2011-06-16

教育の機能 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


自由の問題 1
自由の問題 2
自由の問題 3
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
教育の機能 1
教育の機能 2
・教育の機能 3
教育の機能 4
縁起と人間関係についての考察
宗教とは何か?
無垢の自信
真の学びとは

 教育を受け終わると我々は大人として社会に受け入れられる。社会とは殆どの場合において「会社」を意味する。そこで我々は労働力(≒商品)として扱われる。学校教育で叩き込まれた協同の精神は遺憾なく発揮され、数年も経てばいっぱしの企業戦士ができあがる。かつて人間であったことを失念しながら。

 私たちが成長し、大人の男女になるとき、みんなどうなるのでしょう。君たちは、大きくなったら何をしようかと、自分自身に問うたことがないですか。君たちはたいてい結婚し、自分がどこにいるのかも知らないうちに母親や父親になるでしょう。それから、仕事や台所に縛られて、しだいにそこから衰えてゆくでしょう。それが【君】の人生のすべてになってゆくのでしょうか。この問題を自分自身に問うたことはないですか。問うべきではないですか。君の家が豊かなら、すでにかなりの地位が保証されているかもしれません。お父さんが安楽な仕事を与えてくれるかもしれません。恵まれた結婚をするかもしれません。しかし、そこでもやはり腐敗し、衰弱するでしょう。わかるでしょうか。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

 家事や仕事の本質は「繰り返し」である。社会や家庭は人間に「機能」を求める。生(せい)そのものが機械的になってゆく。押しつけられた「役割」は人間を部品として扱うため断片化せざるを得ない。

「自分がどこにいるのかも知らないうちに」――何と辛辣(しんらつ)な言葉か。人生の主導権を会社に奪われ、目的地まで勝手に決められる。

 生活の中で創造性を発揮したことがあるだろうか? 他人と比較しないところに喜びを見出したことがあるだろうか? もっと基本的なことだが今まで生きてきて自由を味わったことはあるだろうか?

 出自、学歴、才能、技術、性別、出身地、容貌、病歴など、あらゆる要因で社会は人間をランク付けする。社会とはヒエラルキーの異名であり、柔らかなカースト制度である。目に見えないバリアーが社会の至るところに張り巡らされている。

 生という、微妙なすべて、そのとてつもない美しさ、悲しみ、喜びのある大いなる広がりを理解する助けとならないなら、教育には確かに意味がありません。君たちは学歴を得て、名前の後に肩書きを連ね、とてもよい仕事に納まるかもしれません。しかし、それからどうなるでしょう。その過程で心が鈍り、疲れて愚かになるなら、それが何になるのでしょう。それで、若いうちに生とはどういうものなのかを探して見出さなくてはならないでしょう。そして、これらすべての問題の答えを見出そうとする智慧を君に涵養することが、教育の真の機能ではないのでしょうか。智慧とは何か、知っていますか。確かに智慧とは、何が本当で何が真実なのかを自分自身で発見しはじめるように、恐怖なく公式なく、自由に考える能力です。しかし、怯えているなら、決して智慧は持てないでしょう。精神的だろうと現世的だろうと、どんな形の野心も不安と恐怖を生み出します。そのために野心は、単純明快、率直で、それゆえに智慧のある心をもたらす助けにはなりません。

 我々は怯(おび)えている。いつ職を失うかもしれない。災害に遭遇するかもしれない。そして病気になるかもしれないのだ。この恐怖感が依存を生む。親に依存し、会社に依存し、国家に依存する生き方が形成される。

 現在行われている教育は体制に従わせる教育であり、労働者と兵士を育てるところに目的がある。学校は納税者製造工場といってよい。つべこべ言わないで大人には従え、逆らうな、そうすれば最低限の面倒はみてやろう。これが職業教師の教えていることだ。

 本来、学ぶことは驚きに満ちているものだ。知ることは喜びであったはずだ。ところが、あれだけ物語をねだっていた幼子たちが、長ずるにしたがって本を読まなくなる。新しい世界に手を伸ばそうとしないのだ。

 社会全体を柔らかなファシズムに覆われ、子供たちには薄い膜のようなプレッシャーが連続的に与えられる。子供たちはいなくなった。存在しているのはペットと家畜だけだ。

 私は新生児に向かって呟く。「残酷極まりない世界へようこそ」と。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

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