・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ
・古代インドが「祈り」を発明した
・『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
・『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』鎌田東二編
この大自然の同じ魔を逃れるのに、両文明地域とも、それぞれに神を発明したが、古代印度(先住民族;ドラヴィタ人、又はドラヴィタ言語使用民族グループ)はメソポタミアと違って、唯一絶対神の人格神に同化する立場をとらなかった。古代印度は、「魔」を「神」(「魔」神から「善」神へ)に転換(蘇生)する呪術、祈りを発明した。即ち、後に仏教で、「変毒為薬」、「煩悩即菩提」、「色即是空」などにも通じる思考である。その後、征服統治者のアーリア人(広義には、アーリア言語使用民族グループも含める。)も次第に同化し、この文化をその習慣的に受け入れた。
【PDF『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良】
実に興味深い指摘である。祈りが本来、自然災害などのマイナス要因を転換するために行われたであろうことは想像できる。呪術の「呪」には「祝う」意味もある(「祝」の字ができたのは後のこと)。確かに「災い転じて福となす」ためには悪鬼が善鬼となってもらわねば困る。人間万事塞翁が馬というように不幸の後で幸福が訪れたこともあっただろう。その触媒が祈りにあったと人々が信じれば宗教的体験が共有される。実際は不幸の連続であったとしても輝かしい奇蹟の記憶はそう簡単に消えたり、訂正されたりするものではない。
メソポタミアの宗教については全く知識がないので何とも言いかねる。同じセム族から生まれたアブラハムの宗教は「神との同化」を説いていない。神の絶対性は予定説に極まり、祈りが現実に対して何らかの変化を及ぼすことはあり得ない。祈りはただ神を仰ぐことを意味する。神と人間は隔絶している。
気候が寒く厳しい地域では教義もまた厳格になるという説がある。仏教の南伝と北伝が異質な教えになったようにメソポタミアの宗教もまた変化したのだろうか?
いずれにせよ宗教も情報理論に収まる。外部情報をどう読み解くかという問題なのだ。17世紀科学革命以降、情報は観察とデータが優先され、古い神話や物語は葬られた。それでも尚、人類の脳はバイアスを払拭できない。
0 件のコメント:
コメントを投稿