・『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
・『人が死なない防災』片田敏孝
・『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
・『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
・『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
・『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー
・集合知は群衆の叡智に非ず
・集合知は沈黙の中から生まれる
・真のコミュニケーション
・『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
・『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
・『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
・『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
・必読書リスト その五
本書を読んでいると人と人とのつながりを考えさせられる。果たして我々の日常に「対話」と呼べる行為があるだろうか? また他人に対しては傾聴を求めがちだが自分は傾聴しているだろうか? そして集合知が求められるのはどのような場面だろうか?
多くの人は自らの完全性を、自らの宗派の完全性と同じく絶対のものだと確信しています。あるフランス人女性は、ちょっとした姉妹喧嘩で「でも、つねに正しい人など会ったことがないわ。私以外はね」と言いました。(ベンジャミン・フランクリン)
【『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン:上原裕美子〈うえはら・ゆみこ〉訳(英治出版、2010年/原書、2009年)以下同】
その意味では誰もが何らかの「信仰」を持っていると考えてよい。信者の辞書に「自問自答」は存在しない。もちろん「懐疑」も。
フランクリンは、(中略)言葉数は少ないながら、宗教の不可謬性と、「自分はつねに正しい」と思いたがる人間ならではの性質を並べて論じてみせた。不可謬性を信じるのは時代遅れであり、民主主義が求めるものとは真っ向から対立すると主張し、個人または少集団がつねに正しい、または唯一の解決策を持っていると考えると、集団は危険な存在となると警告した。
ただし民主主義も多様性から一気に衆愚へ傾く場合がある。特に不況で国民の間にストレスが蔓延している時は要注意だ。
民主主義は脆弱な同意だ。集団の力と技術、そして理性を共有する人の力に依存している。だが真の民主主義はパワーになる。他者の意見に耳を傾けることを通じて、互いの差異と団結とを意識することのできる新しい集合体が生まれる。
マスメディアが正常に機能していない以上、間接民主制(代議制)が集合知を発揮するとは思えない。種としてのヒトのコミュニティはやはりインディアンなどの部族程度が望ましいのではないだろうか。直接「声が届かなければ」集合知には至らないと私は考える。
「真の対話(ダイアログ)とは、ふたり以上の人間が、相手の前で自分の確信を保留できることによって生じる」(デヴィッド・ボーム)
クリシュナムルティと対談している割にはボームの『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』は面白くなかった。
集まっていたごく普通の人たちが、「聞く耳がある」ではなく、「聞く力がある」という態度で、互いの意見に耳を傾けた。
ここは「聴く力」とすべきである。「聴」の字は「聡」や「徳」に通じているような気がする。それにしても見事な表現だ。
集団の構成員は、それぞれが独自の目で世界を見ている。それぞれの情報はすべて貴重であり、同時に、全体を構成する一部でもある。場合によっては厄介だ。
それぞれの情報は「部分情報」なのだ。ゆえに部分を統合させる作業が必要となる。各人が部分に固執してしまえば全体を見失う。「聴く」ことが石段となって高い視点を生み出す。
そして集合知に欠かせないのは「よい方向への逸脱(ポジティブ・デビアンス)」であるという。逸脱が豊かな幅を形成する。
「どんなコミュニティや組織にも、あるいは社会的集団の中にも、例外的なふるまいや行動をして、よい結果を得ている存在がいる。……こうした“ポジティブ・デビアント(よい方向に逸脱した人たち)”は、自分では意識することなく、集団全体に成功をもたらす道を見つけている。彼らの秘密を分析し、分離し、のちに集合全体で共有すればいいのだ」(デヴィッド・ドーシー)
一言でいえば「ユニーク」ということだ。多彩な表現力が新たな発見につながる。
そして、特定のスタンスから一歩下がれば、全体の秩序やパターンも見えてくる。
「下がる」とは「離れる」こと。自分の部分情報から離れて全体の景色を見るのだ。
エマソンは生の全容を、その矛盾と変則性を、学びに向けた欠かせない道として受け入れていた。神が作ったすべてのものにはヒビがあり、そのせいで人は未完成であると同時に、その裂け目から光が入る、と考えていたことは有名だ。
エマソンは上手いことを言う。世界は神が造った不良品だ。
「精神は、それぞれに自分の家を建てる」(エマソン著『自然論』)
その家を外から眺める人の何と少ないことか。皆、家の中から窓の外を眺めている。
分断と細分化へ向かうのではなく、いつわりの合意、見せかけの団結に向かおうとする。このパターンにおいて、集団の構成員は沈黙と服従を選ぶ。集団内の不一致を明らかにするよりも、団結の幻想を守りたいと考える。
これこそ集合知を阻む一凶である。知性を眠らせて隷属に向かう同調圧力が働くのだ。太鼓持ちやスネ夫タイプがいると集合知は生まれ得ない。
ヘウムに住む賢者たちは愚か者だ、と言う者がいます。信じてはいけません。ただ、いつも愚かな出来事が彼らに起きるだけなのです。
――ソロモン・シモン『ヘウムの賢者たちと、その楽しいお話』より
邦訳未完。知の力は内省的なものだ。無知の自覚が知の扉を開く。独善性は世界を歪める。北朝鮮やオウム真理教の正義を参照せよ。
何かが真実であると確信すると、確証バイアスの呪いのもと、人はそのバイアスを裏付けるデータだけを探そうとする。真実であると思っていることに逆らうかもしれないデータは、すべて否定するか、「意訳」しようとする。
一を聞いて十を知る人もいれば、一を見て9.9を失う人もいる。人間とは解釈する動物である。もちろん自分の都合に合わせて。認知レベルの誤謬を我々は自覚することができない。
・誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
「わたしは人間だ。人間にかかわることなら何だって、ひとごととは思えない」
共和制ローマの劇作家テレンティウス(紀元前195?~159年)の戯曲『自虐者』より
「私は人間である。人間のことで私に関係のないものなど何もない」(プビリウス・テレンティウス・アフェル)
テレンティウスはアフリカ人でかつて奴隷だった人物。自分が受けた苦しみを通して人類にまで眼(まなこ)を開いた。他者と関わり合う姿勢の中に集合知の萌芽がめばえる。
衆愚は引力だ。あらゆる集団に発生し、知と反対の方向へと引きこもうとする。
衆愚は黒々とした奔流となって暴走する。衆愚は声高に正義を叫びながら人々を邪悪な方向へと導く。大衆は考えることよりも走ることを好む。パンとサーカスがあれば完璧だ。
「思慮深く意欲的な少数の人間の集まりだけが世界を変えられる」マーガレット・ミード
とすると野次と怒号が飛び交う国会はやはり人数が多過ぎるのだろう。群衆は責任を欠く。人影の後ろから石を投げるようなのばっかりだ。
ボストン・フィルハーモニーの指揮者ベン・ザンダーは、(中略)「シンフォニー」という言葉はもともと「シン(共に)」と「フォニア(響く)」を組み合わせた言葉だと説明した。
集合知が機能する人数の参考になりそうだ。
4人の著者名から成る本書そのものが集合知の結晶と思えてならない。スコット・ペイジ著『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』も開いたが全くレベルが違う。
本書はビジネスに活かすような代物ではない。真のコミュニケーションを具体的に示した正真正銘の傑作である。
・コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
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