日本での原発再稼動は、電力ではなく、濃縮ウランの供給を要求するアメリカ企業の圧力があるからだ

大飯原発再稼働反対デモ 各紙朝刊1面記事比率


2012-06-29

首相官邸前に集え! 反原発行動は本日18時!



◎広瀬隆からの緊急メッセージ(PDF)

2012-06-28

『論語』翻訳比較~金谷治、宇野哲人


 子(し)の曰(のたま)わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。

 先生がいわれた、「学んでも考えなければ〔ものごとは〕はっきりしない。考えても学ばなければ、〔独断におちいって〕危険である。」

【『論語』金谷治〈かなや・おさむ〉訳注(岩波文庫、1963年/新訂版、1999年)】

論語 (岩波文庫)



 子(し)曰(い)はく、学んで思わざれば則ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやふ)し。

〔通釈〕ただその事を学ぶだけで、その理窟を思索しなければ、心がくらくてなにも悟りを得ることはない。ただその理窟を思索するだけで、その事を学ばなければ、空想に過ぎないから、危(あやう)くて不安を免(まぬ)かれない。(※〔語釈〕〔解説〕は略す)

【『論語新釈』宇野哲人〈うの・てつと〉(講談社学術文庫、1980年/『大礼記念昭和漢文叢書』弘道館、1929年)】

論語新釈 (講談社学術文庫 451)

 この訳文に鑑み、金谷訳注の岩波本を読むことにした。ただし孔子のセリフの語尾に「ね」や「ねえ」を使うのはどうかと思う。安っぽい落語が混入したような印象を受ける。以下のテキストも参照されよ。

(※金谷訳注本は)原文と、その読み下し文に簡潔な現代語訳と注釈を加えた本で、入門書としては傑作です。まさに、日本人向けの論語の教科書といえるもので、贅肉のような解説を伴わないシンプルなものです。繰り返し読もうとする場合に、このシンプルさが読む者の思索を邪魔しないという良さにつながると考えます。

論語‐どの論語本を読むか?―基本編・第1回
論語‐どの論語本を読むか?―基本編・第2回
論語‐どの論語本を読むか?―基本編・第3回

一筋の溶岩が白と黒を分かつ

Llaima 5

 火山の爆発が描き出した芸術。我が身を白と黒のモノトーンに染め上げ、真っ赤な線を一筋引いてみせる。雪と灰、そして溶岩の温度が見る者に不思議な混乱を与える。白と黒が生と死のイメージを喚起し、赤い線が血を思わせる。チリ南部にあるジャイマ(Llaima)山が噴火したのは2008年のこと。

◎エイヤフィヤトラヨークトル(アイスランド)の火山雷 2010年

2012-06-27

データ消失~クラウドは雲散霧消を示唆しているのかも


オウム信者逮捕劇の裏側で原子力基本法の基本方針が変更

2012-06-26

目撃された人々 26


 雨上がりの日であったと思う。しゃがみ込んで草むしりをしているお婆さんがいた。手際がよく無駄な動きがなかった。麦わら帽子で隠れた顔は真っ黒に焼けていた。

 すると塀の内側からひょっこり顔が覗(のぞ)いた。同じ年代の女性であったが、肌の色がまったく違っていた。雇った側が雇われた側を斜め上からじっと見下ろしていた。私の胸に鋭い痛みが走った。「ここで交換されているものは何か?」。

貿易黒字は失業を輸出していることに等しい/『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義』藤巻健史

 経済行為が等価交換であるならば、労賃を返せば白い肌の老婦人は草むしりをするのだろうか? 絶対にやらないね。別の人間を探すだけの話だろうよ。マダムは決して自分の手を汚すことがない。



 他人を「働かせる」行為は、誰かを「虐げる」行為なのかもしれない。

 簡単な作業ほど働き手は多い。難しい仕事には免許や資格が必要となる。規制がある以上、職業選択の自由は阻害されていると考えてよかろう。

「働かなければ食ってゆけない」――我々が生きる世界は苛酷だ。しかも「働く」ことが「賃金を得る」ことを意味している。資本主義経済は労働を貧しいものに変えてしまった。そして食べることと働くことを完全に切り離すことに成功した。

 等価交換の幻想を支配しているのは金融と流通である。そしてこの舞台に広告会社とメディアが演出を施す。経済の実態は消費という反応に堕してしまった。

 私は背中越しに胸の中でマダムにつぶやいた。「美食の限りを尽くして、さっさとくたばるがいい」と。アスファルトの道路に唾を吐こうかと思ったが、私の良識が押しとどめた。

目撃された人々(旧)

小林頼子、朽木ゆり子、鎌倉地元民の会、奥富敬之、安部公房


 5冊挫折。

フェルメール 謎めいた生涯と全作品』小林頼子〈こばやし・よりこ〉(Kadokawa Art Selection、2008年)/入門編なんだろうけど、読み物としてはまるでダメ。ファンでなければついてゆくことができないことだろう。

フェルメール全点踏破の旅』朽木ゆり子〈くちき・ゆりこ〉(集英社新書ヴィジュアル版、2006年)/文章はこちらの方が優れていると思う。掲載されている写真を見て、私はさほどフェルメールが好きではないことに気づいた(笑)。

鎌倉に住む500人が選ぶ とっておきの鎌倉100』鎌倉地元民の会編(毎日新聞社、2011年)/雑誌以下の手抜き本だ。恥を知れと言いたい。

もっと行きたい 鎌倉歴史散歩』奥富敬之〈おくとみ・たかゆき〉(新人物文庫、2010年)/散歩の言葉に騙された(笑)。純粋な歴史の本であった。

第四間氷期』安部公房(講談社、1959年/早川書房、1964年/新潮文庫、1970年)/ワンセンテンスが長くて文章が揺れているように感じた。歯が立たず。

貿易黒字は失業を輸出していることに等しい/『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義』藤巻健史


◎ビッグマック指数の嘘
◎貿易黒字は失業を輸出していることに等しい

 この数字が大きいとはどういうことかというと、失業の輸出をしているということですよね。分かります? 例えばアメリカにどんどんどんどん自動車を輸出している。アメリカの自動車工場が閉鎖されてしまう。アメリカで失業者が増加する。そういうときにもっと円安にしろと言っちゃまずいんです。おとなしくしていなくてはいけない。ただでさえ多く輸出しているのに「もっと円安にしろ」って言っちゃいけないんです。
 ところが現在は、モノ+サービスの黒字が減ってきているわけです。今、日本の経常収支が大きいというのは利息と配当収入なのです。これは別に失業を輸出しているわけでもないし、もっと悪い言葉で言えば労働搾取をしているわけでもないですね。こういう状態の時は円安にしろと主張してもおかしくないと私は思います。モノ+サービスの黒字が大きい時には、大声で円安にしろって言ってはいけないんですが、今は状況が昔とは違うんです。

【『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義』藤巻健史〈ふじまき・たけし〉(光文社新書、2003年)】

 経済活動の本質は交換である。投資におけるトレードとプロスポーツ選手のトレードは共に交換を意味する。ところが資本主義経済は否応(いやおう)なく資本の獲得が目的化するため、あらゆるマーケットで搾取が行われる。奪ったモン勝ちというのが資本主義原則であろう。これを「利益」と名づける。

 社会が高度に情報化されると自由競争という前提は崩壊する。広告によって消費行動がコントロールされるためだ。衣食住の心配がなくなると人は刺激を求め始める。広告会社は消費を浪費へと誘導する。

 アイゼンハワー大統領は、記者会見で、後退を防ぐために、国民はなにをすべきかを質問されたことがあったが、そのときの会話のやりとりは次のようである。
 答「買うことだ」問「なにを買うのですか」答「どんなものでも」

【『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード:南博、石川弘義訳(ダイヤモンド社、1961年)】

 大統領が発した二言は権力者の本音をあらわしたものだ。

「2014年までに米国の輸出を倍増し、国内の雇用を増加する」とオバマ大統領は公約した。これに伴いRBS証券の西岡純子チーフエコノミストは「米輸出の増減を世界経済成長と為替相場に要因分解すると、今後5年間に必要なドル相場の下落は、対円では2010年に1ドル=84円、14年には70円になる」とと推計している(Bloomberg 2010年2月10日)。

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の目的はアメリカの失業を日本へ輸出することだ。そしてゆうちょマネーを始めとする日本の資産が太平洋を渡り始める。資本主義の暴力性が窺えよう。

◎自由貿易協定に脅かされるコロンビアとペルー
◎目撃された人々 26

藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義 (光文社新書)

2012-06-24

アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍/『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル


 ・アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍

『夕凪の街 桜の国』こうの史代
『チェ・ゲバラ伝』三好徹
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
小倉に投下予定だった原爆

「何をどのように見るか」はその人の人生観に負う。「生の本質は反応である」という我が持論からすれば、正確には「何がどのように見えるか」となる。「見る」と「見える」には能動と受動の相違がある。知的な意志で視点を高めなければ「見る」ことはできない。

 友人のブログで初めて「焼き場に立つ少年」の写真を見た。背中におぶった赤ん坊の首はがっくりと後ろに反(そ)っていた。少年は下唇を噛んで直立不動の姿勢を保っている。生と死が直線と斜線を描いて交錯する。少年を直線にせしめている力を思わずにはいられなかった。

 悪しき教育、洗脳された思考などと安易に批判するのは簡単だ。そんな戯言(たわごと)は半世紀後に出したじゃんけんみたいなものだ。いかなる時代や社会であれ、人間の感情に大きな違いはない。少年の全身からにじみ出る無念の思いと悲しみが私を圧倒する。彼は独り、矛盾の断崖に立っているのだ。

 焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。
 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?

脚注※焼き場にて、長崎/この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。

【『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル、ジェニファー・オルドリッチ:平岡豊子訳(小学館、1995年)以下同】

joe

 ジョー・オダネルは少年を見た。そこに白人特有の差別意識はひとかけらもなかった。「同じ人間として」被爆した長崎の大地に立っていた。オダネルは23歳の青年であった。反逆の世代であったがゆえに戦争の不毛さや政治の嘘を嗅(か)ぎとることができたのだろう。

 爆心地が目の前に広がっていた。一瞬息が詰まった。地球に立っているとは信じられない。見渡すかぎり人々の営みの形跡はかき消され、瓦礫が地面をおおいつくしていた。私はたったひとりでここに立つ。まるで宇宙でたったひとりの生き残りであるかのように。徹底的に荒れ果てた地表には、鉄管や煉瓦が不気味な影を落としている。まわりの静けさが私を打ちのめした。
 私は体を失った彫像を見つめる。口はからからに乾き、眼には涙がにじむ。やっとの思いでつぶやいた。「神様、私たちはなんてひどいことをしてしまったのでしょう」と。

 トランクに封印していたのは単なる写真ではなかった。オダネルと日本人との間に通った交情であった。そしてオダネル自身も被爆していた。2007年に死去するまで、彼は50回もの手術を受けていた。痛みが情けをより深いものにしたことだろう。

 写真を公開するまでの半世紀にわたる煩悶(はんもん)と懊悩(おうのう)に思いを馳せる。そして多分、我々は戦争の悲惨さに涙を流しながらも、再び正義を振りかざして、またぞろ戦争を繰り返すのだろう。愚か者よ、汝の名は人類なり。

 オダネルの写真に反応してはいけない。強靭な知性と意志でオダネルの深い感情を汲み取る作業が求められる。

トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録
ジョー オダネル
小学館
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米軍カメラマンが見た長崎
ジョー・オダネルと日本人の交流
The Phoenix Venture's photostream
ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと
ジョー・オダネルの十字架(爆心地の土・元安川の砂による) 大津定信さん 名古屋市、71歳
米国が隠したヒロシマとナガサキ - Democracy Now!

「Gun Yourself」バンクシー作


反逆のグラフィティ・アーティスト(落書き芸術家)「バンクシー(Banksy)」

 ・「Gun Yourself」バンクシー作

Banksy?

 さしずめ「因果応報」という名の銃だ。バンクシーの反逆性は孔子に通じている。

 子貢問うて曰く、「一言にして終身之を行うべき者あるか」。子曰く、「それ恕か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ」。(衛霊公第十五より)

【現代語訳】
 子貢が質問して言うには、「死ぬまで行うべきような、ひとつの言葉はありますか」。孔子が答えて言うには、「それは恕(じょ/思いやりのこと)だ。自分がして欲しくないことを、人にしてはならない」。

【「真実を求めて」を参照した】

己の欲せざる所は人に施す勿れ
衛霊公第十五2

 バンクシーはものの見事に「恕」を描いている。その痛烈な皮肉、辛辣なユーモアが街角に現れると、拡声器の絶叫よりも強い印象を与える。果たして我が国の「笑い」が、権力や暴力を嘲笑するほどの高みに達しているであろうか?

論語 (岩波文庫 青202-1)

岩波書店
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2012-06-23

ドン・ウィンズロウ


 1冊読了。

 33冊目『犬の力(下)』ドン・ウィンズロウ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(角川文庫、2009年)/上巻で受けた印象は変わらず。物語の展開は明らかに失速している。ミステリにおけるプロパガンダ本は意外と多い。私が長らくユダヤ人に肩入れしてきたのも、モサドものを始めとするミステリの影響が大きい。ま、半世紀近くも生きていれば、もう簡単には騙されないけどね。

Where the Hell is Matt? 2012


 マットが帰ってきた。自分たちの正義を振りかざす宗教よりも、よっぽど立派な行動だと思う。歌やダンスには一定の規則性はあるものの、人間にとって本源的な自由と歓びが横溢(おういつ)している。


◎Where the Hell is Matt? (2008)

2012-06-22

ドン・ウィンズロウ


 1冊読了。

 32冊目『犬の力(上)』ドン・ウィンズロウ:東江一紀〈あがりえ・かずき〉訳(角川文庫、2009年)/これは「文章巧者が描く邪悪なプロパガンダ本」である。評価の高いミステリだけに私は満を持して読んだ。手法としてはテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』と同じで、部分的に真実を盛り込んで、アメリカの正義を体現する人物に共感させるような筋書きとなっている。ドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』を読んだのは20年前のこと。警句のように引き締まった文章を散りばめながらも、登場人物は一様に平板だ。何といっても主役のアート・ケラーが最悪である。大体、「アート」って名前をつけるセンスを疑いたくなる。ま、出来損ないの劉備玄徳みたいな性格だ。メキシコのドラッグ戦争をギャングの抗争に矮小化する意図を感じた。中南米の暴力には全てアメリカが関与している。その事実から目を逸(そ)らさせる効果が本書にはある。

東祥三「増税は公約になく、それをやろうとする方が造反ではないか」

2012-06-21

安全ではないものを安全だと言いくるめた男たちが原発を再稼働する


 まだ何も終わっていない福島第一原発の事故を「収束した」と口先だけで発言し、安全の根拠もまったくないまま大飯原発3、4号機を再稼働させる。

 そんな人間が首相の座にいる。いったい何という国だろうか。

 安全ではないものを安全だと言いくるめた男たちが、また原発を再稼働するというのだから、それ自体が犯罪だ。

鈴木傾城〈すずき・けいせい〉

2012-06-20

森功、鎌田茂雄、鴻上尚史、エリック・ホッファー、香月泰男、谷川俊太郎、立花隆


 6冊挫折。

許永中 日本の闇を背負い続けた男』森功(講談社、2008年/講談社+α文庫、2010年)/立場の違いを殊更強調しているところを見ると、少なからず後ろ暗い思いがあるのだろう。文章が滑らかなので騙されやすいが、何となく卑劣な匂いを感じる。

華厳の思想』鎌田茂雄(講談社、1983年/講談社学術文庫、1988年)/古い。葬式仏教的な手法だと思う。仏教を説明することに意味はないだろう。

「空気」と「世間」』鴻上尚史〈こうかみ・しょうじ〉(講談社現代新書、2009年)/文体が講演調で締まりがない。パラパラとめくって、直ちにやめた。

エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2002年)/アフォリズムを読んだ後ではどうしても冗長に感じる。いい本だとは思うが。

春夏秋冬』絵と文 香月泰男、谷川俊太郎編(新潮社、1993年)/タイトルは「はるなつあきふゆ」と読む。ホッファー同様、シベリア・シリーズを見た後ではまるでインパクトに欠ける。石原吉郎もそうだが、一度地獄を味わった者は生涯にわたって闇を見続けることを運命づけられる。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)/1970年、文藝春秋社刊『私のシベリヤ』のテキストが収録されている。これを読むだけでも買う価値がある。まだ20代だった立花が、香月からの聞き書きをまとめたものだ。『夜と霧』に匹敵するほどの価値があると思う。

生活保護の「申請拒否」は違法



騰奔静想~司法書士とくたけさとこの「つれづれ日記」
生活保護

2012-06-19

教条主義こそロジックの本質/『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン


目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 ・新約聖書の否定的研究
 ・神の支配とは何か?
 ・教条主義こそロジックの本質

『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『世界史の新常識』文藝春秋編
『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『イスラム教の論理』飯山陽

キリスト教を知るための書籍

 啓典宗教はテキスト絶対主義である。

宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹

1:1太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 1:2この言は太初に神とともに在り、 1:3萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 1:4之に生命あり、この生命は人の光なりき。 1:5光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。

大正改訳聖書 - ヨハネ傳福音書

 文語訳だと格調の高さが際立つ。そして有無を言わせぬ力が漲(みなぎ)っている。「ああ、そうだったのか!」「きっとそうなんだろうな」と思わせる高踏の品格が漂う。かくして啓典宗教は人々を「言葉の奴隷」へと誘導するのだ。

 更に見逃せないことは「言葉以外のもの」を「暗黒」に見立てることで、否定すべき対立概念として浮き上がらせている。

「言葉っていっても、聞いた人はいないわけだよな」とか、「観測者がいない以上、『無人の山中で木が倒れたとき、音はするか』ってな問題と一緒だわな」とか、「神様は誰から言葉を教わったんだい?」などと言うなかれ。我々極東の衆生(しゅじょう)はキリスト教の世界観を知るために、いったん内側に潜り込んで外部世界を見直す必要があるのだ。目指せ、なんちゃってクリスチャン。

 ヒューマニズム的に人間を見る、即ち人間がその素質の中に、あるいは理想を実現すべき定めの故に、自己の中に神性や、あるいは神との親近性を持つかのように見るのは、イエスには全く無縁である。【かくてイエスには普遍主義なるヒューマニズム的概念は異質である】。

【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】

 はい、ユマニテの負け。三手詰めだな。ヒューマニズムが敗者復活を遂げるためには言葉と理性を否定する他ない。これ、本当の話だよ。

 大体だな、人類が言葉を獲得したのは後天的なもので、しかも言語を持たない期間の方が長かったはずだから、「初めに言葉」があるわけがないのだ。しかし、この論理が2000年もまかり通っている以上、決して無視するわけにはいかない。そして言語化、論理化を目指したという点では大乗仏教とも軌を一にしている。

 ブルトマンは「人間の尺度で神を測るな」と一刀両断する。

 神の支配が奇蹟的終末論的なものであるように、それに入るべく定められた人も、人間であるからそうなのではなくて、神から召されたからそうなのである。召されたのは先ずユダヤ民族である。

 ま、キリスト教のロジックでは当然そうなりますわな。

 同じように一切のヒューマニズム的個人主義も拒否される。召されるのは個人ではなくて教団であり、教団には約束が与えられるのである。個人が神の支配の中で、賦与された規定を実現し、人格を完成して幸福に到るというのではない。【神】がその支配を現出せしめ、神の意志が成り、教団への約束が果たされるということ、これが神の支配の実現なのである。勿論個人もやはり救いに到達するのであるが、「人格」としてではなく、終末の教団へと召されている一人としてなのである。

 神の絶対性とは「人間の理解の範疇を超える」ものでなければならない。「見えて」はダメだ。人間の視野を軽々と超越した位置におわすのが望ましい。

「てめえらは全然わかっちゃいねえんだよ!」という叱責が身に堪(こた)える。その瞬間、「ブルトマンは神をどの程度理解しているのであろうか?」という疑問は木っ端微塵となる。実に巧妙な手口だ。健康食品のマルチ商法でも時折見かけるよ。

 人間は選ばれた者となるか、棄てられた者となるか、いずれにせよ、神の支配に対する決断によって、実存全体を規定される。従って現在と将来との関係は、神の国は歴史内のものとして現在始まり将来完成する、という具合ではなく、また神の支配の現在への介入は、人格的資質や心霊的状態等、内面的精神的なものを持っているところに見られるのであって、その完成はまだ将来のことあのだ、という具合でもない。そうではなく、神の支配は真の将来なのである。なぜなら神の支配は何か形而上学的本体、一つの状態、ではなくて、どんな意味でも現在的所与にはなり得ない、将来の神の行動だからである。しかし、それにもかかわらず、この将来は人間の現在を規定し、まさにそのゆえに真の将来なのである。「どこか」や「いつか」ではなく、人の上にやって来て決断を迫るものなのである。

 宗教は原理主義が必ず勝つ。神の忠実なる僕(しもべ)となることが信仰の目的なのだから当然だ。ま、一種の奴隷ゲームみたいなものだ。より平伏(ひれふ)し、額づいた者が勝利を収める。相対化された自分を軽しめることで、神の絶対性を高めるわけだ。

【服従】、これがユダヤ教倫理の本質である。

 ここまであけすけに言われてしまうと賛成せざるを得ない。既に人間性を否定されているわけだし……。「いいか、とにかく神は絶対なんだ。だから絶対ではないお前らがとやかく言うことを俺は断じて許さんぞ」との論法は、1+1=2と同じくらいのわかりやすさがある。で、わかりやすいことを人は疑おうとしない。「わかった」ということは「疑問のない」状態を意味する。

 ゆえに【神の意志】がイエスにとって社会的政治的プログラムではないのは、それが人間や人類の理想像から発する倫理体系、あるいは価値倫理ではないのと同様である。イエスは人格性や徳の概念を知らない(またイエスはそもそもこの単語を用いない。これはヘレニズム的キリスト教内ではじめてあらわれた)。

 ブルトマンは問題を単純化する。純粋化、合理化といってもよい。「合理」とはこうした次元のことであることが私は初めてわかった。それまでは「より多くの人々を納得させる」ことが合理であると勘違いしていた。「はじめに言(ロゴス)があった」――このロゴスこそがロジックの語源である。すなわち教条主義こそがロジックの本質なのだ。

 イエスの愛の要求は全然別様に基礎づけられている。すなわち性格の強さや人格的品位の思想にではなく、服従の思想、自己主張の断念という思想に基礎づけられている。

 人格と神格には天地の開きがある。神を理解しようとしてはいけない。ただ仰いでその言葉を信ずるべきだ。これが「信仰」という言葉の本義である。

 クリシュナムルティは言った。「言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではない」と。脳はシンボルに支配される。なぜならシンボルなくして類推(アナロジー)は不可能であるからだ。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 思考の限界を見極めた上で、知性と感情を融合する生き方を示した人物がブッダとクリシュナムルティであった。


古代イスラエル人の宗教が論理学を育てた/『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹

2012-06-16

羽田正、フォークナー、マーク・ローランズ、香月泰男、小室直樹、苫米地英人


 3冊挫折、3冊読了。

興亡の世界史 第15巻 東インド会社とアジアの海』羽田正〈はねだ・まさし〉(講談社、2007年)/タイミングが合わず。別の機会に読む予定だ。

フォークナー短編集』フォークナー:龍口直太郎〈たつのくち・なおたろう〉訳(新潮文庫、1955年)/フォントが小さすぎる上、訳文が私の口に合わなかった。最初の「嫉妬」すら読了できず。

哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ:今泉みね子訳(白水社、2010年)/著者の人相が悪すぎる。獣じみた顔つきをしている。文章もまだるっこしい。

 32冊目『没後30年 香月泰男展図録/香月泰男〈私の〉シベリア、そして〈私の〉地球』(朝日新聞社、2004年)/シベリア・シリーズの鈍い金と黒に沈黙を強いられる。個人的な心情として鹿野武一〈かの・ぶいち〉の態度が、石原吉郎の言葉が思われてならなかった。香月泰男〈かづき・やすお〉はふてぶてしいまでの生命力でシベリアを生き抜いた。絵、というよりはイコンに近い作品群であろう。絵画を見て肚の底から唸(うな)ったのは初めてのことだ。

 33冊目『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹(東洋経済新報社、2001年)/やはり小室は凄い。合理的思考を学ぶのなら小室の著作を読むのが手っ取り早い。目から鱗が落ちることを請け合おう。後半は経済学の話題が豊富で実に勉強になった。ただしこの人の文体は少し癖がある。

 34冊目『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(KKベストセラーズ、2010年)/粗製濫造気味ではあるが、要所要所に卓見が散りばめられており予断を許さないところがある。恐ろしいほど自我が肥大している人物だけに、最新科学から見た仏教解説と割り切って読むべきだろう。ま、仏教を語りながら自分の宣伝にいそしんでいるだけのことだ。

「ラテンアメリカ~ウゴ・チャベスの戦い」ミシェル・コロン


「ウゴ・チャベスの七つの罪」。ベルギー人記者ミシェル・コロン。モンペリエでの講演、2009年。









2012-06-15

「シャボン玉石けん」を推す


食べても安心な石鹸「シャボン玉石けん」

 amazonよりも本社サイトの会員価格の方が安いのだが、いかんせん送料が高い。だから一番賢明な方法は、本社サイトで会員登録をして無料サンプルをせしめた上で、改めてamazonで注文するのがよい。

 石鹸は香料を使っていないため、初めのうちは油っぽい匂いが少々気になる。しかし慣れればどうってことはない。尚、この石鹸は洗髪もできる。文字通り一石二鳥の石鹸だ。

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『週刊新潮』と『週刊文春』の共同歩調

2012-06-13

AIPACに支配されるアメリカ議会


 カネで政治家を操るユダヤ圧力組織(AIPAC)に加えイスラエル支持に宗教的義務を見出す福音派のキリスト教徒がアメリカの強力なイスラエルロビーを構成する。2011年の番組より。

◎AIPAC

パレスチナ人の声 2012年3月 パリ


 パレスチナの母の血を吐くような叫び声に耳を傾けよ。

2012-06-10

神の支配とは何か?/『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン


目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 ・新約聖書の否定的研究
 ・神の支配とは何か?
 ・教条主義こそロジックの本質

『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『世界史の新常識』文藝春秋編
『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『イスラム教の論理』飯山陽

キリスト教を知るための書籍

 神は支配し、時に怒り、そして裁く。ま、これが神の仕事だ。

 その前にイエスの宗教的出自を紹介しておこう。

 従ってヨハネが教えた洗礼も、終末論聖礼典と規定していいだろうと思う。洗礼を受け、それと結びつく悔改めの義務を果たす者は、きたるべき神の支配に対して潔められるのであり、きたるべき怒りの審判からまぬがれる人の群に属するのである。恐らくオリエント的、非ユダヤ教的観念がこの洗礼運動に影響していたであろう。

【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】

 ここでいうところの「オリエント的」というのは古代オリエントを指すのだろう。

 こう推論することが許されるであろう。すなわちイエスはもともと洗礼者の一派に属していた。そしてイエス一派はヨハネ派から分かれたものである、と。

 飽くまでも思想的、文献的あるいは文学的立場からの推論であることに留意せよ。考古学的、科学的推論ではない。結果的には事実がどうあれ、最終的に物語を構築するわけだから、実証や時代考証に重きを置く必要もあるまい。宗教とは物語の異名である。

 イエス宣教は【終末論的告知】である。すなわち今や約束の成就は門のところまで来ている、今や神の支配が入来する、という告知である。

 サタンとの最終戦争(ハルマゲドン)を経て、最後の審判が下るってわけだよ。既に2000年が経過しているが千年王国が現れそうな気配は微塵もない。

 かといって冷笑するわけにもいかない。なぜならかような思想を実現すべく世界支配を目論む連中が存在するためだ。すなわちヨーロッパ人による植民地化政策、金融支配、メディア・コントロールは一神教の教えから派生したものと考えることができよう。神と人間との隔絶が拭い去ることのできないコンプレックスとなって、その反動が有色人種に襲いかかるってな寸法だ。神を信じた瞬間から、自分は「裁かれるべき存在」と化すわけだから、被害妄想的にならざるを得ない。

 もしあなたの目があなたを誘惑するなら、えぐり出して捨てよ。体の一部がなくなる方が、全身が地獄(ゲヘナ)に投げ込まれるのよりましだから。
 もしあなたの手があなたを誘惑するなら、切り取って捨てよ。手足が一本なくなる方が、全身が地獄(ゲヘナ)へ行くのよりましだから。(マタイ5・29、30)

 神は犠牲を求めてやまない。ま、自分で造ったわけだから人形の手をもぎ取るようなものか。私としては、地獄を持ち出して脅さなければならないような粗悪品を製造した神の責任を問いたい。腕が悪すぎる。

 ところで【神の支配】とは何を意味するのだろうか。神の支配というとき何を考えたらよいのだろうか。答えは差し当り簡単である。神の支配は人にとって【救い】なのである。それもあらゆる地上的事物に終わりをもたらす【終末論的な】救いなのである。この救いはおよそ救いとして語りうる唯一の救いなのである。だからこそそれは人間から決断を要求し得るのであり、他の財貨と同列に所有したり、ほかの関心事と同列に心を労したりできるものではないのである。この救いは人の前にあれか-これかとして立っている。  だから神の支配を【最高善】と規定するのは無意味なのである――もし最高善を、人が善いと考え得るあらゆる事物の冠、頂点とするならば。

 ポイントその一――「神の支配は人にとって【救い】なのである」。これは公式であって、議論の余地は猫の額ほどもなければ、雀の涙ほどもない。公式といっても証明を必要とするような代物ではなく、絶対的な基準であり、すべての前提となる。

「馬鹿馬鹿しい。ケッ、そんな無理無体が通るものか」と大半の日本人なら思うところだろう。それは極東に住むキリスト教ルールを知らない哀れな衆生が考えることであって世界では通用しない。なぜなら、ただ「信じて仰ぐ」のが信仰の原義であるからだ。だから仰がない連中は殺戮される。歴史を少しでも紐解けばたちどころに理解できる。

 しかもその絶対性(≒聖性)は1位、2位、3位の1位ではない。動かし得ない座標軸としての絶対性なのだ。つまり神とは西洋的世界観の座標軸を示すものなのだ。世界の中に神がいるのではなくして、神がいるから世界があるのだ。

 いずれにせよ、神の支配は【倫理の意味での最高善ではない】ことが既にここで明らかである。それは人の意志や行為の目的となる善ではなく、何等かの意味で人の行為によって実現されるもの、その存在のために何等かの意味で人を必要とするものではない。それは終末論的なものとして、絶対に非世界的なのである。

「非世界的」と来たもんだ。彼らにとって世界なんざ、神と比べればクソみたいなものだ。

「創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章)――で、神様はどこにいたんだ? そもそも空間がなければ存在することは不可能だ。「言葉を発した」ということは大気があった事実を示している。それから神様はどこで言葉を覚えたんだ? それはヘブライ語なのか?

哲学の限界/『現代思想の冒険』竹田青嗣

【神の支配はゆえに何か奇蹟的なもの】、それも絶対的に「奇蹟的なもの」であり、今・ここにあるすべてに対立するもの、「絶対他者」、天的なもの(ルドルフ・オットー)なのである。

 形容詞をいくら並べても神は形容し得ないってわけだ。そりゃそうだろう。誰も見たことがないのだから、どんな風にでも言えらあ。

「神の国」は人間の歴史の中に実現されるものではない。神の国の基を礎え、建て、完成するとは言われないし、言うこともできない。ただ近づき、来たり、あらわれると言われるだけである。それは【超自然的】、【非世界的なもの】である。人間はその救いを「受け」、その中に「入る」。しかし【人間】の共同体や活動が国を構成するのではなく、それはただ神の摂理なのである。

 これこそ純粋な「教条主義」という手本である。啓典宗教にとっては、ただひたすらバイブルの前に額(ぬか)づくことが正しい。人間の論理など必要ない。ただ神の論理を追求するのだ。そしてここにロジックの本質がある。

 もちろん信じなくても構わない。ただ国際社会においてキリスト教の概念やアブラハムの宗教を弁えずにコミュニケーションが成立することはない。日本が外交音痴といわれてきた理由もここにある。我々は世界の常識としてキリスト教を学ぶ必要がある。

 神の支配は同時にユダヤ民族の支配なのである(ダニエル2・44、7・27)。

 ってことは実現されつつあるのかもしれない。先進国の金融とメディは、ほぼ完全にユダヤ資本が牛耳っているのだから。

情報サイトAlter Info ユダヤロビーの圧力で断罪


「フランスはニュースが自由な国ではないですか?」
「フランスでメディアがイランやロシアよりも自由だとは思いません」

2012-06-07

「LOVE! LOVE! ハイロ!」ココロ&カナル(藤波心)



藤波心オフィシャルブログ『ここっぴーの★へそっぴー』
藤波心

LOVE! LOVE! ハイロ!

SFの巨匠レイ・ブラッドベリ氏が死去、91歳


 SF小説の古典「華氏451度(Fahrenheit 451)」などで知られる米SF作家レイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury)氏が5日、米ロサンゼルス(Los Angeles)で死去した。91歳だった。

 同氏の作品を出版していた米出版社ハーパーコリンズ(HarperCollins)によると、ブラッドベリ氏は長く闘病生活を送っていたという。病名は明らかにされていない。

 SF界の最も偉大な巨匠の1人とされるブラッドベリ氏死去の報に、知人やファンから多数の弔意が寄せられている。

 バラク・オバマ(Barack Obama)大統領も「彼の物語を作る才能は、われわれの文化の形を変え、わたしたちの世界を広げた」という追悼コメントを発表した。「それだけでなくレイは、想像力というものは理解を深め、変化をもたらし、わたしたちの最も貴重な価値観を表現する手段になり得ることも知っていた」と述べ、ブラッドベリ氏の死去を悼んだ。

 ブラッドベリ氏の代表作とも言える「華氏451度」(1953年)は、第二次大戦後の米国社会の不安を反映した作品で、米ソ冷戦の中、危険な未来の物語を通して全体主義国家における検閲や思想統制の邪悪さに警鐘を鳴らした。この小説を映画化したフランソワ・トリュフォー(Francois Truffaut)監督の『華氏451』(1966年)も世界で多くの観客を得た。

 ブラッドベリ氏は2000年の80歳の誕生日に行われたインタビューで、「人生で一番楽しいことは、毎朝、目が覚めたらすぐにタイプライターに向かうことだ。いつも新しいアイデアがわいてくるからね」と話している。また「毎日、12歳の時と同じ気分で過ごしているよ」と語っている。

 ブラッドベリ氏が生涯に記した著作は、火星の植民地化を試みた人類の野望が思わぬ結果をもたらす「火星年代記(The Martian Chronicles)」(1950年)など小説約50編、短編約600編に上る。

 複数の短編から成る「火星年代記」は、書評家から近未来を舞台にした倫理観の物語として高く評価され、ブラッドベリ氏に世界的な名声をもたらした。

 ブラッドベリ氏以前のSF小説といえば、大衆向け雑誌に掲載されることが多かった。SF小説を文学の主流に持ち込んだのはブラッドベリ氏の貢献が大きい。ブラッドベリ氏の作品の販売数は800万部を超え、36の言語に翻訳されている。

 ブラッドベリ氏は1920年8月22日、米イリノイ(Illinois)州生まれ。2003年に死去した妻のマーガリート(Marguerite)さんとの間に4人の娘が生まれ、8人の孫がいる。

AFP 2012-06-07

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF) 火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)  とうに夜半を過ぎて (河出文庫) 10月はたそがれの国 (創元SF文庫)

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◎本のない未来社会を描いて、現代をあぶり出す見事な風刺/『華氏451度』レイ・ブラッドベリ

丸山健二、エリック・ホッファー


 1冊挫折、1冊読了。

見よ 月が後を追う』丸山健二(文藝春秋、1993年)/『千日の瑠璃』を飛ばし読みしたついでに再読。出だしは好調だったが100ページで挫ける。原子力発電所の記述が多いのでタイムリーではあるのだが。私の文章に否定形が多いのは丸山からの影響である。古くからのファンは『千日の瑠璃』から離れて行った。その理由が何となくわかるような気がする。丸山は「詩小説」と呼ばれることに気をよくし、文体に集中するあまり物語性を失ったのだ。結果的に物語を私化した私小説と同じ軌跡を描いたのではあるまいか。一つのことを表す際に「ない」という表現は無限に可能だ。例えば人間は猿ではない。彼はカブトムシでもなければホトトギスでもなかった。そして自分の体重以上の重量を軽々と担ぎ上げることもできなければ、心のひだに沁み入るような鳴き声を上げることもできなかった。こんな文章を延々と読ませられている気分になる。一時は入手困難で、私は古本屋として40~50冊を売り上げたものだ。ただし、タイトルとなっているフレーズには絶妙な響きがある。

 31冊目『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2003年)/「沖仲仕の哲学者」と呼ばれた人物だ。ホッファーは社会哲学者でありながら、65歳になるまで港湾労働の仕事をやめなかったという。一読して驚嘆した。視線が地べたに据えられている。徹底した相対性がニヒリズムの領域にまで達している。肉体を駆使する者には形而上学の嘘を見抜く智慧がある。冷徹にして冷厳な眼差しが人間と社会をじっと見つめる。その警句は手垢まみれの価値観に唾を吐きかけるような辛辣さに満ちている。何らかの運動や行動に情熱を燃やしている人は必読のこと。頭から冷や水をぶっかけられること間違いなし。エリック・ホッファーの感性はブッダやクリシュナムルティに至る門となり得る。

2012-06-06

清水克悦、竹村牧男、上村勝彦


 3冊挫折。

神奈川歴史探訪ウォーキング 鉄道各駅から気軽に楽しめるルートガイド』清水克悦〈しみず・かつよし〉(メイツ出版、2009年)/写真が豊富で最初の手掛かりとしてはよいと思う。ただ当然ながら総花的で底の浅い観光案内といった程度の代物だ。オススメ飲食店情報はまったく当てにならない。自分で検索すべし。

インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男〈たけむら・まきお〉(講談社学術文庫、2004年/講談社現代新書、1992年『「覚り」と「空」』を補正)/初心者向き。一部だけ飛ばし読みした。日本の仏教ルール(伝統的思考法)が仏教書をつまらないものにしている。そろそろ新しい人が登場しないと仏教界は苫米地英人にやられてしまうことだろう。これからの仏教研究は科学的アプローチとキリスト教との比較思想が不可欠だ。

バガヴァッド・ギーター』上村勝彦〈かみむら・かつひこ〉訳(岩波文庫、1992年)/あな恐ろし。クリシュナムルティが散々こき下ろしている『バガヴァッド・ギーター』だが、ブッダに及ぼした影響を各所に見ることができる。私はブッダが生まれた時代背景を調べるつもりで読んだのだが、危うく搦(から)め捕られるところだった。危ない、危ない(笑)。ヒンドゥー教の聖典『マハーバーラタ』の第6巻が『バガヴァッド・ギーター』である。クリシュナ神とアルジュナ王子の対話で構成されている。4分の3ほどを飛ばし読みした。大乗仏教におけるヒンドゥー教の影響は研究の価値があるように思う。

新約聖書の否定的研究/『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン


目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

・新約聖書の否定的研究
神の支配とは何か?
教条主義こそロジックの本質

『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『世界史の新常識』文藝春秋編
『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『イスラム教の論理』飯山陽

キリスト教を知るための書籍

 原著が刊行されたのは1926年のこと。大正15年である。ドイツでは前年にナチ党が再建され、アドルフ・ヒトラーが獄中から『我が闘争』の第一巻を発表している(ルドルフ・ヘスの口述筆記による)。

 ルドルフ・カール・ブルトマン(Rudolf Karl Bultmann, 1884年8月20日 - 1976年7月30日)は、20世紀を代表するドイツの新約聖書学者。 新約聖書の史的・批判的研究に一時代を築くとともに、聖書の非神話化(非神話論化)と実存論的解釈の方法論を提唱し、キリスト教内外に様々な議論を引き起こした。(Wikipedia

 ってことはだ、42歳のブルトマンが著したことになる。ウーム、言葉が出ない。

 中級者向け。ある程度キリスト教の知識がなければ歯が立たないことだろう。私のキリスト教理解は格段に深まった。というよりは、むしろ「キリスト教の勉強に一区切りついた」と思わせるほどの内容であった。実際、本書を読んだ後で食指が動くキリスト教関連書は見つかっていない。

 ブルトマンは冒頭で史観について講ずる。  

 歴史の真の理解は、いつでも歴史との出会いにおいて実現されます。その出会いにおいて歴史の求めに耳を傾けるのです。その意味はこうです。つまり歴史を理解しようと願う者は、自分自身についての理解を、歴史の中で出会う自己理解の諸可能性に照らして疑ってみる覚悟がなければならないということです。それは、そうすることによって自分自身についての理解が解明され、豊かにされるためであります。こうしてその人は歴史との対話の中にはいりこみ、歴史の求めはその人に決断を要求するのであります。歴史の認識とともに自己の認識が形成され、成長していきます。(日本語版への序文)

【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】

 歴史は、その本質的なものをとらえんとする場合、人がその環境、自然を観察し、観察しながらそれを研究するようには、「観察」することのできないものなのである。人間と歴史の関係は、自然との関係とは違ったものなのだ。人は自己本来の姿を捉(ママ)える時、自己自身を自然とは区別する。観察しながら自然に向かう時、人はそこに彼自身ではない事物だけを確認する。それに反して歴史に向かう時はこう言わざるを得ない。すなわち彼は自身歴史の一部であり、それ故一つの連関(作用連関)に当面しているのであり、その連関の中に彼自身の存在が組み込まれているのだ、と。

 叙述はただ【歴史との絶えざる対話】でしかあり得ない。

 E・H・カーといい勝負ができそうだ。歴史も事実も観察者の立つ位置によって姿を変える。つまり我々は世界を部分でしか捉えることができないのだ。イエスその人も同様だ。ある人物の全体性(=100%)を知ることは不可能だ。まして2000年も前の人物であれば尚更のこと。こうした限界性を示した上でブルトマンは次のように指摘する。

 およそ150年来イエスの生涯、人となり、その内的発展等について書かれたものは、――批判的研究でなかった限りでは――空想的小説的であった。

 何と巧妙な手口だろう! 読者の思考を歴史という逆らい難い枠組みで雁字搦(がんじがら)めにした上で、「イエスについて書かれたものはフィクションであった」とバッサリ斬り捨ててみせる。門外漢であれば、この激しい落差に知的スリリングを覚えずにはいられないはずだ。

 従って【イエスの教説】とか【イエスの思想】とか言うとき、それは誰にでも納得出来るような普遍妥当的理想的思想体系という意味ではない。そうではなく、思想というとき(ママ)、それは時の中に生きている人間の具体的状況と切り離せないものとして理解されてりう。すなわちそれは、動きと不確実性と決断の中にある、自身の実存の解釈なのである。それは、この実存の把握が可能であるという表現なのである。

 先に説かれた歴史は思想に直結していた。すなわち「信仰者は教祖を利用して“自ら”を語っている」ということだ。神と自我――これこそキリスト教にまつわる一大テーマである

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 多分ブルトマンが言いたかったことはこうだ。「てめえら実際のイエスを知りもしないくせしやがって、好き勝手に“自分の”神を語ってんじゃねーよ」。そう。ブルトマンは神学界のパンクロッカーであった。

 彼が実存に思い至ったのは、神を通して自分を見つめていたからに他ならない。西洋の知的伝統の凄まじさを垣間見る思いがする。

【史料】が私達に与えるものは、実際さしあたりは教団の宣教なのである。ただし教団は勿論それを大部分イエスに帰している。だからと言って、教団がイエスに語らせる言葉は、皆実際彼の語ったものであるということが証明されたことには勿論ならない。多くの言葉については、むしろ教団で初めて成立したこと、他の言葉については、教団の手が加わっていることが証明される。

 知性とは懐疑であり否定である。その意味では何もかもありがたがって鵜呑みにする信仰の極北に位置する。理性と感情というテーマは知性と信仰に置き換えることも可能だろう。だが実は、これがブルトマンのテクニックであることが判明する。

 成程イエスは本当にいたのかという疑いには根拠がないし、一言の反駁の価値もない。把握可能な最初の段階は最古のパレスチナ教団なのであるが、その教団の歴史的運動の背後に立つ創始者がイエスであったことは全く明らかである。しかしながら教団が、イエスとその宣教の姿をどの程度まで客観的に忠実に保存したかというのは、また別の問題なのである。この事情はイエスの人となりに関心をもつ人々にとっては、憂欝もしくは破壊的である。

「イエスが本当にいた」という言説にも根拠がない。存在するのは「他人が語った言葉」だけだ。

『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
イエス・キリストの言葉は存在しない
 
 私は「いなかった」と思う。しかしながら2000年以上も語られている以上、ドラえもんや星飛雄馬と同じ程度の存在性は認めるべきだろう。つまり神は概念として存在するのだ。

 ブルトマンはキリスト教に否定的な態度をとることで知的信頼を取り寄せようと企図したのだろう。私はそう思う。本書を読めばゴリゴリのロジックにたじろぐことは確実だ。恐ろしいことに、その合理性や整合性には不思議な魅力がある。脳のシステムは合理を求める。ブルトマンは人々のシナプスを心地よく接続する。だけど俺は騙されないよ(笑)。


「実存論的神学と他者の問題」太田修司(PDF)
現代世界のキリスト教
本覚論の正当性/『反密教学』津田真一

2012-06-02

ジェフリー・ディーヴァー


 1冊読了。

 30冊目『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳(文藝春秋、2009年)/リンカーン・ライム・シリーズの第8作。上下二段で500ページを超えるボリュームだが二日間で読了。『青い虚空』と似た系統である。電子タグなどから個人のあらゆる情報をデータマイニングする巨大企業が登場する。殺人鬼は被害者のあらゆるプライバシーに精通し、まったく関係のない第三者を犯人に仕立て上げた。しかも用意周到に犯罪の物証まで揃えていた。リンカーンの従兄弟であるアーサー・ライムが犠牲者となったことから判明するわけだが、この従兄弟とリンカーンの関係も複雑なものだった。ま、粗(あら)を探せば、二つ三つ四つくらいは直ぐ見つかるが、それでも尚このシリーズは勢いを失ってはいない。