・『昭和の精神史』竹山道雄
・言うべきことを言い書くべきことを書いた教養人
・志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」
・『見て,感じて,考える』竹山道雄
・『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
・『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
・『ビルマの竪琴』竹山道雄
・『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
・『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
・『歴史的意識について』竹山道雄
・『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
・『精神のあとをたずねて』竹山道雄
・『時流に反して』竹山道雄
・『みじかい命』竹山道雄
志村五郎は敗戦直後の1946年に一高に入学し、いちはやく日本の最高の数学者と呼ばれた人物だが、後半生はアメリカで生きた。自伝も日英両語で書いているが、その日本語版『記憶の切絵図』(筑摩書房、2008)にプリンストンで手術を受けた時のエピソードをこう伝えている。麻酔医が『ビルマの竪琴』の英訳を読んで感動したと話した。「その著者は私の高校のドイツ語の先生だと言うとひどく感心していた」。その志村にいわせると、1950年、朝鮮戦争勃発当時、日本の政治学者や評論家には「ソ連信仰」が根強く、「進歩的知識人」は反共よりも反米の方が論壇で受けがよいことを知っており、その世界の中の功利的保身術に基いて発言していた。それとは違って、と志村は言う。「竹山道雄は共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞(ぎまん)を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時はほとんどただひとりの人であった。彼はまた東京裁判の不当性と非論理性を言った。竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」。志村にそう指摘されたとき、私は身内の者であるけれども、やはり自分が論ぜねばなるまい、とあらためて思った。
【『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉(藤原書店、2013年)】
フェルマーの最終定理を解いたのはアンドリュー・ワイルズだが、そのための武器を用意したのが日本の志村五郎と谷山豊であった(『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン)。
「また評論家として戦中は軍部を批判、戦後は進歩的思想に反対し続けたリベラリストで、(※昭和)43年には『米原子力空母エンタープライズの寄港に賛成』と発言、論争を呼んでいる」(竹山道雄とは - コトバンク)。1968年(昭和43年)といえば学生運動が安保反対を経てベトナム戦争反対に舵を切り、東大闘争が始まった頃で、当然エンタープライズの寄港に対する反対運動が起こった。朝日新聞が取材した5人の識者の中で竹山道雄ただ一人が賛成を表明した。その後朝日新聞は「声」欄を使って執拗な竹山バッシングを行う(朝日新聞に抹殺された竹山道雄)。以下のページに詳細がある。
・馬場公彦著「『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史」2004年法政大学出版局刊・3の2 | 知的漫遊紀行 - 楽天ブログ
当時の新聞の影響力は現在の比ではない。テレビはまだ歴史が浅かった。世論を動かしていたメディアは新聞のみであったと断言してよい。このような背景を知れば志村の文章に込められた思いが胸に響いてくる。数学者の合理性が竹山のありのままの姿を捉えたのだろう。
竹山は実際家であった。ゆえに思想が事実を歪めることを十分承知していた。戦後、分断された西ドイツから東ドイツの嘘を見抜いた。西ドイツへの亡命者の多さが社会主義国の欺瞞を証明していた。世論が時流に流される中で竹山は一人両脚に力を込めて学問の大地に立っていた。
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