2001-09-03

無限の包容力/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『心にナイフをしのばせて』奥野修司
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 彩花ちゃん、今ごろあなたは既に生まれ変って、どこかお母さんの近くにいるのでしょうね。

 あなたのお母さんが綴った本を読みました。あなたが亡くなったことは、全国を揺るがせた悲しく許し難い事件で、わたしも知っていました。そのお母さんのお心はどれほどのもであるか察するに余りあるものでしょう。手記を読むことでわたしが少しでもその悲しみを共有することができれば、と思って手にとってみたのです。わたしにも彩花ちゃんと同い年の娘がいます。あなたのお母さんがあなたを大事に思うのと同じように、わたしも娘をとても愛していて、自分の命より大事だと思っています。その娘が、ある日突然他人の手によってその生を永遠に奪われてしまう、これほど辛く悲しい出来事はありません。けれど、どんなに想像してみても、本当の悲しみは当事者でなければわからないことでしょう。そのことに申し訳なさを感じながら読み始めてみました。ところがね、驚いてしまったの。悲しみを共有するどころか、反対に私のほうが励まされ、読み終えた今では子供達へのますますの愛情や自分の中にある勇気を信じる力、そして明日からまた続いていく未来への希望、そんなもので心の中は今いっぱいになっているのです。

 嬉しいことに読み始めてすぐ、わたしとお母さんには共通点があることがわかりました。それは、「息子も娘も、偶然にわが家に生まれてきたのではないと思っています。この二人は、まぎれもない私たちとの『縁』によって、遠いところから間違いなく夫と私を選び取り、私のお腹を借りてやってきてくれたのだと信じています。決して、誰でもよかったのではありません」とお母さんが考えているところです。わたしも、うちの子ども達はわが家に必要なメンバーだったから、お互いに呼び合って、私たちを家族と選んで生まれて来てくれたと思っています。生まれたてのくにゃくにゃの赤ちゃんを抱いて「やっと会えたね、ずっと待ってたのよ」と声を掛けチュッとしたあのホッペのあたたかさ柔らかさは今でも覚えています。きっと彩花ちゃんのお母さんも同じ気持ちだったでしょうね。

 そんな大事な娘を他人に奪われた悲しみ、悔しさ、怒り、苦しみ、そのような状況の中へ一人にしてしまった後悔、自分を責め、なぜこんな事件があったのか、なぜ彩花ちゃんでなければいけなかったのか、彩花ちゃんの身に起きたこと、自分に降り掛かってきた事を受け止めなければならないこと、自分の中に受け入れなければならないこと。どうやって納得して心に収めていくのか、この問題は実は私にとっても意味のあることでした。この事件から逃げることや忘れることをせず、しっかり目を開け、心を開いて立ち向かっていったお母さんは立派でしたね。恐ろしいことにも目を背けずに臨む姿勢は、人間として見習わなければいけないことだと気づかされました。

 わたしには子どもの頃、とても悲しく辛いことがたくさんありました。2歳の時に母と別れたので、母のわたしを呼ぶ優しい声やあたたかい抱っこの記憶がありません。寂しさに加え、一緒にいた父には、わたしの存在は怒りの対象にしかならなかったのです。その事がどうしても悔しくて悲しくて、あった事をみんな心の奥深くにしまってしまいました。心がザワザワするよりは忘れた振りをしている方がずっと楽なのです。そうして結婚するまでずっと、楽しいことが全く無い家庭で暮らしてきました。この気持ちは誰にも打ち明けず、外では「明るい笑顔のわたし」で過ごしてきました。けれども、いくら忘れた振りをしていてもその事実が無くなったわけではありません。ときどきフッと浮かんできてはとても悲しい気持ちになります。特に子どもが生まれてからは「こんな可愛いわが子を、どうしてお母さんは置いていったのかしら」「どうしてわたしだったのかしら」「本当なら違う暮らしをしていたはずなのに」と、たまらなく悔しくてあきらめきれない怒りに襲われて、その気持ちがどうにも処理できず、すっかり疲れ切ってしまうことも度々ありました。事実を許さず受け入れず、そのことに囚われて自分のことを哀れんでばかりいました。けれどもある日、そんな親をわたし自身が選んで生まれてきたんだと気づいたのです。そして今度はその理由を探したくなりました。そんな時、彩花ちゃんのお母さんの本を読んだのです。

 運命が動いていくときというのは、人間があらがってもあらがってもどうしようもないくらい、すべてがひとつの方向に流れていきます。人間は、定められた運命や宿命というものの前では、まったく無力なのでしょうか。私は今、人間を貫く運命というものの巨大な力を思い知らされながら、しかし、ときに人間は、流されてしまったように見えるなかにも、運命を乗り越えて勝ってみせることができるのだと信じられるのです。

【『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子(河出書房新社、1997年/河出文庫、2002年)】

 このくだりでは勇気と希望を感じることができました。わたしに起きた納得できない、取り戻すことの出来ないわたしに向けられるべき母の愛、この悔しさや悲しさに立ち向かい、乗り越えて、心からの笑顔を取り戻すことが本当にできるのかも、という希望です。母からの愛情を渇仰したわたしが、今、溢れ出る愛情で子ども達を包んでる。そうしてわたしの心が満ちていくことを確かに感じていました。それでも心の中には常に暗いものがあったままでした。でも、そこにとうとう希望のひかりが射したのです。

 わたしがもっとも心を打たれたのは、どんな状況にあってもそこに留まらず、前進しなければいけない、という考えです。彩花ちゃんのお母さんに、手を取ってもらって歩き出したような気がしました。

 運命だからあきらめよう、というあきらめの思想でも、私たちは悲しみの現場に置き去りにされてしまいます。生きる勇気を奪われてしまいます。憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進しかないのです。新しい生き方を切り開いて、すべてを「価値」に変えていくしかないのです。

 わたしは自分にあった出来事を、変えられないならあきらめようと自分に課していました。あきらめればすっきりした気分で歩き出せると信じて疑わなかったのです。けれど、それはまったくの誤りで、間違っていたからこそ、どうにもこうにも前へ進めず苦しばかりがつきまとっていたことに気づいたのです。わたし自身に起きたことは、わたしにとって必要不可欠な出来事で、これを自分の「価値」として「栄養」に変えていくことこそが、わたしの課題だったのです。

 苦しみながら立ち止まっていては何も生まれません。悲しみや辛さだけで心は一杯になってしまいます。それと同じく愛情や優しい気持ちで、心を一杯にすることもできるはずです。それどころか、わたしが溢れるほどの愛情をもって子ども達を抱き締めても、心の中にはまだあり余る愛情が溢れてきます。母もきっと、そんな気持ちで遠く離れて暮らすわたしを思っていてくれただろうと、今ではとても自然に信じられるのです。そして、わたしが幸せにならなければ、もちろん母の幸せもあり得ないと気づいたのです。今はとてもゆったりとしたあたたかいもので、心の中が満たされています。進んでいく道が開けたので、もうそれほど苦しむこともないでしょう。

 彩花ちゃんを亡くしたお母さんの苦しみにはほど遠いものですが、わたしの問題もまた、わたしにとっては抱え切れない苦しみでした。けれどもお母さんの気持ちに、わたしの気持ちを重ねて読み進んでいくうちに、不思議な力が湧いてくるのがわかりました。この先なにか大変なことがあっても、頑張って乗り越えていける力だと信じています。幸せに向かって歩き続け、努力する力です。こんな素晴らしいことを教えてくれた彩花ちゃんとお母さんに感謝の気持ちを伝えたくてこうして手紙を書きました。とうとうわたしを抱き締めることなく、去年亡くなったわたしの母の分のお礼もつけ加えます。本当にありがとう。

 最後に、加害者の少年に対して「共に苦しみ、共に闘おう。あなたは大切なわたしの息子なのだから」と手を差し伸べる山下さんには心から敬意を表します。母性というものは、無限の包容力に支えられていることを知りました。

 彩花ちゃんへ。それから、いつか母になる娘へ――。

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