2011-07-04

大乗仏教運動の成り立ちと経緯/『大乗とは何か』三枝充悳


 私が宗教書を読む際は「合理性」に注意を払う。昂(たかぶ)った感情や、劇的な体験は最初から無視する。それを求めるのであればタレント礼賛本を読めばいい。宗教的情熱といえば聞こえはいいが、外側から見れば異常性に映る。マルチ商法セミナーの熱気みたいなものだろう。

 三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉にはバランス感覚の優れた合理性がある。妙なこだわりや執着がなく恬淡(てんたん)としている。そこに私は仏教の精神を見る。

 感情と信仰が結びつくとファナティックになる。熱狂が周囲を見えなくする。狂信者は覚醒剤中毒のような症状を示す。真の宗教性は情操を豊かにし、視野を限りなく広げ、人間を一切の束縛から自由に導くはずだ。

 本書は構成がデタラメな上、エッセイ風の散漫な文章が多い。で、高価ときている(3990円)。中級者以上でよほど必要としない限り、買って読むような代物ではない。法蔵館の怠慢を戒めておきたい。

 生あるものはたえず欲望に逐われている。欲望はその満足・達成を求めてやまないけれども、なかなか果たされず、その欲望はますますつのるばかり。幸い、あれこれに恵まれて、欲望はついに満たされた。ゴールに達した。その途端、もはや【その】欲望は【そこ】にはない。だれが滅ぼしたのでもない。欲望みずからが跡かたもなく消え失せてしまっている。それは、あるいは一杯の水にせよ、あるいは最高の栄誉にせよ、あるいは多額の賞金にせよ、文字どおりピンからキリまで、あらゆる欲望が現実にそのようにある。
 欲望に惹かれ、欲望の赴く途・指示する方向をひたすらに進み、万難を排して、ようやく行きつくと、そこではもはや消えている。欲望は、そのようないわば自己矛盾・自己否定を、その本質とする〔かえってそのために、つづいて別の欲望が生ずる。しかしもちろんそれも果たされれば滅びる。ここに俗にいう「欲望は無限」の根があるとはいえ、実はこの俗言は正確さを欠いている〕。

【『大乗とは何か』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉(法蔵館、2001年/ちくま学芸文庫、2016年)以下同】

 井上陽水もそんなふうに歌っていた。三枝の指摘は、空(くう)思想の属性論に基づくものだ。

「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

 欲望は泡沫(うたかた)のように浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。これ自体を六道輪廻と捉えることも可能だろう。欲望といっても色々ある。下劣な欲望はわかりやすが、願望や希望もまた欲望である。結局、自我を延長・拡大しようという働きなのだろう。その根底にあるのは死への恐怖に他ならない。

 次に大乗仏教運動について。

 この新たなる運動は次第に高まり、力を増していって、ついにそのなかに、さとれるもの=ブッダがあらわれる〔以下はこれを仏と記す〕。換言すれば、ゴータマ・ブッダとは別の新たな仏の誕生があり、しかしその名は一切伝わらない。これら無名の仏の教えは、釈尊の場合と同様、やはり経にほかならず、これらの経は、当然のことながら従来の伝統仏教とは異質のものをもはらみ、それらの高唱のうちに、やがてみずからを「大乗」(マハーヤーナ)と称するようになる。
 大乗の語を最初に記したのは般若経であり、その原初型はおそらく紀元前後のころの成立とされている。それは短く小さな経であったと推定されるが、次第に増広され、また多様化して、多種の般若経がつぎつぎと生まれてゆき、それは数百年に及ぶ。

 大乗仏教成立に関して数年前までは関心が高かったのだが、今となっては熱も冷めてしまった。歴史が動くことについては、マーク・ブキャナンの史観が当たっていると思う。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 更に脳科学を加えると、大体読めてくる。歴史が変わるという事実は、人々の脳内ネットワークの変化を示したものだ。天候や食料事情、そして政治体制などが密接に絡み合って人々の欲望が刺激されてゆく。ある日、英雄が出現して溜まりに溜まったストレスが爆発するのだ。

 ブッダとは「目覚めた人」の謂いである。釈尊以前にもブッダは存在した。そして大乗仏教成立の過程でも存在したはずだという考えは、さほど見当違いのものではないだろう。事実として大乗仏教は2000年にもわたって人々の心をつかんでいるのだから。

 思想の寿命は合理性によって末永くなる。仏教が令法久住(りょうぼうくじゅう/ 法をして久しく住〈じゅう〉せしめん)を目指したのも、理法という合理的な裏づけがあったからだ。その意味では政治が現在の問題を扱うのに対して、宗教は現在と未来を視野に入れているといってよい。

 法華経に、はじめて「小乗」(ヒーナヤーナ)の語が、従来の仏教に対する貶称としてあらわれ、しかもこの法華経は、大乗・小乗の別なく、ことごとくを一乗(一仏乗)に導くという。ここに方便(ウパーヤ)というありかたが見なおされて、成仏に向かうさまざまな通路を開く。それらを支えるものに、時間・空間その他のすべての限定をこえた仏が立てられて、「久遠(くおん)の本仏(ほんぶつ)」と呼ぶ。なお後述するように、法華経そのものの読誦や書写などがとりわけ強調されるが、それは他の諸経典にはあまり見られない。

 小乗とは大乗による悪口であった。エリート化した部派仏教に対する当てこすりだったのか、用意周到な政治的画策であったのかはわからない。いずれにせよ仏教の大乗化は総合的な理論構築を目指すこととなる。久遠本仏にしても大日如来にしても同様だが、明らかに仏の唯一神化が見られ、大乗仏教と神学との類似性も窺える。

 人間がトータルな学問領域を目指すのは、やはり脳の気質によるものだろう。

 中国はもともと仏教伝来以前に独自の高度な精神世界を築きあげており、その民族意識の底流のうえに、漢訳するさい、それらを織りこませている。さらには、インドに欠如して中国には強烈である諸思想、たとえば現世中心(輪廻の無視)、国家意識、祖先崇拝(死者供養)、家の尊重その他によって、中国人に適した新たなる経を、中国人みずから〔体裁はインド原典に似せて〕つくありあげる。仁王(にんのう)〔般若〕経(きょう)、盂蘭盆経(うらぼんきょう)、父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)、四十二章経ほか、多数の経典を、中国人がすでに疑経と自認している。それらは偽経とも評されようが、それでも経である〔経と呼ばれている〕ことにはちがいないところから、一般には、そのすべてがほぼそのまま仏説と信じられて、国家の要請や民衆の渇望に応(こた)えつつ、歴史の年輪を刻んだ。

 すると日蓮の国家観は中国の影響を受けていたことになるのだろうか?(「立正安国論」「守護国家論」など) 中国は元々王朝国家で歴史という概念も古くからあった。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 そして漢字という表意文字が仏教に複雑な陰影を与えることとなる。報恩という思想も中国由来か。

 日本仏教の最も特筆すべき性質は、在家の重視であり、これは当初の聖徳太子以来つづいている。当然、国家や政治とのつながりも密で深い。また日本人の一種のマジカルな霊力への傾向も、日本仏教に色濃く反映している。

 これは文化の違いだろう。元々瞑想文化があったインドとは背景が異なる。中国は官僚制度が発達していた。日本の共同体はインド、中国と比べると未発達であったと思う。

 マンダラは当初はヒンドゥー教の影響のもとに密教が独自におこなう宗教儀式の場であり、その行事のたびに、諸仏・諸尊の集まるその壇が設けられ、あとは取り払われていた。それがいつか定着して、やがては図像化され、また彫像をも伴うようになり、ここに、大乗仏教に登場した諸仏ほかがことごとく招きいれられて、昔の流行語でいえばオン・パレードの檜舞台にたがいに妍(※けん)を競い合う。

 最澄も空海も密教の影響を強く受けているため、鎌倉仏教は全てが密教の匂いを放っている。有り体にいえば密教とはマンダラ&マントラのことだ。

 過去と未来にくりひろげられた仏は、ついにはいわば時間を横に倒して、空間的に展開・拡大され、四方に一仏ずつが立って、一時多仏が誕生する。それは大乗仏教運動の所産であり、あるいはこの多仏思想が大乗仏教を引きおこす一翼をになっていた。

 時間と空間に対する数学的アプローチは大乗特有の宇宙観にまで発展する。大乗思想は空(くう)を通して無限を展望していた。

 ところで、仏教において実体が無いという説明が空に関してなされるのは、実は部派仏教のひとびとが、この実体という概念を重要視して、実体というものに或る意味で取りつかれていたからなのです。そこで、この実体という考えを否定する、あるいは破壊する、実体化することを打ち破るものとして、シューンヤということばが使われました。(中略)
 空を説明するのに、実体が無いというのは、一つの論理的な表現であり、とらわれないというのは、実践的な表現です。部派仏教のひとびとが、論理的には実体を考え、あるいは実践においても或る制約にとらわれていたあり方に対する反省を求め、それを排して、釈尊の初期仏教に立ち返れというスローガンとして、大乗仏教の、そして般若経の空が説かれました。

数字のゼロが持つ意味/『人間ブッダ』田上太秀
ゼロから無限が生まれた/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ

 三枝の指摘が事実であれば、部派仏教はブラフマンを払拭できていなかったことになる。それはいくら何でも考えにくいと思う。ブッダが草葉の陰で泣くなんてことがあるのか? もしもそうであったとすれば、大乗仏教との勢力争いの中から出てきた戦略だったのではあるまいか。「諸法無我って、説明のしようがないよな?」確かに。「だったら、面倒だから“実在がある”ってことにしてしまわないか?」マジ?「ああ、こっちのメンバーになってから諸法無我を教えればいいだろうよ」合点承知。ってな経緯があってもおかしくはない。

 部派仏教と大乗仏教、そして仏法東漸(とうぜん)の思想的変遷(へんせん)が、教義絶対主義を斥(しりぞ)ける。空(くう)思想が仏教の本義であれば、「絶対なる義」を設定することが矛盾をはらむ。欲望を始め、名称からも形態からも離れることをブッダは勧めた。であるならば言葉からも離れる必要があろう。

 上座部と大衆部の違いは、悟りと理論、個別性と全体性、超越性と実用性、個人と組織、真理と言葉の問題をはらんでいて実に深遠なテーマである。

 悟りは思考ではない。思考を離れるところに悟りが存在するのだ。大乗とは全人類を乗せることのできる大地のような思想である。



仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀

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