2021-11-20

人間の心は心像しか扱えない/『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重


『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬
『壊れた脳 生存する知』山田規畝子

 ・「わかった」というのは感情
 ・人間の心は心像しか扱えない

・『「気づく」とはどういうことか』山鳥重
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 心像もメンタル・イメージの訳語ですが、そこは大目に見てください。現在使われているイメージという言葉は視覚映像のニュアンスが強いので、わざと心像にしました。心像は視覚映像だけではありません。触覚、聴覚、嗅覚、味覚など視覚化出来ない心理現象を含みます。これらをすべて含む用語としては、正確には心理表象という言葉を選ぶべきなのですが、長いし、なじみも薄いのでやめにしました。
 太陽が東から昇り、西へ沈むのは、地球が自転しているせいで、太陽が動いているせいではありません。しかし、われわれには太陽が昇り、太陽が沈むとしか見えません。動いているのは太陽であって、じっとしているのはわれわれです。
 地球の自転は事実で、太陽が動くのは心像です。
 事実は自分という心がなくても生起し、存在し続ける客観的現象です。心像は心がとらえる主観的現象です。
 われわれの心の動きに重要なのは心像であって、客観的事実ではありません。心像を扱うのが普通の心の働きで、客観的事実はこころにとってはあってなきがごときものです。もっと正確にいえば、われわれの心は心像しか扱えないのです。客観的事実を扱うには、普通の心の働きとは別の心の働きが必要です。われわれは地球が自転しているなどということは知らずに何万年も生きてきました。今だって、そんなことを知らずに生きている人はいっぱいいるはずです。われわれは「太陽が昇る」「太陽が沈む」という事柄を心像化して経験出来ますが、「地球が自転している」という事実は経験出来ません。

【『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重〈やまどり・あつし〉(ちくま新書、2002年)以下同】

 山鳥重は神経内科が専門で高次脳機能障害のエキスパート。山田規畝子の著書で知った人物である。話し言葉で書かれていて読みやすい。

 脳が病気や怪我でダメージを受け高次脳機能障害になると心像が変容する。主観と客観が乖離(かいり)し、生活の中で困難な場面が増える。あるいは統合失調症の幻聴・幻覚も内部世界と外部世界の隔絶が顕著な状態だ。しかし、である。私は大なり小なり万人が病んでいると考えているので程度問題に過ぎないと思う。脳が左右に分裂しているのだから思考と感情を完全に統合することは不可能だ。むしろ進化の営みからすれば分離になんらかの優位性があるのだろう。

 私が「想念」と書いてきたものと山鳥の「心像」は一緒である。外部世界を我々はありのままに見ることができない。「私」というフィルターを通して見るためだ。そのフィルターの色や歪みが想念・心像である。山鳥の認識は仏教に迫っている。

 最澄(天台)は心像の基本を十法界(じっぽうかい)と説いた。日蓮がこれを次のように敷衍(ふえん)している。

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとえば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各々別也。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば経文に云く_若有能持 則持仏身〔若し能く持つことあるは 則ち仏身を持つなり〕等云云。天台云く ̄一帙八軸四七品 六万九千三百八十四 一一文文是真仏 真仏説法利衆生等と書かれて候」(「法蓮鈔」建治元年〈1275年4月〉)

 飢渇(けかつ)に苦しめられた者がガンジス川(恒河)を見れば、「飲みたい」との欲望が火のように起こる。凡夫は生活者の視点から水を捉え、天人(てんにん)は詩を読み、歌い上げる。更に動植物にとって不可欠な物質と見る。あるいは水利や灌漑事業にまで想像が及ぶ。科学者が見れば水素2個と酸素1個の原子である。地球物理学者であれば海水蒸発から降雨を経て川に至るまでのシステムが見える。果報によって見える世界が異なることを説いたものだが、これは心像そのものである。

 心像はこのように経験を通じて形成されます。そして、この心像がわれわれの思考の単位となります。われわれは心像を介して世界に触れ、心像によって自分にも触れるのです。外の世界(客観世界)はそのままではわれわれの手に負えません。われわれは世界を、心像形成というやり方で読み取っているのです。心像という形に再構成しているのです。

 知覚-認識のステップを示したのが五蘊(ごうん)である。一種のフローチャートと考えてよい。これを推し進めると唯識(ゆいしき)に辿り着く。

 知覚心像が意味を持つには、記憶心像という裏付けが必要です。
 脳損傷で、モノはちゃんと見えているが、何なのかわからないという状態が起こることがあります。見えている証拠に、この人たちは見せられたモノをちゃんと写生することが出来ます。でも、写したもの(ママ)が何であるかわからないのです。知覚心像がほかの心像(記憶心像)から切り離されてしまい、ほかの心像と関係づけることが出来なくなってしまっているのです。

 行蘊(ぎょううん)と識蘊(しきうん)の連係が上手くいってないのだろう。 ただし、そう見えているのは外部の人間であって本人ではない。これは我々でも日常的に起こることだ。


 初めて見た物を理解することは難しい。特殊な工具や部品を見て、何に使うかわかるひとは少ない。知識と記憶が結びついた時に初めて「知る」ことができる。

 われわれの祖先がいつごろ言葉を獲得したのかはわかっていません。数十万年前かもしれません。あるいは、わずか数万年前なのかもしれません。いずれにしても、われわれの祖先は言葉を獲得して以来、さまざまなモノやコトに名前をつけ続けてきました。名前をつけるというのは、記憶心像に音声記号を貼り付ける働きです。

 巧みな説明だ。心像は人の数だけ存在する。特に人の名前によって呼び起こされる心像はくっきりと際立つ。例えば安倍晋三とかさ。

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