2019-01-16

政党が藩閥から奪った権力を今度は軍に奪われてしまった/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦


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 ・政党が藩閥から奪った権力を今度は軍に奪われてしまった
 ・溥儀の評価
 ・二・二六事件前夜の正確な情況

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『村田良平回想録』村田良平
『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 陸奥(むつ)は、伊藤博文の知遇と土佐の自由党の力を背景に、小村は、桂太郎に代表される志を同じくする明治第二世代の強い国権主義潮流のうえに乗って、そして幣原(しではら)は、議会民主主義の大道(たいどう)のもとに、選挙で権力を掌握した民政党の多数の力をもって、それぞれの政策を実行した。
 しかし、昭和期の政治家、外交官は誰一人こういう強い政治力の背景をもたなかった。裏からいえば、誰も軍の独走を抑える政治力をもたなかったのである。
 政党が藩閥(はんばつ)から奪った権力を今度は軍に奪われてしまったのである。その理由はすでに見てきたように、大正デモクラシーが日本が達成した初めての政党政治であったために、「デモクラシーは最悪の政体であるが、他の政体よりもまし」という哲理を、まだ一般国民が当然のこととして受け入れるゆとりがなく、党争、腐敗などの政党政治の否定的な側面に国民が失望し、それに代る他(た)の勢力、とくに軍に国民が期待をもったことにある。

【『重光・東郷とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、2001年/PHP文庫、2003年)以下同】

 岡崎の史観は政党政治を基軸に据え、大正デモクラシーを肯定的に捉えている。1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙が行なわれているので大東亜戦争敗北(1945年〈昭和20年〉)までの半世紀を政党政治の揺籃(ようらん)期といってよいだろう。傑出したリーダーは存在したものの国民的な政治意識の成熟には時間を要した。長い間、戦勝国のアメリカが日本に民主政をもたらしたという誤った歴史がまかり通ってきたが日本にはもともとその土壌があった。

「デモクラシーは最悪の政体であるが、他の政体よりもまし」と語ったのはチャーチルである。第二次世界大戦にあって独裁を許されることのなかった皮肉が込められている。つまり「権力者にとっては最悪」という諧謔(かいぎゃく)なのだ。

 個人的には民主政が集合知を発揮することは難しいと考える。衆は愚の異名である。賢(けん)は個によって発揮され後に続く人が出てくる。集合知は沈黙の中から生まれる(『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン)。大衆が沈黙の内に沈んで投票行動に及ぶことはまず考えられない。

「責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる」(『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編)。ネット上の掲示板で人の道が説かれるようになれば私も民主政を信じよう。

 統治形態が王政、貴族政、民主政と変化してきた(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)のは脳の内部世界に連動したものだろう。第二次世界大戦の渦中で民主政と僭主政(独裁制)が拮抗したのも一種の揺り戻しで、人類の思考回路が紆余曲折を経てきた形跡が窺える。つまり、こうだ。社会が巨大化(国家化)してゆく中で人々は単純な判断が許されなくなり、自分と異なる価値観を受け入れる必要が生じた。思索とは反対意見を設定することだ。西洋で哲学の花が咲いた後に民主政へと向かうのは必然であった。人類はこうして熟慮する存在となった。

 私は真に熟慮し得る政治家はその人自身が民主政を体現していると考える。現代の政党政治が利権で動いている以上、形を変えた藩閥政治といってよいだろう。

 国民はたしかに軍人に期待した。国民のイメージのなかでは、党争と利権にまみれた政治家に代って凛々しい軍人が国を指導する姿があったことは否定できない。しかし、国民は、出先の軍の独走や青年将校の下剋上(げこくじょう)まで期待したわけではなかった。
 こう考えると、張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)の犯人を処罰せず下剋上の風潮をつくったことが昭和政局全体の禍根(かこん)となった、という判断には否定しえない真実があるといえる。
「満州で止まっておけばよかった」というのが当時の国際情勢分析からくる国家戦略として――倫理的判断でなく――正しい判断だったとしても、軍の出先に歯止めが利(き)かない状況のもとでは、それは国家戦略の是非の問題ではなく、賭博場(とばくじょう)から負けて帰ってきて「いちばん勝っていたときに帰ってくればよかった」と悔むのと同じことになってしまう。そろそろ潮時だから賭場から帰れといくらいってもいうことを聞かないのだから、戦略も何もない。結局負けるまで――賭場全体を乗っとろうという空想的勝利の場合以外は――いつづけることになるわけである。
 そうなると、そもそも賭場(とば)に行ったこと自体が悪い、そもそも軍人なるものがいたから悪い、というだけの単純な史観になってしまう。
 げんに戦後の日本ではそういう史観が主流であった。もちろんその背後には、冷戦における共産側のプロパガンダもあった。共産側のプロパガンダは、表向きはいろいろな理屈は使っても、ひっきょうその究極の目的は日本の防衛力を弱めておいていざというときに取りやすくしておくことにあったのだから、反戦主義、反軍主義を煽ったのは当然である。
 こうして、第二次世界大戦の歴史の教訓とプロパガンダによる反軍思想の相乗効果で、こうした単純な史観が主流となったわけである。

 歴史の奇々怪々を教えるものとして「張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説」がある。歴史には多くの嘘がまみれているが、大切なのは史観の陶冶(とうや)である。事実の書き換えによって史観までもが変わるようではダメだ。

 関東軍の動きは民の願いに応えたものだろう。日清・日露戦争に勝っても日本は帝国主義の甘い汁を吸うことが許されなかった。国民は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を唱えて憤激を堪(こら)えた。陸奥宗光、小村寿太郎、原敬〈はら・たかし〉を理解できる国民はいなかった。そして国民の積怨(せきえん)が関東軍という形になったのだ。日本人の脳が近代化できなかった様子がありありとわかる。

 インターネットによって人々は移動することなくつながることが可能となった。もはやつながっているのである。そして実は「つながる環境」があるにもかかわらずつながってはいない。SNSという新しい形は緩やかな関係性を構築させたが、まだ世の中を変えるほどの力にはなっていない。商品ではなく人間のレコメンド機能が出てくると面白い。

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