・『エロスと神と収容所 エティの日記』エティ・ヒレスム
・エティ・ヒレスムの神 その一
・エティ・ヒレスムの神 その二
・ヴェーダとグノーシス主義
・キリスト教を知るための書籍
かくいう私は、社会学者だ。社会学的啓蒙の救済力を信じており、世俗主義の用語は私の血肉と化している。世俗化の基本想定、端的にいえば、近代化が進むと宗教的なものはおのずと解消していくという考え方は、たとえこの予測が歴史によって否定されようとも、そう簡単に社会学的思考からとりのぞくわけにはいかない。宗教には、他者についての様々なヴィジョンを掲げて世界を動かしていく、相対的に自立した現実性と力が備わっている。したがって、そうした宗教の中身が、ありとあらゆる両義性を含めて社会学の視野に入ってくることはめったにない。
【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直〈すずき・ただし〉(岩波書店、2011年)以下同】
社会学的な懐疑主義につきまとう非宗教性・反宗教性を乗り越えようと試みた労作。上記テキストの「宗教的」とは神秘的と同義であり、非科学的と言い換えてもよいだろう。ウルリッヒ・ベックは宗教社会学の空白を埋めようと意気込んでいるわけだが、出発点からして方向を誤ったように見える。相対主義的観点からは新しい統合的な発想は生まれにくい。宗教と科学を相対的に捉え、聖俗を分けて考え、学問や科学を高みに置く考え方そのものを疑うべきだろう。
科学は文明の発達をもたらし生活を便利にしたが、人生を豊かにしたとはいえない。学問がそんなに立派であるなら学者は模範的な生き方をしているはずである。とてもそんな風には思えない。極端に言ってしまえば宗教も科学も学問もひとつの文脈であり物語にすぎない。社会学はデータを重視するが、どのようなデータを選ぶかはその時代の社会的価値で決められる。つまり恣意的なものなのだ。すべてのデータを網羅することが不可能である以上、データ解釈には「読み解く」作業が付随する。ま、データで絵を描くようなものだ。その絵が科学的かどうかはまったくの別問題だ。
オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。
著者はエティ・ヒレスムの日記を通して「自分自身の神」からコスモポリタン化を探る。
彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信徒たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。
つまり一人を掘り下げて人類共通の泉に辿り着こうとする作業である。エティ・ヒレスムの信仰は制度化も組織化もされていなかった。そこに生まれ立ての宗教の姿を見ることは可能だろう。教団とは宗教の国家化に他ならない。ゆえに教団は信徒からカネを集め、他教団との戦闘に臨む。信仰のヒエラルキーが残虐行為を命じる。
ではエティ・ヒレスムの神との対話を見てみよう。
神様、私はあなたが私のもとを去って行かれぬように、あなたをお助けするつもりです。でも私は最初から何一つ請け合うことはできません。ただ一つのことだけは、ますますはっきりとわかってきました。それは、あなたが私たちを助けられないこと、むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならないこと、そしてそれによって結局は私たちが自分自身をも助けることができるのだということです。神様、大切なことはただ一つ、私たち自身の中に住まうあなたのひとかけらを救い出すことなのです。もしかすると私たちは、さいなまれた他の人々の心の中で、あなたを復活させるお手伝いができるかもしれません。確かに神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます。それはもう、この人生の一部になってしまっています。私はあなたに釈明を求めてはいません。むそろあなたのほうが、いつの日か私たちに釈明を求められることでしょう。そしてほとんど心臓が鼓動するたびに、私にはますますはっきりとしてくるのです。あなたは私たちを助けることができないのだということが。むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならず、私たちの内なるあなたの住まいを最後の最後まで守りぬかねばならないのだということが。
何と美しい心根であろうか。彼女が「神様」と呼びかけたのは、喪われた人間性すなわち良心そのものであった。彼女は全人類に良心を喚起すべく、まず自らの良心を掘り起こす必要があった。エティ・ヒレスムは良心を助け、そして守る。死が迫り来る中でこれほどの勇気を示した女性がいたのだ。ナチスを声高に糾弾することもなく、彼女は静かに自分の内面世界を押し広げた。
「エティ・ヒレスムの神」を否定する者はあるまい。彼女の神は神々の党派性を超越してすべての神を従わせる。ナチスはエティ・ヒレスムを殺した。しかし彼女の神が死ぬことはなかった。現に今こうして私の胸を打っているではないか。
・宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
・『原発事故の正体』 by ウルリッヒ・ベック:Goeche's Blog