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2022-01-24

日本のジャーナリズムはまだ死んでいなかった/『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・日本のジャーナリズムはまだ死んでいなかった

昭和の拷問王・紅林麻雄と袴田事件

必読書リスト その一

 男性は続ける。
「高知のマスコミは、どこも我々の話に耳を貸してくれないんです」
 一審判決後、地元のテレビ局がインタビュー取材を申し込んできたが、数時間待ちぼうけを食わされた末、連絡が取れなくなったという。

【『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平〈やました・ようへい〉(SBクリエイティブ、2009年)以下同】

 この一点だけでも事故が政治的な処理をされたことが窺える。テレビ・新聞といった大手メディアがこの国を戦後ミスリードし続けてきた。政官財の癒着ぶりを「鉄のトライアングル」と称するが、それを覆い隠す仕事をしているのが「報」と「放」なのだ。

 私が所属するKBS瀬戸内疱瘡は、香川県と岡山県を放送エリアとする放送局だ。同じ四国とはいえ、高知県には電波が届かず、放送は流れない。エリア向けに高知の行楽情報などを伝えることはあっても、そこで起きた事件や事故を取材することは、まずない。それでも、この男性は藁にもすがる思いで、かすかなつてを頼って私に連絡してきたのだろう。

 日本のジャーナリズムはまだ死んでいなかった。当然ではあるが警察側からの嫌がらせや意趣返しを覚悟しなければならない。有力政治家が動けばスポンサーにまで手を回すこともあり得るだろう。

 1年半前の事故について聞いた。
「バスは止まっていました。そこに横からすごい衝撃があって……」
「動いていたっていう感覚は全然ないです」
「急ブレーキをかけたということはないですね」
 取材を受ける戸惑いはあっただろう。ぽつりぽつりと、しかし確かな口調で生徒たちは語り始めた。皆、「中央分離帯付近で止まっていたバスに、白バイが横から突っ込んできた」と言うのだ。
 これに対し、高知地裁の判決は、「バスが右方向の安全確認を怠り、漫然と時速5キロないし10キロメートルで道路に進出し、白バイ隊員を跳ね飛ばした」と認定していた。バスは動いていたとされた。

「裁判では、僕たちが実体験した事故とは全く別ものになっている」
 一人の生徒はこう言い切る。この食い違いは何なのか。

 本書を読む限りでは裁判所も警察とグルであると言わざるを得ない。要は、速度違反でバスにぶつかり即死した白バイ隊員の保険金を詐取するために高知県警が証拠を捏造(ねつぞう)したのだ。加害責任ありとされたバス運転手は服役し、免許を失い、仕事も失った。まったく酷い話だ。テロが起きても不思議ではない。

 本書を読んでつくづく考えさせられたのだが、いつまで経っても左翼がなくならない理由がよくわかった。権力にブレーキをかける仕組みがこの国には存在しないのだ。裁判制度の抜本的変革が必要だ。裁判をネット公開するのは簡単にできると思う。裁判官と検事を裁く法整備も必要だ。もちろん司法の完全独立が前提となる。

2021-11-27

石川義博と土居健郎の出会い/『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子


『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
・『無知の涙』永山則夫
・『「甘え」の構造』土居健郎

 ・石川義博と土居健郎の出会い

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 犯罪精神医学界で大きな賞も受賞し自信をもって乗り込んだものの、これまでの研究は、彼らを前にして役に立たないどころか全然使いものにならなかった。自信は木端微塵に打ち砕かれた。少年たちへの治療は思うように進まず、ここで精神科医として職責を全うすることすら出来ないのではないかという、強い危惧まで抱くようになった。それまで自身が邁進してきた統計学に基づく研究は、何の意味があったのだろうかと重大な疑問が湧いた。どのようにして非行少年の面接や治療を行えばよいのか、何から手をつけていいのか分からなくなった。焦燥感にかられ、まさに医師として拠って立つ基盤を見失った。
 そんな最中に出会ったのが、土居健郎医師だった。
 土井が、東京大学医学部精神科の大学院生のために「精神療法的症例研究会(通称、土居ゼミ)」を開くことになったという話を聞き、石川は土居に関する知識もほとんどないまま、あまり期待することもなく、とりあえず参加することにした。とにかく藁をも摑むような気持ちだった。
 土居の研究会ではまず、事前に選ばれた報告者(参加者のひとり)が、自分が担当している患者の症例や家族歴、病歴、治療経過、行き詰まっている事象などについて報告する。
 事前に綿密な準備を行い、当日の報告だけでもかなりの時間を費やし、一見、詳細な説明が為されたかのように見える。ところが報告が終わるやいなや、じっと聞いていた土居が次々と質問を投げかけていく。「患者の最初の言葉は何だったか」、「それに対してどう答えたのか」、「患者はさらにどう答えたか」といった具合に、患者と治療者の間に起きた事柄を次々と問うてくる。そうするうちに他の参加者にも、最初の説明では実は理解できていなかった患者の全体像が少しずつ明らかになってくる。
 土居はあいまいな回答は容赦しなかった。質問を重ねる時の土居の迫力は、まさに真実に迫るための凄まじい気迫に満ち満ちていた。次から次へと続く詰問に、報告者は不意をつかれ立ち往生し、汗びっしょりになった。鋭く盲点をえぐられ、自分の患者であるにもかかわらず度々、答えに窮してしまい、さらに厳しい指摘に晒され、その切れ味の鋭さと自らの不甲斐なさに泣きだす者も少なくなかった。
 こうした数時間に及ぶやりとりの中で、土居による解釈は、その患者が本当に抱えている問題を浮き彫りにしていった。問題がより立体的に説明され、治療の方向性が示されていくのだ。
 事実、参加者の多くは現場に戻ってから、土居の指摘が正しかったことを実感した。土居自身、かつてのアメリカ留学時代に同じようにしごかれ鍛えられ辛酸を舐めた体験があり、それを日本の研究者たちに伝えようと必死だった。まさに「土居道場」とも呼ぶべき研究会は週に一度のペースで開かれ、報告者を替えながら続いた。
 最初はとりあえず参加した石川も、目からうろこが落ちるほどの衝撃を受けたという。何度も報告者として土居の前に立ち、自分の無知が曝け出され、骨の髄まで切り刻まれる思いを味わった。特に石川は、土居からの「それで君は何て言ったの?」という質問に弱かった。当時、石川は患者との面接において、自分自身の言葉などまったく関心を持っていなかったからだ。
 患者の悩みを出発点にして患者の話に耳を傾け、分からないところを聞き直し、患者との対話を深めていく。徐々に信頼関係が気づかれ、お互いに問題点を探りあいながら、ある日、「そうだったのか」という瞬間を共に迎えることができるようになる。土居の教えは、時間をかけてひとりの人間とじっくり向き合っていくことの重要さを説くものであった。
 石川は厳しい研究会での経験を積みながら、これまで迷っていたことに、ひとつずつ答えが出てくるような確かな手ごたえを感じていた。自分が求めていたものに「やっと出会えた」と思った。

【『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子〈ほりかわ・けいこ〉(岩波書店、2013年/講談社文庫、2017年)以下同】

 永山則夫〈ながやま・のりお〉は行きずりの人を次々と4人射殺した連続殺人犯である。犯行当時(1968年)、19歳だった。1997年に死刑執行。享年48歳。石川義博医師は永山の精神鑑定を行った人物である。

資料室「心と社会 No.159」 日本精神衛生会

 鑑定を行ったのが石川で、鑑定されたのは永山である。つまり「封印された鑑定記録」は二人の共同作業であるゆえに、本書の主役もまた石川と永山の二人になる。

 人と人との出会いは化学反応である。眠った精神は欲望に基づいて反応するが、目覚めた精神は知性や情緒を敏感に受信する。迷いや行き詰まりが精神の扉を開く端緒となり、そこに扉の向こう側から光を放つ人が現れるのだ。人間には魂と魂が触れる瞬間がある。それがなければ動物と変わらぬ人生と言われても抗弁できまい。

 堀川と石川の出会いがあり、石川と永山の出会いがあり、石川と土居の出会いがあった。この三重奏から死者となった永山則夫が蘇るのである。堀川もまた永山と出会った。確かに出会った。

 278日間にもわたって石川が精魂を傾けて作成した膨大な鑑定記録は最高裁に無視された。その後、石川は「裁判の精神鑑定は二度としない」ことを誓った。一流のエキスパートによる一流の仕事をまるで存在しないように扱い、政治的な事情を優先して閉鎖システムの内部で物事が決定される。出る杭は打たれる文化の中から実力者が育つことはない。

 石川の苦労は徒労に終わったのだろうか? 決してそうではあるまい。二人の邂逅(かいこう)こそが全てなのだ。魂のふれあいは時を経て連鎖する。根は地中深く張り、太陽に向かって枝を伸ばす。本書はそこに実った果実の一つにすぎない。

 後日談になるが、土居の第一世代の弟子となった石川は、土居が亡くなる2009年まで45年間、「土居ゼミ」に通い、最期まで師事した。

 本書を通して私は石川と確かに出会った。

2021-08-11

売春に罰則があるのは管理売春のみ/『紀州のドン・ファン 美女4000人に30億円を貢いだ男』野崎幸助


 私のお金目当てで原田容疑者は交際していた……。そのように世間が思うのは自由です。それと同様に、彼女は本気で自分と付き合っていたと考えるのも自由なはずです。世の中には財産を目当てに結婚する人がいることも知っています。反対に愛情だけで結婚するカップルもいるでしょうし、ある程度の打算で結婚するカップルもいることでしょう。
 私はそのどれも否定はいたしません。実際問題として私はエッチのお礼に毎回30万から40万円の謝礼を渡しています。それが高価だからと文句を言われる筋合いはありません。これが私の思考回路です。
 これを売春行為だと指摘する方がいるようです。しかし、そうではありません。売春防止法により売春は罪とされていますが、これには罰則規定がありません。それは、あまりにもグレーな範疇(はんちゅう)であるからです。ホステスに高価なプレゼントをして、その結果、エッチまで行ったとします。これは売春と言えるでしょうか。また、二人で高価な食事をし、(男からでも、女からでも)ブランド物のバッグをプレゼントしてエッチするカップルもいます。それを売春とは言いません。
 売春に罰則があるのは管理売春という罪でして、これは生業(なりわい)として女性を管理、ピンハネをして性行為をさせるというものです。
 私の場合、金銭がモロに出ているので品がないと思う方もいるでしょうが、正直にエッチをしたいから、その対価としてお金を渡しているわけです。高価なプレゼントを渡しても、それを後で換金する女性もいます。むしろ私のほうがよほどストレートで素直です。それに、決して嫌がる女性と無理やりエッチをしているわけではありません。

【『紀州のドン・ファン 美女4000人に30億円を貢いだ男』野崎幸助(講談社+α文庫、2016年)以下同】

 何となく手に取ったのだが面白くて一気読みした。「善人は殺される」との印象を抱いたが実のところはそうでもなさそうだ。ゴーストライターがいるようなのでそこそこ脚色が施されているのだろう。

 もう随分前になるが「結婚も売春である」と主張する人物のメーリングリストがあった。要は経済行為という捉え方なのだろう。資本主義社会においてマネーは狩猟の得点と化す。経済的な余裕は子孫を残す目的に有利に働く。学歴や家柄なども同様で、一切は生存競争という観点から計算される。

「飲む・打つ・買う」という言葉があります。
 私は酒はビールを少々だけで、オッパイは吸いますけれどタバコは吸いません。

 かような茶目っ気が随所に出てくる。

 また、訴訟相手の弁護士と裏で通じて依頼者を丸め込もうとする弁護士も少なくありません。たとえば1000万円の損害賠償請求裁判の場合、500万を落としどころにして裏金を向こうから勝手に取って和解してしまうことがあるのです。
 本来なら顧客である依頼者の意向に沿って、最後まで争うのか、それとも和解に持ち込むのか決めるのが弁護士の仕事です。にもかかわらず、なんだかんだと理屈をこねて自分のやりたい方向に引っ張っていく弁護士のいかに多いことか。

弁護士を信用するな/『証拠調査士は見た! すぐ隣にいる悪辣非道な面々』平塚俊樹

 軽いビジネス書として読むのがいいだろう。コンドームの訪問販売から金貸し業に転じる件(くだり)も若い人には参考になるだろう。

2020-06-04

警視庁無線交信記録 - 東京地下鉄サリン事件


 ・警視庁無線交信記録 - 東京地下鉄サリン事件

地下鉄サリン事件と住友林業

 事件発生から1時間20分の記録だが凄まじい緊迫感に包まれている。「G事案」(ゲリラ〈テロ〉事案)であることも実に早い段階で推定されていて警視庁の優秀さが窺える。私の友人が茅場町付近を通り、現場の混乱した様子を語っていたことをよく覚えている。地下鉄サリン事件(1995年)は死者14名、負傷者6300名に及ぶ日本最大のテロ事件となった。

警視庁通話コード・隠語・略語、及び組織や通信システムに関する解説

2020-05-29

岐阜ホームレス殺人 朝日大野球部部員らに少年法に捉われない実名報道と厳罰を求める署名


岐阜ホームレス殺人 朝日大野球部部員らに少年法に捉われない実名報道と厳罰を求める署名 · Change.org




















2019-06-26

『チャイルド44』のノンフィクション版/『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン


『チャイルド44』トム・ロブ・スミス

 ・『チャイルド44』のノンフィクション版

『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』ジョージ・ジョナス

 2周間後、ブハノフスキーはブラコフのために7ページにわたるレポートを書き上げた。レポートのなかでブハノフスキーは、捜査員たちが捜査の拠(よ)りどころとしている仮説を徹底的に批判した。この事件は、性的な人格異常が原因と考えてほぼまちがいない、と彼は断言した。犯人は、他人に苦痛を味わわせることによってのみ性的な満足をおぼえるサディストである。精神医学の文献にも、ナイフや針を使って他人に浅い傷を負わせることに快感を見いだすサディストの例が載っている――ブハノフスキーはそうつづけた。
 犯人は強い強迫観念に悩まされている。犯人の胸に殺人の衝動がいったん生じたら、ちょうど飢えた人間が食べ物を食べずにはいられず、渇きに苦しむ人間が水を飲まずにはいられないように、だれかを殺さずにはいられなくなるのだ。犯人は獲物を見つけ出すために計画を練り、そしてその計画に従って行動することができる。たとえそれが、いかに複雑で微妙な計画であっても。しかし、殺人によって開放感を得た場合をのぞき、犯人は鬱屈と苛立ちに悩まされる。頭痛や不眠症にも苦しんでいるかもしれない。月の満ち欠けや天候といった周期的な事象が、犯人の殺人衝動の引き金となっている可能性もある。

【『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン:広瀬順弘〈ひろせ・まさひろ〉訳(早川書房、1993年/ハヤカワ文庫、2009年)以下同】

 読書は次のタイプに分かれる。1.読みたい本、2.資料、3.参考書、4.類書である。テーマを決め、腰を据えて20~30冊ほど読み込めばどんな分野でも輪郭程度はつかめる。ま、ハズレをつかむことも多いのだが、修行を積むとハズレの見極めが早くなる。このようにして読書の枝は分かれ、2~4の本を読むことが増えるわけだが、決して楽しい読書体験とはいえない。それでも珠玉のような一冊と巡り合うためには長い道のりを歩くことが必要なのだ。

 本書は類書である。『チャイルド44』に描かれた事件のノンフィクションである。1978年から1990年にかけて52人もの人々を殺害した連続殺人犯を追う物語だ。

 文章は硬質で飾り気がなく、骨太のノンフィクションとなっている。何となくジョージ・ジョナス著『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』と作風が似ている。

 猟奇殺人を犯すサイコキラーを理解しようとすれば精神の平衡を失う。異常な事実を見極めればいいのであって、そこから先へ進んでしまうと自分も闇に飲み込まれてしまう。犯罪をおかさずに済んだ可能性も考慮する必要はない。なぜなら犯行は本人が選択した結果なのだから。

 かつて進歩的文化人が礼賛したソ連の実態が見事に描かれているので教科書本とした。社会主義は進歩ではなく退化であることがよくわかる。いまだに赤い旗を掲げている人々の気が知れない。

「おれが? 証言台に立たせろ! 弁護士を呼べ!」チカチーロはアクブジャノフの説明を聞くと絶叫した。「おれは何も告白しなかったぞ! 死体があるんなら見せてみろ!」と、チカチーロは檻の鉄棒に頭を押しつけて叫んだが、兵士たちにまた地下に連れていかれた。
 傍聴席では血の復讐を求める声が渦巻いた。「あいつを犬っころのように切り裂いておくれ」と、アレクセイ・ホボトフの母リージャ・ホボトヴァが言った。「うちの息子のように、これ以上ないというくらい恐ろしい死に方をすればいいんだ」
「この手であいつをバラバラにさせて!」と、別の女性が叫んだ。

 この件(くだり)は動画があるので一番下に貼り付けておく。銃殺では死者が浮かばれないことだろう。

子供たちは森に消えた (ハヤカワ文庫NF)
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撫で肩の男―ロシアの殺人鬼を追って
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ロシアの死神(レッド・リッパー) (ノンフィクション・ミステリー・シリーズ)
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ロシア52人虐殺犯 チカチーロ [DVD]
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2019-01-21

日本近代史にピリオドを打った三島の自決/『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介


『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫
『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・日本近代史にピリオドを打った三島の自決

『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

必読書リスト その四

 三島から徳岡への手紙は、彼の判断で全文が「サンデー毎日」に掲載され、さらに徳岡の著書『五衰の人』にも引用されている。

前略
いきなり要用のみ申上げます。
御多用中をかへりみずお出でいただいたのは、決して自己宣伝のためではありません。事柄が自衛隊内部で起るため、もみ消しをされ、小生らの真意が伝はらぬのを怖れてであります。しかも寸前まで、いかなる邪魔が入るか、成否不明でありますので、もし邪魔が入つて、小生が何事もなく帰つて来た場合、小生の意図のみ報道関係に伝はつたら、大変なことになりますので、特に私的なお願ひとして、御厚意に甘えたわけであります。
小生の意図は同封の檄に尽されてをります。この檄は同時に演説要旨ですが、それがいかなる方法に於て行はれるかは、まだこの時点に於て申上げることはできません。
何らかの変化が起るまで、このまま、市ヶ谷会館ロビーで御待機下さることが最も安全であります。決して自衛隊内部へお問合せなどなさらぬやうお願ひいたします。
 市ヶ谷会館三階には、何も知らぬ楯の会会員たちが、例会のために集つてをります。この連中が警察か自衛隊の手によつて、移動を命ぜられるときが、変化の起つた兆であります。そのとき、腕章をつけられ、偶然居合わせたやうにして、同時に駐屯地内にお入りになれば、全貌を察知されると思ひます。市ヶ谷会館屋上から望見されたら、何か変化がつかめるかもしれません。しかし事件はどのみち、小事件にすぎません。あくまで小生らの個人プレイにすぎませんから、その点御承知置き下さい。
 同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく存じます。
 事件の経過は予定では二時間であります。しかしいかなる蹉跌が起るかしれず、予断を許しません。傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものだることを、御理解いただきたく思ひます。
 万々一、思ひもかけぬ事前の蹉跌により、一切を中止して、小生が市ヶ谷会館へ帰つて来るとすれば、それはおそらく、十一時四十分頃まででありませう。もしその節は、この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切をお忘れいただくことを、虫の好いお願ひ乍らお願ひ申上げます。
 なほ事件一切の終了まで、小生の家庭へは、直接御連絡下さらぬやう、お願ひいたします。
 ただひたすら一方的なお願ひのみで、恐縮のいたりであります。御厚誼におすがりすばかりであります。願ふはひたすら小生らの真意が正しく世間に伝はることであります。
 御迷惑をおかけしたことを深くお詫びすると共に、バンコク以来の格別のご友誼に感謝を捧げます。怱々

十一月二十五日                   三島由紀夫
徳岡孝夫様
二伸 なお同文の手紙を差し上げたのは他にNHK伊達宗克氏のみであります。


【『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介〈なかがわ・ゆうすけ〉(幻冬舎新書、2010年)以下同】

 字下げがあったりなかったりするのもテキスト通りである。三島の原文を忠実に再現したものか。

 三島は自分が何をするのかを伏せた上で、徳岡にカメラと腕章を持ってくるよう伝えた。計画は用意周到であり細心の注意が払われていた。三島は自らの決起が自衛隊を動かすとは考えていなかった。時期尚早というよりも三島自身が戦後日本に見切りをつけてしまったのだろう。彼は自分の死と引き換えにメッセージを残した。嘘偽りのない誠を示すために切腹までしてみせた。その凄絶な死から50年を迎えるのが明年である。

 120人に及ぶ証言や記録を収録している。荒井由実や丸山健二まで出てきて驚いた。因(ちな)みに丸山の反応は実に底の浅いもので、後々アナーキズムを礼賛するようになる萌芽を見る思いがした。折に触れて三島を批判したのも三島の丸山評が本質を衝いていたためだろう。

 その日、永山則夫〈ながやま・のりお〉は「日本人民を覚醒させる目的で以(もっ)て、天皇一家をテロルで抹殺しろ!」と東京地裁の法廷で叫んだ。永山は審理中に左翼理論を学び、徹底して無罪を訴える。4人もの人々を射殺した犯罪者が生き永らえて、天皇中心の日本を再建しようとした三島が死ぬ不思議に思いを致さざるを得ない。

 後に後藤田は、「何とも気持ちのわるい事件だった。思い出すのも厭だ」という印象を語る。

 後藤田正晴はわかりにくい政治家である。「河野洋平を非常に可愛がり、与党の対中外交に影響を与えた。また、『つくる会』の新しい歴史教科書(扶桑社発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった」(Wikipedia)。高度経済成長の中で政策が社会主義化した自民党を体現する人物なのかもしれない。アメリカの戦争で日本が発展するというぬるま湯に浸かりすぎたのだろう。現実は見えていても将来を見通すことのなかった政治家であるように感じる。

「サンデー毎日」の徳岡孝夫は三島の演説をしっかり聞いた。「声は、張りも抑揚もある大音声で、実によく聞こえた」と彼は回想する。この演説については、ヘリの音がうるさく聞こえなかった、三島はハンドマイクの用意をするべきだったとの批判や揶揄が後にされるが、徳岡はそれを否定する。徳岡が演説内容をメモできたということは、聞こえたということだ。さらに徳岡には垂れ幕に書かれた要求書の文言を書き移(ママ)す余裕と、そのうえさらに感想を持つ時間的余裕があった。事件直後の「サンデー毎日」に徳岡はこう書く。
《三島のボディービルや剣道は、このためだったんだな、と私は直感した。最後の瞬間にそなえて、彼はノドの力を含む全身の体力を、あらかじめ鍛えぬいておいたのだ。畢生の雄叫びをあげるときに、マイクやスピーカーなどという西洋文明の発明品を使うことを三島は拒否した。》

 参集した自衛官は群衆と化した。野次を飛ばした連中はその事実すら覚えていないことだろう。そこに群衆・大衆の無責任がある。三島が命懸けで発した言葉を彼らは嘲笑した。戦争から遠ざかり、軍隊の名にも値しない自衛隊もまた政治家同様、敗戦の屈辱を忘失していた。






 私は東亜百年戦争にピリオドを打ったのが三島の自決であったと考える。三島由紀夫の存在は時を経るごとに大きな影を残してゆくに違いない。鍛え上げた腹筋に突き立てた短刀に込められた力を想う。ただ想う。ただ想え。

2018-10-17

日米安保条約と吉田茂の思惑/『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行


『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行
『ほんとに、彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行
『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
『私を通りすぎた政治家たち』佐々淳行
『私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行
『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行

 ・日米安保条約と吉田茂の思惑

 思わず語気を強めて詰め寄った。
「憲法改正して再軍備をするのだと、そうおっしゃっていたじゃないですか。今後自衛隊をどうなさるおつもりですか」
「今は経済再建が第一である。経済力が復活しなくて再軍備などあり得ない。経済力がつくまで、日米安保条約によってアメリカに守ってもらうのだ」
 明確な返答には説得力があった。
 たしかに現在の経済力では、実効性のある自衛軍などとても持てない。経済は平和が確保できてこそ発展することは論を俟(ま)たない。冷静に国際情勢を考慮し、経済力に思いを至らせながら判断すると、平和の確保にはアメリカの力を借りるほかはないと理解できた。
 安保条約には反対していたわれわれは、「経済力がついたら憲法改正して自衛軍にするのだ。それまでの間は身を潜めていなくてはいかん」という吉田氏の言葉に納得して、安保条約支持派になったのだった。

【『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(SB新書、2016年)】

 伊藤隆に請われて佐々が90冊の手帳を国会図書館の憲政資料室に寄贈した。その佐々メモが元になっている。上記テキストは確か大学生の佐々が吉田茂と面会した時のやり取りである。

 吉田茂は二枚腰ともいえる粘り強い外交でマッカーサーを翻弄した。外部要因としては朝鮮特需(1950-55年)があったわけだが高度経済成長への先鞭(せんべん)をつけたのは吉田茂である。ところが自主憲法制定を党の綱領に謳った自民党は経済成長を遂げても憲法に手をつけようとはしなかった。タイミングとしては「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」(1953年/昭和28年)あたりでもよかったように思うが経済的にはまだまだ脆弱だった。日米安保が結ばれたのが1951年(昭和26年)のこと(発効は翌年)。そうすると学生運動の嵐が過ぎた頃からバブル景気の前くらいの時期で憲法改正するのが筋だろう。

 本来であれば憲法改正をする時に自民党は不祥事で揺れ続けた。その結果対米依存を強める羽目となり、大蔵省や郵便局の解体をアメリカの言いなりで行った。憲法改正を掲げて安倍晋三が登場したものの、敗戦から70年以上を経て国民の平和ボケは行き着くところまで行き着いた感がある。

 たとえ憲法が改正されなくとも戦争は起こる。既に中国が仕掛けてきているのだから時間の問題だ。その時に国民が目を覚ますのか、あるいは寝たフリをするのかが見ものである。



憲法9条に対する吉田茂の変節/『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温

2017-09-10

冤罪に陥れられながらも決して翻弄されることがなかった男の手記/『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行


 ・冤罪に陥れられながらも決して翻弄されることがなかった男の手記

『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 私はこれまで、自分が生きてきた足跡というのは、日々、歩きながら消すものだと思ってきた。足跡を消しながら、また消しながら、最後に死ぬとき、ふっと地上から消えてなくなるのがいい。他人が気がついた時には、もう私はいなくなっていて、「そういえば河野という人間がいたな」というぐらい存在感のない、そういう生き方が好きだった。あらゆる意味で、名前はこの世に残したくなかった。
 それが私のささやかな人生観であり、無常ということばに心を惹かれるところがあった。
 しかし、そうした生き方は全てひっくり返されることになる。前年の松本サリン事件で妻澄子が重症を負ったばかりでなく、警察から私は犯人の扱いを受け、私の44年間の人生はこれ以上洗うものがないくらい徹底的に調べあげられた。私や妻の実家、子供たちはもちろんのこと、友人、知人、会社関係、およそ私たち家族に関係がありそうな膨大な人たちに警察は聞き込みに回り、予断を込めた質問が投げかけられ、あらゆることを調べていった。
 その意味で、私は丸裸になった。
 これまで私は一人の平凡な市民として生きてきた。それが突然、思いもよらない事件に巻き込まれてサリン被害を受け、なおかつ7人を死亡させた殺人犯の汚名を着せられ、プライバシーは跡形もなく踏みにじられた。

【『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行〈こうの・よしゆき〉(文藝春秋、1995年/文春文庫、2001年)】

 本書が1995年、そして『彩花へ――』が1997年に刊行された。失われた10年で日本が経済的に沈滞する中で2冊の本は眩しいほどの光を放った。「市井(しせい)にこれほどの人物がいるのか」と感嘆したことをありありと覚えている。「まだまだ日本も捨てたもんじゃないな」と希望が湧いた。その後、河野の講演会にも足を運んだが、著書から受けた印象そのままの好人物であった。

 バブル景気という狂宴を経てマスコミは災害や猟奇事件を延々と報じるようになった。そしてインターネットが登場すると特定の人物をバッシングする傾向が顕著となる。マスコミは常に虎視眈々と獲物を求めた。その最初にして最大の犠牲者が河野義行であった。

 時に不条理が人生を襲う場合がある。私は若い頃から「極限状況における人間の振る舞い」に関心を寄せてきたが、その意味から申せば上記関連書と併せて読むのが望ましい。

 貧しい想像力を働かせて「もしも自分だったら」と考えてみよう。私なら確実に犯罪的な暴挙に出る。躊躇(ためら)うことなく松本警察署の署長と目ぼしい新聞記者を手に掛けることだろう。だが河野は道徳心を失わなかった。終始、水の如く淡々と振る舞った。夫人が意識不明の重体であるにもかかわらず。

 検察・警察とマスコミを罰する法制度を整備すべきだろう。取り調べの可視化も必要だ。河野は文字通り社会的に抹殺されたわけだから、実際にミスを犯した者と責任者には懲役10年程度が相応(ふさわ)しい。刑事罰がないため彼らは同じ過ちを何度でも繰り返しながら平然としている。

 冤罪(えんざい)に陥れられながらも決して翻弄されることがなかった男の手記である。

2017-05-24

「感謝の心、忘れずに」=手記で彩花さん母-神戸連続児童殺傷事件


『淳』土師守
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
加害男性、山下さんへ5通目の手紙 神戸連続児童殺傷事件
神戸・小学生連続殺傷事件:彩花さんの母・山下京子さん手記全文「どんな困難に遭っても、心の財だけは絶対に壊されない」
元少年A(酒鬼薔薇聖斗)著『絶歌』を巡って

 ・「感謝の心、忘れずに」=手記で彩花さん母-神戸連続児童殺傷事件

 山下彩花さんの命日を前に、母京子さんは時事通信社に手記を寄せた。全文は以下の通り。(表記は原文のまま)

 彩花が10歳でこの世を去って20年。彩花が生きた時間の倍の歳月が流れました。どれほどの時間が流れようとも姿は見えなくとも彩花の存在が薄れることはなく、私たちの中にしっかりと根を下ろしています。
 当時は、悲しみと絶望感に押しつぶされそうな毎日で、明日のことさえ考えられませんでした。そんな私たちに寄り添い、励まし支えてくださったたくさんの真心のおかげで今日まで日々を重ねることができました。毎年、3月23日は感謝の思いを確認する日でもあります。
 神戸の事件以降、少年法が改正され犯罪被害者等支援条例が制定される自治体も増えてきました。また教育現場や地域でも子どもを守り育てるという意識が大きく変わったように思います。しかしながら、残虐で短絡的な殺人やいじめによる自殺、虐待など子どもを取り巻く事件は後を絶ちません。悲劇が繰り返されるたびに心が痛くなるのは私だけではないでしょう。
 このような日本社会になってしまった理由には、自分さえよければいいという利己主義とお金やモノを多く所有することが幸せと感じる物質至上主義があるように思います。そういった刹那(せつな)的な幸福感はゆがんだ嫉妬心や孤独感を生み出します。事件の火種は全てこの思想にあると言っても過言ではありません。では何が必要なのでしょうか。それは、物質とは対極にある目に見えないものに価値があると認識することと利他の精神だと強く感じています。
 それを子どもたちに教えるには、大人が自ら人のために心を尽くし、人の役に立てる喜びを言葉だけではなく姿を通して伝えるしかありません。どんな状況にあっても誰も皆その人にしかできないお役目が必ずあるのです。そして、自分が生かされている現実や、周りの人に「ありがとう。おかげさまで」と感謝する心を忘れないことです。遠回りのようですが、こういった小さな積み重ねが命を大切にする思いにつながっていくのではないでしょうか。
 私たち家族が20年をかけて学んだのは、「試練の中でこそ魂が磨かれ、人の幸せを願う深みのある優しさと、倒れても立ち上がろうとする真の強さが育まれる」ということです。家族の絆もさらに強くなりました。それらは決してお金で買うことができない宝物であり、彩花が命をかけて教えてくれたことに他なりません。これからも、体験し学んだことを丁寧に社会にお返ししていくことが、私たちの役目だと確信しています。

【時事通信 2017年3月23日】

狙われた弱者/『淳』土師守


 ・狙われた弱者

『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
加害男性、山下さんへ5通目の手紙 神戸連続児童殺傷事件
神戸・小学生連続殺傷事件:彩花さんの母・山下京子さん手記全文「どんな困難に遭っても、心の財だけは絶対に壊されない」
元少年A(酒鬼薔薇聖斗)著『絶歌』を巡って
『心にナイフをしのばせて』奥野修司
大阪産業大学付属高校同級生殺害事件
「感謝の心、忘れずに」=手記で彩花さん母-神戸連続児童殺傷事件

 わが家にとっていつもと変わらぬ土曜日の午後でした。
「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」
 ソファーのうしろの6畳間から淳の声が聞こえました。いつの間にか居間のうしろの部屋でジグソーパズルを始めていたようです。
「寒いから、ジャンパー着ていきなさい」
 この日は比較的肌寒い日で、妻はいつも淳が着ているウィンドブレーカーを着ていくよう、声をかけました。
 まもなくバタンとドアの閉まる音がして、淳は家を出ていきました。
 私たち家族は、この時、誰も淳の姿を見てはいませんでした。
 これが、私たち家族と淳との永遠の別れになってしまいました。

【『淳』土師守〈はせ・まもる〉(新潮社、1998年/新潮文庫、2002年)】

 著者は酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件/1997年)で殺害された土師淳〈はせ・じゅん〉君(享年11歳)の父親である。もう一人の犠牲者・山下彩花ちゃん(享年10歳)の母親京子さんが1997年12月に手記を発表している。子供を持つ全ての親御さんに読んでもらいたい。

 土師守さんは医師だ。その珍しい苗字で著書を刊行することにはプライバシーを犠牲にする覚悟が必要であった。努めて冷静に書かれた文章の行間に悲しみが立ち込めている。

「いったい、あのAさんという人は何んやのん? みんなが心配して淳を捜しにいっているというのに、その家の留守番をしながら、たまごっちをふたつも持ち込んでたんよ」
「それを一生懸命に面倒みて、その上、口を利けば自分のとこの子供の自慢話ばっかりして、何んていう人や。あんまり腹が立ったから、姉の私がきましたから、もう結構ですというて、すぐに帰ってもらったわ」
 と姉は怒っていました。

 淳君が行方不明となりPTAや近隣の人々が駆けつけ、皆で捜索する。土師宅の留守番も入れ替わりで行われた。その時のエピソードである。このAさんが実は酒鬼薔薇の母親であった。他にも何度か登場するが明らかに非常識で社会性を欠いた振る舞いが目立つ。加害者の親については山下さんもその不誠実ぶりに苦言を呈している。

 遺体が発見され土師夫妻は須磨警察署に向かった。

 間もなく五十がらみの刑事さんが入ってきて、静かに私たちの前に座りました。
「淳が見つかったんですか」
 私は、刑事さんが口を開く前に、尋ねました。
 その人は、黙ってうなずきました。私が、
「どんな状態だったんですか?」
 とさらに聞くと、刑事さんは、自分の首を指さしながら、
「首から上が見つかりました」
 と、ひとこといいました。
 首から上? 一瞬にして少なくとも、淳がまともな状態にないということが頭を駆けめぐりました。
「ひどい! 怖い!」
「こんなところイヤ!」
 私より妻が先に叫びました。号泣。
 それから、ただ、妻は号泣しました。
 私は、言葉を発することもできませんでした。

 しかも後に判明することだが淳君の生首は中学の正門に置かれ、口は耳まで切り裂かれていた。そして口の中には「酒鬼薔薇聖斗」なる名前で犯行声明文が挟まれていた。


 淳君には知的発達障碍があった。以前、少年Aからいじめを受けていた。Aは「殺したい欲望」を自分より弱い者に向けた。淳君の死因は絞殺であるがあっさりと死んだわけではなかった。

第三の事件

 少年法の一番の問題は「『罪を犯したらそれに相応する罰が加えられる』という応報概念が現行法には全く見られない」(少年法に関する基礎知識)点にある。法の目的は社会秩序の維持にある。チンパンジーの群れは20~100頭(チンパンジーについて)でルールを破った者はその場で殺される。人類は近代以降、魔女狩りなどを経て私刑を禁じた。数千万人から数億人単位の国家というコミュニティを形成したヒトは法律に則って暮らすこととなる。

 異常者は法律を軽々と超え、コミュニティを崩壊する。社会から隔離するのは当然であり、日本国民の80%以上は死刑もやむなしと考えている。これに対して左翼系弁護士は声高に人権を唱え、反対運動を展開してきた。古くは永山則夫連続射殺事件(1968年)が知られる。酒鬼薔薇事件でも彼らは少年Aを擁護した。

 私は少年Aに生きる資格はないと考える。もしも私が彼の親であれば迷うことなく自分の手で始末をつけるだろう。

 事件から20年が経過した。

【神戸連続児童殺傷20年】「生きている限り、償い…」加害男性の両親、連絡取っているが会ってない 書面で心境

 神戸市須磨区で平成9年に起きた連続児童殺傷事件で、小学6年だった土師(はせ)淳君=当時(11)=が殺害されてから24日で20年となるのを前に、加害男性(34)の両親が代理人の弁護士を通じ、報道各社に文書で現在の心境などを明らかにした。男性とは連絡を取り合っているが直接会ってはいないとみられ、「生活状況は分からない」という。遺族や被害者に対しては謝罪の言葉を繰り返し、将来的に男性から事件の真相を聞き取って遺族らに伝えたいとの希望も明かした。
 両親はこの20年を振り返り、「被害者遺族の方々には大変申し訳なく思っています。年月が流れるにつれ、怒り、悲しみ、憎悪は増していると思います」と改めて謝罪。「生きている限り、ご冥福を祈りながら償いをさせていただきたい」とした。
 男性とはたまに連絡を取り合っているが、生活状況については話してもらえないといい、「(男性が)心配をかけないようにしているのではないか」との見方を示した。会うことはできていないとみられ、「長い時間がかかると思いますが、少しずつ色々な話をしていきたい。本人自身が私たちに会いたいと思う気持ちになるまで待ち続けたい」とした。
 さらに、男性が平成27年6月に手記「絶歌」を出版したことについては「順序を間違えている」とする一方、「少年院を退院してからの様子など一部が分かった」と言及。「(男性から)まだ何も聞けていないという思いがある」と明かし、「何とか会って『絶歌』を出したことや事件の真相について聞きたい。それがかなえば、ご遺族にもお伝えしたいと考えております」とした。

【産経WEST 2017年5月23日】

 二人の児童を殺意満々で殺しても14歳というだけで死刑を免れるのが腑に落ちない。更生の可能性を考慮するのもおかしな話だ。飽くまでも犯した罪を見つめるのが筋ではないのか。

 脳が「なぜ?」という物語(因果)から自由になることはない。本当は幸福も不幸も幻想なのだろう。仏教では殺人といえばアングリマーラのエピソードが必ず引き合いに出されるが、サンガと国家を同列に論じることはできない。

 その後、佐世保小6女児同級生殺害事件(2004年)、佐世保女子高生殺害事件(2014年)などが起こっている。定期的に心理テストなどを行い、異常性を早期発見する手立てが必要ではないか。

2016-07-30

自殺念慮/『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史


『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎
『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳

 ・自殺念慮

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍

 自分は1984年4月に小学校に入学し、無茶苦茶にいじめられました。両親に訴えましたが、基本的に放置されました。担任教師も同様でした。自分はいじめから逃れる術(すべ)はないと思い、そして「終わりにしたい」と常に願うようになりました。それ以来、頭から自殺念慮が消えたことはありません。
 2010年の秋頃から自分の自殺念慮は急激に強くなり始めました。自分が抱えた虚しさにいよいよ堪えられなくなり始めたからです。嘘の設定が精神安定剤として効かなくなり始めていました。この虚しさは、例えば事件や事故や災害で息子を亡くした母親が「息子を亡くしてから何をしても面白いとも楽しいとも感じられない。とにかく虚しさばかりが募る」と語る時の虚しさと非常によく似ています。娯楽でやり過ごせる虚しさではありません。むしろ周囲が楽しんでいる中で孤立感を覚えてより悪化するタイプの虚しさです。

【『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史〈わたなべ・ひろふみ〉(創出版、2014年)】

 精神科医の香山リカが拘留中の渡邊に『子ども虐待という第四の発達障害』と『消えたい』の2冊を差し入れており、本書で鋭い考察が述べられている。渡邊は高橋本を読むことで秋葉原無差別殺傷事件の加藤被告の動機まで理解できたと語る。マスコミの取材を拒否し、自著以外ではコメントを発してこなかった加藤が、何と渡邊の意見陳述に関する見解を篠田博之(月刊『創』編集長)宛てに送ってきた。

「秋葉原事件」加藤智大被告が「黒子のバスケ」脅迫事件に見解表明!

 渡邊は学校ばかりでなく塾でもいじめに遭ったという。具体的なことは書かれていないが死を思うほど苛酷なものであった。私は自殺念慮という言葉を始めて知った。願望ではなく念慮としたところに貼りついて離れない思いが読み取れる。

 ここで見逃すことができないのは「両親が放置した」事実である。渡邊は自覚していないが両親による虐待があった可能性が高い。

 幼い頃からゴミ扱いされてきた男が自殺念慮を跳ねのけるべく社会に復讐をしようと決意する。計画は緻密で行動は精力的だった。邪悪ではあったがそこには生の輝きがあった。渡邊の目的はイベント中止であり、誰かを死傷することではなかった。

 闇を見つめてきた男の筆致は飄々としたユーモアに満ちて軽やかだ。何よりもそのことに驚かされる。渡邊が抱えてきた矛盾は多くの犯罪を防ぐ確かな鍵となるような気がする。

 お笑い芸人が芥川賞を受賞する時代である。犯罪者に直木賞を与えてもよかろう。それほどの衝撃があった。

2015-02-13

女子高生北海道南幌町祖母・母殺害事件は正当防衛


家裁調査官も認めた「壮絶な虐待」。祖母・母殺害の少女が入る医療少年院とは - NAVER まとめ
生ゴミを食べさせられ…祖母・母殺害事件で分ってきた虐待の連鎖【女子高生北海道南幌町祖母・母殺害】 - NAVER まとめ

 どう考えても正当防衛である。過剰防衛ですらない。彼女は殺される寸前であったのだろう。彼女を医療少年院送りにする法律はあまりにも無力である。かような裁判システムが虐待やいじめを支えているのだろう。連中は正義を歪めている自覚すらないに違いない。


【追記 2月15日】もっと具体的に述べよう。進化論的に見れば彼女は文字通り「適応」したのである。彼女に暴力を教えたのは祖母と母であった。彼女は学んだ。そして実行した。ただそれだけのことだ。「事件は防げなかったのか」(朝日新聞デジタル 2015年2月9日21時41分:花野雄太、光墨祥吾)などと記す連中は馬鹿丸出しである。お前たちも同じ目に遭ってみるがいい。二人の記者がどれほど心を痛めたとしても、結局のところ他人事に過ぎない。

大阪産業大学付属高校同級生殺害事件

2014-04-29

警察庁長官狙撃事件はオウム真理教によるテロではなかった/『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介


 引き鉄はしなやかだった。大きな鉄板を高所から落したような凄まじい轟音が鳴り響いた。
 その瞬間、国松孝次・警察庁長官(当時=以下、特別のこだわりがないかぎり、肩書きはその当時のもの)は前のめりに突っ伏すように押し倒された。秘書官や地下にいた私服の警備要員は何事が起こったのか分からず、呆然とするよりほかない。続いて2発目の銃声がとどろき、國末の肉体が軋んだ。濡れた路面に、血に滲んだ雨水が広がっていく。
 狙撃――。秘書官は反射的に国松の体に覆いかぶさった。この身を挺した行為に、しかし狙撃者はまったく動揺を示さなかった。1発目、2発目と等間隔で放たれた第3弾は、秘書官が覆いきれず、わずかに露出していた国松の右大腿部の最上部を正確に射抜いたのである。
 秘書官は斃れた姿勢で国松の体を抱え込むと、そのまま傍らの植え込みの陰に引きずるように運び込んだ。狙撃者は、人間の盾に守られた国松に4発目の銃弾を撃ち込むことはしなかった。
 かわりに、視界の左端から駆け込んできた警備要員の鼻先ぎりぎりをかすめるように、追跡をひるませるための威嚇射撃を敢行。そして足元においていたスポーツバッグを拾い上げ、すぐ近くに立てかけてあった自転車に飛び乗った。バッグの中に入っていたのはKG-9短機関銃。多勢の敵と銃撃戦になった場合の非常時に備え、念のため装備していたのものだ。
 しかし、そんなものはまったく必要なかった。男は猛然と自転車をこいで、アクロシティの敷地をL字型に横断。公道に出ると、そのまま視界の彼方に消え去った。

【『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介〈かしま・けいすけ〉(新潮社、2010年/新潮文庫、2012年)】

 警察庁長官狙撃事件を追ったルポである。文章に独特のキレがあり迫力を生んでいる。

 事件が起こったのは1995年のこと。2010年に公訴時効となった時、警視庁公安部長が記者会見を開き「オウム真理教の信者による組織的なテロである」とぶち上げた。組織的なテロ活動を行っていたのはむしろ公安であった。彼らはオウム真理教を犯人に仕立てようとして失敗した。

 本書の表紙を堂々と飾っているのが真犯人と目される人物だ。男の名を中村泰〈なかむら・ひろし〉という。彼は「特別義勇隊」を名乗った。右翼思想を有する武装集団である。彼は東大を中退したスナイパーであった。

 時折、文筆業者にありがちな軽薄な決めつけが見受けられるところが難点。

警察庁長官を撃った男 (新潮文庫)

ヒートの情報倉庫:中村泰

2014-03-27

袴田事件の取り調べ・拷問


 袴田への取り調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等(など)した。
 睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2~3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3~4人だったのが後に10人近くになっている。
 これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄〈くればやし・あさお〉警部人脈の関与があったとされている。

Wikipedia

宣告の果て ~確定死刑囚 袴田巌の38年~
袴田事件
袴田事件のあらまし【PDF】
日本:袴田事件 - ただちに再審を開始せよ : アムネスティ日本
袴田(はかまだ)事件
袴田ネット



はけないズボンで死刑判決―検証・袴田事件 (GENJINブックレット (37))主よ、いつまでですか美談の男―冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密裁かれるのは我なり―袴田事件主任裁判官三十九年目の真実

2012-07-07

大阪産業大学付属高校同級生殺害事件


 ・大阪産業大学付属高校同級生殺害事件

『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男

Wikipediaから削除されていたので以前のテキストを全文コピーしておく。

 大阪産業大学高等学校同級生殺害事件(おおさかさんぎょうだいがくこうとうがっこうどうきゅうせいさつがいじけん)とは、1984年(昭和59年)11月1日に大阪府大阪市で発生したいじめ報復殺人事件である。

◆事件の背景

 この事件では、大阪産業大学高等学校(当時。現大阪産業大学附属中学校・高等学校)に通っていた2人のいじめ被害者が、殺人事件の加害者となった。彼らは被害者がリーダーになっているグループの一員であったが、被害者が柔道部を6月下旬に退部した後7月からいじめが始まった。のちに事件の加害者となった生徒らは、いじめ被害を数人の教師に相談したが、教師からは取り合ってもらえなかった。彼らは休み時間や昼休みに教師の目の届かない所でしばしば殴られていた。

 また、授業中・昼休み時間中・放課後には人前で強制的に自慰を強要し、応じない場合は殴りつけ、さらに「5回まわれ」や「シンボルを持ってやれ」などと言い、嫌々自慰をする2人を見ては笑っていた(和田秀樹はマスターベーション行為を挙げた上で「恥の体験の自己愛憤怒」があったのではないかと解釈している)。さらに、いじめ被害者の一人は顔をベルトで殴られ無理に休まさせられ性玩具を買ってくるよう強要され、パシリにされた。最終的に自慰行為は無理矢理教室内で(若い女性教諭のいる前で)陰茎を露出させ回されるところまでエスカレートした。

 また、吸えない煙草を無理矢理吸わされたり、ビールなどの酒を無理矢理飲まされたりしていた。被害者は授業中のノートをほとんど2人に取らせ、教室を移動するときは、自分の教科書等は2人に持たせていた。顔に絵具を塗られたり、力のある別の2人を殴るよう強要されたりもしていた。10月26日には、加害者2人に対する暴力の一角が発覚し、被害者は加害者らを含む5人で担任と柔道部顧問を襲撃する計画を立てていた。

 このような状況は9~10月頃集中的に起こり、追い詰められたいじめ被害者らが殺害の計画を立てることになる。2人は勉強はあまり振るわなかったが、性格は大人しく目立たない存在で、それまで補導された事もなかった。

◆事件の発生

 10月31日夜、電話で相談が始まった。創立記念日で高校が休校である11月1日午前8時半ころ、京阪電鉄の駅でお互いに落ち合い相談し、殺害方法や時間を決めた。

 同日正午過ぎ被害者に電話。被害者は「近くで自転車を盗んでこい」と指示し、2人は自転車を盗み天満橋(大阪市)に行く。午後5時頃、靱公園(大阪市)に行き被害者が「もっといい自転車を取ろう」ということで公園近くのマンションで自転車を盗み、被害者が乗った。彼らは「天満橋に行けば、もっといい自転車がある」と持ちかけ、桜宮公園(大阪市)へ向かい公園内でしばらく遊んだ。

 そして午後7時40分ころ、公園の遊歩道で彼らの一人がポケットに隠していた金槌で、自転車に乗っていた被害者の後ろから襲い頭を殴りつけ、倒れた被害者を2人で約10分間金槌で頭部を滅多打ちにし、金槌の釘抜きの部分で左目を潰し約50メートル引きずり川に投げ込み水死させた。

 翌日の1984年11月2日、大阪市北区天満橋2丁目・桜宮公園東側の大川で彼の水死体が発見された。死体は半裸でブリーフ、白の靴下姿だった。

 警察は1984年11月11日、被害者の同級生である2人を逮捕した。彼らは「解決するには自分たちで殺すしかなかった」と犯行の動機を自供した。

◆事件後の対応

 事件後2人は自主退学勧告を受け退学し、中等少年院送致処分を受けた。問題となったいじめについては警察庁「少年の補導及び保護の概況」では「理由もなく殴られたり、自転車を盗むよう強制されるなど、2か月にわたって手下のような扱い方をされいじめられ」とだけ述べられた。

 担任は何も知らないと相談された事実を否定。校長は「2人が自分たちの立場を有利にしようとして発言したとしか思えません」と述べる。結局、校長ら6人の教師を懲戒処分としたものの、担任には処分はなかった。理事会原案では、担任に1番重い処分を課そうとしていたが、教職員の反対で処分は下されなかった。

 だが、12月5日付けで学校が大阪産業大学付属高校の教師や大阪府教育課など学校関係者に配布した「同級生殺害事件に関する報告書」と題した24ページの内部資料では、いじめの詳細が鮮明に描かれた。なお事件後、同校では学級委員を投票で決めるようになった。

◆参考文献

『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』(南英男、1985年5月)ISBN 978-4-08-610750-1



◆外部リンク

少年事件データベース
いじめ復讐殺害事件
子供たちは二度殺される(事例)

私は少年院に行ってました



『心にナイフをしのばせて』奥野修司
王者とは弱者をいたわるもの/『楽毅』宮城谷昌光
女子高生北海道南幌町祖母・母殺害事件は正当防衛
狙われた弱者/『淳』土師守
死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二

2012-07-01

米兵に妻を殴り殺された

2011-10-20

警察取り調べの実態「人生むちゃくちゃにしたるわ!」(大阪府警)


 取り締まる側が法を蔑(ないがし)ろにしている。法が機能しないことは暴力の台頭を意味する。聴取に応じた人物がたまたまボイスレコーダーを持っていたことで明らかになった。泣き寝入りしている市民も多いことだろう。大阪のあちこちで小さな殺意が芽生えているに違いない。

2002-11-25

新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『心にナイフをしのばせて』奥野修司
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 これほどまでに生きる事の美しさを描いた本を私は知らない。わずか数センチの中に有り余るほどの愛情で紡ぎだされた生命(いのち)の言葉の数々に、幾度も胸を締め付けられ、感動し、涙を流した。

 どのページのどの文字にも生命(いのち)の崇高さを感じた。憎しみを慈愛に変え、絶望を生きる喜びと希望、そして感謝の心に変えていった母の偉大さに胸を打たれた。

 事件を知ったのは何気なくつけたテレビのニュースからだった。我家から程近い町で小学生の二人の女の子が立て続けに何者かに襲われたらしい……。犯人は捕まっていない。

 何か言いようのない怒りと恐怖が町中を覆いはじめたのはその頃からだった。様々な噂が飛び交い犯人像がまことしやかに囁かれはじめた。小学生達は集団登下校となり、保護者達は皆交代で通学路の道々に見張りに立った。下校後、外で遊ぶ子供達は日増しに減っていった。そんな不安が増していく中で、信じられない残忍な凶行が新たに報道された。そして、少女の一人が亡くなった事を知った。

 連日その話題でどこもかしこももちきりであった。あの時ほど人間不信に陥った事はなかった。そう、町中が人間不信の坩堝(るつぼ)の中に入り込んでいった。犯人はまだ見つからない。事件の起こった町では人影をつくる木という木は切り取られ、空にはヘリコプターが飛び交い、町を歩く自衛官や警察官の数は相当なものであった。そんな中でマスコミ人らしい人影が妙に活気を帯びて、なんともいえない違和感を感じていた。

 近くの町に住む私達も、子供を外で遊ばせる事を一切やめてしまった。公園に行っても人っ子一人姿を見せなかった。そして、登下校の見張りは益々熱を帯び、その後、数ヶ月続いた。黒い車、中年男性、がっちりした体型等、犯人像の噂は具体性を増し、またも、まことしやかに流れはじめ、通りすがりの男性にも警戒心を抱くようになっていった。

 そんな中で、やっと犯人が捕まった。それは、日本中を揺るがせる程の衝撃だった。 誰がこんな結末を予想しただろうか。日本中が暗雲立ち込める中、メディアはお祭り騒ぎであった。被害者の方々やそのご家族に思いを馳せたなら、胸が悪くなるような報道の数々。日本のマスコミの悪辣さを思い知ったのだった。

 それにつけても、山下さんの母としての偉大さは、それらとあまりにもかけ離れ、 対照的であった。人間はこれほどまでに美しく気高く、崇高になれるものだろうか。残虐な手によって、幼い命は傷つけられたが、最後の命の炎を燃やしこの世の生を全うした魂。それは春に舞う桜の花吹雪のように、美しく美しく。そして、その生を終える時、まさに漆黒の闇から旭日が昇らんがごとく威厳に満ちた光を帯びて宇宙に帰っていった。

「少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した『きっかけ』にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章にすすんでいくのです」

 まさに、突き抜けるような苦しみの中で、どうにもあらがえなかった運命を価値あるものに変えていかれたのだった。それは、想像を絶する苦しみの中で荘厳ともいえる光景であったに違いない。

 私は、何があっても顔を上げて生きるという決意を彩花に伝えようと、集中治療室に戻りました。
 するとどうでしょう、決意した私の心をすでに知っていたように、彩花は今までとは比べものにならないほど、にっこりと微笑んでいるではありませんか。目もとには明らかな笑い皺ができ、口の両脇にも笑った皺が出来ていました。
 それは、
「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」
 そう語りかけるかのような、信じがたい笑顔でした。
 そして、それから3時間ほど経った午後7時57分、彩花はこぼれるような笑顔のまま、悠然と旅立ったのです。

【『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子(河出書房新社、1997年/河出文庫、2002年)】

 事件直後すぐにでも生きを引き取ってもおかしくない状態からの奇跡ともいえる彩花ちゃんの様子を思い描き、私は感動で体中が身震いするのを感じた。

 その柱にも、畳にも、この道、あの公園、そこかしこに彩花ちゃんの息づかいを感じる。彩花ちゃんは生き生きとした輝きを放って確かに生きていた。それを証明するように、最後に笑顔で旅立った。

 どのような苦痛がこの世にあったとしても、これほどの苦しみはありえないと思った。あまりにも衝撃的な事件であり、それはあの震災に匹敵するものだった。私には到底読めないと思っていた。けれど、それはとんでもない間違いであった。もっと、もっと早くに読むべきだったと心から後悔した。

 私の父の死に思いを巡らせ、それを価値あるものとして受け入れる事を教えて下さった。あの時突然父は居間で倒れた。すぐに救急車で病院に運ばれ、ありとあらゆる手を尽くしていただいた。「生きて、生きて、死なないで」と、ほとんど意識のない父の背中をさすり父の回復を祈った。けれど、程なく父は霊山へと旅立った。確かに父は体調を悪くしていた。けれど、それほどまでに悪化していた事を全く気付いてやれなかった。そんな自分を何年も何年も責め続けていた。そんな苦痛の日々を送ってきた過去を、山下さんは暖かく価値あるものとして教えて下さった。私はこの本のお陰で、乗り越えられなかった過去に決別する事ができた。

 気高く昇華された人の心は何をもってしても決して悪に犯されることはないのだと実証して下さった。

 京子さんは今も彩花ちゃんを思うとき、涙を流しておられるに違いない。けれど、その涙は無数にきらめく星々のごとく、あまねく照らす月の光のように多くの人々の心に染み渡り、暖かく癒す涙となった。

 憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進むしかないのです。新しい生き方を切り開いて、全てを「価値」に変えていくしかないのです。

 いかなる行きづまりをも打ち破る、自分の内なる「生きる力」に目を開き、耳を傾けなければなりません。

 これらの言葉の数々は、今後の私の人生の大いなる目的となるでしょう。

 強く雄々しく生きていくことの素晴らしさを教えて下さった、山下京子さんと、彩花ちゃんに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

【Ryoko】