・『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
・『昭和の精神史』竹山道雄
・『見て,感じて,考える』竹山道雄
・『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
・『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
・『ビルマの竪琴』竹山道雄
・『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
・あらゆる国民が非人道的行為をした
・『精神のあとをたずねて』竹山道雄
・『時流に反して』竹山道雄
・『みじかい命』竹山道雄
・『歴史的意識について』竹山道雄
・『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
I
六百万分の一の確率
私は拷問をした
ジャングルの魂
喫茶店の半時間
最後の儒者
II
ゴッドの最初の愛
狂信からの自由
バテレンに対する日本側の反駁
天皇制について
III
南仏紀行
エーゲ海のほとり
リスボンの城と寺院
あとがき
【『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄(読売新聞社、1974年)以下同】
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・1970年代 ベストセラー本ランキング | 年代流行
「1970年代半ばから続いた『雑高書低』と呼ばれる状態」があった(日本経済新聞 2016/12/26)。出版販売額は1996年をピークに下降線を辿っている(日本の出版統計|全国出版協会・出版科学研究所)。いわゆる出版不況だ。人が一日に読む活字の量はある程度決まっているため、インターネットに奪われた格好だ。
1970年代といえば進歩的文化人がでかい顔をして学界やメディアを取り仕切っていた時代である。今読むと笑ってしまうよな文章が多い。今日読んだ本だと「政治実践」とか「歴史への参加」などといった革命用語(?)がゾロゾロ出てくる。
竹山道雄の文章は不思議なほど古さを感じない。問題意識の深さが現代にも達しているからである。つまり第二次世界大戦で露見した人類の問題は今尚解くに至ってないのだ。
私は人を拷問したことがある。自分で手を出したわけではないが、もしその事件の責任者を問われれば、それは私だった。そして、異様なことだが、他人が苦しめられているのを見ているあいだ、私は悪が行われているという罪責感をもたなかった。
最近に「追求」という、アウシュヴィッツでの残虐行為者をドイツ人みずからが裁判した、その実録を劇化した芝居を見た。被告たちは罪責感をもっていない。ナチスがユダヤ人のみならず、ポーランド人や最下級のジプシーまで、「劣等人種」を掃滅しようとしてそれを実行した人々は、たとえばアイヒマンのように罪悪感をもっていない。そしてドイツ人だけではなく、あらゆる国民がつねに多少なりとも非人道的行為をした。まったく潔白な国民はいない。西欧的ヒューマニズムの本家と自他共に認めているフランス人も、解放の時期やアルジェリアでは狼藉をはたらいた。前者についてはできるだけ語られないでいる。後者についてははじめのうちはただアルジェリア人側の残虐行為のみが報道されていたが、やがていよいよアルジェリアを独立させる方針が決ったからであろう、マルロー文化相の許しによって、一人のアルジェリア娘の手記が本になり、有名な画家(ピカソ?)の装幀に飾られて、ひろく読まれた。その娘の父も独立運動者として捕えられ、フランスの憲兵によって拷問された。「人体のもっとも敏感な部分」に電流をかけられ、苦しみのあまり「すこしは人道(ユマニテ)を――」と憐みを乞うた。フランス兵たちは「回教徒に対してはユマニテは不必要だ」と、拷問をつづけた。娘は裸にして吊され、水槽については引き上げられた。フランス兵たちはビールを呑みあおりながら追求をしていたのだったが、「ビール瓶の口で彼女の処女性をやぶった」
このような乱暴が行われたのには、人間に潜んでいる獣性とかサジズムとかがはたらいたのだろうし、その場の群集心理もあったのだろう。しかし、人間はいったん他者に対して敵意や憎悪をもつと、相手は抽象的な「悪」に化してしまって、それに対する人間的な感情移入が断たれてしまうのではなかろうか。それであのようなことが起こるのではあるまいか。親衛隊の士官たちはガス室のすぐ近くに普通の家庭生活をして、モーツァルトの音楽をたのしんでいた。ある収容所の指揮官が残虐行為の故に告訴されると、友人たちは驚いて、「彼は慈悲ぶかい男で、田舎道を歩くときには、カタツムリなどを踏み殺さないようにと、注意ぶかくガニ股で歩きました」と懇願した。(「私は拷問をした」)
「あらゆる国民が非人道的行為をした。私もその一人である」との告白である。ハンナ・アーレントはアイヒマンの公開裁判を全て傍聴し、その無思想性を「悪の凡庸さ」と指摘した。大量虐殺を推進したアイヒマンの正体は職務に忠実な小心者の公務員だった(『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』1969年/1963年『ザ・ニューヨーカー』誌に連載)。時を同じくしてスタンレー・ミルグラムがアイヒマン実験の論文を発表した。尚、アイヒマン実験から派生したスタンフォード監獄実験(1971年)はアーレントの著書から考案されたもの。最近になってヤラセ疑惑が浮上している(スタンフォード監獄実験は仕組まれていた!?被験者に演技をするよう指導した記録が発見される : カラパイア/スタンフォード監獄実験、看守役への指示が行われていたことを示す録音の存在が明らかになる | スラド サイエンス)。映画化したのが『es〔エス〕』で、同様の心理状況を描いたものに『THE WAVE』がある。
竹山が行った拷問は私に言わせれば他愛ないものである。戦時中、旧制一高の寮に連続して泥棒が入った。ある晩、遂に捕まえたのだが中々白状しない。そこで居合わせた連中でしたたかに殴りつけた。泥棒はやっと罪を認めた。謂わば日常の延長線上にある小さな暴力である。ところが竹山はホロコーストの芽をそこに見出す。泥棒をとっちめることは倫理的に許される。とすれば「相手を殺す正当な論理」さえ編み出せば大量虐殺は可能となる。
例えば中国や韓国では反日教育が行われているが幼い頃から憎悪を植え付ける営みは、日本人を大量虐殺する可能性を開くことに通じる。日本に対する戦争準備ともいうべき教育を行う国に惜しみなくODA(政府開発援助)を施す日本政府の方ががどうかしているのだ。しかもそのODAが日本の親中派政治家に再分配されている実態がある。
竹山の随想は極めて内省的なもので読者に対してある考えを強要する姿勢は全くない。ただし私はここで巷間、左翼活動家が繰り広げるポリティカル・コレクトネスについて一言付言しておきたい。
当たり前だが日本人にも差別感情はある。現代でも部落出身者や朝鮮人に対する蔑視は確かにある。戦時中は多くの日本人が中国人を馬鹿にしていた。しかしながら日本に奴隷が存在しなかった事実をよくよく弁える必要があろう。日本人は外国人を「人間ではない」と考えたこともなければ、外国から多くの人々を奴隷労働者として輸入することもなかった。そもそも奴隷文化はヨーロッパの家畜文明から生まれたものだ。
また割譲された台湾や、併合した朝鮮においても、日本は本国以上に力や資本を注いで発展に務めた。皇民教育はやや行き過ぎの感があるが、それでもホロコーストと比べればさしたる問題ではない。これに対して西洋白人の植民地はただ削除される対象でしかなかった。
戦後、欧米で日本軍の残虐さが流布したのは、飽くまでもナチスと同列に持ってゆくためであり、更には戦闘員でもない婦女子を殺戮したアメリカ軍の非道(原爆ホロコースト、東京ホロコースト)を隠すためであった。南京大虐殺も原爆死者とバランスを取るために30万人とされている。
日本人は敗戦の原因を探ることもなく、敗戦後になされたマインドコントロールを自覚することもなく、安閑として平和を享受してきた。いつになったら眠れる精神が目覚めるのか。目覚めた人々は竹山の問いを受け継ぐべきであろう。
乱世の中から―竹山道雄評論集 (1974年)
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竹山 道雄
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・竹山道雄を再読しよう 「乱世の中から」 竹山道雄評論集を読みつつ思う: 橘正史の考えるヒント
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