集したもので、創作は抑えられている。



日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

2012-10-15

リリアン・R・リーバー、長谷川集平、塔和子


 1冊挫折、1冊中断、3冊読了。

数学は相対論を語る』リリアン・R・リーバー、ヒュー・グレイ・リーバー絵:水谷淳訳(ソフトバンククリエイティブ、2012年)/数式についてゆけず。

ブッダの〈気づき〉の瞑想』ティク・ナット・ハン:山端法玄〈やまはた・ほうげん〉、島田啓介訳(野草社、2011年)/四念処経(しねんじょきょう)=「四種の〈気づき〉を確立する経典」の原文と解説。重要な内容と判断し、岩波文庫中村訳の後で読むことにした。

 55冊目『トリゴラス』長谷川集平(文研出版、2007年)/少年時代の「力への憧れ」を描いた怪獣モノ。絵のタッチは非常によいのだが、如何せんトリゴラスがゴジラに似すぎている。最後に少女の名をつぶやくことで、トリゴラスは結果的に性衝動から生まれた妄想となる。これをどう読むかで評価は分かれることだろう。私は物語性が浅くなったと思う。

 56冊目『トリゴラスの逆襲』長谷川集平(文研出版、2010年)/前作が彼岸を目指したのに対して、続作は彼岸から此岸を向いている。紙質も変わっており、こちらはツルツルした紙だ。タッチと色を活かすには前作の紙の方がよかったと思う。両方とも大人向けの絵本だと感じた。尚、余談ではあるが『はせがわくんきらいや』には大人の男性が出てこなかったので、トリゴラスにお父さんが登場して大いに安心させられた。

 57冊目『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子〈とう・かずこ〉(角川学芸出版、2007年)/「13歳でハンセン病を発病、14歳で小さな島の療養所に隔離された苛酷な現実も、塔和子の豊かな命の泉を涸らすことはできなかった」と表紙見返しにある。言葉がやわらかい。だが、生を見据える眼差しには厳格さが光っている。随筆の「浦島記」に胸を突かれる。「いっぺん社会へ出てみたいなー」といった一言が実現した話だ。罪を犯したわけでもないのに、社会から爪弾きにされた人々がついこの間まで存在したのだ。私なら最短距離でテロリストになっていたことだろう。そんな怒りを諌めるように塔和子の言葉は静かに響く。

2012-10-13

等身大のブッダ/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 私は懐疑心に富む男だ。加齢とともに猜疑心(さいぎしん)まで増量されている。元々幼い頃から「他人と違う」ことに価値を置くようなところがあった。だからいまだに付き合いのある古い友人は似た連中が多い。嘘や偽りに対して鈍感な人物はどこか心に濁りがある。曖昧さは果断と無縁な人生を歩んできた証拠であろうか。

 クリシュナムルティと出会ってから宗教の欺瞞が見えるようになった。暗い世界にあって宗教は人々を更なる闇へといざなう。クリシュナムルティの言葉は暗い世界を照らす月光のようだ。無知に対する「本物の英知」が躍動している。

 そんな私が本書を読んで驚嘆した。人の形をもった等身大のブッダと遭遇したからだ。「ああ世尊よ……」と思わず口にしそうになったほどだ。「小説」とは冠しているが、記述は正確で出典も網羅している。あの中村元訳のブッダが「ドラマ化された」と考えてもらってよい。

 もう一つ付言しておくと、私はティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラ声聞(しょうもん)だと考えている。決して軽んじるわけではないが、やはりクリシュナムルティのような悟性はあまり感じられない。その意味では「現代の十大弟子」といってよかろう。我々一般人は彼らから学んでブッダに近づくしかない。

 本書については書評というよりも、研鑚メモとして書き綴ってゆく予定である。また中村訳岩波文庫に取り掛かった後で再読を試みる。

 どこかに到着するのではなく、ただひたすら歩くことを楽しむ。ブッダはそのように歩いた。比丘たちの歩みもみなおなじように見えた。目的地への到着をいそぐ者はだれもいない。ひとりひとりの歩みはゆっくりとととのって平和だ。まるで一緒にひとときの散歩を楽しんでいるようだった。疲れを知らないもののように、歩みは日々着実につづいていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

「歩く瞑想」である。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

 偉大な思想家や学者は皆散歩を楽しむ。特に「カントの散歩」は広く知られた話だ。晩年のアインシュタインはゲーデルとの散歩を殊の外、楽しみにしていた。

 散歩は「脳と身体の交流」であり、「大地との対話」でもある。我々は病床に伏して初めて「歩ける喜び」に気づく。失って知るのが幸福であるならば、我々は永久に不幸のままだ。

 幸福とは手に入れるものではないのだろう。「味わい」「楽しむ」ことが真の幸福なのだ。すなわち彼方の長寿を目指すよりも、現在の生を楽しむ中に正しい瞑想がある。

 まずは「歩くことを楽しむ」と決める。そうすれば通勤の風景も一変するはずだ。



ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

2012-09-21

ティク・ナット・ハン Q&A(2009年ニューヨーク)


 ティク・ナット・ハンは「ダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から21世紀にかけて平和活動に従事する代表的な仏教者であり、行動する仏教または社会参画仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもある」(Wikipedia)。動画を見るとわかるが、嘘や虚勢がひとつもない。これ自体驚くべきことである。





小説ブッダ―いにしえの道、白い雲 ブッダの〈気づき〉の瞑想 ブッダの〈呼吸〉の瞑想 あなたに平和が訪れる禅的生活のすすめ―心が安らかになる「気づき」の呼吸法・歩行法・瞑想法

2012-09-16

プラム・ビレッジ(フランス)のシスターが語る気づきと瞑想


 汚(けが)れなき瞳と慎ましい表情。そして美しい歌が信じられないほど心を揺さぶる。真の宗教性が宗派の差異を軽々と超える。プラム・ビレッジはティク・ナット・ハンを中心とするコミュニティである。シスターたちが10月に来日するようだ。


公式サイト
2012年10月シスター・ブラザー来日【総合】情報
ティク・ナット・ハンのきもち
歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

2012-05-05

湯殿川を眺める


川はどこにあるのか?
阿呆陀羅經さん 死後に関する無記のタターガタは衆生 2004,6,13,
湯殿川

 ・湯殿川を眺める

『川と人類の文明史』 ローレンス・C・スミス
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート

 天気がよかったので湯殿川(ゆどのがわ)を見にゆく。川岸のコンクリートで結跏趺坐(けっかふざ)を組み、全身を耳と化す。

 右手の下流からせせらぎが聴こえる。金色の風が静かにたなびく。生え放題の雑草を風が撫でているが音はしない。ただ気配だけが動いている。耳を澄ますと左側の上流からもせせらぎの低い音がする。遠くで雀が鳴き、どこかのベランダで何かがカタンと音を立てた。二つ向こうにある橋から自動車の騒音がかすかに流れてくる。

 あらん限りの注意を払う。しかしパレスチナ人の叫び声は聞こえない。「なぜだろう?」といつも思う。

 昨日の土砂降りのせいか、豊かな水量が澱(よど)みなく流れる。水はまさに来たり、間髪を入れずに去りゆく。

 仏の別名を如来(にょらい/タターガタ)という。真如(=真理)より来(きた)りし者との意である。これに対して如去(にょこ)あるいは好去(こうこ)という呼称(スガタ)もある。十号の善逝(ぜんぜい)がこの意であろう。「善く逝く」とは輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)を表す。

 因(ちな)みにティク・ナット・ハンが仏典に基づいて描いた傑作『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』では「タターガタ」を両方の意味で使っている。

「来る」という語は何となく来迎(らいごう)を思わせる。Wikipediaに「如去は向上自利であり、如来は向下利他である」とあるが、如来にはやはり大乗的な臭みがある。

 川を真横から見る。我々は未来を知る術(すべ)をもたない。川上に向かって立てば水は如来と感じるかもしれないが、実際に確認できるのは流れた後だけである。つまり水は流れ去り、時もまた流れ去るものとして知覚される。諸行無常という変化相を思えば、やはり「滅び去る」という実感が湧く。

 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)とは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態である。すなわち煩悩から離れ去るのだ。私という自我から離れる行為でもある。

 ふと疑問が起こった。川はなぜ一定の水量で流れているのだろうか? 雨で多少の変化はあっても、目の前の流れは常に一定だ。「不思議だ、不思議だ」と目を丸くしながら私は川に見入った。

 少したってから気づいた。水量は一定ではないことに。一定に見えるのは1日を24時間と感じる私の感覚で捉えているからだ。例えば1000年という単位で見れば、川は次々と変化しているはずだ。

 私という存在も一定に見えて一定ではないはずだ。我々は一生という単位時間に支配されている。そして可能な限り生にしがみつき、朝露の如き存在となることを極端に恐れる。挙げ句の果てには墓石に名を刻んで、自我を末永くこの世に留(とど)め置こうとする。

 去ることは死ぬことだ。どう抗(あらが)ったところで死ぬことだけは避けようがない。生は流れ、過去も流れている。過去を死なせ、自我を滅した時、諸法無我が現れる。



来ては去っていくもの/『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編

2011-09-05

怒りは人生を破壊する炎


 怒りとは人生を破壊する炎です。炎を消すためには水が必要です。しかし、いったん怒りの炎が暴れ出してから、消化対策を考えたり、水を探しに行くようでは手遅れです。怒りは思わぬ、ささいなことで点火されるので、日頃から心の井戸に水を溜めておくことが賢明です。

【『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)】

怒り(心の炎の静め方)

自由と所有/『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン

2011-08-24

ティク・ナット・ハン


 挫折2冊。

法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)/初心者向け。過去の踏襲といったレベルで思想的な飛躍がない。

怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)/ニューエイジ的な説法。言葉が弱い。ティク・ナット・ハンは『小説ブッダ』一冊で十分か。

2011-07-19

ティク・ナット・ハン


 1冊読了。

 48冊目『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)/本書は「読む瞑想」である。少なからず仏法を行ずる者であれば、宗派を問わずひもとくべき一書だ。81章の全てに小乗教の出典が明記されている。中村元〈なかむら・はじめ〉の初期仏典に先んじて読んでおきたい。日本の鎌倉仏教は時代の制約もあり歪んだブッダ像となっている。大乗仏教の精神そのものが誤っているとは思わないが政治的臭みは一掃すべきであろう。本来、仏法とは理法であって教義ではない。時代考証と合理性を踏まえながら進化し続けるのが正しい仏法のあり方だと思う。その意味で本書に生き生きと描かれたブッダの姿はストンと腑に落ちる。ティク・ナット・ハンはベトナム出身の禅僧で、「社会に関わる仏教」(エンゲイジド・ブディズム)をモットーに、コロンビア大学、ソルボンヌ大学でも教鞭を執る。翻訳も素晴らしい。