2011-06-30

本当の勉強をすることこそ、本当の反抗になる


 現代の若い人の中には、勉強を軽視することも大人の世界への反抗と思って、もっぱら動物系の探求反射だけで、次の時代の道を見出そうとしている人が少なくない。それも当然だろう。ところが、大人の押しつけている勉強は、本当の勉強ではないのだから、本当の勉強をすることこそ、本当の反抗になるのである。

【『脳 行動のメカニズム』千葉康則(知的生き方文庫、1985年)】

脳 行動のメカニズム

2011-06-29

神への信と不信


 祖父母は神以外に自分たちを殺せるものなど何もないと思っており、同時に神を信じていない。

【『卵をめぐる祖父の戦争』デイヴィッド・ベニオフ:田口俊樹訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2010年)】

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1838)

2011-06-28

石川道子、ポール・コリアー


 2冊挫折。

 挫折36『死海文書と義の教師』石川道子(シェア・ジャパン出版、1996年)/ベティ・ストックバウアーなる人物が書いたクリシュナムルティの記事が2章に渡って紹介されている。ベンジャミン・クレームが主催する団体がシェア・ジャパンのようだ。「世界教師マイトレーヤ」って類いの代物。神智学協会の亜流みたいなものか。数行読むのがやっとだった。

 挫折37『民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実』ポール・コリアー:甘糟智子〈あまかす・ともこ〉訳(日経BP社、2010年)/文章が嫌な臭いを放っている。慌てて奥付を見たところ世界銀行の関係者であった。途端に読む気が失せた。アフリカを奴隷化し、搾取し尽くし、虐殺してきた側の開発学に興味はない。キリスト教が説く平和は日本人が想う平和と隔絶している。「民主主義がアフリカを殺す」だと? 散々アフリカ人を殺してきたくせしやがって。その前に「英・米・仏がアフリカ人を殺す」という本を出すべきだろう。ったく反吐(へど)が出そうだ。

この世界は、何人の安全も保障していない


 今日この世界は、何人の安全も保障していない。戦争は数多く発生しているし、暴力行為はあとを断たない。われわれには危険がないと、あえて断言できる人がいるだろうか。

【『民間防衛 あらゆる危険から身をまもる』スイス政府:原書房編集部訳(原書房、1995年)】

民間防衛 新装版―あらゆる危険から身をまもる

教育の機能 4/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 幼児教育として家庭で行われているのは剪定(せんてい)と枝打ちだ。7年ほど経つと伐採されて工場へ送られる。裁断が施され、不要な樹皮を削り取り、研磨が加えられる。めでたく統一規格品に合格すれば小学校を卒業だ。

 これがエスタブリッシュメントの子弟であれば、幼児期から針金でぐるぐる巻きにされた盆栽状態と化す。最初から枝を伸ばす余地はない。

 現在行われているのは、教育という名の巧妙な暴力である。概念を支配し、感受性を束縛することで「正しい反応の仕方」を叩き込む。子供たちは社会の奴隷であればあるほど高く評価される。信念とは強要された忠誠心でしかない。

 若いうちに恐怖のない環境に生きることは、本当にとても重要でしょう。私たちのほとんどは、年をとるなかで怯えてゆきます。生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、死を恐れます。私たちのほとんどは何らかの形の恐怖を抱えています。そして、恐怖のあるところに智慧はありません。それで、私たちみんなが若いうちに、恐怖がなく、むしろ自由の雰囲気のある環境にいることはできないのでしょうか。それは、ただ好きなことをするだけではなく、生きることの過程全体を理解するための自由です。本当は生はとても美しく、私たちがこのようにしてしまった醜いものではないのです。そして、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものに対して――組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。模倣するのではなく、発見する。【それ】が教育でしょう。社会や親や先生の言うことに順応するのはとても簡単です。安全で楽な存在方法です。しかし、それでは生きていることにはなりません。なぜなら、そこには恐怖や腐敗や死があるからです。生きるとは、何が真実なのかを自分で見出すことなのです。そして、これは自由があるときに、内的に、君自身の中に絶えま(ママ)ない革命があるときにだけできるでしょう。
 しかし、君たちはこういうことをするように励ましてはもらわないでしょう。質問しなさい、神とは何かを自分で見出しなさい、とは誰も教えてくれません。なぜなら、もしも反逆することになったなら、君は偽りであるすべてにとって危険な者になるからです。親も社会も君には安全に生きてほしいし、君自身も安全に生きたいと思います。安全に生きるとは、たいがいは模倣して、したがって恐怖の中で生きることなのです。確かに教育の機能とは、一人一人が自由に恐怖なく生きられるように助けることでしょう。そして、恐怖のない雰囲気を生み出すには、先生や教師のほうでも君たちのほうでも、大いに考えることが必要です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

 生の不安は恐怖に根差している。生存を脅かすのは暴力だ。戦争が報道されることで世界は常に戦場と化している。大量の殺人と自殺と事故死に我々は取り囲まれている。少年は少年兵となった。これが教育の成れの果てだ。

少年兵は自分が殺した死体の上に座って食事をした/『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

 与えられる罰は暴力である。罰とは社会が許容する暴力の異名なのだ。罰を与えるのは楽だ。考える必要がない。決まったルールに従うだけで済む。教師がわかりやすい条件を示せば、児童はあっさりとパブロフの犬に変身する。


 暴力の本質は支配することだ。仏典では他化自在天として説かれている(あるいは第六天の魔王とも天魔とも)。「他人を自由自在に化(け)する(=コントロールする)」のが権力のメカニズムである。「天」とは六道の最上位に位置し天下を示す。つまり社会だ。

 とすると六道輪廻(ろくどうりんね)は、社会通念に従い、古い常識に額づく束縛状態を表しているのだろう。成功というゴールを目指す競争に参加することが、暴力や差別を結果的に支えてしまう。

 君たちはこれがどういうことなのか、恐怖のない雰囲気を生み出すことがどんなにとてつもないことになるのか、知っていますか。それは【生み出さなくてはなりません】。なぜなら、世界が果てしない戦争に囚われているのが見えるからです。世の中は、いつも権力を求めている政治家たちに指導されています。それは弁護士と警察官と軍人の世界であり、みんなが地位をほしがって、みんなが地位を得るために、お互いに闘っている野心的な男女の世界です。そして、信者を連れたいわゆる聖人や宗教の導師(グル)がいます。彼らもまた、ここや来世で地位や権力をほしがります。これは狂った世界であり、完全に混乱し、その中で共産主義者は資本主義者と闘い、社会主義者は双方に抵抗し、誰もが誰かに反対し、安全なところ、権力のある安楽な地位に就こうとしてあがいています。世界は衝突しあう信念やカースト制度、階級差別、分離した国家、あらゆる形の愚行、残虐行為によって引き裂かれています。そして、これが君たちが合わせなさいと教育されている世界です。君たちはこの悲惨な社会の枠組みに合わせなさいと励まされているのです。親も君にそうしてほしいし、君も合わせたいと思うのです。
 そこで、この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか。それとも、君に自由を与える――成長し、異なる社会、新しい世界を創造できるように、完全な自由を与えるのでしょうか。この自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんな滅んでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、智慧を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず反逆している人たちだけですから。真理や神や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、教育の機能とは、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすこの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。

 クリシュナムルティの最大の功績は「教団の暴力性」を鋭く見抜いたことにあると私は考えている。宗教はもはや存在しないといっていいだろう。あるのは教団という器だけだ。現代において信仰は所属を意味する。教団が目指すのは衆生(しゅじょう)の救済ではなく、マーケットシェア(市場占有率)の拡大である。このため教団組織は必ず二次的な社会構造を形成する。社会の中の社会で行われるのもまた競争だ。信者はさしずめ、パンを食いながら、右手で玉を投げ、左手で綱引きをしているような状態だ。父兄の方はお下がりください。

「この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか」――辛辣(しんらつ)な問いは我々一人ひとりに向けて放たれたものだ。

 愛情や慈悲までもが交換の対象となり経済性で計られる。ギブ・アンド・テイクが我々の流儀だ。

 社会的成功という脅迫観念を捨てるところから自由の一歩が始まる。自由の中から真の人間が誕生するのだ。我々大人は「人間の形をした何か」であって人間になり損ねた存在だ。果たして生(せい)の花を咲かせ、人間性の薫りを放つことは可能だろうか?



深遠なる問い掛け/『英知の教育』J・クリシュナムルティ
恐怖なき教育/『未来の生』J・クリシュナムルティ
比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
世界中の教育は失敗した/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
生存適合OS/『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子

趣味のいい者


「趣味のいい者は、たいてい少数派だ」

【『深海のYrr(イール)』フランク・シェッツィング:北川和代訳(ハヤカワ文庫、2008年)】

  

2011-06-27

藤野ともね、アマンダ・リプリー


 2冊読了。

 42冊目『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね(シンコーミュージック・エンタテイメント、2011年)/ブログ「フンコロガシの詩」を書籍化した作品。実に構成がよい。文章とイラストが絶妙にマッチしていて、レイアウトやフォントの色にも工夫が施されている。藤野はフリーライターだったのね。どうりで文章が上手いわけだ。難点は二つ。ブログという性質上もあって藤野のプライバシーに殆ど触れていないため、介護の背景に厚みがない。もう一点は値段。いくら何でも1300円は高い。

 43冊目『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー:岡真知子訳(光文社、2009年)/インタビュー集にすべきであったと思う。文章のリズムが悪く、竜頭蛇尾となってしまっている。素材を生かしきれていない料理みたいだ。登場人物が遭遇した事故に思いを馳せながら、自分で結論を導く必要がある。

異端妄説の譏を恐るることなく、勇を振て我思う所の説を吐くべし


 故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然ば即ち今日の異端妄説もまた必ず後年の通説常談なるべし。学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏を恐るることなく、勇を振て我思う所の説を吐くべし。
  ――福澤諭吉『文明論之概略』

【『自由貿易の罠 覚醒する保護主義』中野剛志〈なかの・たけし〉(青土社、2009年)】

自由貿易の罠 覚醒する保護主義文明論之概略 (岩波文庫)

中野剛志

2011-06-26

戦後の娯楽は映画からテレビに/『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則


 軍司貞則の本を読もうと思い立ち、取り敢えず入手しやすいものを選んだ。ナベプロの創業者・渡辺晋〈わたなべ・しん〉の一代記。芸能界から見た戦後の経済史として読むことも可能で、更にビジネス手法まで学べる。

 昭和30年代生まれであれば、幼い頃に観たテレビ番組の記憶が蘇ることだろう。シャボン玉ホリデーなど。

 戦後の娯楽といえば映画が王者の座に君臨していた。日常の情報は新聞とラジオが支えていた。そこへテレビが台頭してくる。

 NHKの関係者から「すさまじい勢いで受信契約世帯が増えている」という話をきいていた。昭和33年のNHK受信契約世帯は100万世帯だったが、1年後には500万世帯に迫る勢いだという。すごい伸び率である。こんな伸びを示しているものが他にあるだろうか。
 それに輪をかけるように、34年2月に東芝がカラーテレビ第1号を完成させていた。カラーテレビはまだまだぜいたく品で1台52万円だが、各方面から問い合わせが多いという。さらにソニーが昭和35年4月に向けてオールトランジスターテレビを発売するという噂も聞いていた。小売価格は6万9800円だという。
 確実にテレビは普及する。
 白黒(モノクロ)からカラーになり、サイズも自由になる、と渡辺晋は予測した。

【『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則〈ぐんじ・さだのり〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)以下同】

 これは街頭テレビ(1953年/昭和28年)の影響が大きかった。力道山が白人レスラーをやっつける姿を見て、敗戦に打ちひしがれていた日本国民は狂喜した。ま、一種の敗者復活戦みたいなものだったのだろう。

 そして映画の斜陽が始まったのは1960年(昭和35年)であった。

 映画は確実にテレビに喰われ始めていた。劇場へ行く観客が減っているのだ。全盛期の昭和33年に年間11億2700万人を数えた映画館入場者数は、36年には8億6300万人へと激減していた。
 戦後、映画は娯楽の王者であり、テレビ創成期も映画俳優はテレビを「電気紙芝居」と蔑んで絶対にブラウン管には登場しなかった。ところが昭和37年にはNHKの受信契約世帯は1000万台を突破し、4月からTBS系で始まったアメリカのテレビ映画「ベン・ケーシー」が視聴率50パーセントを超えるという事態が生じる。徐々にではあるが「テレビ」と「映画」の関係の逆転現象が起こり始めていた。
 晋と美佐はそれに気づいていた。

 1958年から翌年にかけてミッチー・ブームが吹き荒れる。皇太子の御成婚(1959年)をひと目見ようと、人々はテレビを買い求めた。そして東京オリンピック(1964年)でテレビは全国のお茶の間に備えられた。

日本映画産業統計:過去データ一覧表

 入場者数を見ると1959年をピークに、1960年はほぼ横ばいだが1961年から激減している。この数字からテレビの普及率が窺えよう。

 ナベプロは創業期のテレビ局をバックアップしながら、その一方で落ち目となった映画界に触手を伸ばした。そして計算通り、クレージーキャッツの映画作品を次々と大ヒットさせる。

 大宅壮一が一億総白痴化といったのは『週刊東京』1957年2月2日号でのこと。まだまだテレビが蔑まれていた時代であった。

 テレビというパンドラの匣(はこ)は、広告代理店が企業を統治するメディア情況を生んだ。視聴者はコントロールされる対象に貶(おとし)められた。今となっては単なる世論誘導の道具にすぎない。

 先ほど以下のツイートが流れてきた。

1.もっと使わせろ、2.捨てさせろ、3.無駄使いさせろ、4.季節を忘れさせろ、5.贈り物をさせろ、6.組み合わせで買わせろ、7.きっかけを投じろ、8.流行遅れにさせろ、9.気安く買わせろ、10.混乱をつくり出せ【電通「戦略十訓」】(@take23asn

 完全に統治者の言葉づかいとなっている。ジョージ・オーウェルが描いた『一九八四年』の世界が現実化している。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

チャールズ・ダーウィン


 2冊挫折。

 挫折34『種の起源(上)』ダーウィン:渡辺政隆訳(光文社古典新訳文庫、2009年)/ツイッターで@untitled_skz氏から勧められたのだが、私の手に負える本ではなかった。敢えなく撃沈。いつの日か再チャレンジ。

 挫折35『新版・図説 種の起源』チャールズ・ダーウィン、リャード・リーキー編:吉岡晶子訳(東京書籍、1997年)/図があれば何とかなるだろうと思ったものの、やはり一度染みついた先入観を拭うことは難しい。ついてゆけなくなった授業の雰囲気が漂う。完全なKO負け。

科学と魔術


 科学の奇跡と出会うまで、ぼくの世界を支配していたのは魔術だった。

【『風をつかまえた少年 14歳だったぼくはたったひとりで風力発電をつくった』ウィリアム・カムクワンバ、ブライアン・ミーラー:池上彰解説、田口俊樹訳(文藝春秋、2010年)】

TED:William Kamkwamba on building a windmill

風をつかまえた少年

男の背を鞭打つ詩情/『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編


『銀と金』福本伸行
『賭博黙示録カイジ』福本伸行

 ・男の背を鞭打つ詩情

『福本伸行 人生を逆転する名言集 2 迷妄と矜持の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
『無境界の人』森巣博
『賭けるゆえに我あり』森巣博
『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六

 福本伸行はギャンブル漫画の第一人者である。私が初めて買ったのは『無頼伝 涯』で、その後『銀と金』を読み、福本ワールドに絡め取られた。

 私はギャンブルとは縁がない。それでも心を揺さぶられるのは、ギャンブルという装置を通して福本が限界状況を描いているためだ。熾烈な攻防と過酷な勝負。ビジネスであれ、学問であれ、そうした局面に身を置くことは珍しくない。少なからず人生において「戦う」姿勢をもつ人であれば、福本が弾(はじ)く弦(いと)の響きに共振するはずだ。

 はっきりいって本の構成が悪い。せっかくの詩情が、解説のせいで台無しになってしまっている。それでも尚、福本の言葉は輝きを放って色褪せることがない。男の背が一直線になるまで鞭打つ。

 30になろうと40になろうと奴らは言い続ける…
 自分の人生の本番はまだ先なんだと…!
「本当のオレ」を使っていないから
 今はこの程度なのだと…
 そう飽きず 言い続け 結局は老い…死ぬっ…!
 その間際 いやでも気が付くだろう…
 今まで生きてきたすべてが
 丸ごと「本物」だったことを…!(『賭博黙示録 カイジ』)

【『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編(竹書房、2009年)以下同】

 怠惰(たいだ)に甘んじ、怯懦(きょうだ)を恥じることなく、のうのうと人生を過ごしているうちに、弱さが実体となる。決断を先送りにすることが猶予(ゆうよ)であると錯覚し、「待った」をかける。優勝チームが決まった後の消化試合みたいな人生を送っている中年男性は山ほどいる。

 彼らは、いつか神様が降りてきて一発逆転を約束しているかのように漫然と構えている。僥倖(ぎょうこう)への淡い期待が、白馬に乗った王子様を待ち侘びる少女を思わせる。

 伸びきったバネは弾力を失う。力は発揮してこそ強まる。

 リスクを恐れ 動かないなんてのは
 年金と預金が頼りの老人のすることだぜ(『賭博黙示録 カイジ』)

 簡単にできそうで実際にはできないことがある。例えば転職や引っ越しなど。離婚も同様だ。こんなことが一大事件になること自体、瑣末な人生を歩んでいる証拠といえよう。

 保身は自らを腐らせる。

 あの男は死ぬまで
 純粋な怒りなんて持てない
 ゆえに本当の勝負も生涯できない
 奴は死ぬまで保留する…(『アカギ』)

 波をかぶる勇気を持たなければ泳ぐことは不可能だ。今時は溺れることよりも、濡れることを心配する若者が目立つ。決断を先延ばしにするな。間違ったら修正すればいいだけのことだ。歩き出せば、今までとは違った景色が見えるものだ。

 一生迷ってろ
 そして失い続けるんだ……
 貴重な機会(チャンス)を…!(『賭博黙示録 カイジ』)

 判断力を欠いた人は、判断を放棄することで、ますます判断に迷う性向が強まる。少子化のせいで、親が過干渉になっている側面もあるのだろう。依存心を棄(す)てなければ人生の主導権は握れない。チャンスは人との出会いに集約される。ボーっとした人間は大切な人を見失っている。

 教えたる
 正しさとは【つごう】や……
 ある者たちの都合にすぎへん…!
 正しさをふりかざす奴は…
 それは ただ
 おどれの都合を声高に主張しているだけや(『銀と金』)

 短刀のように肺腑(はいふ)を突く言葉だ。正義とは特定のポジションから放たれる「言いわけ」なのだろう。

 無念であることが
 そのまま“生の証”だ(『天 天和通りの快男児』)

 無念とは念を空(むな)しくすることである。欲望・願望から離れ、自我をも超越したところに悟りの境地が開ける。自由とは「自由に離れる」ことなのだ。生の証は死を自覚する中から生まれる。

 勝負へのこだわりを捨てれば、戦場は磁場と化す。それは宇宙の姿と一緒で格闘というよりは、むしろダンスというべきだろう。

 みんな… 幸福になりたいんだよね…
 だから… 危ないことはしたくないの
 自分にとって都合のいい条件を
 どんどん揃えていくの──
 そして限りなく安全地域(セーフエリア)に入っていって
 そこで今度は絶望的に煮詰まってゆくんだわ
 揃えた好条件に囲まれて…
 身動きもできない──
 なんて不自由なんだろう(『熱いぜ辺ちゃん』)

 政官業のサラリーマン化を見よ。エリートとは奴隷の中から選抜された奴隷監督者にすぎない。真のエリートは独立独歩の道を往く。国家や企業に寄生する輩をエリートと呼ぶべきではない。支配者は常に被支配者でもある。

 棺さ…!
 お前は「成功」という名の棺の中にいる…!
 動けない…
 もう満足に… お前は動けない
 死に体みたいな人生さ…!(『天 天和通りの快男児』)

 目に見えぬ重力や圧力が社会の至るところで働く。我々は知らず知らずのうちに「競争」というレールの上に乗せられている。情報という情報が消費を煽り、幸福像を示し、犬ように吠え立てながら迷える羊を誘導する。

 現代社会における自由とは「モノを買う自由」でしかない。社会的ステイタスは賃金の多寡で決まる。レールの上を走る電車は脱線することを許されない。それは身動きできない棺(ひつぎ)のようなものだろう。

 モノと金に隠れて現実が見えにくくなっている。福本作品は、人生の虚像を剥(は)ぎ取って読者に現実を突きつける。それは手垢(てあか)にまみれた教訓ではなく、剥(む)き出しにされた「痛み」なのだろう。

 

人格障害(パーソナリティ障害)に関する私見


 ・人格障害(パーソナリティ障害)に関する私見

人格障害(パーソナリティ障害)を知る
自閉傾向に関する覚え書き

 私見であって試論に非ず。これから述べることは飽くまでも私見であって学術的根拠はない。裏づけとなるのは私の感覚であることを予(あらかじ)め断っておく。この手の言葉は悪口として使われるケースがあるので、取り扱いには重々注意されよ。

 世界保健機関 (WHO) によって公表された「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」(ICD)によれば人格障害は10タイプに分類される。

ICD-10(第10版/1990年発表)による分類

 ここからは日本精神神経学会の基準にもとづいて「パーソナリティ障害」と表記する。

 私は今まで7~8名のパーソナリティ障害者と接してきた。統計を出すにはいささか数が少ないのだが、パーソナリティ障害を素早く見抜くことで被害を減らすことには意味があると信ずる。

 10タイプのうち、「反社会性」と「境界性」というのがキーワードになると考えられる。なお「反社会性」とは社会性の欠如を示したものであって、社会への反発やプロテスト(抗議)という意味合いではない。

 次に「境界性」だが、これは自他の境界が曖昧なため、周囲がびっくりするような行動や、相手を傷つける言動が顕著な特性である(境界例〈ボーダーライン〉とは異なる)。

 問題はここからで、注意をしても理解できず、著しく罪悪感を欠如しており、他者への想像力・共感が働かない。

 取り敢えず私の文章では、パーソナリティ障害を「自己と他者の境界が曖昧なため、周囲との軋轢(あつれき)を生んでしまうコミュニケーション障害」と定義しておく。

 これは完全な私見となるが、私はパーソナリティ障害を広汎性発達障害の症状として考えている。大雑把にいってしまえば「軽度の自閉症」である。

 実は意外と簡単に見分ける方法がある。それは「決まった手順の作業」が行えないということだ。例えば車から降りる時にドアをロックするといったことが彼らはできない。ドライバーに対する配慮を欠き、車上荒らしに遭うかもしれないという想像力が働かないためだ。

 簡単な作業であっても手順を覚えることができない人は、作業の意味や前後の流れを理解していない。そしてこれこそが社会性なのだ。

 普通に注意しても謝らない。謝ったとしても言葉に気持ちが入っていない。それどころか、「エ、どうして私が悪いの?」という態度を示すことが多い。

 問題行動から導かれるのは前頭葉の機能疾患であろう。これが遺伝要因(先天性)によるものか環境要因(後天性)によるものなのかは実に微妙だ。ただ、努力や改善を促す意味では環境要因と考えた方がよいと思われる。

 病因について考えてみよう。ミラーニューロンと自閉症との関連性は憶測の域を出ていないそうだ。しかし自己鏡像認知(自己鏡映像認知とも)から手繰ることは可能だ。

 高度な知能をもつ動物は鏡に映った自分を認識することができる。類人猿、イルカ、ゾウなどで確認されており、自我の概念があるものと考えられている。これを自己鏡像認知という。ちなみにサルにはない。また重度の精神病患者も認識できない。

 いずれも群れを形成することから、自己鏡像認知と高度な社会性との関連が指摘されている。「鏡に映った自分」を認識できる能力は、「相手の瞳に映った自分」を想像できる能力でもあろう。自己を客観視することで社会性は維持される。「他人に迷惑をかけてはいけません」ってわけだ。

 ヒトの場合、3歳前後から自己鏡像認知が働く。幼児を対象とした実験では、自己鏡像認知ができる子供ほど慰めなどの援助行動をすることが確認されている(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 自閉症の場合は完全に生きている世界が異なる。常識や伝統的価値観は全く通用しない。異なる世界観を受け入れた上で、互いの存在を認めることが重要だ。

 パーソナリティ障害は自閉症と一般人との間に位置している。

 長くなってしまったので結論を述べよう。パーソナリティ障害は陰気臭い人物よりも、むしろ人気者の中に多く存在する。有り体に申せば、周囲からチヤホヤされてお高くとまったタイプに多い。エネルギッシュ&パワフル。ただしスタミナにはムラがある。

 パワーハラスメントの加害者はパーソナリティ障害だと考えてよい。被害者には隷属的傾向が窺える。アダルトチルドレンがパワハラ被害に遭うと地獄絵図となる。パーソナリティ障害は善悪の概念が乏しいことから長らく「サイコパス」(精神病質)と呼ばれてきた。

 一番わかりやすいのはお笑い芸人の世界だ。自他の境界が曖昧なため礼儀を弁えず、粗暴な振る舞いが目立つ。島田紳助、明石屋さんま、太田光などが典型的だ。お笑いの世界は保守的な上下関係が築かれているので、君臨する人物がパーソナリティ障害だと、コミュニティそのものが「いじめ文化」を形成する。

 ホリエモンやヒロユキを見て、彼らが罪悪感を欠いていることに気づかない人はパワハラ被害者予備軍だ。また、テレビに出演しているタレントの殆どはパーソナリティ障害だと私は思っている。

 政治家にも多い。石原慎太郎は小泉首相のことをテレビカメラの前で「純ちゃん」と呼んでいた。石原夫人の親戚と小泉の実弟が結婚しているので少なからず縁戚関係に当たる。石原は自分を大きく見せるために首相をちゃん付けで呼んだのであろうか? 違うね。公私の区別がつかないのだ。パーソナリティ障害者は周囲のあらゆることを「プライベート化」してしまう。一度や二度会っただけで、やたら馴れ馴れしい言葉遣いをする人物もこのタイプである。

 尚、パーソナリティ障害は治る見込みがない。厳しく注意したり、上手くなだめたりしながら、付き合ってゆくしかない。

人格障害(パーソナリティ障害)を知る

 ・人格障害・パーソナリティ障害
 ・人格障害
 ・境界性人格障害
 ・人格障害の治療とは
 ・パーソナリティー障害あれこれ

心理的虐待/『生きる技法』安冨歩

野生動物の自己鏡像認知

土本典昭、パトリシア・ハイスミス


 2冊挫折。

 挫折32『土本典昭 わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録』土本典昭(日本図書センター、2000年)/左翼思想っぽい文章に馴染めず。

 挫折33『11の物語』パトリシア・ハイスミス:小倉多加志〈おぐら・たかし〉訳(ハヤカワ文庫、2005年)/そこそこ面白いのだが途中でやめる。人生の残り時間が限られているため。いずれの短篇も独白調のため、被害妄想に付き合わされているような疲れを覚える。デュ・モーリアを知らなければ面白く読めたかもね。『太陽がいっぱい』はそのうち読む予定。

2011-06-24

佐藤仁


 1冊挫折。

 挫折31『ギャンブルの経済学』佐藤仁(かに心書、2007年)/文章が軽すぎる。

2011-06-23

ジョセフ・ブルチャック


 1冊読了。

 41冊目『それでもあなたの道を行け インディアンが語るナチュラル・ウィズダム』ジョセフ・ブルチャック:中沢新一、石川雄午訳〈いしかわ・ゆうご〉(めるくまーる、1998年)/中沢新一の名前を見て迷ったが、表紙に惹かれて購入。これほどの面構えは中々お目にかかれない。写真も多数掲載。厳しい寒風と灼熱の太陽に耐えた彼らの風貌が、私のだらけた姿勢を正す。我々は文明の美酒に酔い痴れ、肉体も精神も贅肉(ぜいにく)でたるんでいる。精霊よ蘇れ、と思わずにはいられない。

青春時代


 青春時代は振り返ることでしか確認できない。

最も美しいことば

意味に取りつかれる脳~Meの正体はMeaning


善悪とは
目的論と自己実現

 上手くまとまっていないのだがメモしておこう。人間の脳、すなわち思考は意味に取りつかれている。この辺りが目的論の正体だと思う。つまり、Meの正体はMeaningってわけだ。しかもMeは「目的格」である。ざまあみやがれ、私の勝ちだ(笑)。脳は意味を明らかにする物語を必要とする。意味=物語性という図式になっている。

 実に面白い。主格、所有格、目的格を哲学的に読み解くことが可能かもしれない。主格=存在、所有格=欲望、目的格=目的論。

 ここから強引にカントの格律へ持ってゆき、Mine(独立所有格)とアニミズムを結びつけ、エスノメソドロジーから東洋と西洋の違いに切り込むだけの力量が、残念ながら私にはない(笑)。

 ポストモダンよりも、脱アリストテレスという視点が重要だと思われる。

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀
アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

目的論と自己実現


善悪とは

 そして大乗仏教もまた、因果に目的論を付与してしまったのだ。原因は結果よりも過小評価される。「本懐を遂げること」以外は些末なものとして扱われる。自己実現とは、自我の罠に絡め取られた状態を意味する。

意味に取りつかれる脳~Meの正体はMeaning

善悪とは


 善悪とは感情である。価値観ではない。こう考えると感情を支えているのが宗教であることがわかる。宗教的感情という次元ではなく、感情そのものが宗教的価値観の反映なのだろう。すなわち「後天的に刷り込まれた情動」が宗教なのだ。

 神学と大乗仏教に共通するのは理論武装である。キリスト教は理論を学問領域にまで発展させた。こうして宗教はアリストテレス的世界観(目的論的世界観)を構築するに至ったのだ。これが西洋では形而上学となって自己実現を目指し、東洋においてはアニミズム的志向から共同体意識を形成した。

 宗教の本質は戒律にある。つまり教派・宗派はタブーを共有する人々の関係性を示している。「忌みはばかって禁じられる」までに高まった状態は、思考が感情に浸透し、感情が思考を支配するフィードバック構造を端的に表している。この意味で宗教は極めて音楽的だ。

 アントニオ・R・ダマシオを読み直す必要がありそうだ。

目的論と自己実現
意味に取りつかれる脳~Meの正体はMeaning
ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ

2011-06-22

小室直樹


 1冊読了。

 40冊目『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹(徳間書店、2000年)/超弩級(ちょうどきゅう)の宗教入門。個人的に小室直樹の文体が好きではないのだが、その合理的思考は瞠目に値する。今までバラバラだった知識が本書によって一つに結び合わされた。昨日読み終えたが、いまだに興奮が覚(さ)めやらない。

不幸なる人々


 不幸なる人々は、さらに不幸な人々によって慰められる。

イソップ

2011-06-21

ジェノサイド~命名のポリティクス


 現在はジェノサイドという命名を地上最強の国が道具にしています。つまり米国は敵方による大量虐殺はジェノサイドと呼びますが、友好国やその手先による殺戮はそう呼ばない。

マフムード・マムダニが語るダルフール問題「ジェノサイドをめぐる政治学」

マフムード・マムダニ

運命


 運命は欲する者を導いて行き、欲しない者を引きずって行く。
  ──セネカ

【『恐慌の黙示録 資本主義は生き残ることができるのか』中野剛志〈なかの・たけし〉(東洋経済新報社、2009年)】

諸君は永久に生きられるかのように生きている/『人生の短さについて』セネカ
中野剛志


恐慌の黙示録―資本主義は生き残ることができるのか

チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール


『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール

 ・チンパンジーの利益分配

フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

 霊長類研究の世界的権威によるエッセイ。形式は軽いが内容は重量級だ。読者層を拡大する意図があったのか、あるいはただ単にまとめる時間がなかったのかは不明。ファンの一人としてはもっと体系的・専門的な構成を望んでしまう。勝手なものだ。

 霊長類といっても様々で、チンパンジーは暴力的な政治家で、ボノボは平和を好む助平(すけべい→スケベ)だ。ヒトは多分、チンパンジーとボノボの間で進化を迷っているのだろう。ドゥ・ヴァールの著作を読むとそう思えてならない。

 今時、強欲は流行らない。世は共感の時代を迎えたのだ。
 2008年に世界的な金融危機が起き、アメリカでは新しい大統領が選ばれたこともあって、社会に劇的な変化が見られた。多くの人が悪夢からさめたような思いをした――庶民のお金をギャンブルに注ぎ込み、ひと握りの幸運な人を富ませ、その他の人は一顧だにしない巨大なカジノの悪夢から。この悪夢を招いたのは、四半世紀前にアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相が導入した、いわゆる「トリクルダウン」(訳注 大企業や富裕層が潤うと経済が刺激され、その恩恵がやがて中小企業や庶民にまで及ぶという理論に基づく経済政策)で、市場は見事に自己統制するという心強い言葉が当時まことしやかにささやかれた。もうそんな甘言を信じる者などいない。
 どうやらアメリカの政治は、協力等社会的責任を重んじる時代を迎える態勢に入ったようだ。

【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)以下同】

トリクルダウン理論

「おこぼれ経済」だと。ところがどっこい全然こぼれてこない。私のところまでは。経常利益は内部留保となって経営効率を悪化させている。だぶついた資金が経済全体の至るところで血まめのようになっている。血腫といった方が正確か。その結果がこれだ。

利子、配当は富裕層に集中する/『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』河邑厚徳、グループ現代

 私たちはみな、同胞の面倒を見るのが当たり前なのだろうか? そうする義務を負わされているのだろうか? それとも、その役割は、私たちがこの世に存在する目的の妨げとなるだけなのだろうか? その目的とは、経済学者に言わせれば生産と消費であり、生物学者に言わせれば生存と生殖となる。この二つの見方が似ているように思えるのは当然だろう。なにしろ両者は同じころ、同じ場所、すなわち産業革命期にイングランドで生まれたのであり、ともに、「競争は善なり」という論理に従っているのだから。
 それよりわずかに前、わずかにきたのスコットランドでは、見方が違った。経済学の父アダム・スミスは、自己利益の追求は「仲間意識」に世で加減されなくてはならいことを誰よりもよく理解していた。『道徳感情論』(世評では、のちに著した『国富論』にやや見劣りするが)を読むとわかる。

 これは古典派経済学進化論を指しているのだろう。

 人間と動物の利他的行為と公平さの起源については新たな研究がなされており、興味をそそられる。たとえば、2匹のサルに同じ課題をやらせる研究で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪い方のサルは課題をすることをきっぱりと拒む。人間の場合も同じで、配分が不公平だと感じると、報酬をはねつけることがわかっている。どんなに少ない報酬でも利潤原理に厳密に従うわけではないことがわかる。不公平な待遇に異議を唱えるのだから、こうした行動は、報酬が重要であるという主張と、生まれつき不公平を嫌う性質があるという主張の両方を裏付けている。
 それなのに私たちは、利他主義や高齢者に満ちた連帯意識のかけらもないような社会にますます近づいているように見える。

 ということは予(あらかじ)め「受け取るべき報酬」という概念をサルが持っていることになる。しかも異議申し立てをするのだから、明らかに自我の存在が認められる。「不公平を嫌う性質」は「群れの健全性」として働くことだろう。

 では霊長類の経済システム(交換モデル)はどうなっているのだろう。

 アトランタ北東にある私たちのフィールド・ステーションでは、屋外に設置した複数の囲いの中でチンパンジーを飼っていて、ときどきスイカのような、みんなで分けられる食べ物を与える。ほとんどのチンパンジーは、真っ先に手に入れようとする。いったん自分のものにしてしまえば、他のチンパンジーに奪われることはめったにないからだ。所有権がきちんと尊重されるようで、最下位のメスでさえ、最上位のオスにその権利を認めてもらえる。食べ物の所有者のもとには、他のチンパンジーが手を差し出してよってくることが多い(チンパンジーの物乞いの仕草は、人間が施しを乞う万国共通の仕草と同じだ)。彼らは施しを求め、哀れっぽい声を出し、相手の面前でぐずるように訴える。もし聞き入れてもらえないと、癇癪(かんしゃく)を起こし、この世の終わりがきたかのように、金切り声を上げ、転げ回る。
 つまり、所有と分配の両方が行なわれているということだ。けっきょく、たいていは20分もすれば、その群れのチンパンジー全員に食べ物が行き渡る。所有者は身内と仲良しに分け与え、分け与えられたものがさらに自分の身内と仲良しに分け与える。なるべく大きな分け前にありつこうと、かなりの競争が起きるものの、なんとも平和な情景だ。今でも覚えているが、撮影班が食べ物の分配の模様をフィルムに収めていたとき、カメラマンがこちらを振りむいて言った。「うちの子たちに見せてやりたいですよ。いいお手本だ」
 と言うわけで、自然は生存のための闘争に基づいているから私たちも闘争に基づいて生きる必要があるなどと言う人は、誰であろうと信じてはいけない。多くの動物は、相手を譲渡したり何でも独り占めしたりするのではなく、協力したり分け合ったりすることで生き延びる。

 まず「早い者勝ち」。所有権が尊重されるというのだから凄い。どこぞの大国の強奪主義とは大違いだ。結局、コミュニティ(群れ)はルールによって形成されていることがわかる。これはまずコミュニティがあって、それからルールを決めるというものではなくして、コミュニティ即ルールなのだろう。分業と分配に群れの優位性がある。

 幼児社会はチンパンジー・ルールに則っている。ところが義務教育でヒト・ルールが叩き込まれる。こうやって我々は進化的優位性をも失ってきたのだろう。

 したがって、私たちは人間の本性に関する前提を全面的に見直す必要がある。自然界では絶え間ない闘争が繰り広げられていると思い込み、それに基づいて人間社会を設定しようとする経済学者や政治家があまりに多すぎる。だが、そんな闘争はたんなる投影にすぎない。彼らは奇術師さながら、まず自らのイデオロギー上の偏見というウサギを自然という防止に放り込んでおいて、それからそのウサギの耳をわしづかみにして取り出し、自然が彼らの主張とどれほど一致しているかを示す。私たちはもういい加減、そんなトリックは見破るべきだ。自然界に競争がつきものなのは明らかだが、競争だけでは人間は生きていけない。

 ドゥ・ヴァールが説く共感はわかりやす過ぎて胡散臭い。実際はそんな簡単なものではあるまい。ただ、動物を人間よりも下等と決めつけるのではなくして、生存を可能にしている事実から学ぶべきだという指摘は説得力がある。

 共感能力を失ってしまえば、人類は鬼畜にも劣る存在となる。そのレベルは経済において最もわかりやすい構図を描く。格差拡大が引き起こす二極化構造をチンパンジーたちは嘲笑ってはいないだろうか。



コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
集合知は沈黙の中から生まれる
「法人税の引き下げによる経済効果はゼロないしマイナス」/『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』菊池英博
進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
比類なき言葉のセンス/『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳
愛着障害と愛情への反発/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
強欲な人間が差別を助長する/『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
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マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
金融工学という偽り/『新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性』原丈人
大塩平八郎の檄文/『日本の名著27 大塩中斎』責任編集宮城公子