2017-08-10

エホバの証人による折檻死事件/『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広


『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広

 ・エホバの証人による折檻死事件

『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『マインド・コントロール』岡田尊司
『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 しかし、智彦だけはうまくいかなかった。そのために父親は智彦に暴力を振るい、なんとか更生させようと努めてきた。智彦の父親だけがとりわけ暴力的というわけではない。父親は教団が強調する聖書の次の言葉を忠実に実行してきただけのことである。
「子どもを懲らしめることを差し控えてならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる」(箴言〈しんげん〉23章)
 他のキリスト教団は箴言特有の誇張した表現と解釈するが、エホバの証人は字句通りに受けとめる。

【『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広(文藝春秋、2002年/文春文庫、2004年)以下同】

『カルトの子 心を盗まれた家族』の続篇的内容でオウム真理教、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、統一教会、幸福会ヤマギシ会を取り上げる。ヤマギシ会は宗教団体ではないが、その閉鎖性や洗脳を考慮すればカルトの名に十分値する。正義を掲げる彼らの暴力性は弱者である子供に向けられる。そして正しいがゆえに全く手加減されない。

「ある姉妹(女性信者)が目撃したところによれば、所沢(埼玉県所沢市)の長老は鉄のパイプや自転車のチェーンで叩いていたそうです」

 長老とはエホバの証人における会衆のリーダーで、地域の集まりは教会単位となっている。

「当時の長老は、『泣く、ということは悔い改めていない、反抗の表れだ。泣くのをやめるまで叩きなさい』と教え諭した。それで私もそうした」

 宗教的な正しさはいともたやすく邪悪に結びつく。キリスト教の暴力性は歴史を振り返れば誰もが理解できよう。異端とされるエホバの証人が正当性を示すためには教義や行動を過激化するしかない。

 事件が起きたのは、今から7年前の93年11月23日のことだった。
 広島市の北警察署に、市内に住むAが自首してきた。
 北署員が現場に急行したところ、4歳の二男がA宅の脱衣場で死亡していた。検死を行ったところ、両頬やくるぶしなどに数ヵ所の痣や内出血が認められた。血が滲んだ新しい傷痕のほか、数日は経っていると思われる痣も多くあった。このため、Aを殺人容疑で逮捕するとともに、折檻を知りながら放置していた妻も保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕した。
 夫婦が属していた会衆は広島市の安佐南区にあった祇園会衆(現在は発展して三つの会衆に分かれている)だった。ここでの懲らしめのムチは長さ50センチのゴムホースだった。当時この会衆にいた元女性信者は「子どもが集会中に居眠りをすれば、親はトイレに連れていき、ゴムホースで叩きました。“体罰”は日常的でした」と語る。

 信者とは他人に操られることを自ら選ぶ生き方を意味する。ま、洗脳希望者といってもよい。

 事件前日の夜、Aはゴムホースで血が滲むほどに二男を叩いたあと、家から閉め出した。翌朝様子を見に行くと、息子の息は止まっていた。そのあとあわてて脱衣場に運んだという。
 判決はAに保護背筋者遺棄致死罪は適用して懲役3年(執行猶予4年)の刑を申し渡し、事件は終わった。
 この折檻死事件は、エホバの証人の中では特異なケースである。私が恐ろしいと思ったのは、事件そのものよりもそのあとの会衆の空気である。同じ会衆に属していた当時はまだ信者だった人が語ったところによれば、一人の子どもが死んだというのに、自分を含め会衆の誰一人としてムチによる懲らしめを反省せず、「組織と教えは正しいが、あの人が個人的にやりすぎたんだ」と仲間うちで話しただけで終わった。事件をきっかけに組織を離れた人は一人もいなかった。祇園会衆の長老も「不幸な事件が起きた。今後Aさんの家に近づかないように」と報告しただけだった。不幸な事件ゆえにA一家を支えるのが宗教の役割だと思うのだが、Aと仲の良かった信者が拘置所に面会に行くと、長老が自宅にやってきて、「なぜ指示を守らないのか。Aさんには会ってはなりません」と叱責した。
 事件後、一つだけ会衆内で変わったことがある。それはムチがゴムホースからアクリル樹脂の棒に変わったことだ。

 自分の中で一番最初に芽生えた小さな疑問を手放した瞬間から人は判断力を奪われる。もちろん何を信じようが自由ではあるが、信じることによって情報処理能力が狂うのだ。信者の脳は現実よりも教団の正しさを証明することを重視する。そしてより大きな善のために小さな悪がまかり通るようになる。

 社会の価値観は時代によって移り変わるが道徳には時代を経てきた人間の良心がある。徳を拒む人がいないのはやはりそこに普遍性があるためだろう。宗教が興(おこ)る時、必ず社会的価値との衝突がある。多くの人々を苦しめる手垢まみれの常識を否定するのが宗教の役割であると思うが、道徳まで否定すれば単なる反社会的集団に転落してしまうだろう。そのようなあり方が人々の共感を得るのは難しい。

 いつの時代も子供は殺されてきたがエホバの証人による折檻死事件は教義が事件を教唆(きょうさ)した可能性が窺える。

 これに対するエホバ信者の反論が以下のページにある。

「エホバの証人せっかん死事件の嘘」:エホバの証人を攻撃する道具にされてしまうブロガー達

 信者は事実に目をつぶる。彼が見つめているのはエホバの正義だけだ。余談になるが偶像を否定するエホバのくせにマイケル・ジャクソンの肖像をアイコンにしていて笑った。親がエホバ信者であるのは広く知られているがマイケル本人もそうだったのだろうか?

 閉鎖的なカルト集団が行う児童虐待は「現代のミルグラム実験」(『服従の心理』スタンレー・ミルグラム)といってよい。

 尚、本書は万人が読むべき秀逸なノンフィクションであると思うが、米本和広と統一教会に妙な関係があるようなので必読書には入れていない(やや日刊カルト新聞:本紙記者を誹謗中傷する自称“ルポライター”米本和広氏、その社会的問題性に迫る)。

カルトの子―心を盗まれた家族 (文春文庫)
米本 和広
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