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2014-09-13

脳化社会/『カミとヒトの解剖学』養老孟司


『唯脳論』養老孟司

 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・自我と反応に関する覚え書き
 ・脳化社会

『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 現代人はじつは脳の中に住んでいる。それは東京を歩いてみればすぐわかる。目に入るものといえば、人工物ばかりだ。人工物とはつまり脳の産物である。脳がさまざまなものを作りだし、人間はその中に住む。そこには脳以上のものはないし、脳以下のものもない。これを私は「脳化社会」と呼ぶ。大霊界がはやる根本の理由はそれであろう。大霊界もまた、脳の中にのみ存在するからである。われわれの社会では脳の産物は存在を許される。それを信仰の自由、表現の自由、教育の自由、言論の自由などと呼ぶ。他方、身体は徹底的に統制される。だから、排泄の自由、暴力の自由、性の自由、そういうものはない。許される場合は、仕方がないから許されているだけである。なぜか。脳は統御の器官だからである。脳は身体をその統御下に置く。さらに環境を統御下に置く。そうしてすべてを統御下に置こうとするのである。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

 つまり脳が社会に溢れだしているわけだ。身近な例で考えるとわかりやすい。私の部屋もパソコン内も脳の産物に他ならない。本棚はその筆頭に位置する。

 反対に東京という都市から日本人の脳を探ることは可能だろうか? 迷路のような首都高速道路、人を人とも思わぬ高層ビル、ひしめき合う住宅、広い道路は渋滞し、狭い道路は見通しが悪く危険極まりない。公害こそ少なくなったものの絶えることのない騒音。そして山がない(多摩方面を除く)。

 英雄や大物が出るような脳でないことは確かだろう。落語を聴いてもわかるが、とにかく東京人はせわしない。落語に登場するのも粗忽者(そこつもの)が多い。

 結局、何でも揃っているが歴史を変えるような新しい何かが生まれる場所ではないように思う。敗戦から高度成長にかけて必死で働いてきたわけだが、整然とした住みやすい街並みができることはなかった。

 雑然とした街と脳をすっきりさせるためにも、まず狭い道路をすべて一方通行にすることを提案したい。

カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)
養老 孟司
筑摩書房
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2011-12-11

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

 文明の発達は、存在を情報に変換した。いや、ちょっと違うな。文字の発明が存在を「記録されるもの」に変えた。存在はヒトという種に始まり、性別、年代、地域へと深まりを見せた。そして遂に1637年、ルネ・デカルトが「私」を発明した。「我思う、ゆえに我あり」(『方法序説』)と。それまで「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)。

 魔女狩りの嵐が吹き荒れ、ルターが宗教改革の火の手を上げ、ガリレオ・ガリレイが異端審問にかけられ、アメリカへ奴隷が輸入される中で、「私」は誕生した。4年後にはピューリタン革命が起こり、その後アイザック・ニュートンが科学を錬金術から学問へと引き上げた。120年後には産業革命が始まる。(世界史年表

 近代の扉を開いたのが「私」であったことは一目瞭然だ。そして世界はエゴ化へ向かって舵を切った。

 デカルトが至ったのは「我有り」であったと推察する。神学は二元論で貫かれている。「全ては偽である」と彼は懐疑し続けた。つまり偽に対して真を有する、という意味合いであろう。

 ここが仏教との根本的な違いである。仏法的な視座に立てば「我在り」となる。そしてブッダは「私」を解体した。「私」なんてものは、五感など様々な要素が絡み合っているだけで実体はないと斥(しりぞ)けた。またブッダのアプローチは「私」ではなく「苦」から始まった。目覚めた者(=ブッダ、覚者〈かくしゃ〉)の瞳に映ったのは「苦しんでいる生命」であった。

 貧病争はいつの時代もあったことだろう。苦しみや悲しみは「私」に基づいている。ブッダは苦悩を克服せよとは説かなかった。ただ「離れよ」と教えた。

 産業革命が資本主義を育てた。これ以降、「私」の経済化が進行する。一切が数値化され、幸不幸は所有で判断されるようになる。「私の人生」と言う時、人生は私の所有物と化す。だが、よく考えてみよう。生を所有することなどできるだろうか?

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 生の本質は反応(response)である。人間に自由意志が存在しない以上、選択という言葉に重みはない。

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
自由意志は解釈にすぎない

 人は自分の行為に色々な理由をつけるが、全て後解釈である。

 認知的不協和を低減する方法として、選択的情報接触というものもあげられている。
 たとえば、トヨタの車と日産の車を比較して、迷った後、かりにトヨタを買ったとする。買った後、「トヨタの車を買った」という認知と「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知は、不協和となる。認知的不協和は不愉快な状態なので、人は、認知の調整によってその不協和を低減しようとする。この場合、「トヨタの車を買った」というほうはどうにもならないから、「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知のほうを下げる工夫をすることになる。
 実際に、車を買った人の行動を調べてみたところ、車を買った後で、自分が買った車のパンフレットを見る時間が増えることがわかった。パンフレットは、通常、その車についてポジティブな情報が載せられている。したがって、自分の車のパンフレットを読むという行動は、自分の車が正しい選択肢で、買わなかったほうの車がまちがった選択肢であったという認知を自分に植え付ける行動だということになるわけである。認知的不協和理論の観点では、これは、行動後の認知的不協和低減のために、それに有利な情報を選択して接触する行動だと考えることができるわけである。このような行動を、選択的情報接触と言っている。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀
ギャンブラーは勝ち負けの記録を書き換える

 生命が反応に基づいている証拠をお見せしよう。


 時間軸を変えただけの微速度撮影動画である。まるで川のようだ。果たして実際に川を流れる一滴一滴の水は悩んだり苦しんだりしているのだろうか? 多分してないわな(笑)。では人間と水との違いは何であろう? それは思考である。思考とは意味に取りつかれた病である。我々は人生の意味を思うあまり、生を疎(おろそ)かにしているのだ。そして「私の思考」が人々を分断してしまったのだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 山本(七平)氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこには視覚の特徴が明瞭に出ているからである。「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。答えを言えば、それが長明の視覚であろう。『方丈記』の書き出しは、まさにそれを言っているのである。ここでは、運動と水という質料、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。形の背後には、視覚系がある。長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚-運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているではないか。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」(『方丈記』)。養老孟司恐るべし。養老こそはパンクだ。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

 ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 同じ川を流れながら我々は憎み合い、殴り合い、殺し合っているのだ。私の国家、私の領土、私の財産、私の所属を巡って。

 大衆消費社会において個々人はメディア化する。確かボードリヤールがそんなことを言っていたはずだ。

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 そしてボディすらデザインされる。

 ダイエット脅迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方。他人の注目を浴びたいというファッションの意識、つまり皮下脂肪が少なく、エクササイズによって鍛えられ、引き締まった身体というあのパーフェクト・ボディの幻想。ボディだってデザインできる、からだだって着替えられるというかたちで、じぶんの存在がじぶんのものであることを確認するしかもはや手がないという、追いつめられた自己破壊と自己救済の意識。他人に認められたい、異性にとっての「そそる」対象でありたいという切ない願望……。
 そして、ひょっとしたら数字フェティシズムも。意識的な減量はたしかに達成感をともなうが、それにのめりこむうちに数字そのものに関心が移動していって、ひとは数字の奴隷になる。数字が減ることじたいが楽しみになるのだ。同様のことは、病院での血液検査(GPTだのコレステロール値だの中性脂肪値だのといった数値)、学校での偏差値、競技でのスピード記録、会社での販売成績、わが家の貯金額……についても言えるだろう。あるいはもっと別の原因もあるかもしれないが、こういうことがぜんぶ重なって、ダイエットという脅迫観念が人びとの意識をがんじがらめにしている。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 バラバラになった人類が一つの運動状態となるためには宗教的感情を呼び覚ますしかない。思想・哲学ではない。思想・哲学は言葉に支配されているからだ。脳の表層を薄く覆う新皮質ではなく、脳幹から延髄脊髄を直撃する宗教性が求められよう。それは特定の教団によって行われるものではない。あらゆる差異を超越して普遍の地平を拓く教えでなければならない。

 上手くまとまらないが、長くなってしまったので今日はここまで。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)方丈記 (岩波文庫)悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
人間の問題 2/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ

2019-04-19

我々が知り得るのは「脳に起こっていること」/『養老孟司の人間科学講義』養老孟司


『唯脳論』養老孟司
『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司

 ・我々が知り得るのは「脳に起こっていること」

『人類が生まれるための12の偶然』眞淳平:松井孝典監修

情報とアルゴリズム
必読書リスト その三

 科学は宇宙の起源や星の進化を論じ、物質の基礎をなす単位について語る。ヒトの遺伝子はすべて塩基配列がすべて解読された。われわれはそういう時代に生きている。
 それならわれわれが知っていることは、つまりなにか。
 自分の脳のなかだけである。われわれが世界について、なにか知っていると思っているとき、それは自分の脳のなかにある「なにか」を指している。脳を消せば、その「なにか」が消えてしまうからである。それだけではない。脳のなかにないものは、その当人にとって、存在しない。私が知っているさまざまな昆虫は、多くの人にとって、まさに「存在しない」のである。
 歯が痛いとき、われわれは当然、歯のことを直接に「知っている」と思っている。しかし、実際に知っているのは、脳のなかの知覚に関わる部位の、歯に相当する部分に、歯の痛みに相当する活動が起こっている、ということだけである。なぜなら歯から脳に至る知覚神経を麻酔してやると、もはや歯が痛くなくなる。それどころか、主観的には歯がなくなってしまう。だから歯医者に歯を抜かれても、「なにも感じない」。しかし歯では相変わらず炎症が進行しており、歯に生じている実際の事情は、なんら変化したわけではない。だから「歯が痛い」と思っているとき、「歯に起こっていること」を知っているわけではない。「脳に起こっていること」を知っているだけである。

【『養老孟司の人間科学講義』養老孟司〈ようろう・たけし〉(ちくま学芸文庫、2008年/筑摩書房、2002年『人間科学』改題)】

 関連する書評をはてなブログから移動しているのだがとにかく面倒臭い。当ブログのアクセス数や私の年齢を思うと無駄な行動にしか思えない。見知らぬ誰かが本を手繰り寄せる時に道標(みちしるべ)を示すことができればとの思いだけで、よくもまあ20年も駄文を綴(つづ)ってきたものだ。

 書評リンクを一々貼るのも煩わしいので今後は「ラベル」を活用しようと目論んでいる。記事タイトルの一覧表示ができればいいのだが、無料ブログなので多くを求めるまい。

 脳化社会(『カミとヒトの解剖学』養老孟司、1992年)では人生の万般が脳内現象に収まる。これを仏教では「識」(しき)と名付ける(唯識)。

 一冊の本を読んでも感想は人によって異なる。受け取るメッセージも様々だ。ある風景に心を奪われる人もいれば、漫然と見過ごす人もいる。すべての情報は受け手によって解釈され、一つの経典やバイブルから教義を巡って数多くの教団が派生する。その意味から申せば人が人を理解することは不可能だ。不可能という現実を受け入れた上で互いに歩み寄る努力が必要なのだろう。

 脳内現象をアイドリング状態に戻すのがスポーツで、脳内現象をゼロに向かわしめるのが瞑想なのだろう。

 人々の妄想をより大きな妄想に収束させるのが政治と宗教だ。

 そして現代の妄想は資本主義の発達によってマネーを媒介とした欲望の解放に向かう。神をも恐れぬ我々がカネの価値だけは信じているのだから、もはやマネー教と言ってよいだろう。

 人類がいつの時代も戦争を欲するのは種としてのヒトが一体感を感じるためなのだろう。祭りにもまた同様の効果がある。それを超えたコミュニケーションは可能だろうか? もっと静かでもっと知的でもっと和(なご)やか一体感を得る道はあるのだろうか? ある、とは思う。どこに? ここに、とまだ答えることのできぬ自分が歯痒(がゆ)い。

2017-08-14

観照が創造とむすびつく/『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治


『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 ・観照が創造とむすびつく

『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 そこに不思議の場所がある。
 眼を閉じておのれの内部を凝視すると、そこに淡い灰色の空間がひろがっているのを感ずるが、その空間の背後に、不思議な場所があるように思われるのである。不用意にそこに近づいてそれを見ようとすると、その場所は急ぎ足に遠ざかってしまう。しかし、おのれを忘れ、その場所の存在をも忘れていると、それが意外に近いところにやってきて何事かを告げる。そういう不思議の場所が、すべてのひとの魂の内部から、身体の境をこえて外部に、どこまでもひろがっているように思われるのである。
 その場所、その未知の領域をさぐってみたい。

【『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治〈いわた・けいじ〉(講談社、1979年/講談社文庫、1985年)以下同】

 真の学問は独創に向かう。それは何らかの領域に一人踏み込んでゆく時の必然的なスタイルなのだろう。岩田慶治の場合、独創が文体にまで及んでいる。文化人類学という水脈を掘り下げ、真理という鉱脈を探る営みに圧倒される。

 アニミズム(精霊信仰)は「不思議の場所」から生まれたのだろう。自然の営為に神の意志を読み取ることでヒトは共生してきた。天神地祇(てんじんちぎ)を信ずればこそ人々は地鎮祭を行い、力士は土俵で塩をまくのだ。太陽をお天道様と呼び、その眼差しを感じれば、悪行にブレーキがかかる。

 その場所にたどり着いてみると、この世界が違って見える。おのれ自身が違って見える。そういう予感がしたのである。そこでは、木々の緑がより濃く、より鮮やかにみえるのではないか。生きものたちがより生き生きと活動し、おのれの生を超えたやすらぎをえているのではないか。われわれの尊敬してやまない古人の言葉が、単に観念として知的に理解されるだけではなく、現実に、ありありと、たしかな存在感をともなって聞こえてくるのではないか。その意味で、そこはわれわれにとってもっとも根源的な創造の場なのではないか。
 そこでは見ることが形づくることであり、観照が創造とむすびついている。

「観照が創造とむすびつく」との指摘がクリシュナムルティと重なる。岩田には『木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日』(人文書館、2005年)という著作もある。「私たちはけっして木を見つめない」(『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ)。

 この文章を読んではたと気づくのは、人類の原始的な宗教感情が言葉以前に生まれた可能性である。それはフィクションの原形といっていいだろう。

カミの人類学―不思議の場所をめぐって (1979年)
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2022-01-12

ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生/『カミとヒトの解剖学』養老孟司


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

宗教とは何か?
必読書リスト その三

 抽象とはなにか。それは頭の中の出来事である。頭の中の出来事というのは、感情を別にすれば、つまりはつじつま合わせである。要するに頭の中でどこかつじつまが合わない。そこで頭の外に墓が発生するわけだが、どこのつじつまが合わないかと言えば、それは昨日まで元気で生きていた人間が今日は死んでしまってどこにも居ない、そこであろう。だから墓というものを作って、なんとかつじつまを合わせる。本人は確かに死んでもういないのだが、墓があるではないか、墓が、と。臨終に居あわせ損ねたものの、故人とは縁のあった人が尋ねて来て、尋ねる人はすでに死んだと始めて聞かされた時、物語ではかならず故人の墓を訪れる約束になっている。さもないとどうも話の落ち着きが悪い。その意味では、墓は本人の代理であり、ヒトとはこうした「代理」を創案する動物である。それを私は一般にシンボルと呼ぶ。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

 頭のいい人特有の強引さがある。死者のシンボルが墓なら、真理のシンボルがマンダラ(曼荼羅)というわけだな。墓は死者そのものではない。飽く迄も代用物である。とすれば、マンダラもまた代用物なのだろう。ところが代用品であるはずのマンダラや仏像が真理やブッダよりも重んじられてしまうのである。つまりアイドル(偶像)となるのだ。その意味においてマンダラとアイドルのポスターに差はない。

 もう一つ重要なシンボルに「言葉」がある。言葉を重視すると経典(あるいは教典)になる。ここでも同じ過ちが繰り返される。シンボルが真理と化すのだ。言葉で悟ることはできない。その厳粛なる事実を思えば、経典は悟りを手繰り寄せる手段に過ぎないのだ。

 一流のアスリートはスポーツという限られた世界での悟りに至った人々だ。しかしながらスポーツでは一流でも人間としては二流、三流の人も存在する。生きること、死ぬことを悟るのはまた別次元のことなのだろう。

2008-10-31

唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 もっと早く読んでおくべきだった、というのが率直な感想だ。そうすれば、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』に辿り着くのも、これほど時間がかからなかったはずだ。

 今読んでも、そこそこ面白い。ということは、1989年の刊行当時であれば、怒涛の衝撃を与えたことだろう。岸田秀の唯幻論は、幻想というパターンの繰り返しになっているが、養老孟司は身体という即物的なものに拠(よ)っているため、割り切り方が明快だ。

 では、歴史的ともいえる唯脳論宣言の件(くだり)を紹介しよう――

 われわれの社会では言語が交換され、物財、つまり物やお金が交換される。それが可能であるのは脳の機能による。脳の視覚系は、光すなわちある波長範囲の電磁波を捕え、それを信号化して送る。聴覚系は、音波すなわち空気の振動を捕え、それを信号化して送る。始めは電磁波と音波という、およそ無関係なものが、脳内の信号系ではなぜか等価交換され、言語が生じる。つまり、われわれは言語を聞くことも、読むことも同じようにできるのである。脳がそうした性質を持つことから、われわれがなぜお金を使うことができるかが、なんとなく理解できる。お金は脳の信号によく似たものだからである。お金を媒介にして、本来はまったく無関係なものが交換される。それが不思議でないのは(じつはきわめて不思議だが)、何よりもまず、脳の中にお金の流通に類似した、つまりそれと相似な過程がもともと存在するからであろう。自分の内部にあるものが外に出ても、それは仕方がないというものである。
 ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。

【『唯脳論』養老孟司(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 今村仁司の『貨幣とは何だろうか』を読んでいたので、この主張はスッと頭に入った。お金という代物は、それ自体に価値があるわけではなく社会の決め事に過ぎない。その意味では幻想と言ってよい。等価交換というルールがなくなったり、世界が飢饉に襲われるようなことがあれば、直ちに理解できることだろう。その時、人類は再び物々交換を始めるのだ。

 私は以前から、お金に付与された意味や仕組みがどうしても理解できなかった。しかし、この箇所を読んで心から納得できた。動物と比べてヒトの社会が複雑なのも、これまた脳の為せる業(わざ)であろう。脳神経のネットワークが、そのまま社会のネットワーク化に結びつく。で、我々は「手足のように働かされている」ってわけだ(笑)。

 私がインターネットを始めたのが、ちょうど10年前のこと。当時、掲示板で何度となく話題に上った『唯脳論』であったが、私は『唯幻論(『ものぐさ精神分析』)』と、唯字論とも言うべき石川九楊(『逆耳の言 日本とはどういう国か』)を読んで、頭がパンクしそうになってしまったのだ。読んでは考え、また読んでは考えを繰り返しているうちに、二日酔いのように気持ちが悪くなった覚えがある。必死に抵抗しようと試みるのだが、イソギンチャクにからめ取られた小魚のようになっていた。

 だが、今なら理解できる。また、脳科学が証明しつつある。

 時代をリードする思想は、中々凡人(→私のことね)には理解されない。それどころか、反発を招くことだって珍しくない。ともすると我々は、中世における宗教裁判なんかを嘲笑う癖があるが、現代にだって思想の呪縛は存在する。自由に考えることは難しい。先入観に気づくのはもっと難しい。

 養老孟司は、「社会は暗黙のうちに脳化を目指す」とも指摘している。そうであれば、世界はネットワークで結ばれ、一つの意思で動かされる時が訪れる。それが、平和な時代となるか、『1984年』のようになるかはわからない。



『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

2011-09-22

読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー


 ・読書の昂奮極まれり

『歴史とはなにか』岡田英弘
『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔

世界史の教科書
必読書リスト その四

 1961年の1月から3月にかけて行われた連続講演を編んだもの。その2年後に生まれた私が、ちょうど50年後に読んだことになる。

 数ページをパラパラとめくったところで「名著!」という文字が極太ゴシック体で点滅する。脳内ではシナプスが次々と発火し、それまではつながらなかった回路を連続的に形成する。長い間、どんよりと疑問に思ってきたことが氷解し、疑問にまで至っていないモヤモヤしたものまでが一掃された。まさしく天才本(てんさいぼん)といってよい。

 歴史とは「物語化された時間」である。物語は時系列に沿って進行するため歴史的であることを免れない。時間は過去から未来へと一直線上を進むためだ。

 生老病死というリズムが人生の前提である以上、人間そのものが歴史的存在といえる。

「歴史とは何か」という問題に答えようとする時、私たちの答は、意識的にせよ、無意識的によせ、私たちの時代的な地位を反映し、また、この答は、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広汎な問題に対する私たちの答の一部分を形作っているのです。

【『歴史とは何か』E・H・カー:清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉訳(岩波新書、1962年)以下同】

 歴史は事実そのものではない。歴史家の目に映ったものが歴史として綴られるのだ。つまり、あらゆる歴史は歴史家の立ち位置に束縛されている。写真はカメラマンの位置からしか撮影することができない。

 魚が魚屋の店先で手に入るように、歴史家にとっては、事実は文書や碑文などのうちで手に入れることが出来るわけです。歴史家は事実を集め、これを家へ持って帰り、これを調理して、自分の好きなスタイルで食卓に出すのです。

 とすると、素材を知ることなくして歴史という料理を味わうことはできない。更に用いられなかった材料をも見抜き、その理由を察知することが求められよう。それができなければ、与えられた歴史を鵜呑みにするしかない。

the history of history

 現代のジャーナリストなら誰でも知っている通り、輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです。事実というのは、歴史家が呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発現を許すかを決めるのは歴史家なのです。ビランデルロの作品中のある人物であったかと思いますが、事実というのは袋のようなもので、何かを入れなければ立ってはいない、と言ったことがあります。1066年にヘスティングスで戦闘が行なわれたことを知りたいと私たちが思う理由は、ただ一つ、歴史家たちがそれを大きな歴史的事件と見ているからにほかなりません。シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。

 ある出来事に意味を吹き込むのが歴史家の仕事であるならば、歴史家は神と同じ場所に位置するものと考えてよい。捏造(ねつぞう)、偽造、割愛、削除を自由に行えるのだ。ま、数百年後に出されたジャンケンみたいなものだろう。

 また当たり前のことではあるが、大衆の平凡な営為に歴史的価値はなく、平均値としてのみ記録される。

 歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう。この解釈という要素は歴史上のすべての事実の中に含まれているのです。

 これが一つ目の急所だ。「歴史とは解釈である」。実は政治も宗教も科学も芸術も解釈である。脳機能の根幹を成すアナロジーは解釈そのものだ。すなわち思考とは解釈の異名である。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 E・H・カーに導かれてはたと気づく。「言葉は解釈を超えられない」ことを。解釈とは説明である。「自分」というフィルターを通した逆理解である以上、解釈はバイアス(歪み)を避けられない。そもそも認知そのものにバイアスが掛かっている(認知バイアス)以上、進歩・進化・昇華・脱構築といったところで、情報の書き換えにすぎないのだ。結局、「上書き保存」ということだ。

 てにをはのレベルであればどうってことはないのだが、「大虐殺はあったのか、なかったのか」なんて次元になると国家間でぶつかり合う羽目となる。議論の内容は細密を極め、さほど関心のない人から見ると、まるで量子世界のように映る。

 紀元前5世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたか、それは私たちはよく知っていますけれども、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって――ペルシア人のこと、奴隷のこと、アテナイの住民であっても市民でない人々のことまで持ち出そうとは思いませんが――どう見えていたかということになりますと、私たちは殆ど何も知らないのです。私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです、と申しましても、偶然によるというよりは、むしろ、意識的か否かは別として、ある特定の見解に染め上げられていた人たち、この見解を立証するような事実こそ保存する価値があると考えていた人たちによってのことであります。それと同様に、中世を取扱った現代の歴史書のうちで、中世の人々は宗教に深い関心を抱いていた、と書いてあるのを読みますと、どうしてそれが判るのか、本当にそうなのか、と私は怪しく思うのです。

 あらゆる分野で古い解釈と新しい解釈とが争い合っている。こうした議論は必ず資料に依存する。「書かれたもの」が正義としてまかり通るのだ。誤っている可能性はこれっぽっちも考慮されない。

History

 信心深い中世人という姿は、それが真実であっても、真実でなくとも、もう打ち壊すことはできません。なぜなら、中世人について知られている殆どすべての事実は、それを信じていた人たち、他の人々がそれを信じるのを望んでいた人たちが私たちのためにあらかじめ選んでくれたものなのですから。そして、恐らくその反対の証拠になったであろうと思われる別の沢山の事実は失われていて、もう取り戻すに由ないのですから。死に絶えた幾世代かの歴史家、記録者、年代記作家の永代所有権によって過去というものの型が決定されてしまっていて、もう裁判所に訴える余地も残されておりません。

 歴史とは加工された記録なのだ。古(いにしえ)の権力者が暦(こよみ)を支配してきた事実を思えば、更に意味合いが深まる。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 すべての歴史は「現代史」である、とクローチェ(1866-1952、イタリアの哲学者)は宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知り得るのか、というのです。

 過去を「見る」ことはできても、過去へ「行く」ことはできない。

 コリングウッドの見解は次のように要約することが出来ます。歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠を頼りとして行なわれます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の異なる列挙で済むものでもありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、正に、これこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。

 これが2番目のホシ(急所)だ。歴史の相対性理論、あるいは歴史の縁起観ともいうべきか。過去と現在を往来する眼差しの中に歴史は立ち上がる。

 下界は見えるが山頂の見えない登山のようなものか。

 歴史家は過去の一員ではなく、現在の一員なのです。

 歴史修正主義を見れば一目瞭然だ。

evolution_image

 まだまだ書き足りないのだが、ひとまず結論を述べよう。既に二日がかりで書いている。

 ここで、歴史における叛逆者あるいは異端者の役割について少し申し上げなければなりません。社会に向って反抗する個人という通俗的な姿を描き出すのは、社会と個人との間に、偽りの対立を再び導き入れることになります。どんな社会にしろ、全く同質的ということはありません。すべての社会は社会的闘争の舞台であって、既存の権威に向って自分を対立させている個人も、この権威を支持する個人に劣らず、その社会の産物であり、反映であります。

 人間は社会的動物であるというよりも社会の産物なのだ。文化や価値観といったところで、最終的には言語と思考に収斂(しゅうれん)される。つまり言葉を親から教わる時点で否応(いやおう)なく社会と関わりを持ってしまうのだ。

 歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性を持つ社会現象なのであります。

 偉人は一個の存在であると共に社会現象なのだ。これは凄い。凄すぎる。

 私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現われ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ビックリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現われて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完璧なものだと考えております。

「ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志をその時代に向って告げ、これを実行することのできる人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである」

 E・H・カーの指摘は複雑系科学とも完全に一致している。特定の個人に光を当てれば当てるほど、その人物は一般人から懸け離れた存在となる。ブッダやイエスを考えるとわかりやすい。彼らをヒューマンファクターとして捉えるのか、それとも現象として捉えるのかという問題だ。大雑把にいえば神はヒューマンファクターで、仏は現象といえる。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 近代世界における変化というのは、人間の自己意識の発展にありますが、これはデカルトに始まると言えるでしょう。

 ここからクライマックスに至る。

 現世的社会は教会によって形作られ、組織されていたもので、それ自身の合理的生命を持つものではありませんでした。民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです。近代の歴史が始まったのは、日増しに多くの民衆が社会的政治的な意識を持つようになり、過去と未来とを持つ歴史的実体としてその各自のグループを自覚するようになり、完全に歴史に登場して来た時です。社会的、政治的、歴史的意識が民族の大部分に広がり始めるなどというようなことは、僅かな先進諸国においてさえ、精々、最近200年間のことでした。

 私の意識は吹っ飛んだ。気がついた時はリングの上で大の字になっていた。いや本当の話だよ。

 すなわちデカルトが自我を発明(『方法序説』1637年)し、それ以前の民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」と喝破(かっぱ)している。

 歴史とは自覚的なものなのだ。

 自我と経済が結びついて近代の扉は開かれた。産業革命~資本主義、市民革命~国民国家という構図だ。

 そうすると民主主義という概念は、歴史の主体者であることを民衆に吹き込む思想なのだろう。しかしながら我々は「現象」であることを免れないのだ。カーの見識は自由意志のテーマにも深く関わってくる。

 読書の昂奮極まれり、という一書である。

E・H・カーの『歴史とは何か』再読



歴史という物語を学ぶための教科書
世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均
宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス

2012-03-03

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫


『物語の哲学』野家啓一

 ・狂気を情緒で読み解く試み
 ・ネオ=ロゴスの妥当性について

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳

必読書リスト

 我々が生を自覚するのは死を目の当たりにした時だ。つまり死が生を照射するといってよい。養老孟司〈ようろう・たけし〉が脳のアナロジー(類推)機能は「死の象徴化から始まったのではないか」と鋭く指摘している。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 ま、一言でいってしまえば「生と死の相対性理論」ということになる。

 前の書評にも書いた通り、渡辺哲夫は本書で統合失調症患者の狂気から生の形を探っている。

 歴史は死者によって形成される。歴史は人類の墓標であり、なおかつ道標(どうひょう)でもある。たとえ先祖の墓参りに行かなかったとしても、歴史を無視できる人はいるまい。

 死者たちは生者たちの世界を歴史的に構造化し続ける、死者こそが生者を歴史的存在者たらしめるべく生者を助け支えてくれているのだ、(以下略)

【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】

 渡辺は狂気を生と死の間に位置するものと捉えている。そして狂気から発した言葉を「ネオ=ロゴス」と名づけた。

統合失調症患者の内部世界

「あの世で(あの世って死んだ事)子供(B男)が不幸になっています  十二歳中学二年で死にました  私(母親の○○冬子)がころしました
 目が見えません  目玉をくりぬいて脳の中に  くりぬいた目の中から小石をつめ けっかんをめちゃめちゃにして神けいをだめにして 息をたましいできかんしをつめて息ができません  又くりぬいための中に ちゅうしゃきでヨーチンを入れ目がいたくてたまりません  また歯の中にたましいが入ってはがものすごく痛くがまんが出来ません
 又体の中(背中やおなかや手足)の中に石田文子のたましいが入って具合が悪く立っていられない  それをおぼうさんがごういんにおがんで立たしておきます
 又ちゅうかナベに油を入れいっぱいにしてガスの火でわかして一千万度にして三ばいくりぬいた目の中に入れ頭と体の中に入れあつすぎてがまんが出来ません
 又たましいの指でおしりの穴をおさえて便が全然でません又おしっこもおしっこの出る穴をおさえてたましいでおさえて出ません
 又B男のほねをおはかからたましいでぬすんでほねがもえるという薬をつかってほねをおぽしょて ほねをもやしてその為にB男のほねは一本もありません
 又きかんしに石田文子がたましいできかんしをつめて息が出来ません又はなにもたましいでつめて息が出来ません  だから私(冬子)母親のきかんしとB男のきかんしをいれかえて下さい」(※冬子の手記)



「……言葉がトギレトギレになって溶けちゃうんです……言葉が溶けて話せない……聴きとれると語尾が出て心が出てくるんですね、語尾がないとダメダメ……秋子の言葉になおして語尾しっかりさせないと……流れてきて、わたしが言う他人の言葉ですね……わたしの話は死人に近い声でできてるからメチャクチャだって……死人っていうのは、思わないのに言葉が出てくる不思議な人体……言葉が走って出てくるんですね。飛び出してくる、……言葉が自分の性質でないんです。デコボコで、デコボコ言葉、精神のデコボコ……」(※秋子)

 筒井康隆が可愛く見えてくる。通常の概念が揺さぶられ、現実に震動を与える。このような言葉が一部の人々に受け容れられた時に新たな宗教が誕生するのかもしれない。

アジャパー!!」「オヨヨ」「はっぱふみふみ」といった流行語にしても同様だろう。


 デタラメな言葉だとは思う。しかし意味に取りつかれた我々の脳味噌は「言葉を発生させた原因」を思わずにはいられない。渡辺は実に丁寧なアプローチをしている。

 ところが冬子にとっての「たましい」たる「B男」は彼岸に去ってゆかない。あの世もこの世も超絶した強度をもって実態的に現前し続ける。生者を支えるべく歴史の底に沈潜してゆくことがない。つまり、「たましい」は、死者たちの群れから離断された“有るもの”であり続ける。「たましい」は冬子の狂気の世界のなかで、余りにもその存在強度を高めてしまったのである。死者たちの群れに繋ぎとめられない「B男」は、死者たちの群れの“顔”になりようがない。逆に「B男」という「たましい」は、死者たちを圧殺するような強度をもってしまう。「たましい」は、生死を超越して絶対的に孤立している。否、「B男」の「たましい」は、死者たちでなく冬子に融合してしまっている。「B男」は、死者たちの群れを、祖先を、歴史の垂直の軸あるいは歴史の根幹を圧殺し、母たる生者をも“殺害”するほどの“顔”なのである。これはもう“顔”とは呼べまい。「B男」という「たましい」は、死者たちの群れに絶縁された歴史破壊者にほかならない。冬子も「B男」も、こうして本来の死者たちの支えを失っているのである。

 つまり「幽明界(さかい)を異(こと)に」していないわけだ。生と死が淡く溶け合う中に彼女たちは存在する。むしろ存在そのものが溶け出していると言った方が正確かもしれない。

 仏教の諦観は「断念」である。しがらむ念慮を断ち切る(=諦〈あきら〉める=あきらか、つまびらかに観る)ことが本義である。それが欲望という生死(しょうじ)の束縛から「離れる」ことにつながった。現在を十全に生きることは、過去を死なすことでもある。

 他者という言葉は多義的である。私は常識の立場に戻って、この多義性を尊重してゆきたいと思う。
 まず第一に、他者は、ほとんどの他者は、死者である。人類の悠久の歴史のなかで他者を思うとき、この事実は紛れもない。現世は、生者たちは、独力で存立しているのではない。無料無数の死者たちこそ、事物や行為を名づけ、意味分節体制をつくり出し、民族の歴史や民俗を基礎づけ、法律や宗教の起源を教えているのだ。否、教えているという表現は弱過ぎよう。最広義における世界存在の意味分節のすべてが、死者たちの力によって構造的に決定されているのである。言い換えれば、他界は現世の意味であり、死者たちは、生者たちという胎児を生かしめて(ママ)いる胎盤にほかならない。知覚や感覚あるいは実証主義的思考から解放されて、歴史眼をもって見ることが必要である。眼光紙背に徹するように、現世を現世たらしめている現世の背景が見えてくるだろう。
 死者が他者であることに異論の余地はない。それゆえ、他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつのである。
 第二に、他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する。歴史的に意味分節化されたこの現世から言葉を収奪しつつ、また新たな意味分節世界を喚起し形成しつつ、生者各人はこの他者と交流する。この他者は、ひとつの意味分節として、言語のように、言語と似た様式で、差異化され構造化されている。この他者を、それゆえ、以後、言語的分節世界と呼ぶことにしたい。自己ならざるもの一般の世界が言語的分節世界としての他者であるならば、他者は、言葉の働き方に関するわれわれの理解を一歩進めてくれる。
 言うまでもなく、言葉は、各人の脳髄に内臓されているのではない。一瞬一瞬の言語行為は、発語の有無にかかわらず、言語的分節世界という他者から収奪された言葉を通じて遂行される。否、収奪そのものが言語行為なのだ。では、言語的分節世界という他者は、言語集蔵体(ママ)の如きものなのであろうか。もちろん、そうではない。言葉は、言語的分節世界という他者の存立を可能ならしめている死者たちから、彼岸から、言わば贈与されるのである。生者が収奪する言葉は、死者が贈与する言葉にほかならない。この収奪と贈与が成功したとき、言葉は、歴史的に構造化された言葉として力をもつのである。それゆえ、われわれの言葉は、意識的には、主体的に限定された他者の言葉なのであるが、無意識的には、歴史的に限定された死者の言葉なのである。死者の言葉は、悠久の歴史のなかで、死者たちの群れから生者たちへと、一気に、その示差的な全体的体系において、贈与され続ける。それゆえに、言語的分節世界としての他者は歴史的に構造化され続けるのである。

 言語集蔵体とは阿頼耶識(あらやしき/蔵識とも)をイメージした言葉だろう。茂木健一郎が似たことを書いている。

「悲しい」という言葉を使うとき、私たちは、自分が生まれる前の長い歴史の中で、この言葉を綿々と使ってきた日本語を喋る人たちの体験の集積を担っている。「悲しい」という言葉が担っている、思い出すことのできない記憶の中には、戦場での絶叫があったかもしれない、暗がりでのため息があったかもしれない、心の行き違いに対する嘆きがあったかもしれない、そのような、自分たちの祖先の膨大な歴史として仮想するしかない時間の流れが、「悲しい」という言葉一つに込められている。
「悲しい」という言葉一つを発する時、その瞬間に、そのような長い歴史が、私たちの口を通してこの世界に表出する。

【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】

 ここにネオ=ロゴスが立ち上がる。

 言い換えるならば、言語的分節世界という他者から排除され、言葉を主体的に収奪限定する機会を失ってしまった独我者が、自力で創造せんとする新たなる言葉、ネオ=ロゴスこそ独語にほかならない。主体不在の閉鎖回路をめぐり続ける独語に、示差的機能を有する安定した体系を求めるのは不可能であろう。それにもかかわらず、他者から排除された独我者は、恐らくは人間の最奥の衝動のゆえに、ネオ=ロゴスを創出しようとする。もちろんここに意識的な意図やいわゆる無意識的な願望をみることなど論外だろう。もっと深い、狂気に陥った者の人間としての最も原初的かつ原始的な力動が想定されねばなるまい。



 ネオ=ロゴスは、死者を実体的に喚起し創造し“蘇生”させると、返す刀で狂的なる生者を“殺害”するのである。これが先に述べた、ネオ=ロゴスの死相の二重性にほかならない。ネオ=ロゴスは、全く新奇な“死者の言葉”あるいは“死の言葉”であると言っても過言ではない。

 スリリングな論考である。だが狂気に引き摺り込まれているような節(ふし)も窺える。はっきり言って渡辺も茂木も大袈裟だ。無視できないように思ってしまうのは、彼らの文体が心地よいためだ。人は文章を読むのではない。文体を感じるのだ。これが読書の本質である。

 言葉や思考は脳機能の一部にすぎない。すなわち氷山の一角である。渡辺の指摘は幼児の言葉にも当てはまる。そして茂木の言及は幼児の言葉に当てはまらない。

 生の営みを支えているのは思考ではなく感覚だ。我々は日常生活の大半において思考していない。

 どうすればできるかといえば、無意識に任せればできるのです。思考の無意識化をするのです。
 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
 意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
 無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。

【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

 結局、「生きる」とは「反応する」ことなのだ。思考は反応の一部にすぎない。そして実際は感情に左右されている。ヒューリスティクスが誤る原因はここにある。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 意外に思うかもしれないが、本を読んでいる時でさえ我々は無意識なのだ。意識が立ち上がってくるのは違和感を覚えたり、誤りを見つけた場合に限られる。スポーツを行っている時はほぼ完全に無意識だ。プロスポーツ選手がスランプに陥ると「考え始める」。

 渡辺と茂木の反応は私の反応とは異なる。だからこそ面白い。そして学ぶことが多い。

死と狂気 (ちくま学芸文庫)
渡辺 哲夫
筑摩書房
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脳と仮想 (新潮文庫)
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心の操縦術 (PHP文庫)
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苫米地 英人
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圧縮新聞
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治
ワクワク教/『未来は、えらべる!』バシャール、本田健

2012-02-13

宗教とは何か?


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト

 忘れないうちに記録しておく。いきなり読んでも理解に苦しむことと思われるので、せめてキリスト教の知識を身につけてから読むことが望ましい。

『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠
『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『イスラム教の論理』飯山陽
『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『唯脳論』養老孟司
『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『死生観を問いなおす』広井良典
『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎
『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎
『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎
『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ
『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
『マインド・コントロール』岡田尊司
『宗教で得する人、損する人』林雄介
『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世
『サバイバル宗教論』佐藤優
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス
『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人
『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ
『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ
『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 ・宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
 ・宗教とは何かを理解するための6つの諸類型かんたんなまとめ
 ・宗教とは何か
 ・宗教とは何か?
 ・「宗教とは何か」真宗大谷派 福壽山 圓光寺

2009-11-08

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二


『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 ・人間に自由意思はない

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』妹尾武治
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二


 脳科学の最新トピックを紹介する軽めの科学エッセイ。といっても、軽いのは文体であって内容はヘビー級だ。恐るべきスピードで進展する科学の世界は刺激に満ちていて昂奮させられる。

 では早速本題に入ろう――

 科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。

【『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(祥伝社、2006年/新潮文庫、2010年)以下同】

 マジっすか? ってこたあ、人間はただ反応しているだけなんスか? 池谷さんよ、証拠を出して下さいよ、証拠を!

 ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。神経細胞も全部で数万個しかありません。これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。この神経回路をしらみ潰(つぶ)しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。
 実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。

 神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。
 神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。
 そして、わかったことはこうだったのです。細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。実にそれだけのことだったのです。〈自由意思〉、〈選択〉をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。
 私たちの高度な〈選択〉もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。

 エ? ヒルと人間を一緒にするんですか? 確かに他人の生き血を啜(すす)っているような連中はいる。ヌラァーっとした性格の男も存在する。やっぱりヒルと遜色がないのか? ないね。違うとすれば記憶の量だけだろう。

 文化、価値観、善悪、損得、好き嫌い、欲望、願望、希望、理想、そして時間の概念――これらは全て記憶に依存しているのだ。決断とは、記憶の中から瞬間的に整合性を導き出す瞬発力を意味する。実は足し算引き算程度の関数しか働いていないように感じる。

 これがだ、脳内の電気信号による「ゆらぎ」に過ぎないとすれば、我々の人生――つまり選択の積み重ね――ってえのあ、風まかせということになる。「愛は風まかせ」なのは知っていたが、よもや脳まで風まかせだったとは……。

 でも、よく考えてみると自然界の一切がゆらめいている。光と風、雲や波、そして川……。何も気体と液体に限ったことではない。固体だって時間とともに風化するのだ。長大な時間軸から見ればやはり流動的なのだ。フーム、諸行無常か。そして万物は流転する。

 結構ショッキングな事実ではあるが、「なあんだ、ゆらぎだったのね」と安心するような気持ちにもなる。決断には責任が伴うが、ゆらぎだと思えば何度でもやり直しができそうな気になってくる(笑)。昨日のゆらぎで失敗したなら、今日反対方向に揺さぶればいいだけの話だ。

 ただ、こんな話を知ってしまうと選挙結果なんか、まるで信用できなくなる。日本人の脳がたまたま民主党にゆらいでしまったということなのだろう。

 どうやら、条件反射の能力を磨く必要がありそうだ。



自由意志は解釈にすぎない
瞑想の世界を見ることができる情報機器/『ひとりっ子』グレッグ・イーガン
意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2014-03-01

マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康


「腐敗した銀行制度」カナダ12歳の少女による講演
30分で判る 経済の仕組み
「Money As Debt」(負債としてのお金)
武田邦彦『現代のコペルニクス』 日本の重大問題(2)国の借金

 ・マネーと民主主義の密接な関係

『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

 マネーと民主主義の欺瞞に斬り込む好著。天野統康〈あまの・もとやす〉はファイナンシャル・プランナーで文章は「わかりやすい合理性」に心を砕いている。資本主義経済は既に政治を凌駕した。政治は経済に収束され、利権に着地する。選挙民は自分の頭で考えることなく、所属している企業・団体・組織・教団が支持する候補に投票する。大衆には責任がない。民主主義は必ず衆愚へと向かう。エントロピーは常に増大するのだ。

 冒頭で天野はマネーの多面性と構造が、「操作される民主主義」「偽りに基づく民主主義」へ誘導されたと指摘する。卓見である。近代をどう定義づけるかによって現代の姿は変わって映る。一般的には国民国家資本主義の誕生といわれるが、その淵源を知らなければただのお題目となる。

 千数百年にわたって積もりに積もってきたキリスト教のストレスは魔女狩りという形で発散した。西洋の中世は暴力の季節であった。その渦中からプロテスタントという花が咲いた。カトリックは金銭欲や私益を戒めた。プロテスタントは聖書を合理的に読み解くことで世俗的な欲望を認めた。

マルティン・ルターとジャン・カルヴァンの宗教改革(プロテスタンティズム)

 国民国家と資本主義といっても要は暴力とカネだ。しかも国民国家を待望したのは身分が不安定で金貸しをやらされてきたユダヤ人であったことも見逃してはなるまい。

何が魔女狩りを終わらせたのか?
「キリスト教征服の時代」から脱却する方途を探る

 資本主義経済と民主主義政治の融合は、ソ連などの20世紀型共産主義諸国が崩壊した後、最も主流となっている政治経済体制である。
 いきなり結論をお伝えするが、今までの自由民主主義諸国のほとんどは、国民よりも金融権力が社会への決定権において上位であった。
 金融権力は自らの金融力を基に、経済体制としての資本主義と、政治体制としての民主主義を巧みに操作してきた。
 この政治システムが実は、「【国際金融権力】」といわれる欧米の金融財閥を頂点とした力関係の中で営まれてきたのである。
 そのことについて、自由民主主義諸国の市民の多くは気づいてこなかった。マネーという、社会をコントロールする最大のツールを乗っ取られたことに気づいてこなかったのだ。
 そんな馬鹿な? と思うかもしれないが事実である。その証拠にマネーがどう作られ、どう無くなるのか知っているかを周りの人に聞いてみるとよい。ほとんどの人は答えられないだろう。
 マネーという支配ツールから目を逸らさせるために、金融権力は多大なる努力を払ってきた。その成果がさまざまな経済学である。経済の最も基本となるマネーについて、経済学は共通の定義をしてこなかった。その結果、ほとんどの人がマネーが増減するシステムを意識していない。

【『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康〈あまの・もとやす〉(成甲書房、2012年)】

 天野は民主主義と資本主義経済が組み合わさった社会を「自由民主主義経済社会」と名づける。布教しているのは第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカとイギリスだ。プロテスタント国家でもある。

 我々にとって幸福や価値はカネで量(はか)るものに転落した。それどころかカネがなければ食うこともままならない。この事実がどれほど自然の摂理に反していることだろう。動物は労働とは無縁だ。

 信用創造というユダヤ人が編み出したビッグバンをプロテスタントが採用した。この時、人類の命運は決まった。脳が有するシンボル能力(『カミとヒトの解剖学』養老孟司)はマネーに特化し、すべての価値はカネに換算されるようになった。

 プロテスタントはマルティン・ルターが呈した「贖宥状への糾弾」に端を発している。そして宗教改革は「活版印刷術を用いて安価で大量の宣伝パンフレットを流布」(『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』永田諒一)させることで実現した。つまり「カネと広告」だ。

 近代からアメリカが生まれた。ヨーロッパ人はインディアンを大量虐殺し、黒人奴隷を輸入することで栄えた。そのアメリカが世界の頂点に君臨する以上、我々の世界が暴力とカネに彩られることは避けられない。

 マネー・システムと化した世界を読み解く上で格好の入門書。次作にも期待が募る。




 類書を挙げておこう。左上から順番で読むのが望ましい。


 ファイナンシャル・リテラシーについては以下。

ファイナンシャル・リテラシーの基本を押さえる

 租税を回避するオフショア経由のマネーロンダリングについては以下。

マネーロンダリング入門―国際金融詐欺からテロ資金まで (幻冬舎新書)タックス・ヘイブン――逃げていく税金 (岩波新書)タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!

 米英による具体的な世界支配については以下の書評を参照せよ。

経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人
資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

 最後に動画を挙げておく。

Ende's Last Will
『モノポリー・マン 連邦準備銀行の手口』日本語字幕版
『Zeitgeist/ツァイトガイスト(時代精神)』『Zeitgeist Addendum/ツァイトガイスト・アデンダム』日本語字幕
映画『なぜアメリカは戦争を続けるのか』
『アメリカ:自由からファシズムへ』アーロン・ルッソ監督
『ザ・コーポレーション(The Corporation)日本語字幕版』



官僚機構による社会資本の寡占/『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃
「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

2016-07-18

必読書リスト その三


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト その一
     ・必読書リスト その二
     ・必読書リスト その三
     ・必読書リスト その四
     ・必読書リスト その五

『青い空 幕末キリシタン類族伝』海老沢泰久
『新訂 福翁自伝』福澤諭吉
『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編
『緑雨警語』斎藤緑雨、中野三敏編
『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『人類を変えた素晴らしき10の材料 その内なる宇宙を探険する』マーク・ミーオドヴニク
『世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史』スティーブン・ジョンソン
『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二
『もう牛を食べても安心か』福岡伸一
『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』本川達雄
『脳はバカ、腸はかしこい』藤田紘一郎
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』ペーター・ヴォールレーベン
『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子
『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦
『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ
『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎
『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎
『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎
『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル
『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ
『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島裕介
『複雑系 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち』M・ミッチェル・ワールドロップ
『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン
『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル
『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー
『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』山本康正
『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ
『データ資本主義 ビッグデータがもたらす新しい経済』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、トーマス・ランジ
『アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る』藤井保文、尾原和啓
『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール
『養老孟司の人間科学講義』養老孟司
『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
・『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー
『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ
『アルゴリズムが世界を支配する』クリストファー・スタイナー
『生命を進化させる究極のアルゴリズム』レスリー・ヴァリアント
『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン
『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也、二間瀬敏史
『生物にとって時間とは何か』池田清彦

2010-02-03

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹

 ・目指せ“明るい教祖ライフ”!
 ・宗教の硬直化

『死生観を問いなおす』広井良典
『イエス』R・ブルトマン
『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤

宗教とは何か?
キリスト教を知るための書籍
ヒップホップで学ぶ日蓮

 サブカル手法でアプローチする世界宗教入門、といった内容。記述が正確で、大変勉強になった。「教祖を目指す」というネタで、実は「教団の力学」を明らかにしているところがお見事。冷徹な眼差しから繰り出されるユーモアといった味つけだ。

 本書の教えを遵守すれば、きっと明るい教祖ライフが開けるでしょう。教祖にさえなれば人生バラ色です!

【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)以下同】

 この一言で教祖を目指す人はまずいない。が、しかし、信仰の動機が欲望に支えられていることを巧みに表現している。「幸せになりたい」という願望は、現在が不幸である証なのだ。他人の不幸に付け込むのが、宗教という宗教の常套手段である。言わば「不安産業」。

 では果たして、教祖の機能とは何か?

 では、最初にもっともシンプルな教祖の姿を提示します。教祖の成立要件は以下の二要素です。つまり、「なにか言う人」「それを信じる人」。そう、たったふたつだけなのです。この時、「なにか言う人」が教祖となり、「それを信じる人」が信者となるわけです。

 シンプルにして明快。一瞬、「エ?」と思わされるが、よくよく考えてみると確かにこの通りだ。教義の高低・浅深は関係ない。教祖と信者の関係性は、こうして生まれここに極まるのだ。

 ヒトという動物の特徴は色々あるが、何と言っても際立っているのは「コントロールするのが好き」という点であろう。スポーツは身体のコントロールである。車や機械の運転は、延長された身体性と考えられる。そして極めつけは「他人をコントロールすること」だ。

 小犬を見ては「お手」を無理強いし、子供が生まれると躾(しつけ)や教育と称して、家のしきたりや社会通念を叩き込む。長ずるに連れ、よりよい学歴を目指すことを強制し、社会に出るや否や地位獲得に余念がない。地位とは、「多くの人々をコントロールできる立場」のことである。

 脳や身体がネットワークを形成している以上、社会がネットワーク化(ヒエラルキー化)することは避けられないのだ。そしてコントロールの最終形が宗教と拳銃であると私は考える。生殺与奪を握っているという点において、この両者は顔の異なる双子なのだ。

 ゲラゲラ笑いながら読んでいると見落としがちであるが、そこここに慧眼(けいがん)が窺える――

 さて、ここからは具体的な教義作成について考えていきますが、最初にはっきりと述べておきたいことがあります。皆さんの中に、宗教に関して次のような持論をお持ちの方はいませんか。すなわち、「宗教は社会の安寧秩序を保ち、人々の道徳心を向上させるものであり、社会を乱すものであってはならない」と。残念ながら、これはとんだ見当外れなので直ちに忘れて下さい。宗教の本質というのは、むしろ反社会性にあるのです。特に新興宗教においては、どれだけ社会を混乱させるかが肝(きも)だということを胸に刻んでおいて下さい。
 現に大ブレイクした宗教を見てみると、どれもこれも反社会的な宗教ばかりです。イスラム教しかり、儒教しかり、仏教しかり。どれも最初はやべえカルト宗教でした。しかし、その中でも最もヤバいカルトはキリスト教でしょう。イエスの反社会性は只事ではありません。罪びとである徴税人と平気でメシを食い、売春婦を祝福し、労働を禁じられた安息日に病人を癒し、神聖な神殿で暴れまわったのです。当時の感覚で言えばとんでもないアウトローで、もちろん社会の敵なので捕らえられて死刑にされます。同胞のユダヤ人からも、「強盗殺人犯は許せてもイエスだけは許せねえ」と言われる程の嫌われっぷりでした。しかし、イエスはこれほど反社会的だったからこそ、今の彼の名声があるとも言えるのです。

 これはまさしく、クリシュナムルティが説いている「反逆」である。普通に生きている人々は、普通の状態において既に「社会の奴隷」となっている。つまり、形成された社会を容認してしまえば、信者は二重の意味で奴隷となるのだ。とすると、社会にプロテスト(異議申し立て)することで何らかの自由を目指す必然性が生じる。このようにして社会の奴隷は、奴隷である自分の立場に気づき、自由を求めて今度は教祖の奴隷となるのだ。ま、早い話が「ご主人様」を取り替えただけのことだ。

 人間の価値観というものは、その殆どが作られた幻想に過ぎないが、最も奥深い部分に埋め込まれたソフトウエアが宗教である。本来であれば人間を解放するための宗教が、教義によって人間を束縛するというジレンマを抱え込む。自由になるためには犠牲が伴うのだ。

 だが、真の宗教、あるいは思想、または普遍的な物語はそうではあるまい。既成の価値観に反逆しながらも、教祖や教義、そして自分自身からも自由になる方途があると私は信ずる。なぜなら、それがなければ世界の平和は成立しないことになるからだ。

 今、世界平和を妨げているものは国家、民族、そして宗教である。いっそのこと全部なくすか、新しくするべきだ。

2011-09-15

進化医学的視点の欠落/『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン


「スティグマ」とは烙印の意。奴隷や家畜に押される焼き印を指すが、英語にはイエスの聖痕の意味もあるようだ。つまり、この言葉には二重の憎悪が仕込まれていると考えてよい。

 わかりにくい本であった。合理性の極まるところに数学が生まれ、悟性から発せられた言葉が詩であるとすれば、どちらからも遠い位置に本書はあると思う。で、翻訳も多分よくない。

 哲学的な慎重さに私のような一般人は耐えることができない。江戸っ子は気が短いのだ。

【スティグマ】という言葉を用いたのは、明らかに、視覚の鋭かったギリシア人が最初であった。それは肉体上の徴(しるし)をいい表す言葉であり、その徴は、つけている者の徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人びとに告知するために考案されたものであった。徴は肉体に刻みつけられるか、焼きつけられて、その徴をつけた者は奴隷、犯罪者、謀叛人──すなわち、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者(とくに公共の場所では)であることを告知したのであった。

【『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン:石黒毅〈いしぐろ・たけし〉訳(せりか書房、2001年)以下同】

 烙印の権力構造である。罪を犯した者につけられる負の表象。去勢したり、鼻を削ぐのも同様で「差別のサイン」が見て取れる。

 社会は、人びとをいくつかのカテゴリーに区分する手段と、それぞれのカテゴリーの成員に一般的で自然と感じられる属性のいっさいを画定している。さまざまの社会的場面(セッティング)が、そこで通常出会う人びとのカテゴリーをも決定している。状況のはっきりした場面では社会的交渉のきまった手順があるので、われわれはとくに注意したり頭を使わなくても、予想されている他者と交渉することができる。したがって未知の人が面前に現われても、われわれは普通、最初に目につく外見から、彼のカテゴリーとか属性、すなわち彼の〈社会的アイデンティティ〉を想定することができるのである。

 だから西部劇に登場する保安官はよそ者にうるさいわけだ。わからない者は映画『ランボー』を見よ。

 相手の人にわれわれが帰属させている性格は、予想された行為から顧みて(in potential retrospect)行なわれる性格付与──すなわち〈実効をもつ〉性格づけ、すなわち【対他的な社会的アイデンティティ】(a virtual sosial identity)とよぶのがよかろう。

 人は見かけで判断する。そんなに小難しくいう必要はない。

 未知の人が、われわれの面前にいる間に、彼に適合的と思われるカテゴリー所属の他の人びとと異なっていることを示す属性、それも望ましくない種類の属性──極端な場合はまったく悪人であるとか、危険人物であるとか、無能であるとかいう──をもっていることが証明されることもあり得る。このような場合彼はわれわれの心のなかで健全で正常な人から汚れた卑小な人に貶(おとし)められる。この種の属性がスティグマなのである。ことに人の信頼/面目を失わせる(discredit)働きが非常に広汎にわたるときに、この種の属性はスティグマなのである。この属性はまた欠点/瑕疵(かし)、短所、ハンディキャップともよばれる。スティグマは、対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの間のある特殊な乖離を構成している。

 言いたいことはわかる。わかるんだけどさ、進化医学的視点が欠落してんのよ(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス)。「望ましくない種類の属性」の最たるものは疫病(えきびょう)なのだ。それを文化面からしか考えていないから、難解な思考の虜になっているのだろう。

 そこでスティグマという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性をいい表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなく関係を表現する言葉なのだ、ということである。

 別に「レッテル」で構わないんじゃないの? バブル経済に向かう途中くらいから「価値観の多様化」といわれるようになった。そしてバブルが崩壊すると今度は「『らしさ』が失われた」と喧伝された。ただし、ステレオタイプの否定は風潮として残っている。

 これには重大な見落としがあって、脳機能(=思考、言語)がアナロジーから生まれたものであるならば、カテゴリー化は避けられないのだ。それゆえ、カテゴライズの正しいあり方を模索するのが合理的だと私は思う。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 更に異なる思想や文化を学ぶ作業が求められよう。本当は義務教育からきちんとやるべきなんだけどね。

 たとえば精神疾患の病歴がある人たちは、配偶者とか雇主と感情的に激しく衝突するのをまま恐れる。というのは、感情を表出すると、それが精神疾患の徴候とされるのではないかという懸念があるからである。精神的に障害のある者も同様の偶発的問題に直面する。

 知的能力が低い者が何らかの面倒に巻き込まれると、その面倒は多かれ少なかれ自動的に〈知的障害〉に起因するものとされるが、〈通常の知能〉の人が似たような面倒に巻き込まれても、とくにこれといった原因の徴候とは見られないのである。

 弱者不利の原則。うしろゆびさされ組。クラスの嫌われ者には無数の仇名が与えられる。

 そう考えると「見られること」を強く意識する日本人には弱者傾向があるのかもしれない。世間体、見栄坊、名を惜しむ、武士は食わねど高楊枝。

 もともと差別主義者である欧米の連中の差別に関する論考は欺瞞の匂いが強い。「新しい共同」といった言葉も同様だ。共産主義みたいな悪しき人為性を感じてならない。

【付記】原書は1963年の発行であった。進化医学は知らなくて当然である。著者は黒人の公民権運動を見つめていたのだろう。

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

2022-01-13

構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する/『唯脳論』養老孟司


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 心身論を考えるときに、もっと身近で、かつ重要な例がある。それは死体である。なにはともあれ、解剖学者としては、死体はもっとも身近だと言わざるを得ない。死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう。これを生物学の文脈で言えば、構造と機能の分離ということになる。死体では、肝、腎、脳といった構造は残存しているが、もはや機能はない。
 このことから、説得力が強く、かつ非常に長期にわたって存在する、大きな誤解が生じた。それは、構造と機能の分離が「対象において存在する」という信念である。すでに述べたように、私の意見では、構造と機能は、われわれの「脳において」分離する。「対象において」その分離が存在するのではない。

【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 やはりこの人は左翼っぽい。出版されている対談の相手を見ると、ほぼ左翼である。また「たかが教育」と言いながら戦後教育を肯定する節も窺える。私が読んできた限りでは皇室への敬意を感じる文章も皆無だ。シンパよりも隠れ左翼に近い印象を受ける。「唯脳論」とのタイトルも「唯物論」へのオマージュなのかもしれない。

 即物的な文章が、どこかニヒルやハードボイルドを思わせるが、結局唯物的なのだろう。昭和12年(1937年)生まれだから少国民世代(『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり)よりは後の生まれだが、子供にとって敗戦の記憶は複雑な憎悪として働くのだろう。個人的には昭和一桁~団塊の世代(昭和21~23年生まれ)が戦後日本の命運を左右したと考えている。戦前生まれは学生運動をどのように眺めていたのかが気になるところだ。

 もう少し深読みをすれば、戦後エリートがマルクス主義に傾斜したのは、戦前エリートの特攻隊と同じ轍を踏まないための知的武装であった可能性もある。仮にそうであったとしても、自らの命と引き換えに米軍の本土上陸を阻止した先人への敬意を失えば、人の道から外れることは当然だろう。

2014-09-18

クルト・ゲーデルが考えたこと/『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎


『死生観を問いなおす』広井良典

 ・ゲーデルの生と死
 ・すべての数学的な真理を証明するシステムは永遠に存在しない
 ・すべての犯罪を立証する司法システムは永遠に存在しない
 ・アインシュタイン「私は、エレガントに逝く」
 ・クルト・ゲーデルが考えたこと

『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ゲーデル自身の哲学的見解については、「ドウソン目録6」の中から興味深い哲学メモが発見された。このメモは、ゲーデルが、自分の哲学的信念を14条に箇条書きにしたもので、『私の哲学的見解』という題が付けられている。ワンの調査によると、このメモは、1960年頃に書かれたものである。

 1.世界は合理的である。
 2.人間の理性は、原則的に、(あるテクニックを介して)より高度に進歩する。
 3.すべての(芸術も含めた)問題に答を見出すために、形式的な方法がある。
 4.〔人間と〕異なり、より高度な理性的存在と、他の世界がある。
 5.人間世界は、人間が過去に生き、未来にも生きるであろう唯一の世界ではない。
 6.現在知られているよりも、比較にならない多くの知識が、ア・プリオリに存在する。
 7.ルネサンス以降の人類の知的発見は、完全に理性的なものである。
 8.人類の理性は、あらゆる方向へ発展する。
 9.正義は、真の科学によって構成されている。
 10.唯物論は、偽である。
 11.より高度な存在は、他者と、言語ではなく、アナロジーによって結びつく。
 12.概念は、客観的実在である。
 13.科学的(厳密な学としての)哲学と神学がある。これらの学問は、最も高度な抽象化概念を扱う。これらが、科学において、最も有益な研究である。
 14.既成宗教の大部分は、悪である。しかし、宗教そのものは、悪ではない。

【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、1999年)】

 数学の限界を突き止めた頭脳は何を考えたのか? その答えの一端がここにある。不思議なことだが「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを明らかにした男は死ぬまで神を信じていた。無神論者であったアインシュタインと神についての議論をしたのだろうか? 気になるところだ。


 メモからは理性への大いなる信頼が読み取れる。私が特に注目したのは11と12だ。11はコミュニケーションの真相に触れていそうだし、12は情報理論によって証明されつつある。

 類推(アナロジー)能力が「脳の余剰から生まれた」(『カミとヒトの解剖学』養老孟司)とすれば、動物と人間を分かつ英知の本質は類推にあるのだろう。言葉はシンボルである。「川」という言葉は川そのものではない。どこの川かわからないし、水量や幅もわからない。もしかすると三途の川かもしれないし、ひょっとすると「川」ではなく「革」か「皮」の可能性だってあり得る(言い間違いや誤変換)。

 にもかかわらず我々がコミュニケーションできるのは言葉というシンボルを手掛かりにして類推し合っているからだ。すなわち言葉そのものが類推の産物なのだ。であればこそ言葉は通じるのに意思の疎通が困難な場合があるのだろう。反対に言葉を介さぬコミュニケーションが成り立つこともある。団体で行う球技やシンクロナイズドスイミングなど。

 で、たぶん類推は視覚に負うところが大きい。「これ」と言われたら見る必要がある。通説だと言葉は名詞から始まったとされているが、多くの名詞は物の名前だ。とすると肝心なのは「何をどう見るか」というあたりに落ち着く。つまりコミュニケーションは「ものの見方」に左右されるのだろう。世界を、そして生と死をどう見つめているかが問われる。

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

2020-01-08

貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 ・貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

宗教とは何か?

山極●世界宗教と呼ばれる宗教は、最初は価値の一元化、倫理の一元化を目指して文化を取り込んでいき、それぞれが交じり合うこともあったと思いますが、いずれも大きな壁にぶつかってしまった。それを追い越していったのは経済のグローバル化だと思うんですよ。

小原●経済活動の拡大が宗教に及ぼした影響は、間違いなく大きいです。

山極●貨幣が、モノの流通が宗教を追い越していった。宗教の境界があるにもかかわらず、モノはどんどん交換され、貨幣は流通していった。だから、貨幣はユーロという統一を果たしましたが、言語までは変えられなかった。つまり、言語の一元化はできなかった。同様に、文化の一元化もなかなか起こりえない。なぜならば、言語や文化というものは身体化されたものだからです。一方、貨幣というのは、いうなれば幻想の価値観を一定のルールのもとに共有しているに過ぎない。ですからそれは普及しやすい。それによって、宗教の力がどんどん圧縮されて、経済の方が実は宗教としての力を持つようになってきている。

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

 思いつくままに関連書を挙げたが一冊の本が脈絡を変える。何をどの順番で読むかで読書体験は新たな扉を開く。それは一種の「編集」と言ってよい。実は細胞の世界でもコピー、校正、編集が繰り返し行われている(『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー)。ミクロからマクロに至るあらゆる世界で実行されているのは「情報のやり取り」だ。

「貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった」理由は情報の速度にあったのだろう。人々が「信じる」ことによって価値は創出される。神は存在があやふやだし、祝福には時間を要する。その点キャッシュ(貨幣)はわかりやすい。誰もがその価値を信用しているから即断即決だ。祈り(労働対価)と救済(消費)が数秒で交換される。

 日本で貨幣が流通するようになったのは鎌倉時代である。つまり宗教改革と金融革命が同時に起こった。更に国家意識が高まった事実も見逃せない。元寇によってそれまでは地方でバラバラになっていた武士集団が日本を守るために一つとなった。

 敗戦後に新宗教ブームが興ったが、これも高度経済成長で熱が冷めた。宗教は経済に駆逐される。

 貨幣は万人が信ずるという点において最強の宗教と化した。今となっては疑う者は一人もあるまい(笑)。果たしてマネーの速度を超える情報は今後生れるのだろうか? 経済を超える交換の仕様は成立するのだろうか? 現段階では全く思いつかない。

2022-01-12

脳と心/『唯脳論』養老孟司


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」
 これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
 循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。

【『唯脳論』養老孟司(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 つまり、心は脳機能であるということ。作用としての心。心として働く。養老の考え方は諸法無我と似ている。

 脳の構造からいえば思考(大脳皮質)と感情(辺縁系)と運動(小脳)を司るところに心が位置する。

「心」という漢字が作られたのは後代であること(『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登)や、ジュリアン・レインズの二分心を踏まえると、【言葉の後に】心が発生したことがわかる。

 人間にとって言葉は智慧であり、病でもあるのだろう。

2014-03-04

ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ


 過去何百年もの間に、数え切れないほど多くの科学者や哲学者がこの私たちのユニークさをあるいは認め、あるいは否定してあらゆる種類の人間らしさの前例をほかの動物に求めてきた。近年、独創的な科学者たちが、純粋に人間だけのものとばかり思われていた多種多様の事例の前例を見つけている。私たちは、自らの思考について考える(これを「メタ認知」という)能力を持つのは人間だけだと思っていた。だが、考え直したほうがよさそうだ。ジョージア大学の二人の神経科学者が、ラットにもその能力があることを立証した。ラットは自分が何を知らないかを知っていることがわかったのだ。

【『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ:柴田裕之訳(インターシフト、2010年)】

 メタには「高次な」「超」といった意味がある。ヒトは五感情報を統合し、更にもう一段高いレベルで自分の思考や感情を客観的に捉えることができる。これをメタ認知という。脳にダメージを受けると高次脳機能障害となる。メタ認知機能の崩壊といってよい。

病気になると“世界が変わる”/『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉

 以下、関連リンク。

脳とネットワーク/The Swingy Brain:「我思う」ラット
どっちにする?考え中!: 感性でつづる日記

 ってことは、マウスに思考があることを示唆する。あいつらにはあいつらの「考え」があるのだ。すると「意志」があっても不思議ではない。ただし言語が発達しているようには見えないから、たぶん視覚情報を言語化しているのだろう(『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン)。

 サルは非辺縁系の感覚を二つ、連合させることができない。人間はそれができる。そしてそれが、ものに名前をつけ、より上位の抽象化のレベルを進んでいく能力の基盤となっているのだ。

【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック(リチャード・E・サイトウィック):山下篤子訳(草思社、2002年)】

 名前を付け(名詞化)、カテゴライズ(類推→アナロジー〈『カミとヒトの解剖学』養老孟司〉)することができるのは実は凄い能力なのだ。結びつける認知能力といってもよいだろう。

 それにしては人間と人間を結ぶ能力が発達しないのはどういうわけか? 個人的には人間の知性よりもラットの本能の方が優れていると思う(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

2009-03-26

体から悲鳴が聞こえてくる/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 近年、脳科学本が充実しているが、身体論と併せて読まなければ片手落ち(※差別用語じゃないからね)となる。人体にあって、確かに脳は司令塔であるが、五官からの情報によって脳内のネットワークが変化することもある(池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』朝日出版社、2004年)。つまり、脳と身体はフィードバックによる相互関係で成立している。

 いつの頃からか、若者が自分の身体を傷つけるようになった。一般的に攻撃性は他者に向かう。だから、いじめは昔からあった。それどころか、実はチンパンジーの世界にもいじめが存在する(フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』早川書房、2005年)。社会を構築する動物の世界には、確固たる“権力”が存在する。そして社会はピラミッド型の序列(ヒエラルキー)を形成する。で、下の奴が上の奴にいじめられるってわけだ。

 若者の自傷行為は、引きこもりと相前後していると思われる。と言うよりも、むしろ引きこもり自体がある種の自傷行為と考えていいのかもしれない。

 鷲田清一は、身体が本来持っていた智慧が失われ、悲鳴を上げていると指摘している――

 なにか身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している智恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか。あるいは、そういう身体のセンスがうまく働かないような状況が現れてきているのではないか。
 そんな身体からなにやら悲鳴のようなものが聞こえてくる気がする。身体への攻撃、それを当の身体を生きているそのひとがおこなう。化粧とか食事といった、本来ならひとを気分よくさせたり、癒したりする行為が、いまではじぶんへの、あるいはじぶんの身体への暴力として現象せざるをえなくなっているような状況がある。
 たとえばピアシング。芹沢俊介は、ある新聞記事のなかで(『朝日新聞』1995年8月30日夕刊)、「一つの穴(ピアス用の)を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる」という男子の言葉を引き、次のようにのべている。
「気になることというのは、彼らが自己の体に負荷をかけ続けることで自我の脱落という感覚を手に入れている点である。自分を相手にしたこの取引において、彼らは自己の体への小さな暴力といっていいような無償の負荷──フィジカルな負荷──を自分から差し出すことによって、精神的な報酬を得ている。教団という契機を欠いているけれど、私にはこれが宗教に近い行為のように映るのである」、と。
 あるいは摂食障害という、食による自己攻撃。
 あるいは、生理がなくなって、なのにそれがうれしい、身軽になった感じという、20代の女性の感覚。
 あるいはセックス。〈食〉と同じように〈性〉という現象にも過敏になって、とりあえず早くやりすごしたいと思う思春期の女性が増えているという。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 自傷行為は“生”の暴走なのか落下なのか。はたまた、“生きる側”に必死でしがみつく行為なのか。あるいは自分で自分に下す罰なのか――私にはわからない。

「彼女達は“生きるため”にリストカットをする」と宮台真司が言っていた。しかしながら、やってることは自分自身に対する暴力である。つまり、「生きるための暴力」を正当化することになりかねない。

 私は違うと思う。彼女達はリストカットをするたびに「死んでいる」のだ。そして、手首から滴り落ちる血の中から再び生まれてくるのだろう。

 若者の自傷行為は、「生きるに値しない世の中」に対する絶望的な抗議である。



自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他