2021-07-01

田中清玄の右翼人物評/『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫


『日本の秘密』副島隆彦
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 ・会津戦争のその後
 ・昭和天皇に御巡幸を進言
 ・瀬島龍三を唾棄した昭和天皇
 ・田中清玄の右翼人物評

『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ――話は飛びますが、安岡正篤氏とはお付き合いがありましたか。

 全然ありません。そんな意思もありませんしね。有名な右翼の大将ですね。私が陛下とお会いしたという記事を読んで、びっくりしたらしい。いろいろと手を回して会いたいといってきたけど、会わなかった。私は当時、アラブ、ヨーロッパなどへ言ったり来たりで、寸刻みのスケジュールだったこともありましたが、天皇陛下のおっしゃることに筆を加えるような偉い方と、会う理由がありませんからと言ってね(笑)。私には自己宣伝屋を相手にしている時間の余裕などなかった。

【『田中清玄自伝』田中清玄〈たなか・きよはる〉、インタビュー大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)以下同】

「筆を加えるような」とは終戦詔書(=玉音放送)を校閲したことを指す(『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒)。細木数子が結婚騒動を起こして安岡の晩節を汚している。多分そういう人物だったのだろう。戦前戦後を通して長く政治家の指南役を務めた人物だ。田中の人物評は寸鉄人を刺す趣がある。しかも直接見知っているのだからその評価は傾聴に値する。

終戦の詔書 刪修 | 公益財団法人 郷学研修所・安岡正篤記念館

 児玉(誉士夫)は聞いただけで虫唾(むしず)が走る。こいつは本当の悪党だ。児玉をほめるのは、竹下や金丸をほめるよりひでえ(笑)。赤尾敏というのもいたな。彼をねじあげて摘み出したことがあった。俺がまだ学生の頃です。

 児玉誉士夫〈こだま・よしお〉は特攻生みの親・大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉の自決(介錯なしの十字切腹)に立ち会ったエピソードが有名だ。児玉も後に続こうとしたが「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と大西は諫(いさ)めた。首と胸を刺したが大西は半日以上も苦痛の中で生きた。いかなる悪事に手を染めようと児玉の心中では大西が生きているのではないかと私は考えてきた。が、違ったようだ。

 ――戦後の右翼はどうですか。

 ほとんど付き合いはありません。土光さんが経団連会長の時に、野村秋介(しゅうすけ)が武器を持って経団連に押し入り、襲撃したことがありましたね。政治家と財界人の汚職が問題になった時のことでした。どこかの新聞社の電話と野村とが繋がっていると聞いたので、俺はすっ飛んで行って、その電話を横取りするようにひったくって、こう言ってやった。
「おい、野村、貴様、即刻自首しろ。貴様は土光さんに会いたいというなら、それは俺が取り計らってやるとあれほど言ったじゃねえか。それを、約束を破って経団連を襲うとは何ごとだ」
 そうしたら、野村はつべこべ言った揚げ句に、謝りに来ると言うから「貴様は約束を反古にした。顔も見たくねえ」と言って、それっきり寄せつけない。約束を守らないようなやつは駄目だ。その前に藤木幸太郎さんに一度会わしたことがあったが、藤木さんは「あいつは小僧っ子だな」って、そう言ったきりだったな。

 昨今、ネット上で児玉誉士夫や野村秋介を持ち上げる人物がいるので、慌てて書評をアップした次第である。新右翼は「左翼への対抗」を目的としており理論武装せざるを得ない。そして左翼と同じ体臭を放つようになる。

 ――三島由紀夫という人物をどう評価されますか。

 剣も礼儀も知らん男だと思ったな。自衛隊に入りたいというので、世田谷区松原にあった僕の家に、毎日のように来ていたんだが、2回目だったか、「稽古の帰りですので、服装は整えてませんが」とか言って、紺色の袴に稽古着を着け、太刀と竹刀を持って寄ったことがある。不愉快な感じがした。これは切り込みか果し合いの姿ですからね。人の家を訪ねる姿ではありませんよ。

 生真面目な三島がそれを知らなかったとは思えない。悪ふざけか冷やかしのつもりだったのだろう。それが通用する相手ではなかった。三島が田中に胸襟を開いていれば長生きした可能性はあっただろうか? 否、長く生きて輝きを失うよりは、花の盛りで散ってゆくことが彼の願いであったに違いない。

 私が本当に尊敬している右翼というのは、二人しかおりません。橘孝三郎さんと三上卓君です。二人とは小菅で知り合い、出てきてからも親しくお付き合いを致しましたが、お二人とも亡くなられてしまった。橘さんは歴代の天皇お一人お一人の資料を丹念に集めて、立派な本を作られた。そのために私もいささかご協力をさせていただきました。

 三上卓については『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』(小山俊樹〈こやま・としき〉著、中公新書、2020年)が詳しい。野村秋介の師匠である。

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