2011-06-13

投げやりな介護/ブログ「フンコロガシの詩」


 妙なブログを見つけた。明らかに変だ。

フンコロガシの詩

 まず書き手の性別がわからなかった。で、古い記事を最初から辿ると、要介護者である父親は投資詐欺に引っ掛かっていた(5400万円!)。介護と詐欺被害が奏でる二重奏は、スキー場で骨折した直後、雪崩(なだれ)に襲われたも同然だ。あまりにも気の毒で、「気の毒」と書くことすらはばかられる。

 何の気なしに読み進むと更なる違和感を覚える。軽妙な筆致と投げやりな態度に。「ったく、面倒くせーなー」オーラが全開なのだ。

 介護は介が「たすける」で、護は「まもる」の謂いである。そして実はここに落とし穴があるのだ。人は弱者を前にすると善人を気取りたくなる。障害を「障がい」と書こうが、個性だと主張しようが、弱者であるという事実は1センチたりとも動かない。

 どんな世界にも論じることが好きな連中がいるものだ。実際に介護をする身からすれば、オムツ交換を手伝ってもらった方がはるかに助かる。

 この書き手は善人ぶらない。それどころか偽悪的ですらある。認知症はわかりやすくいえば「自我が崩壊する」脳疾患といってよい。じわじわと本人の記憶が侵食され、溶け出してゆく。介護は労多くして報われることが少なくなってゆく。

 多くのケースだと、親身になりすぎて介護者が音(ね)を上げてしまう。「ここまで一生懸命尽くしているのに……」となりがちだ。

 ところがどっこい、藤野ともねは「投げやりな態度」で一定の距離感を保っているのだ。ここ重要。星一徹は一方的に息子の飛雄馬(ひゅうま)を鍛えたが、これを介護とは呼ばない(←当たり前だ!)。介護者から要介護者への一方通行では関係性が成立しないのだ。相手に敬意を払うのであれば、たとえ寝たきりで閉じ込め症候群(locked-in syndrome)になったとしても、反応を確かめる必要がある。

 反応を確かめるわけだから、近づきすぎることなく適当な距離感が求められる。この距離感を藤野は「投げやりな態度」で表現しているのだ。

 ブログが書籍化されるようなんで一丁読んでみるか。

【※本が上梓されることとなったので、敢えて敬称を略した】

カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために

頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

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