2012-02-27

島田裕巳の「洗脳は可能なのか?」に対する異論

フェイスブックにあったリンクを踏んで、島田裕巳のテキストを読んだ。大いに後悔した。
Feb 26 via ついっぷる/twipple Favorite Retweet Reply


 とツイートしたところ、島田裕巳〈しまだ・ひろみ〉氏にリツイートされてしまった。多分、エゴサーチに引っ掛かってしまったのだろう。島田氏のフォロワーは3000人以上いるため、きちんと説明しておきたい。

 記事を紹介していたのは宗教学者の熊田一雄氏であった。

◎「洗脳は可能なのか?」島田裕巳
◎Yahoo!ニュース
◎関連記事

 では早速私が覚えた違和感をズラズラと開陳しよう。

 オセロの中島知子さんが、霊能者と称する女性に食い物にされており

 そして更に輪をかけて島田氏が食い物にしているのではあるまいか?

 統一教会は世界的な組織だが、霊能者はひとりの個人にすぎない。統一教会には開祖もいれば教義もあり、日本では宗教法人として認証されている。そうした組織による行為と、霊能者個人の行動とを同列に考えることには無理がある。

 この定義が妥当であれば、統一教会のスタート時点から巨大化するまではマインドコントロールではなかったことになる。集団規模が大きくなれば同調圧力は高まるが、それによってコントロール性の有無が決まるわけではない。

 また、「占い」を軽視すべきではない。人間がもつ時間概念や意思決定と深いつながりがあるのだ。

◎占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光

 果たして洗脳やマインドコントロールという概念をそこまで拡張して用いていいのか。

 自分たち宗教学者で広めておいて、そりゃないでしょうよ。

 洗脳と言うと、暴力的な手段を用いて、強制的に特定の思想やイデオロギーを注入するというイメージがある。たしかに、中国共産党は自由を奪われた人間をその対象としたのだが、必ずしも暴力的に人格を改造しようとしたわけではない。

 洗脳は暴力性を伴う。まず軟禁状態で睡眠時間を削るのが前提だ。「自発的に共産主義の思想を受け入れるかどうか」は結果に過ぎない。

 たとえば、マインドコントロールと教育はどこで違うのか、それを説明することが難しい。

 教育はマインドコントロールそのものである。ここで明らかになるわけだが島田氏はマインドコントロールに世俗的な意味合いしか持たせていない。つまり反社会というカルト性の刷り込みをマインドコントロールの言葉に託している。

 私は操作性のある言葉が実効力を伴った場合は、すべてがマインドコントロールに当てはまると考える。

 例えば宗教に限らず企業には社内文化があり、家庭にもそれぞれの文化がある。営業マンの朝礼を見て違和感を覚えない人はあるまい。軍隊そのものである。また、他人の家を見て「変わっているなあ」と思うのは、我が家が基準になっているゆえであり、そこにマインドコントロール性が窺える。

 すなわち集団(=集団原理)の数だけマインドコントロールが存在すると考えるべきであろう。

 島田氏はオウム真理教事件の余波で一度は社会的に抹殺された。しかし再起を図り、最近では創価学会を取り上げた書籍などが話題になっている。読んでいない私が言うのはおこがましいが、多分島田氏は創価学会のフィールドワークをしていないのではないか? そこに「オウムで懲(こ)りた」という心情を感じる。

 なぜ私が後悔したか? それは該当記事が社会に迎合しているようにしか見えなかったためである。

 教育は国家によるマインドコントロールである。それゆえ教育的成果は就職先で判断され、成績優秀な者は官僚や東電社員となるのだ。幼い頃から散々コントロールされてきた彼らが、省内や社内の同調圧力と戦えるわけがない。

 いつの時代も新しい宗教には反社会性があった。澱(よど)んだ社会の空気を一掃するためには、悪しき伝統を否定する必要があるからだ。

 私が島田氏に申し上げたいことは、社会の奴隷になってしまえば権力者に与(くみ)する論調になってしまうという一点である。その意味でオウム事件に懲りることなく、フィールドワークを基調とした研究を望みたい。

fuitsuono 小野不一
in reply to @fuitsuono

@fuitsuono 読みました。洗脳やマインドコントロールという概念を使うことに、宗教学者はずっと否定的でした。それから、創価学会はいろいろな角度から調査はしています中に飛び込むというのは、もうさすがにできません。また、目的を偽ってそうしたことをするのは倫理的にも問題でしょう。
Feb 27 via web Favorite Retweet Reply


◎小田嶋隆の底の浅さとオウム真理教
◎人類の三大疾病


創価学会 (新潮新書) 葬式は、要らない (幻冬舎新書) 金融恐慌とユダヤ・キリスト教 (文春新書)

5 件のコメント:

  1. 鋭いご指摘感動致しました。

    「社会の奴隷になってしまえば権力者に与(くみ)する論調になってしまうという一点である。」

    まさにその通りです。
    ただ、個を確立するのは難しいことであり依存心が元々強い人には最初から無理です。問題はその依存心の強い人たちを悪用する人でしょう。

    返信削除
  2. 書き足りないことがあったので追記させてください。

    ただ依存心の強い人というのも元々の性質なら、依存心の強い人を悪用する人もまた元々の性質なのですよね。生まれ着いての詐欺師みたいな人も居ますから。実はどっちも原因と言えます。そうなるとその先どういう対応をすればいいのか分からなくなってきます。そこからの選択肢も各個人の元々の性質とその上に積み重なった経験や知識などからそれぞれが判断するのでしょうね。後は議論して社会の方針を決めていくだけですね。

    返信削除
  3. 初めまして。

    「依存心の強い人」は確かに存在します。しかしながら多くの場合は、「依存したい」「支配したい」という相異なる志向が一人の人間に同居するのが現実でしょう。つまり人間には「他人をコントロールしたい」という願望と、「誰かにコントロールされたい」という欲望が同時に存在しているのです。

    http://sessendo.blogspot.com/2011/10/j.html

    こちらでも若干触れています。

    私はテレビはまったく見ませんが、本を読みます。すなわち「本に依存している」わけです。例えば「感動を求める」ことは「コントロールされたい」願望の表れといえましょう。

    「社会の奴隷」と私が書いたのは、金銭に対する欲望を示したものです。「ない」と断言できる人は少ないことでしょう。

    「個を確立すること」は、さほど難しくありません。「孤」に生きればいいだけのことですから。それを「寂しい」と感じる人はダメです。

    返信削除
  4. 理想的な姿はダンスと合唱です。

    返信削除
    返信
    1. なるほど、ダンスも合唱も独りでは出来ませんね。
      ならば、北朝鮮のマスゲームなんてまさに理想的姿ですね。
      もちろん冗談ですが。

      僭越ながら小野さんは本に依存されているのではなく、ご自分の判断の元、選択吸収して自分のものになさっているのではないでしょうか。依存して飲まれては、いらっしゃらないように見受けられます。主体を乗っ取られるか、自分のものとするかで依存と理想的な関係とはまた別な気がします。

      削除