2010-02-03

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹

 ・目指せ“明るい教祖ライフ”!
 ・宗教の硬直化

『死生観を問いなおす』広井良典
『イエス』R・ブルトマン
『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤

宗教とは何か?
キリスト教を知るための書籍
ヒップホップで学ぶ日蓮

 サブカル手法でアプローチする世界宗教入門、といった内容。記述が正確で、大変勉強になった。「教祖を目指す」というネタで、実は「教団の力学」を明らかにしているところがお見事。冷徹な眼差しから繰り出されるユーモアといった味つけだ。

 本書の教えを遵守すれば、きっと明るい教祖ライフが開けるでしょう。教祖にさえなれば人生バラ色です!

【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)以下同】

 この一言で教祖を目指す人はまずいない。が、しかし、信仰の動機が欲望に支えられていることを巧みに表現している。「幸せになりたい」という願望は、現在が不幸である証なのだ。他人の不幸に付け込むのが、宗教という宗教の常套手段である。言わば「不安産業」。

 では果たして、教祖の機能とは何か?

 では、最初にもっともシンプルな教祖の姿を提示します。教祖の成立要件は以下の二要素です。つまり、「なにか言う人」「それを信じる人」。そう、たったふたつだけなのです。この時、「なにか言う人」が教祖となり、「それを信じる人」が信者となるわけです。

 シンプルにして明快。一瞬、「エ?」と思わされるが、よくよく考えてみると確かにこの通りだ。教義の高低・浅深は関係ない。教祖と信者の関係性は、こうして生まれここに極まるのだ。

 ヒトという動物の特徴は色々あるが、何と言っても際立っているのは「コントロールするのが好き」という点であろう。スポーツは身体のコントロールである。車や機械の運転は、延長された身体性と考えられる。そして極めつけは「他人をコントロールすること」だ。

 小犬を見ては「お手」を無理強いし、子供が生まれると躾(しつけ)や教育と称して、家のしきたりや社会通念を叩き込む。長ずるに連れ、よりよい学歴を目指すことを強制し、社会に出るや否や地位獲得に余念がない。地位とは、「多くの人々をコントロールできる立場」のことである。

 脳や身体がネットワークを形成している以上、社会がネットワーク化(ヒエラルキー化)することは避けられないのだ。そしてコントロールの最終形が宗教と拳銃であると私は考える。生殺与奪を握っているという点において、この両者は顔の異なる双子なのだ。

 ゲラゲラ笑いながら読んでいると見落としがちであるが、そこここに慧眼(けいがん)が窺える――

 さて、ここからは具体的な教義作成について考えていきますが、最初にはっきりと述べておきたいことがあります。皆さんの中に、宗教に関して次のような持論をお持ちの方はいませんか。すなわち、「宗教は社会の安寧秩序を保ち、人々の道徳心を向上させるものであり、社会を乱すものであってはならない」と。残念ながら、これはとんだ見当外れなので直ちに忘れて下さい。宗教の本質というのは、むしろ反社会性にあるのです。特に新興宗教においては、どれだけ社会を混乱させるかが肝(きも)だということを胸に刻んでおいて下さい。
 現に大ブレイクした宗教を見てみると、どれもこれも反社会的な宗教ばかりです。イスラム教しかり、儒教しかり、仏教しかり。どれも最初はやべえカルト宗教でした。しかし、その中でも最もヤバいカルトはキリスト教でしょう。イエスの反社会性は只事ではありません。罪びとである徴税人と平気でメシを食い、売春婦を祝福し、労働を禁じられた安息日に病人を癒し、神聖な神殿で暴れまわったのです。当時の感覚で言えばとんでもないアウトローで、もちろん社会の敵なので捕らえられて死刑にされます。同胞のユダヤ人からも、「強盗殺人犯は許せてもイエスだけは許せねえ」と言われる程の嫌われっぷりでした。しかし、イエスはこれほど反社会的だったからこそ、今の彼の名声があるとも言えるのです。

 これはまさしく、クリシュナムルティが説いている「反逆」である。普通に生きている人々は、普通の状態において既に「社会の奴隷」となっている。つまり、形成された社会を容認してしまえば、信者は二重の意味で奴隷となるのだ。とすると、社会にプロテスト(異議申し立て)することで何らかの自由を目指す必然性が生じる。このようにして社会の奴隷は、奴隷である自分の立場に気づき、自由を求めて今度は教祖の奴隷となるのだ。ま、早い話が「ご主人様」を取り替えただけのことだ。

 人間の価値観というものは、その殆どが作られた幻想に過ぎないが、最も奥深い部分に埋め込まれたソフトウエアが宗教である。本来であれば人間を解放するための宗教が、教義によって人間を束縛するというジレンマを抱え込む。自由になるためには犠牲が伴うのだ。

 だが、真の宗教、あるいは思想、または普遍的な物語はそうではあるまい。既成の価値観に反逆しながらも、教祖や教義、そして自分自身からも自由になる方途があると私は信ずる。なぜなら、それがなければ世界の平和は成立しないことになるからだ。

 今、世界平和を妨げているものは国家、民族、そして宗教である。いっそのこと全部なくすか、新しくするべきだ。

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