2010-02-20

光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清


 ・光り輝く世界

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん

悟りとは

 ベストセラーには食指が動かない。所詮、出版社のマーケティングやプロパガンダに乗せられた人々が買ったというだけの話であろう。そんな私が30年前のミリオンセラーを開いたのには理由がある。田坂広志の講演(なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか)で本書が紹介されており、どうしてもその部分を確認したかった。

 2005年に新版が出ていた。夫人の原稿が加えられている。癌のため31歳で絶命した医師が、我が子に宛てて書いた手記である。

 読み物としてどうこうというよりも、一人の青年の死にゆく姿が圧倒的な重量で胸に迫ってくる。井村は元々命のきれいな人物だったようだ。淡々と清水のように綴られた文章から、人柄が浮かび上がってくる。

 様々な患者との出会いがスケッチされていて、人生の深い余韻がこちらにまで伝わってくる――

「ズキン、ズキンとするのは痛いけれど、私にはそれが、建築現場の槌音(つちおと)のように感じるのです。ズキン、ズキンとくるたびに、私の壊(こわ)れた体が健康な体へと生まれかえさせて頂(いただ)いている。そう思うと、勿体(もったい)なくて、手をあわせているのです。ですから、少しも苦しいと思わないのです」
 おだやかに話されるお婆さんの目は優しく、まるで観音(かんのん)さまのようでした。そのお婆さん、今はすっかり元気になられ、またあちこちを飛びまわっておられます。

【『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清(祥伝社ノンブック、1981年/祥伝社黄金文庫、2002年/〈新版〉祥伝社、2005年)以下同】

 病(やまい)によって人生の意味を見つめ直す人は多い。限りある生の現実を思い知らされた時、人は謙虚にならざるを得ない。病気の前では地位も名誉も通用しない。強靭な肉体を誇るプロスポーツ選手ですら病気にはかなわない。病は万人に生が平等であることを教える。

 お婆さんの言葉が胸を打つ。何らかの真理を悟った者に特有の「高貴な香り」が漂う。「少しも苦しいと思わない」という言葉は決して強がりではなかったことだろう。苦(く)から離れ、達観しているのだ。

 病に臥(ふ)すと、どうしようもない孤独感が忍び寄ってくる。何となく、置いてきぼりを食ったような感覚に捉われ、家族や社会の足を引っ張っている事実に苦しむ。「病は気から」なんて言うが、身体が病んでしまえば自動的に気も病んでしまう。病院へ入院すれば、そこは病気であることが普通の場所である。深夜にもなれば廊下をひたひたと音も立てずに死の影がうろついている。

 そんな孤独や申しわけなさを乗り越えると、自分自身と向き合わざるを得なくなる。「生きる自分」と「死ぬ自分」が見えてくるのだ。お婆さんの言葉には生きることへの感謝が溢れている。それこそが死を受け容れた証拠であろう。生に対する執着心が、人を不幸のどん底に追いやることは決して珍しいことではない。

 だが、井村は若かった。そして幼い娘がいた。癌が発病し、片足を切断した。しかし、無情にも肺に転移していた――

 その夕刻、自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊(とうと)くみえたのでした。

 講演で引用されたのはこの箇所だ。死を自覚した時、世界は光り輝いていた。日常の風景が荘厳な世界に変わった。死のショックが視覚野か側頭葉を刺激したのだろうか? 私はそうは思わない。それまでは見えなかったものが、見えるようになったのだ。自分が生の当体であり、死の当体であると悟った瞬間に世界は劇的に変化したのだ。井村が見た光景はこの世の現実であり、真実であった。クリシュナムルティが言う「生の全体性」の一部を彼は覚知したのだ。

 私は既に井村よりも15年長く生きている。だが、井村が見た世界を私は知らない。井村は二人目の娘の顔をみることなく逝ってしまった。それでも、彼が生きて生きて生き抜いたことは確かだ。二人の子は井村を上回る年齢になった。亡き父は、沈黙の中から多くのことを娘達に教えているに違いない。

 

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