2011-09-15

進化医学的視点の欠落/『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン


「スティグマ」とは烙印の意。奴隷や家畜に押される焼き印を指すが、英語にはイエスの聖痕の意味もあるようだ。つまり、この言葉には二重の憎悪が仕込まれていると考えてよい。

 わかりにくい本であった。合理性の極まるところに数学が生まれ、悟性から発せられた言葉が詩であるとすれば、どちらからも遠い位置に本書はあると思う。で、翻訳も多分よくない。

 哲学的な慎重さに私のような一般人は耐えることができない。江戸っ子は気が短いのだ。

【スティグマ】という言葉を用いたのは、明らかに、視覚の鋭かったギリシア人が最初であった。それは肉体上の徴(しるし)をいい表す言葉であり、その徴は、つけている者の徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人びとに告知するために考案されたものであった。徴は肉体に刻みつけられるか、焼きつけられて、その徴をつけた者は奴隷、犯罪者、謀叛人──すなわち、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者(とくに公共の場所では)であることを告知したのであった。

【『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン:石黒毅〈いしぐろ・たけし〉訳(せりか書房、2001年)以下同】

 烙印の権力構造である。罪を犯した者につけられる負の表象。去勢したり、鼻を削ぐのも同様で「差別のサイン」が見て取れる。

 社会は、人びとをいくつかのカテゴリーに区分する手段と、それぞれのカテゴリーの成員に一般的で自然と感じられる属性のいっさいを画定している。さまざまの社会的場面(セッティング)が、そこで通常出会う人びとのカテゴリーをも決定している。状況のはっきりした場面では社会的交渉のきまった手順があるので、われわれはとくに注意したり頭を使わなくても、予想されている他者と交渉することができる。したがって未知の人が面前に現われても、われわれは普通、最初に目につく外見から、彼のカテゴリーとか属性、すなわち彼の〈社会的アイデンティティ〉を想定することができるのである。

 だから西部劇に登場する保安官はよそ者にうるさいわけだ。わからない者は映画『ランボー』を見よ。

 相手の人にわれわれが帰属させている性格は、予想された行為から顧みて(in potential retrospect)行なわれる性格付与──すなわち〈実効をもつ〉性格づけ、すなわち【対他的な社会的アイデンティティ】(a virtual sosial identity)とよぶのがよかろう。

 人は見かけで判断する。そんなに小難しくいう必要はない。

 未知の人が、われわれの面前にいる間に、彼に適合的と思われるカテゴリー所属の他の人びとと異なっていることを示す属性、それも望ましくない種類の属性──極端な場合はまったく悪人であるとか、危険人物であるとか、無能であるとかいう──をもっていることが証明されることもあり得る。このような場合彼はわれわれの心のなかで健全で正常な人から汚れた卑小な人に貶(おとし)められる。この種の属性がスティグマなのである。ことに人の信頼/面目を失わせる(discredit)働きが非常に広汎にわたるときに、この種の属性はスティグマなのである。この属性はまた欠点/瑕疵(かし)、短所、ハンディキャップともよばれる。スティグマは、対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの間のある特殊な乖離を構成している。

 言いたいことはわかる。わかるんだけどさ、進化医学的視点が欠落してんのよ(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス)。「望ましくない種類の属性」の最たるものは疫病(えきびょう)なのだ。それを文化面からしか考えていないから、難解な思考の虜になっているのだろう。

 そこでスティグマという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性をいい表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなく関係を表現する言葉なのだ、ということである。

 別に「レッテル」で構わないんじゃないの? バブル経済に向かう途中くらいから「価値観の多様化」といわれるようになった。そしてバブルが崩壊すると今度は「『らしさ』が失われた」と喧伝された。ただし、ステレオタイプの否定は風潮として残っている。

 これには重大な見落としがあって、脳機能(=思考、言語)がアナロジーから生まれたものであるならば、カテゴリー化は避けられないのだ。それゆえ、カテゴライズの正しいあり方を模索するのが合理的だと私は思う。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 更に異なる思想や文化を学ぶ作業が求められよう。本当は義務教育からきちんとやるべきなんだけどね。

 たとえば精神疾患の病歴がある人たちは、配偶者とか雇主と感情的に激しく衝突するのをまま恐れる。というのは、感情を表出すると、それが精神疾患の徴候とされるのではないかという懸念があるからである。精神的に障害のある者も同様の偶発的問題に直面する。

 知的能力が低い者が何らかの面倒に巻き込まれると、その面倒は多かれ少なかれ自動的に〈知的障害〉に起因するものとされるが、〈通常の知能〉の人が似たような面倒に巻き込まれても、とくにこれといった原因の徴候とは見られないのである。

 弱者不利の原則。うしろゆびさされ組。クラスの嫌われ者には無数の仇名が与えられる。

 そう考えると「見られること」を強く意識する日本人には弱者傾向があるのかもしれない。世間体、見栄坊、名を惜しむ、武士は食わねど高楊枝。

 もともと差別主義者である欧米の連中の差別に関する論考は欺瞞の匂いが強い。「新しい共同」といった言葉も同様だ。共産主義みたいな悪しき人為性を感じてならない。

【付記】原書は1963年の発行であった。進化医学は知らなくて当然である。著者は黒人の公民権運動を見つめていたのだろう。

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

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