事故が起こっていない原発は安全だから動かす。動いている原発は安全だから動いてる。だから動かし続ける。事故が起こった原発は、事故以前には安全に動いていたということは安全だったはずだから事故が起こるのはおかしいのだから実質的には安全。ということは事故が起こった原発も安全。
— 小田嶋 隆さん (@tako_ashi) 9月 30, 2012
2012-09-30
ということは事故が起こった原発も安全
本覚論の正当性/『反密教学』津田真一
・本覚論の正当性
・本覚思想とは時間論/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
上級者向け。私の知識不足もあるのだろうが、どうもこの手の本は知に傾いて、溺れているような印象を受ける。ところどころで嫌な臭いが鼻につく。
尚、「改訂新版」には「『法華経』・願成就の哲学」という論文が追加されている。
個人的にはブルトマンを読んだ直後にブルトマンの名を目にしたのが嬉しい驚きであった。
・新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
書き始めたものの遅々として進まないので、覚え書きを断続的に記しておこう。
「印」とは端的にシールあるいはスタンプ、すなわち何らかの文書や証書に或る人は法人の名前を押す印鑑、ないしは、それによって押されたその人や法人の名前の痕跡のことです。日本では、例えば詔勅といって天皇の声明や宣言が発せられるとき、それが書かれた紙に天皇の【印】、すなわち玉璽が押され、その声明や宣言の絶対性・絶対的な真理性を、その声明や宣言を発した主体である天皇の【存在】において表示します。天皇の【印】は天皇の権威の表示であり、それにとどまらず、さらに、天皇の【存在】の表示なのです。すなわち、その【印】において天皇が現にそこに存在している、さらに言うならば、その【印】が天皇をそこに存在せしめているのです。このことは、アナロジーとして、そのまま『法華経』が「実相」すなわち「法の自性」の「印」であることにあてはまります。
【『反密教学』津田真一(春秋社、2008年改訂新版/リブロポート、1987年)以下同】
署名捺印の法的根拠もこの辺にあるのだろう。アナロジーについては以下を参照されよ。
・アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司
・アナログの意味/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
しかしだな、こんな言い分は所詮、大乗仏教ルールに基づく考えであって、外野~観客席~球場外の社会にまで響く言葉ではない。確かにシンボルという点ではマンダラを考えるヒントにはなり得る。だがそこを突き詰めてゆくと、必然的に言葉のシンボル性にまで辿り着いてしまう。「人間は個々の解釈世界に生きる動物である」と私が考えるのはこのためだ。経典・教義は受け手(=信者)の解釈によって歪められる。
水戸黄門の印籠は水戸黄門そのものではない。にもかかわらず水戸黄門を直接知らない人々にとっては、本人以上に印籠の方が社会機能を果たすのである。これを悪用したのが印章偽造や印鑑盗難だ。
つまり法華経が悟りや真理を表現したものであったとしても、それ自体が悟りそのものではないということだ。
「一乗」とは、やはり、「すべての人は【成仏できる】」、「【仏になりうる】」という思想ではなく、(その前半において)「すべての人は【すでに仏なのである】」(【引用二】における第六一偈)という思想なのです。そして、(おなじ第六一偈における)「その請願はすでに満たされている」という一句が見落とされているが故に、敢えていうならば、件の〈『法華経』のゲニウス〉の見えざる手によって平川博士の慧眼さえも覆われていたが故に、博士ですら、ついにその認識には立ち得なかったのです。
と前置きした上で津田はこう述べる。
したがって、「一乗」とは、その完全な形式においては、(ひとまず、)
〈汝は(ないしは一切衆生は)すでに【仏なのである】〉 しかも、 〈汝は(ないしは一切衆生は、すでに【仏である】にもかかわらず、修行して自(みずか)ら仏に【なるべきなのである】)〉
という命題によって指し示されるべき思想なのであります。この命題は、〈「直接法 INdikativ〉」、しかも、「命令法 Imperativ」〉という、完全な弁証法形式をとっておりますが、このことを念頭に入れた上で、議論を、さきに触れた問題、すなわち、『法華経』が「実相の【印】」、「法自性【印】」であるとして、この「一乗」ということをその「実相」、「法自性」とそのままイコールにしてよいのか、という問題、逆に言うなら『法華経』とはこの「一乗」という論理としての真理を説く経典なのだ、と言ってそこで終ってしまってよいのか、いや、そうではなくて、その奥にもう一つ真の問題、『法華経』の思想の究極の問題があるのではないか、という問題に戻したいと思います。
これを卓見とすべきではあるまい。原典に忠実であろうとする求道心が誠実な解釈を可能にしたのだ。
そもそも大乗仏教自体が教団の政治力学に彩られた存在であったことだろう。思想的進化といえば聞こえはよいが、その実態は政治性に基づいた理論武装であったと私は推察する。部派仏教を「小乗」と貶(けな)す姿勢に高い精神性は見受けられない。
では私なりに敷衍(ふえん)してみよう。まず大前提として宗教はスポーツではない。これを見落とす人が意外と多い。スポーツや芸術など身体が伴う技能を有する人々はそれぞれ何らかの真理を探り当てている。我々はともするとこの延長線上に宗教や信仰を位置づける。
「するとあれか、練習なしでイチローになれるってことか?」とついつい考えがちだ。しかしそうではない。「悟る」とは「気づく」ことだ。気づきは老若男女という条件に支配されない。時に子供の言葉や詩歌に大人が深い感動を覚えるのもこれが理由だ。
・子供の詩
・『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子
・女子中学生の渾身の叫び/『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
すなわち悟りとは経験や学識に左右されるものではない。ここ、アンダーライン。修行をしなければ成仏できないとの論理は、大人にならなければ悟りを得られないと言っているようなものである。とすれば夭折(ようせつ)は修正の効かない不幸と化す。
もしも悟りに時間を要するのであれば、「悟っていない現在」は否定される。このようにして我々は「何者かに【なる】」ことを強要されるのだ。「今がどんなに苦しくとも将来のために頑張れ」などと。
時間を必要とするのは知識や技術であろう。悟りとは正真正銘の自由を意味する。ブッダはただ「離れよ」と教えたはずだ。
現在という一瞬の中に無限の広がりを見つめたのが仏法である。瞑想は何十年も先のゴールを目指して行うべき代物ではあるまい。
それでも尚、修行必要論にしがみつく大乗信徒どもに私は尋ねよう。「でさ、修行して悟りを開いた人ってどこにいるの?」と。悟りが「教わるもの」であれば、それは知識なのだ。
「〈汝は(ないしは一切衆生は、すでに【仏である】にもかかわらず、修行して自(みずか)ら仏に【なるべきなのである】)〉」――同じことをクリシュナムルティが鮮やかに言い切っている。
「いったんはじめられ、正しい環境を与えられると、気づきは炎のようなものです」 クリシュナムルティの顔は生気と精神的活力で輝いた。「それは果てしなく育っていくことでしょう。困難は、その機能を活性化させることです」
【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】
クリシュナムルティの言葉が次々と浮かんでくる。「あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです」「理想を否定せよ」「あらゆる蓄積は束縛である」「心は心配事から自由でなくてはならない」「悟りはそれ自体が歓喜である」「生それ自体が君の師で、君は絶えず学んでいる境地にいます」「〈もっとよいもの〉は〈よいもの〉ではありません」「〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです」……。
「人はどのようにして変容し、『なる』(ビカミング)から『ある』(ビーイング)ことへのこの根源的変化を起こしたらいいのでしょう?」――クリシュナムルティの問いかけによって私は本覚論の本質を悟った。
こうしたことは既に事実として判明しつつある。ジル・ボルト・テイラー著『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』によれば、右脳は常に悟っている状態らしい。
2012-09-29
マーサ・スタウト著『良心をもたない人たち 25人に1人という恐怖』が文庫化
一見、魅力的で引きつけられるが、身近につきあってみると、うそをついて人を操る、都合が悪いと空涙を流して同情を引き、相手に「自分が悪い」と思わせる、追いつめられると「逆ギレ」して相手を脅しにかかる……そんな人たちがいる。彼らは自分にしか関心がなく、他者への愛情や責任感によって行動が縛られることがない。つまり「良心」をもたないのだ。出世であれ遊び暮らすことであれ、手段を選ばず自分の欲求をみたそうとするので、周囲の人は手ひどいとばっちりを受ける。だが本人は悪びれず、自分こそが被害者だと言いつのる。本書は、25人に1人いるという「良心のない人」の事例をタイプ別に紹介し、もし彼らにかかわってしまったらどうればいいのか? 事前に見分ける方法はあるのか? そんな疑問にすべて答えてくれる。
・人格障害(パーソナリティ障害)を知る
ニーチェ、北川貴英、他
2冊挫折、1冊読了。
『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』』ニーチェ:適菜収〈てきな・おさむ〉訳(講談社+α新書、2005年)/語尾に作為を感じる。その邪(よこしま)な意図に誑(たぶら)かされるほど私は若くない。やはり、『ニーチェ全集 14 偶像の黄昏 反キリスト者』を開くべきだ。
『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)/飛ばし読み。冒頭に古今亭志ん生を持ってくるあたりが憎いところ。斎藤隆介とサローヤンが面白かった。
56冊目『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英(マガジンハウス、2011年)/数年前から呼吸法や瞑想を研究しているのだが、いざ実践となると中々難しいものだ。私は本書で呼吸法が格段に上達した。「システマ」とは旧ソ連軍の格闘術であり、合気道と似た発想をするようだ。呼吸を意識すること、呼吸を見つめることから瞑想は始まる。しっかりと呼吸をコントロールすれば劇的に視野が広がる。
2012-09-28
目撃された人々 29
よちよち歩きの女の子が恐るべき注意力を払って周囲を見回していた。「初めて見る」驚きにあふれているような瞳であった。その視線が私の顔で止まった。ニヤリと笑って見せたのだが、幼児の目は丸く見開かれたままだった。2~3mと離れたところで若いお母さんが蛇行しながら歩く子供を見守っていた。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
このお母さんが偉いのは子供を誘導せず、自主性に任せていたことだ。きっと彼女も親御さんから大切に育てられたのだろう。擦れ違ってから少し経って私が振り向くと、女児も同時に振り返った。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
私が「見るものは」と呟くと、幼児が「見られるものである」と囁いた。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
最後のは作り話だ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
・目撃された人々(旧)
2012-09-25
「 Boom!(ブーン!)」マイア・ヒラサワ/九州新幹線CM総集編
2012-09-24
ジャパン・ハンドラーズが来日
来月、アーミテージ、ナイ、キャンベル、ハムレCSIS所長、マイケルグリーンが来日する。日経CSISシンポでは彼らの他に玄葉外相、前原誠司、石破茂、北岡伸一、藪中三十二が講師⇒bit.ly/1Zmqyp 翌日⇒bit.ly/PuOBlM ※どちらも日経。
— HEATさん (@HEAT2009) 9月 24, 2012
プロジェクション・マッピンク「The 600 Years」
1410年に作られた天文時計の600周年記念イベントでのプロジェクション・マッピング(2010年10月9日チェコ・プラハ)。
The 600 Years from the macula on Vimeo.
2012-09-23
Bob Dylan - I Shall Be Released のカバー9曲
私はボブ・ディランをまったく聴かないのだが、カバー作品は好んで聴くという変則的なファンである。ビートルズやプレスリーも歌っていたとは知らなかった。他にもたくさんあるのだが出来のいいものだけピックアップした。
2012-09-22
原発ゼロ「変更余地残せ」 閣議決定回避 米が要求
野田内閣が「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す戦略の閣議決定の是非を判断する直前、米政府側が閣議決定を見送るよう要求していたことが21日、政府内部への取材で分かった。米高官は日本側による事前説明の場で「法律にしたり、閣議決定して政策をしばり、見直せなくなることを懸念する」と述べ、将来の内閣を含めて日本が原発稼働ゼロの戦略を変える余地を残すよう求めていた。
政府は「革新的エネルギー・環境(エネ環)戦略」の決定が大詰めを迎えた9月初め以降、在米日本大使館や、訪米した大串博志内閣府政務官、長島昭久首相補佐官らが戦略の内容説明を米側に繰り返した。
14日の会談で、米高官の国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官はエネ環戦略を閣議決定することを「懸念する」と表明。この時点では、大串氏は「エネ戦略は閣議決定したい」と説明したという。
さらに米側は「2030年代」という期限を設けた目標も問題視した。米民主党政権に強い影響力があるシンクタンク、新米国安全保障センター(CNAS)の(パトリック・)クローニン上級顧問は13日、「具体的な行程もなく、目標時期を示す政策は危うい」と指摘した。これに対して、長島氏は「目標の時期なしで原発を再稼働した場合、国民は政府が原発推進に突き進むと受け止めてしまう」との趣旨で、ゼロ目標を入れた内閣の立場を伝えていた。また交渉で米側は、核技術の衰退による安全保障上の懸念なども表明したという。
エネ環戦略は14日に決めたが、野田内閣は米側の意向をくみ取り、「エネ環政策は、柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という短い一文だけを閣議決定。「原発稼働ゼロ」を明記した戦略そのものの閣議決定は見送った。
大串、長島両氏は帰国後、官邸で野田佳彦首相に訪米内容を報告している。
政府関係者は「事前に米側に報告して『原発稼働ゼロ』決定への理解を求めようとしたが、米側は日本が原発や核燃サイクルから撤退し、安全保障上の協力関係が薄れることを恐れ、閣議決定の回避を要請したのではないか」と指摘している。
◆「判断変えてない」大串政務官
原発ゼロをめぐる米国との協議について、大串博志内閣府政務官は21日、本紙の取材に対し「個別のやりとりの内容は申し上げられないが、米側からはさまざまな論点、課題の指摘があった。米側からの指摘で日本政府が判断を変えたということはない」と話した。
◆骨抜き背景に米圧力
《解説》「原発ゼロ」を求める多数の国民の声を無視し、日本政府が米国側の「原発ゼロ政策の固定化につながる閣議決定は回避せよ」との要求を受け、結果的に圧力に屈していた実態が明らかになった。「原発ゼロ」を掲げた新戦略を事実上、骨抜きにした野田内閣の判断は、国民を巻き込んだこれまでの議論を踏みにじる行為で到底、許されるものではない。
意見交換の中で米側は、日本の主権を尊重すると説明しながらも、米側の要求の根拠として「日本の核技術の衰退は、米国の原子力産業にも悪影響を与える」「再処理施設を稼働し続けたまま原発ゼロになるなら、プルトニウムが日本国内に蓄積され、軍事転用が可能な状況を生んでしまう」などと指摘。再三、米側の「国益」に反すると強調したという。
当初は、「原発稼働ゼロ」を求める国内世論を米側に説明していた野田内閣。しかし、米側は「政策をしばることなく、選挙で選ばれた人がいつでも政策を変えられる可能性を残すように」と揺さぶりを続けた。
放射能汚染の影響により現在でも16万人の避難民が故郷に戻れず、風評被害は農業や漁業を衰退させた。多くの国民の切実な思いを置き去りに、閣議での決定という極めて重い判断を見送った理由について、政府は説明責任を果たす義務がある。(望月衣塑子)
【東京新聞 2012年9月22日】
2012-09-21
ティク・ナット・ハン Q&A(2009年ニューヨーク)
ティク・ナット・ハンは「ダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から21世紀にかけて平和活動に従事する代表的な仏教者であり、行動する仏教または社会参画仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもある」(Wikipedia)。動画を見るとわかるが、嘘や虚勢がひとつもない。これ自体驚くべきことである。
バートランド・ラッセル
1冊読了。
55冊目『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)/40ページしか読んでいないのだがカウントしておく。恥ずかしながらバートランド・ラッセルを初めて読んだ。ま、本当は恥じる気持ちなんかこれっぽっちもない。誰が何を読もうと勝手だ(笑)。訳文に慣れるまで少々時間を要するが、読みやすいエッセイ集といえよう。タイトルの宗教とはキリスト教のこと。私がラッセルに注目するのは哲学者でありながら、論理学者・数学者でもあったという一点に尽きる。相対性理論以降の世界では数学的な発想が不可欠である。なぜなら真の合理性は必ず数式化に至るためだ。「キリスト教を知るための書籍」「宗教とは何か?」「必読書」に追加。
2012-09-19
キリストの発言記したパピルス片発見、「私の妻は」の記載
米ハーバード大学の研究者が18日、イタリア・ローマで開かれた学会で、キリストの妻についての発言を記載した古いパピルス片が見つかったと発表した。
発表を行ったのはハーバード大学神学校のカレン・キング教授。パピルスの紙片は縦3.8センチ横7.6センチほどの大きさで、エジプトのキリスト教徒が使うコプト語の文字が書かれている。この中に、「キリストは彼らに向かい、『私の妻が…』と発言した」と記された一節があった。
紙片は個人の収集家が所蔵していたもので、2011年にハーバード大学に持ち込まれ、キング教授が調べていた。ニューヨーク大学の専門家に鑑定を依頼した結果、本物のパピルスであることが確認されたという。
キング教授によると、内容はキリストと弟子との対話を記録したものとみられ、2世紀半ばごろに書かれたとみられる。表裏の両面に文字が書かれており、書物の1ページだった可能性もあるという。
ただしこの紙片は、キリストが結婚していたとする説を裏付ける証拠にはならないとキング氏は指摘する。一方、キリストが未婚だったことを裏付ける証拠もないといい、キング氏は記者会見で「キリストが結婚していたかどうかは分からないという立場は、以前と変わっていない」と強調した。
聖書には、キリストの結婚について触れたくだりは存在しない。しかし結婚していたとする説は以前からあり、聖書に登場する「マグダラのマリア」が妻だったとする説は、ヒット小説「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン著)でも利用された。
【CNN 2012-09-19】
2012-09-17
ウィルキンソン ジンジャエール辛口 500ml×24本
2012-09-16
戦争絶滅受合法案
20世紀の初めごろ、デンマークの陸軍大将が、こんな法律があれば、戦争をなくせると考えて起草した法案がある。題して「戦争絶滅受合(うけあい)法案」▼戦争の開始から10時間以内に、敵の砲火が飛ぶ最前線に一兵卒を送り込む。順序はまず国家元首、次にその親族の男性、3番目は総理、国務大臣、各省の次官、そして国会議員(戦争に反対した議員を除く)、戦争に反対しなかった宗教界の指導者…▼妻や娘は従軍看護師として招集し、最前線の野戦病院で働く。権力を持つ者から犠牲になるなら、自らは安全地帯にいてナショナリズムをあおる政治家は姿を消すだろう▼思想家の内田樹(たつる)さんは戦争を車の運転に例える。政府は「行き先」を決め、将軍たちは「運転」をする。「国民」の任務は「憎悪と敵意」をエネルギー源として、「戦争機械」に供給することだという(『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』)▼その「憎悪と敵意」が高い水位まで満ちてきた感がある。尖閣諸島の日本国有化に抗議する反日デモが、過去最大規模で中国全土に広がった。一部は暴徒化し日系企業を破壊。上海では、日本人が相次いで暴行を受けた。中国にいる日本人は不安でたまらないだろう▼「戦争も辞さない」と書いた横断幕が掲げられていたのが目を引いた。小さな無人島の領有をめぐって、戦争を始めるほど、両国の政府も国民も愚かではない。
【筆洗/東京新聞 2012年9月16日】
・デンマーク陸軍大将フリッツ・ホルムが起草した「戦争絶滅受合法案」
・デンマークのフリッツ・ホルム陸軍大将が起草し、日本のジャーナリスト長谷川如是閑が昭和4年(1929年)に紹介発表した【戦争絶滅受合法案】
プラム・ビレッジ(フランス)のシスターが語る気づきと瞑想
汚(けが)れなき瞳と慎ましい表情。そして美しい歌が信じられないほど心を揺さぶる。真の宗教性が宗派の差異を軽々と超える。プラム・ビレッジはティク・ナット・ハンを中心とするコミュニティである。シスターたちが10月に来日するようだ。
・公式サイト
・2012年10月シスター・ブラザー来日【総合】情報
・ティク・ナット・ハンのきもち
・歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
・「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン
鹿島圭介、高橋昌一郎
1冊挫折、1冊読了。
『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介〈かしま・けいすけ〉(新潮社、2010年/新潮文庫、2012年)/文章に独特のキレがある。良書。ただし私には必要がないと判断した。「命を狙われた点は気の毒だったが、国松の責任は極めて重大というほかない」(単行本27ページ)。犯罪は未然に防ぐことができない。時折、文筆業者にありがちな軽薄な決めつけが見受けられる。
54冊目『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2012年)/限界シリーズ第三弾。偏った知識に全体観を与えてくれる好著。高校のテキストにするべきだと思う。若いうちに読んでおけば無駄な読書をしなくて済むことだろう。軽めの読み物でありながら軽薄に堕していないところがミソ。内容としては行動経済学、認知科学入門であり、意識と自由意志を辿り、カミュの形而上学的反抗にまで触れている。必読書に入れる予定。
中国長沙で日本車が群衆に襲われる動画
昼間、中国の動画サイトアップされてすぐ削除された 長沙で日本車が群衆に襲われる動画がYoutubeに これも運転してるのは中国の人なんでしょうけど youtu.be/0ldVxvrvMWg
— 中国住みさん (@livein_china) 9月 15, 2012
2012-09-15
偽りの画像が生む本物の迫真性
flickrで見た一枚の画像に眼が釘づけとなった。反射的に画像のアカウントを辿った。私は息を呑み、眩暈(めまい)を覚えながら、震える指でクリックし続け、結局1000枚の画像を見る羽目となった。そして今再び1000枚の画像を見た。
露出や露光を変えることで、現実にはあり得ない作品に仕上がっている。その意味では「偽りの画像」といってよい。だが実は単なるデフォルメではない。撮影対象を時間的・光学的に揺さぶることで視覚の本質に迫っている。
私は小学生の時分に「なぜ眼が見えるのだろう?」とその不思議さに慄(おのの)いたことがあった。UFOや幽霊を見ることよりも、眼が見えること自体の方がはるかに不思議だ。
その後、少なからず視覚に関する書籍を読んできた。現代科学はいまだ私の疑問に答えていない。それでも視覚のメカニズムは少しずつ判明している。実は我々の眼はそれほどよく見えてはいない。脳が多くの視覚情報を補正している。盲点は想像以上に大きいし、周辺視野は色を確認することができないのだ。
「見る」ということは、光の反射情報を受け取っていることだ。右耳と左耳との距離によって生じる時間差で方角を知るように、右眼と左眼の10cm足らずのズレによって我々は空間の奥行きを知覚する。
昆虫は紫外線を見ることができる。また最近の研究によれば鳥類や魚類の多くも紫外線を認識することが明らかになっている。「目に映る世界」は決して一つではない。
またモグラの眼は退化しているが困った様子はない。更に小型コウモリは超音波による反響定位で距離を測る。「耳で視ている」といってよい。
長くなったので、もうやめる。一言でいえば視覚とは「脳内で像を結ぶ」知覚作用であろう。klikatu氏の写真は「イメージの原型」が持つ本物の迫真性に満ちている。
・klikatu's photostream
・迫真の肖像力
最も通俗なものと最も真実なものの接点
最も通俗なものと、最も真実なものが多勢を動かし得る。最も通俗なものと最も真実なものの接点を見つけることが、歌謡曲の作詞ではないかと考えたりするのである。-『実戦的作詞講座(下)』(1977)
— 阿久悠botさん (@aku_yu_bot) 9月 10, 2012
政治にも通じる卓見だと思う。
2012-09-14
クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ
試みはいいのだが、あまりいい本ではない。仏教知識が中途半端な上、巻末にクリシュナムルティの質疑応答を録するコンセプトに疑問が残る。「仏教+クリシュナムルティ」という販売戦略であろうか。
クリシュナムルティの応答を一つ紹介しよう。彼は常に聴衆から質問を募ったが、それは「何かを教えるため」ではなかった。その意味では決して解答ではなく、やはり応答とすべきだ。
クリシュナムルティ●あなたはこうたずねられるかも知れません。「あなたは輪廻転生を信じますか?」と。そういうことですね? 私は何も信じません。私が何も信じないというのは回避ではありません。そしてそれは私が無神論者であるとか、神を冒涜(ぼうとく)するとかいったことを意味するのではないのです。その中に入り込み、それが意味するものを見て下さい。それは精神が信念のあらゆるゴタゴタから自由になることを意味するのです。
【『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】
これはクリシュナムルティ流の無記といってよい。
・無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
クリシュナムルティは「輪廻転生がない」とは言っていない。ただ「信じない」と語っているだけだ。ブッダは沈黙をもって答えた。私なら「あると考えるべきではない」と応じる。
日本の仏教は大半が大乗仏教であり、輪廻転生(りんねてんしょう)を説いている。このため輪廻転生が仏教思想だと誤解している人々が多い。しかし元々はバラモン教(古代ヒンドゥー教)の教えである。また世界各地に見られるアニミズムと「生まれ変わり」思想は親和性が高いと思われる。
では一歩譲って「来世がある」と仮定してみよう。果たしてそれは「いつ」なのであろうか? 岡野潔によれば神々が回帰(輪廻)する時間は1劫(いっこう)=43億2000万年(ヒンドゥー教の計算法)となる。
とすると1劫ごとに輪廻が繰り返されたとしても、我々の認識では「繰り返し」と見なすことが不可能だ。
【岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一】
さすがに輪廻転生を信じる諸君も気長に待つことはできないだろう。人間は一生という時間単位を前提にものを考える傾向が強いので、我々が思い浮かべる来世はせいぜい数十年後といったところだ。そうじゃないと自分の子や孫とも擦れ違ってしまう(笑)。
そもそも鎌倉仏教の開祖が一人も再誕していないのだから、ま、800年は無理ってな話になりますわな。ブッダもお出ましになっていない以上、2500年は生まれてこない計算となる。
鎌倉時代は天災と戦乱の時代であった。人々は飢饉に責められ、疫病(えきびょう)に苦しみ、高騰する物価に苛(さいな)まれた。浄土宗は「死んだら西方極楽浄土に往生できる」と教えた。生きる望みを失った人々が次々と首を括った。
来世は神と似ている。誰一人確認したことがないにも関わらず、誰もが信じている。
すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。(三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉)
【仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀】
将来とは「将(まさ)に来る」で、未来とは「未だ来たらざる」である。希望の「望」には本来、野望の意味がある。中国では王や将が奪うべき敵地を視察する目的で高台に望台を築いた。
望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。
【『楽毅(一)』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】
おわかりだろうか? 来世への「望み」が実は自我に基づく「渇愛」から発せられていることを。すなわち輪廻転生とは自我の延長戦であるといってよい。これ自体が死を忌避する思想であり、死という現実から逃避する行為ではあるまいか。我々は「自分が消失する事実」に耐えることができない。それゆえ多くの人々が認知症となることを恐れるのだろう。記憶の崩壊は自我の死を意味する。つまり自我の正体とは記憶なのだ。
「何かになろう」とする企て自体が現在を否定していることに気づくべきであろう。
・努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
・理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
結論――来世を信じる人は今世を軽んじる人である。
2012-09-12
「動かざる者」を支配する原子力発電所/『見よ 月が後を追う』 丸山健二
・『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
・『千日の瑠璃』丸山健二
・「動かざる者」を支配する原子力発電所
語り手はオートバイだ。
そう、私は理知によって世界を知ることができる、誇り高いオートバイなのだ。
【『見よ 月が後を追う』丸山健二(文藝春秋、1993年)以下同】
色は青。
私の青は、うねる蒼海の青であり、遠い分水嶺の青であり、亜成層圏辺りに広がる青、
私の青は、世の風潮にほとんど影響されない青であり、神々の審判をきっぱり拒む青。
『野に降る星』の旗、『千日の瑠璃』のオオルリと同じ色だ。青い色は男の心をくすぐる。古来、狩猟は男の仕事であった。それゆえ男性は青空と同じ色に反応する、という説がある。
十数年前に一度読み、再読した。原子力発電所の記述を紹介しよう。
本書のテーマは「動く者」と「動かざる者」との対比である。前者を象徴するのがオートバイと乗り手の若者、後者のシンボルが八角形の楼台と田舎町の人々である。そして「動かざる者」を支配する権力の象徴として原子力発電所が描かれている。
「動かざる者」とは何か? それは変化を忌み嫌い、現状維持に安んじ、定住に満足する生き方だ。自分を「世間に合わせる」生き方といってよい。これに対して「動く者」「流れる者」は一切のしがらみを拒絶し、時に無法の一線を飛び越えることもよしとする自由人だ。
そこかしこに蔓延(はびこ)っている、一生を棒に振り兼ねない、投げ遣りな静観主義。
原子力発電所がある町にはこのような空気があった。
深々と更け渡る夜のなかにあって命の振動音を発しているのは、原子力発電所のみだ、
こんな片田舎でともあれ権勢を誇って生き生きとしているのは、低濃縮ウランだけだ。
稼働してまもない、とかく風評のある、元凶の典型となったそいつ、
人命など物の数ではないといわんばかりに、一意専心事に当たるそいつ、
桁外れの破壊力を秘めながら、普段は目立たない汚染を延々と繰り返すそいつ。
そいつは暗々のうちに練られた計画に従って、高過ぎる利益を生み出している、
そいつは進取的な素振りを見せながら、旧弊家どもの手先として働いている、
そいつは昼夜を問わず制御棒をぶちのめす機会を虎視眈々(たんたん)と狙っている。
およそ人が造り出した物で自然の摂理に逆らわない物はない、と原子力発電所は嘯(うそぶ)く、
たしかに……この私にしてからがそうだ。
鉄やゴム、それに少々のガラスといった材料から成る私も決して例外ではない、
原子炉の比ではないにしても、私もまた、やはりそれなりの毒を撒き散らす者だ、
これまで私が受けてきた非難にしても、謂(いわれ)のない非難というわけではない。
私は気化させたガソリンを連続的に爆発させて、燃えかすと爆音を世間に叩きつける、
私は前後ふたつの車輪を意のままに回転させて、世に満つくだらない不文律を蹴散らす、
私は無意味な高速がもたらす【がき】染みた示威行為によって、進退極まった中年男を悲しみのどん底から救い、陶然と酔わせる。
私にしがみついて疾駆する者は、自ずと他律的に振舞うことをやめるのだ、
私と共にある者は、何事にも怯(ひる)まず、飯代に事欠く立場さえすっかり忘れてしまう、
私といっしょに雲を霞(かすみ)と遁走する者は、私がその潜在意識とやらを充分に汲み取って、ひと思いに死なせてやろう、
むろん独りで死なせはしない。
この小説は実験的な手法が試されており、段落によっては行末を一字ずつずらしてきれいな斜線となっている。
動く者はリスクを恐れない。動かざる者は目前のリスクを恐れることで、かえって将来の大きなリスクを背負ってしまう。損得勘定に目が眩んで、好きでもないことに身をやつすのが大人にふさわしい生き方なのだろう。
私は突っ走ることで主我を確立する。
私が放つ光芒は皮相的な見解を突き破り、外界のありとあらゆる事物や、有象無象の一時も忽(ゆるが)せにできないめまぐるしい変化に鋭く対応する、
私が発する感嘆の声は根拠のない推論を押しのけ、魂も消え入るような思いを叩き伏せ、未だに固持されている旧説を素早く追い越して行く。
動く者はたとえ何歳になろうとも若々しい。過去なんぞ影みたいなものだ。踏みつけて歩けばよい。
それから彼は、自分の両親と娘の家族が郷里を引き払った理由について説明する、
つまり、かれらがそうしたのは大半の住民に倣ったまでのことだ、と言い、町の定住人口を却って激減させてしまったのは当の原子力発電所だ、と語る、
原子力発電所がこの町に居坐るために気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能のせいで、多くの人々が一生に一度の決断を下したのだ、と言う。
「気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能」との対比が鮮やかだ。札束で頬を叩かれれば、誰だって恵比寿顔になる。
とにもかくにも完璧に制御されているものと信じるしかない核反応の恐怖に寄り掛かって惰眠を貪るしかない町、
この町はすでに拒絶する力を失っているのかもしれない、
もしそうだとすれば、身を潜めなくてはならない者にとっては打ってつけの土地だろう。
我々は「拒絶する力」を持っているだろうか? 理不尽な仕事を拒んで会社を去ることができるだろうか? 家庭を省みることもなく形骸と化した夫婦関係に終止符を打つことはできるだろうか? はなっから労働基準法など順守するつもりのないパートタイムの仕事をあっさりとやめることはできるだろうか? 結局のところ、徒手空拳で自分だけの力を頼りにして飯を食ってゆける人間しか「拒絶する力」を有していないのだ。資本主義という経済システムに取り込まれた人生からは「拒絶する力」が奪われてゆく。
思った通りの死せる町、
際立っているのは原子力発電所のみだ、
そいつは既知の事実を誣(し)いる輩、
そいつがせっせと造りつづける電力はあっという間に300キロも遠く懸け隔てた彼方へと、国家の枢機を握っている大都市へと吸い込まれてゆく。
福島も新潟も東京から300km圏内だ。
地元の素封家を差しおいてこの町を牛耳っている原子力発電所、
それは尚も廃家の数を増やしつづけ、生命や文化や尊厳を殺し、ついでに因習や禁忌といったものまでもゆっくりと残害しつづけている。
地方は中央の権力によって侵(おか)されるのだ。権力者は金と暴力にものを言わせる。
外洋の彼方で早くも油然と湧く夏雲、
海水に溶け込んでいる希元素の憂鬱、
改心の見込みなどまるでない放射能。
そして遂に2011年3月11日、放射能はばら撒かれた。
かれらは、安堵の胸を撫でおろしている者ではなく、静座して思索に耽る者でもない、
かれらは、放射能の源に対して舌尖鋭く詰め寄る者ではなく、安く造った電力に法外な値を吹っかけて売りつける企業に一矢を報いる者でもない。
かれらは「我々」でもある。ただ雇用が、働き口が欲しかったのだろう。
郷里にとどまることにした者たちは、常に無能な時の為政者が大仰に述べ立てた言葉を頭から信じたのではないだろう、
さんざん疑った挙句に、ともあれ成り行きに任せてみることにしたのだろう、
そうやって居残った人々は、殺気を孕んだ大気や、前途に横たわる暗流を、現実から遊離した不安として無理矢理片づけてしまったのだろう。
従ってこの地はもはや、汚されたと言い表せるほどの聖域ではなくなっているはずだ、
よしんばプレアデス星団が見て取れるような澄明な夜が続いたとしてもだ。
国も東京電力も安全なデータだけを示して地元住民を篭絡(ろうらく)したはずだ。反対したのは多分、左翼の連中だけだったのはあるまいか。彼らにしても、どうせ政治目的で動員されたことだろう。弱り目に祟り目とはこのことだ。国家は弱者に対して情け容赦がない。
この小説は福島の原発事故が起こる15年前に書かれたものであって、被災者を鞭打つものではない。どうか誤解のなきよう。
・逃げない社会=定住革命/『人類史のなかの定住革命』西田正規
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール:金田耕一訳(風行社、2012年)
100日間で80万人が虐殺された。それも多くはマチェーテと呼ばれる山刀で。なんと数ヶ月前から、そこには国連PKO部隊がいて、危険を察知していた。しかし、彼らは手を拱(こまね)いて傍観するしかなかった。PKO部隊の司令官自身が痛恨の思いで綴る惨劇の顛末(てんまつ)。
・ロメオ・ダレール、ルワンダ虐殺を振り返る
・「私たちは大量虐殺を未然に防ぐ努力を怠ってきた」/『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治
・『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
2012-09-11
寺田寅彦
5冊読了、というのは真っ赤な嘘だ。読み終えていないのだがカウントしてしまえ。
49~53冊目『寺田寅彦随筆集 全五冊』寺田寅彦(岩波文庫、1947年)/読書家にとって垂涎の随筆と言い切っておこう。実はまだ30ページほどしか読んでいないのだが、私は山海の珍味のごとく少量ずつ楽しむことにした。だから、あらん限りの忍耐力を総動員して遅読に挑む。この滴り落ちるような懐かしさは何なのか? 「ああ、私も日本人であったのだ」という感慨がどっと押し寄せてくる。巻頭の「どんぐり」に胸を突かれた。1963年改版となっており、それ以前のものは旧漢字である。唯一の難点は活字が小さいこと。折を見つけてワイド版を入手しようと思う。以下の順番で読むのも一興か。
ワイド版第一巻 ワイド版第二巻 ワイド版第三巻 ワイド版第四巻 ワイド版第五巻
・枕がないことに気づかぬほどの猛勉強/『福翁自伝』福澤諭吉
・日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編
・『銀の匙』中勘助
バートランド・ラッセル「神について」
バートランド・ラッセルは論理学、数学、哲学の泰斗。かつて投獄されたこともあった。1950年、ノーベル文学賞を受賞。ラッセル=アインシュタイン宣言でも知られる。
動画を見ると明らかに落ち着きがない。多分、アインシュタインと同じくAD/HD(注意欠陥・多動性障害)であったのだろう。世間の価値観を疑うことを知らぬ女性ホストの方が堂々としており、妙なアンバランス感がある。
宗教は必要か
・読後の覚え書き/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
・バートランド・ラッセル