2018-10-31

「書く」行為に救われる/『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子


『免疫の意味論』多田富雄
『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
『寡黙なる巨人』多田富雄
『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄

 ・「書く」行為に救われる

『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一

必読書リスト その二

 先生は一晩にして、声が出ないためにお話ができない(構音障害)という状態になられました。これはどんなにかお辛いことだったと存じますが、失語症(言葉が理解できなくなる)になられなくてほんとうに良かったと存じます。言葉を失うということは、人格を否定されるのと同じくらい辛いことではないかと思います。
 それに致しましても、たおられてから半年も経たないうちに、この「文藝春秋」の原稿を書き上げられるというのは、何というエネルギーでしょう。
 私は思わず字数を数えてしまいました。6000字余り、原稿用紙にして15枚。先生は右半身麻痺になられ、左手しかお使いになれないはずです。左手でワープロを打つと書いておられますが、6000字全部を左指で打ち込まれるご苦労はどんなだったでしょうか。それに締め切りのある原稿は、健康な人にとってもきついものですのに。
 何かに憑かれたように、左手でワープロを打っておられる先生のお姿が目に浮かびます。お座りになることはできるのでしょうか。先生も書くということの不思議を強く感じられたと存じます。
 私も次第に動けなくなり、たいせつにしてきたマウスの研究もやめなければならなかったときに、書くということがどれだけ私を救ってくれたかしれません。私は先生のように有名ではなかったので、書いた原稿が本として出版されるかどうかはまったくわかりませんでした。それでも、書いて書いて、書くことが生きることだったのです。(柳澤桂子)

【『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄〈ただ・とみお〉、柳澤桂子〈やなぎさわ・けいこ〉(集英社、2004年/集英社文庫、2008年)】

 幾度となく読むことを躊躇(ためら)った本である。高齢・病気・障碍(しょうがい)というだけで気が重くなる。ブッダは生老病死という人生の移り変わりそのものを苦と断じた(四苦八苦の四苦)。まして功成り名を遂げた二人である。落魄(らくはく)の思いがあって当然だろう。「露の身」というタイトルが露命の儚(はかな)さを象徴している。

 恐る恐るページを繰った。指の動きがどんどん速度を増して気がついたら読み終えていた。私の懸念は完全な杞憂であった。むしろ自分の浅はかさを暴露したようなものだ。人間の奥深さを知れば知るほど謙虚にならざるを得ない。人の偉大さとは何かを圧倒することではなく、真摯な姿を通して内省を促すところにある。

 私はまず老境のお二方が男と女という性の違いを豊かなまでに体現している事実に驚いた。男の優しさと女の気遣いが際立っている。しかも尊敬と信頼の情に溢れながらも慎ましい静謐(せいひつ)さが漂う。エロスではない。プラトニックラブでもない。これはもう「日本の男と女」としか形容のしようがない。

 老いとは衰えの季節である。老いとは弱くなることで、今までできたことができなくなることでもある。そして「死んだ方がましだ」という病状にあっても尚生きることなのだ。

 多田富雄は脳梗塞で一夜にして構音障害失語症とは別)、嚥下障害、右麻痺の体となった。臨死体験から生還した彼は雄々しく「新しい生」を生き始める。過去の自分と現在の自分を比較するのではなく、ただ現在の自分をひたと見据えた。

「書く」行為に救われたと柳澤桂子が書いているが、我々が普段当たり前にできることの中に実は本当の幸せがあるのだろう。話すこと、聞くこと、書くこと、読むこと……。ひょっとすると生そのものが幸福なのかも知れない。私は生きることをどれほど味わっているだろうか? 美酒を舐め、ご馳走に舌鼓を打つように瞬間瞬間を生きているだろうか? 渇きを癒やすように生の水を飲んでいるだろうか? そんな疑問が次々と湧いて止まない。

「詩は、『書くまい』とする衝動なのだ」と石原吉郎〈いしはら・よしろう〉は書いた(『石原吉郎詩文集』)。多田富雄と柳澤桂子は「動くまい」とする体の衝動と戦うために書いたのだ。

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