2014-04-25

宗教の社会的側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド


ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 ・進化宗教学の地平を拓いた一書
 ・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
 ・宗教と言語
 ・宗教の社会的側面

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 しかし、宗教がどれほど強く個人の信念から生じるように見えても、その実践はきわめて社会的である。ヒトはみな同じ信仰を持つ人とともに祈りたい、と個々人が信じているからだ。ひとりで祈りを捧げることもあるが、宗教活動や儀礼は社会的なものだ。宗教は共同体に属し、そのメンバーの社会的行動、すなわち、互いに対する(内部)行動と、信者でない者に対する(外部)行動に大きな影響を及ぼす。宗教の社会的側面は非常に重要である。他者へのふるまいを司るルールこそが、その社会の道徳だからだ。
 なぜ人々が宗教に強い愛着を持つのかを理解するのはむずかしくない。社会の質(結束、犯罪の抑止、互助の精神、嘘やごまかし、たかりの少なさ)は、その社会が持つ道徳の質と、共同体の規範に対する人々の忠誠心によって決まる。その両方(道徳規範と、それを守る度合)ともに宗教によって定まるか、大きな影響を受ける。人々が宗教を守るのは、宗教が個人の人生を豊かにするだけでなく、それ以外のものもしっかりと支えているからなのだ。
 宗教によって裏づけられた道徳規範には奇妙な特徴がある。道徳は普遍的原理にもとづくと考える道徳哲学者はたいてい認めようとしないが、実際の道徳は普遍的ではない。憐れみと赦しは「内部者」に対する義務だが、「外部者」に対してはかならずしもそうではないし、まして敵に与えるものではない。
 敵社会に対する人間の行動は冷酷で容赦なく、虐殺に及ぶことすらある。敵は邪悪とされ、人間以下と見なされる。己の社会のメンバーに対する道徳的制約は、敵には適用されない。また、宗教はたびたび戦争で利用される。指導者が侵略を正当化したり、士気を高めたり、兵士を究極の犠牲行為へと駆り立てたりするのに便利だからだ。
 この観点から、宗教が何世紀ものあいだ、社会の存続にどれほど重要な役割を果たしたかがわかるだろう。宗教は社会の質を高め、戦いを価値あるものにし、社会を守るために命を投げ出させる。ほかの条件が同じなら、宗教的傾向の強い集団は結束力が強く、そうでない集団と比べてかなり有利だったはずだ。成功した集団は、より多くの子孫を残す。宗教行動の本能を発現させる遺伝子は世代を経るごとに精力を増し、やがて人類全体に広がったのだろう。

【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)以下同】

「宗教はコミュニティ(共同体)の共同性を高める」――ここに宗教の目的があったのだろう。これを民俗宗教と仮称しておく。ってことはだ、経済的コミュニティ(会社)・教育的コミュニティ(学校)・政治的コミュニティ(国家)・地域的コミュニティ(村)・人生的コミュニティ(友人)において、宗教的にまで高められた目的や信念を持ったコミュニティに強味がある。コミュニティの信者化だ。「強力なリーダーシップ」は「強力な隷属性」に支えられている。そうすると権力を集中した方がいいことになる。しかし北朝鮮の現実は上手くいっていない。

 民主主義が権力分散を目的としているのであれば、宗教と民主主義は馴染まない。宗教と親和性が高いのは全体主義だろう。ややこしくなってきた。ま、いつも書きながら考えているからね。

 話を北朝鮮に戻そう。北朝鮮国民の不幸は空腹(経済問題)にある。では彼らが満腹になれば幸福が実現するのだろうか? 難しい問題だ。一時的には実現するだろうが、やがて諸外国と較べて自由度が少ないことに気づくだろう。問題は空腹から選択肢(人権)にスライドする。国民が自由を求めることは権力者に不自由を求めることとセットになっている。

 指導者が英邁(えいまい)であれば私は喜んで従う。汗馬の労も厭わない。だが愚かであれば話は別だ。諫言に次ぐ諫言を行い(『晏子』宮城谷昌光)、最終的には権力の地位から引きずり下ろすことだろう。これが民主制だ。

 宗教がコミュニティの共同性を高めるのであれば、やはり宗教とは「エートス」(行動様式)なのだろう(マックス・ヴェーバー)。

 こうした考えから、デュルケムは有名な定義づけをした――“【宗教は、隔絶され禁じられた神聖なものかかわる、信仰と実践の統合システムである。信仰と実践は、それにしたがうすべての人を統合し、「教会」と呼ばれるひとつの道徳的共同体を作る】”。さらにデュルケムは、宗教と教会が不可分であることを示しつつ、この定義は宗教が“きわめて集合的なものである”ことを強調するものだと言う。


(エミール・デュルケーム)

 恐るべき指摘である。何がって? 実はサンガ(僧伽)ですら道徳的共同体に含まれてしまうのだ。つまり進化的観点からすれば人間主義よりもコミュニティ主義の方が正しいことになる。

 だがクリシュナムルティは集団(道徳的共同体)を否定した(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス)。まだまだ考えなければならないことは多い。

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