2021-11-19

時間の連続性/『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫


三島由紀夫の遺言

 ・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
 ・『an・an』の創刊
 ・時間の連続性

『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹
『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子

 今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。「何だ、三島は、随分何か迂遠(うえん)なことをいふではないか」と思はれるかも知れないが、私は全共闘に呼ばれて話をしに行きました時に、彼らと一番議論をしましたのは、この空間と時間の問題でありました。といふのは今はですね、大国あるひは反対勢力である共産主義も含めて……ひたすらこの「空間」といふことで戦つてゐるんです。この世界地図をご覧になれば判りますけれども、赤化勢力といふものはあれだけ大きな範囲を占めて地球の空間を真つ赤におほつてゐるし、一方では自由諸国といふものが、その空間を何とかして自分達のものに確保していかうと思つて、いろいろ、まあ核兵器を持つたり、あるひは代理戦争といふやうな形によつて辺境で戦争をしながら、相争つてゐる状態です。しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
 ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では、反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。それでは、今日の人類を一体何が繋(つな)いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。
 ところが今はどこの国でも、また国の内外においても全然かへりみてゐない。時間の問題を考へた人間は、段々駄目になつていく傾向さへある。例へば、ローマカトリック、これは段々信ずる人はゐなくなるのではないかといはれてゐる。天皇制、これもみんなフラフラになつて駄目になつちやふのではないかと心ある人は心配する。何故か? それは時間の連続性に対する人々の自覚が足りなくなつてゐるからです。
 世界は今この大国間の争ひにしろ、平和運動にしろ、ベ平連にしろ、何にしろ、結局は空間といふもので争つてゐるけれどもこれはまあ表面的な考へ方です。ところが人間といふものは決してそれだけではない。これは人間の非常に不思議なところで、私は最初に、「人間はパンのみで生きるものではない」と申しましたが、人間は空間のみで生きるものでもないのです。それが証拠には、私は最近ソビエト旅行をして先月帰つて来た人から昨日聞いた話ですが、今ソビエトで一番の悪口は何ん(ママ)だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒(ばとう)する一番きたない言葉、それをいはれただけで人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和をかち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。それが現在の国家像であると考へられていいんです。
 ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいではないか、歴史や文化などはいらんではないか、滅びるものは全部滅びて良いではないか、と考へる向きが非常に強い。さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。(私の聞いて欲しいこと 於済寧館 昭和45年5月28日)

【『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫〈みしま・ゆきお〉(新潮社、2003年) 】


 討論が行われたのは1969年(昭和44年)5月13日のこと。三島が東大全共闘から招かれた。学生運動は団塊の世代を中心とした戦争に対する一種の反動であった。参戦できなかったことや、戦禍の犠牲になったことが大いなる葛藤を生んだのは容易に想像がつく。戦前と戦後の価値観の顛倒(てんとう)、仕事の喪失、食うや食わずの生活といった混乱が青少年の心に空白をつくり、それが怒りや暴力に結びついたのだろう。大人を拒んだ彼らが三島にだけ心を開いたのは、嘘のない大人と認めた証拠であろう。

 三島はこの討論で「私が行動を起こすときは、結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。非合法で、決闘の思想において人をやれば、それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんにつかまらないうちに自決でもなんでもして死にたいと思うのです」と語った(現代社会にも響く言葉の力 「三島由紀夫VS東大全共闘」の見方 | Forbes JAPAN)。10.21国際反戦デー闘争 (1969年)で三島は、自衛隊の治安出動~楯の会決起を目論んでいた。新左翼の暴力は激化する一方であったが機動隊が鎮圧した(70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督)。いつでも自裁する準備ができていた三島は深く落胆する。知行合一(ちこうごういつ)をモットーとした三島が行動する学生たちに親近感を抱いていたのは確かだろう。しかしながら彼らは無責任であった。無論、本気で革命を目指したわけではなかったはずだ。そもそも大衆の支持を得ていなかった。彼ら自身、「革命ごっこ」の自覚があったように思う。

 因みに保守合同で自由民主党が誕生してからの衆議院獲得議席数は、

 287:1958年(昭和33年)
 296:1960年(昭和35年)
 283:1963年(昭和38年)
 277:1967年(昭和42年)
 288:1969年(昭和44年)

 となっており、改選議席数は467で、1967年と1969年は486である。投票率はいずれも70%前後。大多数の国民が自民党を支持した事実は重い。日本は敗戦の歴史を拭い去るべく経済一辺倒でひた走った。

 三島自身が監督・主演した映画『憂国』は1966年(昭和41年)に封切りされている。4年後には多くの日本人がまざまざと三島の割腹シーンを思い浮かべることになった。

 本講演は皇宮護衛官に向けて行われたもので、済寧館(さいねいかん)は皇居内の道場である。

 三島は1925年(大正14年)生まれで、昭和の年号がそのまま年齢となる。16歳で作家デビューし、20歳で敗戦を迎えた。『憂国』(1961年)と『英霊の聲』(1966年)で二・二六事件を新しい物語に書き換え、『奔馬 豊饒の海第二巻』で神風連を描いた。そして三島の精神を貫いていたのは陽明学であった。

 その45年の人生は「時間の連続性」という「縦の軸」を遡及(そきゅう)し、尊皇の誠は天皇陛下の人間宣言を批判するまでに至った。三島の人生は明治維新から二・二六事件に向かう日本そのものであった。

 GHQが主導した戦後教育は「時間の連続性」を見失わせるものだった。それは今日も尚続いている。だが敗戦から半世紀を経た頃から、「自虐史観を脱却せよ」との声が現れた。三島の死から四半世紀が経っていた。

 東大全共闘との対話を三島はこう締め括った。「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。(中略)この言霊がどっかにどんな風に残るか知りませんが、その言葉を、言霊を、とにかくここに残して私は去っていきます」――。

  

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