東條英機への反発
内閣総理大臣東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を権力強化に反対するために脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、当選者は中野のほか、本領信治郎(早大教授)、三田村武夫たち7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹の説得でようやく政治会に入ることを了承した。
そして、同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。
諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。
この正剛の呼びかけに、学生たちは起立し、校歌「都の西北」を合唱してこたえた。演説会場には東條の命を受けた憲兵隊が多数おり、中野の演説を途中制止しようと計画していたが、中野の雄弁と聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、制止どころではなくなってしまった。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。このエピソードにみられるように、中野は雄弁家の資質をもった人物であった。
【Wikipedia】
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