2009-02-26

豊かな生命力は深い矛盾から生まれる/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男


 ・豊かな生命力は深い矛盾から生まれる
 ・家族の目の前で首を斬り落とされる不可触民
 ・不可触民の少女になされた仕打ち
 ・ガンジーはヒンズー教徒としてカースト制度を肯定

『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ
『中国はいかにチベットを侵略したか』マイケル・ダナム

 山際素男を初めて読んだが、この人は文章に独特の臭みがある。漬け物や演歌と似た匂いだ。漢字表記や送り仮名までが匂いを放っている。

 だが、これは名文――

 生命というものは、矛盾(むじゅん)そのものを一瞬一瞬、あわやというところで乗り越え、乗り越え損(そこ)ない、といった際(きわ)どい運動の非連続的連続のくり返しの中に存在するものであろう。
 だから、生命力が豊かだということは、より深い矛盾の中から生れてくるなにものかでなくてはなるまい。

【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/知恵の森文庫、2000年)】

 一読後、再びこの文章を目にすると「そいつあ奇麗事が過ぎるんじゃないか?」と思わざるを得ない。多分、インドの豊穣な精神を表現したものだろう。しかしながら、インドが抱えてきたのはカースト制度という「桁外れの矛盾」であった。

 暴力の社会階層化、差別の無限システム――これがカースト制度だ。インドは非暴力の国であり、核を保有する国家でもある。そして中国同様、文化・宗教・言語すら統一されていない巨大な国だ。大き過ぎる危うさを抱えているといってよい。

 山際の文章に何となくイライラさせられるのは、「矛盾を肯定するものわかりのよさ」を感じてしまうためだ。所詮、傍観者であり、旅行者の視線を脱しきれていない。苦悩に喘ぐ人々に寄り添い、同苦し、何らかの行動を起こそうという覚悟が微塵もない。「本を書くためにやってきました」以上である。

 読みながら何度となく、「山際よ、インドの土になれ! 日本に帰ってくるな!」と私は叫んだ。だが私の声は届かない。だって、30年前に出版された本だもんね。

 差別は人を殺す。ルワンダの大量虐殺もそうだった。人類は21世紀になっても尚、差別することをやめようとはしない。きっと差別せざるを得ない遺伝情報があるのだろう。問題は、自由競争のスタート地点で既に厳然たる差別があることだ。

2009-02-21

砂漠の民 ユダヤ人/『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭


 流浪の民ユダヤ人は、砂漠に追放された民でもあった――

「私にとって、砂漠の経験はまことに大きなものでした。空と砂の間、全と無の間で、問いは火を噴いています。それは燃えていますが、しかし燃え尽きはしません。虚無の中で、おのずから燃え立っております。」(「ノマド的エクリチュール」
「おまえはユダヤ人か」という火を噴くような問いを、このように「砂漠」を憶(おも)いつづける自分自身につきつけて思考するのは、エドモン・ジャベス(1912-91)である。エジプトからヨーロッパの大都市パリへ移住してきたこの詩人は、さらにこれにつづけて、「他方で、砂漠の経験は研ぎすまされた聴覚とも関係があります。全身を耳にする経験と言っても差しつかえありません」と言う。ジャベスのこのような「砂漠の経験」の根底には、当然のことながら、追放という濃密なユダヤ性が鳴りひびいている。
 エードゥアルト・フックスによれば、少なくとも1000年間は砂漠の中に暮らしていたというユダヤ人は、その「研ぎすまされた聴覚」によって、迫り来る危険をいち早く察知する能力を身につけていた。砂漠の遊牧民だったユダヤ人は、地平線から近づいてくる「生きもの」が獣であるか人間であるかを、そのかすかな音を耳にした途端すでに聞き分け、刻々と変化する危険な事態を乗り切るため、つぎの行動に素早く移行しなくてはならない。こうして砂漠の経験は、忍び寄る危険の察知能力ばかりでなく、あらゆる状況の変化への同化能力を彼らの中に発達させた。

【『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭〈こぎし・あきら〉(岩波新書、1997年)】

 実に味わい深いテキスト。砂漠という空間と、ユダヤ民族という時間が織り成す歴史。

 養老孟司が『「わかる」ことは「かわる」こと』(佐治晴夫共著、河出書房新社)の中で興味深いことを語っている。耳から入る情報は時間的に配列される。つまり、因果関係という物語は耳によって理解される。一方、眼は空間を同時並列で認識する。

 つまり、だ。迫害され続けてきたユダヤ人は、歴史の過程で「強靭な因果」思想を構築したことが考えられる。彼等が生き延びるためにつくった物語はどのようなものだったのだろうか。そこにはきっと、智慧と憎悪がたぎっていることだろう。

 民族が成立するのは、「民族の物語」があるからだ。そして民族は、過去の復讐と未来の栄光を目指して時が熟すのを待つようになる。



穀物メジャーとモンサント社/『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会
シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫
中東が砂漠になった理由/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

2009-02-18

「裸の王様上司」は「ヒラメ部下」によってつくられる


 ・「裸の王様上司」は「ヒラメ部下」によってつくられる

『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン
『隠れた人材価値 高業績を続ける組織の秘密』チャールズ・オライリー、ジェフリー・フェファー

「偉い」ことと「偉そう」なことは意味が違うのに、まつり上げられて、ダメなリーダーになっている上司は多い。だが、上司がダメなのは、実は部下のせいでもあるという……。上司と部下。互いの幸せのため、何を心掛ければいいのか。

【ピープル・ファクター・コンサルティング代表高橋俊介=談
 たかはし・しゅんすけ●1954年生まれ。ワトソンワイアット社代表取締役等を経て独立。個人主導のキャリア開発の第一人者として知られている】

上司がダメなのは半分は部下のせい?

 日本の、特に古い大企業では、部長になり役員になりと、役職が上がれば上がるほど、自分が偉くなったように錯覚して偉そうな行動を取ってしまう人が多い。つまり「偉い」ことと「偉そう」とはまったく意味が違うのに、自分自身がスポイルされ、まつり上げられてダメなリーダーになっていくのである。これは上司本人にも問題があるが、半分は部下のせいでもある。
 では、どのようにすれば、ダメな部下を見抜けるのだろうか。偉そうな上司をつくり上げてしまう部下の典型には、二つのタイプがある。その一つを、テレビのお笑い番組になぞらえてAD(アシスタント・ディレクター)型の部下と呼ぼう。テレビに登場する芸人は、大して面白くなくても、スタジオの観客には受けている。隣でADが手を振って合図をしているからだ。しかし視聴者、つまり顧客からの距離は遠くなるばかりである。
 もう一つのタイプに、ヒラメ型の部下がいる。ヒラメは目が上にしかついていない。だが、実はそればかりでなく、表と裏では色が違う。つまり、自分の利益のために、上司に対する態度を180度変えるのである。
 このような部下に取り囲まれていると、最後には上司は裸の王様にされてしまう。とりわけヒラメ型は、裏で何をするかわからず非常に危険な存在である。なかなか見抜けない点も問題だ。そのため、上司としては、自分に心地よいことばかりを言う部下を集めるのではなく、常に表裏のある人間を見抜く訓練を重ねなくてはならない。

ビジョンを発信すればよい部下が集まる

 逆に、よい部下とは、表裏がなく、自分に気づきを与えてくれる部下、言い換えれば自分を映す「鏡」のように、自分の足りない部分や問題のある部分を跳ね返してくれる部下である。こういう部下を集めることができれば、裸の王様にならずに済む。そのためには、上司ははっきりとしたビジョンを持ち、そのビジョンを周囲に向けて発信することだ。そうすれば、ビジョンに共感する鏡のような部下が一人、また一人と集まってくる。
 また、このときに大切なのは、チームの健全性を保つためには、タイプの異なる部下を組み合わせることである。パーソナリティーの明暗という側面にも注意しなくてはならない。例えば支配欲、影響欲という動機が強い人の場合、それがポジティブに表れれば非常にうまくチームをまとめてくれるが、ネガティブな面が強く出ると、自分の言うことを聞かせるために周囲を怒鳴り散らしたりして、チームの雰囲気を壊してしまう恐れがあるからだ。
 一方、部下の側でいえば、出世するためにはどうすればいいかばかり考えて、上司からの評価を気にしているようではダメである。上司に評価されようとして、評価された人はいない。天職を先に決め、逆算して行動するのではなく、ポリシーを持って自発的に仕事をした人が、その結果として天職にたどりつくものなのだ。
 さらに言えば、もし今の上司が自分を評価してくれないからといって、その上司に迎合してしまったら、本当に自分を評価してくれる上司とは永久に巡り合えなくなってしまう。大きな組織がよいのは、捨てる神あれば拾う神ありという点である。今の神が合わなくても、別の神がいると思って自分のポリシーを貫けば、最後には、そちらのほうが勝ち組になるはずだ。

【『プレジデント』2003年11月3日号】

2009-02-17

環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人


『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・環境・野生動物保護団体の欺瞞
 ・環境ファッショ、環境帝国主義、環境植民地主義
 ・「環境帝国主義」とは?
 ・環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する
 ・グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない
 ・反捕鯨キャンペーンは日本人へのレイシズムの現れ
 ・有色人捕鯨国だけを攻撃する実態

『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 環境帝国主義の本家アメリカの手口はこうだ――

 アメリカは前述の国内法「海産哺乳動物保護法」と「絶滅に瀕した動植物保護法」以外に、さらに二つの国内法を持つ。「パックウッド・マグナソン法」(PM法)と「ペリー修正法」(PA法)である。
「PM法」と「PA法」は「国際捕鯨取締条約」と「ワシントン条約」という二つの国際法の“番犬”的な役割を担う。
「PM法」は『「国際捕鯨取締条約」の規制の効果を減殺した国に対して、米国200カイリ以内の漁獲割当てを、初年度50%削減し、2年目にゼロにする』という内容である。また「PA法」は『「ワシントン条約」の効果を減殺する国に対し、その国からの製品の輸入を禁止する』ことをうたっている。
「PM法」も「PA法」も明らかに国際条約あるいは国際協定に反する。「PM法」は、国際条約の想定に反する国内法の制定を禁じた「ウィーン条約」に違反するし、「PA法」も当時のガットいまのWTO条項に抵触する。だが、アメリカはこの二つの国内法を振りかざして日本に圧力をかけてきた。
 1982年のIWCの年次会議で、商業捕鯨のモラトリアム(全面中止)が採択された。これはIWC・科学小委員会の勧告を無視したものであったため、日本は条約の規定に基づいて異義を申し立てて従わない方針を取った。しかし、アメリカは「PM法」の発動をちらつかせて、日本政府に異議申し立ての撤回を強要してきたのである。わが国は米国200カイリ内でのサカナの割当てがなくなることを恐れて、IWCへの異議申し立てを撤回し、モラトリアムをのんだ。
 1989年のワシントン条約国会議で、タイマイを含む海亀の国際取引禁止が採択された。日本のべっ甲業界は、主にキューバからタイマイの甲羅を輸入している。キューバではタイマイの資源管理を国家が行ない、増殖に力を入れているので、資源は豊富。世界のすべての海亀をひっくるめて絶滅種にリストアップする非合理性に異義を表明する意味から、日本政府は海亀の国際取引禁止に留保の意思表示をした。クジラのケースと同じである。
 ここでまたアメリカがクジラの時と同じ手を打ってきた。留保を撤回しなければ「PA法」を発動して、日本から車や半導体の輸入を禁止する、と脅しをかけてきたのである。
 べっ甲産業は車や電子産業とは比較にならないほど小さい。通産省は91年6月に、タイマイの留保を94年7月で取り下げるとアメリカ商務省に伝え、この問題に決着をつけた。

 環境帝国主義の本家アメリカは、環境問題に関する行動を、表面上は一応法律に基づいて起こしている。そのパターンを整理すると次のようになる。
 1.まず、保護したい動物を大げさに美化する。そして資源が絶滅しかけているという危機感を打ち上げて国際世論を喚起する。
 2.IWCや「ワシントン条約」の会議で、多数派工作をして数の力で狙いを達成する。
 3.決定に対して異議を申し立てたり、留保をして抵抗を試みる国には、国内法による制裁発動を持ち出し、無理矢理に従わせる。
 環境帝国主義の犠牲になっている民族が、日本人、イヌイット、アフリカ人など、ほとんどが有色人種である点も見逃せない。
 ところで、アメリカ政府関係者も環境保護運動家たちも、当然のことだが自分たちが環境帝国主義者との認識は全くないのである。むしろ優れた価値観や文化を理解させたとの宣教師的な満足感を持っている。

【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】

 何と、国内法で外国を制裁するという無理無体なことをしている。繁華街を牛耳る暴力団より酷い。やくざ者の場合なら「この街じゃ俺達が法律だ」で済むが、アメリカさんの場合は「どの街も俺達のルールに従ってもらう」という論法だ。もちろん歯向かった時は、暴力団も足下に及ばぬ暴力的な措置が迅速に執行される。

 グローバリゼーションとは、「アメリカのやり方に従う」という意味である。

2009-02-16

論理ではなく無意識が行動を支えている/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

 意識と無意識のわかりやすい例え――

 人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない。書くことはできるが、どうやって書いているのかを書きながら解説することはできない。楽器は演奏できても、うまくなればなるほど、いったい何をどうしているのか説明するのが困難になる。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)】

 それまではできなかったことができるようになると、脳内ではシナプスが新しい回路を形成する。この回路が滑らかに作動すると、我々は無意識でそれができるようになる。

 自動車の運転もそうだ。教習所に通っているうちは、「まずエンジンをかけて、それからブレーキペダルを踏んで……」などと頭で考えている。だが免許を取得して運転に慣れてしまえば、全く何も考えることなくラジオに耳を傾け、同乗者と会話しながら運転ができるようになっている。

 そのことを「言葉で説明できない」と指摘するところがトール・ノーレットランダーシュの凄いところ。意識を支えているのが無意識であることが明らか。無意識は言葉にできない。それでも我々は、言葉を交わしながら互いの無意識を感じ取っているのだ。

 きっと無意識は、善悪が混沌としてスープのように煮えたぎっている世界なのだろう。これをコントロールすることは可能なのだろうか? 多分可能なのだろう。無意識が意識を形成し、意識が行為に至る。そして今度は、行為がフィードバックされて意識から無意識へと通じる回路があるはずだ。それをブッダは「業(ごう=行為)」と呼んだ。善男善女よ、善行に励め。



言語も及ばぬ意識下の世界/『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック

2009-02-15

少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした/『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二


 ・少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした
 ・シエラレオネ反政府軍に使われた少年兵は5000人以上
 ・麻薬で殺人に駆り立てられる少年兵

『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治
『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー

 ユニセフは少年兵の数を25万人と想定している。では子供達が戦場でどのような攻撃をしているのか――

 子どもたちのなかには養女がいます。メムナちゃんといいます。妻エリザベスさんの姉の娘です。
 3歳になるメムナちゃんですが、彼女もまた、反政府軍によって右手を切り落とされていました。
(こんなに小さな子が逆らうはずもないのに、なぜ? 兵士たちは狂っている…)
 わたしはこの時、自分の腕がじーんと痛くなるのを感じました。
 メムナちゃんがおそわれたのは、1年前のこと。
 勢いにのった反政府軍が、地方から首都フリータウンへ攻め入ってきた時のことです。
 反政府軍の残酷なやり方はこれまでよりも激しくなっていました。無差別に銃を乱射し、家に火をつけ、逃げまどう市民たちをつかまえては、列にならばせました。そしてまるで流れ作業のように手や足を切り落としていったといいます。(中略)
 エリザベスさんはその時のことを話してくれました。
 自分たちをおそった反政府軍の兵士は、10歳前後の子どもたちのグループだったといいます。
「そのグループはジョンダとよばれていました。リーダーは12歳と聞きました。」
 私は一瞬、自分の耳を疑いました。
「子どもの兵士だったのですか?」
「銃を持っていたのはほとんどが10歳前後の子どもたちでした。
 最初、わたしたちはメムナの家族といっしょにモスクにかくれていたんです。
 でも、ジョンダ・グループの子ども兵士たちに見つかって、わたしたち全員が建物の外に出されて、ならばされました。
 小さな体なのに大きな銃を持った子ども兵士たちは、わたしたちの列に向かっていきなり銃を撃ち始めました。
 その時、メムナは泣いていて、母親がかばおうとしました。すると、彼らは母親を撃ち、メムナを連れて、その場を笑いながら去っていったのです。」(3日後に右手が切断されたメムナちゃんが発見される)

【『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二(汐文社、2005年)】

 本書で紹介されている少年兵は、襲撃した村からさらってきた子供達であり、麻薬漬けにされている。表紙の拡大画面を見て欲しい。左目の下にある三日月の傷痕は、カミソリで切られて麻薬を埋め込まれたものだ。

 シエラレオネは世界一平均寿命が短い国である。アフリカ諸国は欧米に利用されるだけ利用され、踏みつけられるだけ踏みつけられてきた歴史がある。ルワンダもそうだ。欧米に共通するのはキリスト教という価値観であり、そこに差別的な発想があるとしか思えない。ノアの箱舟に乗れるのは自分達だけで、それ以外の有色人種はどうなろうと構わないのだろう。彼等がイエスを信じた時から、多分神は死んでいたはずだ。

 元少年兵を社会が受け入れ、苦悩し続けるシエラレオネ。殺した者と殺された者とが手を取り合おうと呻吟(しんぎん)するシエラレオネ。明るい未来を思わずにはいられない。


シエラレオネ 裁かれる戦争犯罪 - 孤帆の遠影碧空に尽き
後藤健二氏殺害の真相/『日本人が知らない地政学が教えるこの国の進路』菅沼光弘

2009-02-14

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二


『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『唯脳論』養老孟司

 ・世界よりも眼が先
 ・人間が認識しているのは0.5秒前の世界
 ・フィードバックとは

『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

必読書リスト その三

 知覚に誤差があるのは何となく理解できるだろう。光や音のスピード、はたまた神経回路を伝わる時間差など。だが、よもや0.5秒もずれているとは思わなかった。

 もっと言っちゃうとね、文字を読んだり、人の話した言葉を理解したり、そういうより高度な機能が関わってくると、もっともっと処理に時間がかかる。文字や言葉が目や耳に入ってきてから、ちゃんと情報処理ができるまでに、すくなくとも0.1秒、通常0.5秒くらいかかると言われている。
 だから、いまこうやって世の中がきみらの前に存在しているでしょ。僕がしゃべったことを聞いて理解しているでしょ。自分がまさに〈いま〉に生きているような気がするじゃない? だけど、それはウソで、〈いま〉と感じている時間は0.5秒前の世界なんだ。つまり、人間は過去に生きていることになるんだ。人生、後ろ向きなんだね(笑)。

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二(朝日出版社、2004年)】

 知覚された情報は過去のものだが、意識は常に「現在」という座標軸に固定されている。例えば、我々が見ている北極星の光は430年前のものだが、光は年をとらない。そして意識は未来へと向かって開かれている。

 それにしても、0.5秒という誤差は驚くべきものだ。宇宙が生まれたのは137億年前だと考えられているが、刹那と久遠のはざ間に時間の本質が隠されている。

 しかも、トール・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(紀伊國屋書店、2002年)によれば、意識が生じる0.5秒前から脳内では準備電位が現れるという。とすると、本当のリアルを生きているのは無意識ということになるのか。

物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一



視覚情報は“解釈”される/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン

2009-02-12

忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス/『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー


『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ・忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス

 予告編を観てピンと来るものがあった。七つの短篇はいずれも素晴らしい作品に仕上がっている。


『タンザ』メディ・カレフ監督(ルワンダ)

 DVDに収められているプロダクションノートを見てルワンダであることを知った。シエラレオネの少年兵の実態(後藤健二著『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』汐文社、2005年)より悲惨さは少ないが、それでもやはり映像の迫力は凄い。長い間の取り方が否応(いやおう)なく緊迫感を高める。チョークに込められたのは学ぶことへの憧れであり、爆弾の擬声が戦闘に対する無自覚を示している。ラストで静かに流れる少年兵の涙が過酷な現実を雄弁に物語っている。

『ブルー・ジプシー』エミール・クストリッツァ監督(セルビア・モンテネグロ)

 監督はサラエボ生まれとなっているが、フランス映画のような軽妙さがある。完成度も高い。父親に窃盗を強要され、時に激しい暴力を加えられる少年が主人公。少年院の内側の方が主人公にとっては安心できる世界だった。少年院での歌の練習シーンなどは爆笑もの。窃盗団が奏でる音楽が人々の心を奪うというアイディアもグッド。

『アメリカのイエスの子ら』スパイク・リー監督(アメリカ)

 子供に隠れて麻薬を常習する両親。それでも愛情に嘘はなかった。その上、親子はHIVに感染していた。学校でいじめられる少女。「私は生きたいのよ!」と叫ぶ声が悲惨を極める。これもラストシーンが鮮やか。深刻な問題を抱えても「私は私」というメッセージが込められている。

『ビルーとジョアン』カティア・ルンド監督(ブラジル)

 実はこの作品に期待していた。カティア・ルンド(※カチア・ルンジという表記もある)は『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督)の共同監督を務めた人物。多分この作品も多くの素人を起用していることだろう。躍動的なカメラワークと子供達の逞しい姿は『シティ・オブ・ゴッド』を彷彿とさせる。幼い兄と妹が家計を助けるために空き缶やダンボールを拾い集める。店先や業者とのやり取りは大人顔負け。「フライドポテトは明日買ってあげるよ」という兄の言葉が、未来に向かって生きる二人の姿を象徴している。スラムの後ろに巨大なビル群がそびえ立つ映像も忘れ難い。

『ジョナサン』ジョーダン・スコット&リドリー・スコット監督(イギリス)

 最初の効果音が凄い。お見事。戦場カメラマンが神経症のような症状を発祥する。森で見かけた子供達を追い掛けているうちに、男も少年になっていた。ファンタジックなストーリー。戦場の現実を再確認して、男は再び家に戻る。

『チロ』ステファノ・ヴィネルッソ監督(イタリア)

 少年が自分の影と戯れる最初のシーンが秀逸。大人達の矛盾に戸惑いながらも、少年は逞しく生きる。窃盗という手段で。犬に追い掛けられるシーンは、サブ監督の『ポストマン・ブルース』さながら。綿飴を買うシーンや遊園地の幻想的な場面も巧い。少年が倒れるシーンに至っては詩的ですらある。

『桑桑(ソンソン)と子猫(シャオマオ)』ジョン・ウー(中国)

 裕福な少女と貧しい少女の運命が、美しい人形を介して交錯する。身寄りのない子供達が強制的に花を売らされる。売り上げがなければご飯を食べさせてもらえない。二人の少女も大人のエゴイズムの犠牲者だ。貧しい少女が裕福な少女に花をあげる。限りない豊かさが画面いっぱいに横溢(おういつ)する。

 いずれの作品も『それでも生きる子供たちへ』というタイトルに相応しい内容。随分と長く感じたと思っていたら、何と170分という長尺ものだった。世界の子供達が置かれている現実、そして苛酷さを極めるほど逞しく生きる姿。歳をとって忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバスだ。最後に流れる歌がまた素晴らしい。

2009-02-11

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章


 ・明治以前、日本に「社会」は存在しなかった
 ・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」
 ・「存在」という訳語
 ・翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった

・『「ゴッド」は神か上帝か』柳父章
・『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』柳父章

 当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、societyは、窮極的には、この(2)でも述べられているように、個人individualを単位とする人間関係である。狭い意味でも広い意味でもそうである。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。
 societyの翻訳の最大の問題は、この(2)の、広い範囲の人間関係を、日本語によってどうとらえるか、であったと私は考えるのである。

【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)以下同】

 で、individual=個人といっても、それは「関係性」の中で自覚されるものだ。さて、明治期までの日本人を取り巻く関係性はどのようなものだったか――

 このような「交際」を基本にすえてみるとき、日本の現実における「交際」の特徴が明らかに現われてみえてくる。それは「権力の偏重」という実状である。

 日本にて権力の偏重なるは、秊(あまね)く其人間交際の中に浸潤(しんじゅん)して至らざる所なし。……今の学者、権力の事を論ずるには、唯政府と人民とのみを相対して或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈(ばっこ)を咎(とがむ)る者多しと雖(いえ)ども、よく事実を詳(つまびらか)にして細(こまか)に吟味すれば、……苟(いやしく)も爰(ここ)に交際あらば其権力偏重ならざるはなし。其趣を形容して云へば、日本国中に千百の天秤を傾け、其天秤大となく小となく、悉(ことごと)く皆一方に偏して平均を失ふが如く、……爰(ここ)に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰(ここ)に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、兄弟の交際にも是(これ)あり、長幼の交際にも是あり、家内を出でて世間を見るも亦(また)然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賤、新参古参、本家末家、何(いず)れも皆其間に権力の偏重を存せり。
【『文明論之概略』福沢諭吉 1875年(明治8年)】

 まことに鋭い日本文化批評である。それは1世紀後の今日の私たちにとっても身近に迫ってくるような指摘である。この現実分析や批評の根本に、福沢の「交際」という概念がある。福沢のことば使いによって拡張された意味の「交際」が、他方「偏重」という相対立する意味をもつことばを引き出し、さらし出してみせたのである。

 それは「権力の偏重」という関係性であった。交際の本質は「強い者」と「弱い者」を確認するものでしかなかったのだ。地頭と小作人、坊主と檀家ってわけだ。ではなぜ、欧米には「個人」が存在し得たのか――

 ここで、原文のindividualは、福沢の訳文の終りの方の「人」と対応している。
 ところで、「人」ということばは、ごくふつうの日本語であるから、individualの翻訳語として使われると言っても、それ以外にもよく使われる。他方、individualということばは、ヨーロッパの歴史の中で、たとえばmanとか、human beingなどとは違った思想的な背景を持っている。それは、神に対してひとりでいる人間、また、社会に対して、窮極的な単位としてひとりでいる人間、というような思想とともに口にされてきた。individualということばの用例をみると、翻訳者には、否応なく、あるいは漠然とながら、そういう哲学的背景が感得されるのである。

 それは「神と向き合う個人」だった。日本の場合、神様の数が多過ぎた上、ただ額づいて何かをお願いする対象でしかなかった。つまり、欧米は「神vs自分」であり、日本は「世間vs自分」という構図になっていた。農耕民族は団体戦であるがゆえに、村の掟に従わなければ村八分にされてしまう。ここにおいて個人は跡形もなく消失し、村の構成員としての自覚だけがアイデンティティを形成する。

 独りで何かと向き合わない限り、個人は存在し得ないということだ。一方欧米ではその後、孤独によってバラバラとなった社会が問題視された経緯がある。バランスってえのあ、難しいもんだね。

 ブッダは、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」と叫んだ。3000年前の轟くような声は、今尚その響きを失ってはいない。



・福澤諭吉
・個人の尊重が江戸文化を育んだ
新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
「洛中洛外図」の日本的視点/『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』高階秀爾
日本人の農民意識/『勝者の条件』会田雄次
結社〜協会・講・組合・サロン・党・サークル・団・アソシエーション・会・ソサエティ/『結社のイギリス史 クラブから帝国まで』綾部恒雄監修、川北稔編

2009-02-08

服従心理のメカニズム/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ・服従心理のメカニズム
 ・キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果
 ・人間は権威ある人物の命令に従う
 ・社会心理学における最初の実験

『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ

権威を知るための書籍

 あのミルグラムである。服従実験で社会心理学の有効性を証明し、放置手紙法によってスモールワールド現象を明らかにしたミルグラムだ。ユニークな発想と巧妙な実験法が群を抜いている。アイディアマン。あるいは知能犯。

 そしてミルグラムの研究が出版された1963年までには、ナチスが行った恐ろしい行為に関する研究がすでにたくさん発表されていた。そのなかで、彼の研究が特筆すべきものとなったのは、実験室における科学的な研究手法を使って、当時は実現不可能であるかに思えた二つの目標を達成したからである。一つは、冷静な分析をするのが難しいテーマに、ある程度の客観性(他の方法と比較しての話だが)を持ち込んだこと。もう一つは、破壊的な服従がごく日常的な場面においても起こりうることを示したこと。そのため、この実験を知った人は、その実験が示す望ましくない情報を自分とは無関係なものとして切り捨てることが難しくなったことである。

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀〈あいざわ・みき〉訳(誠信書房、2008年)以下同】

 Wikipediaには「『アイヒマンとその他虐殺に加わった人達は、単に上の指示に従っただけなのかどうか?』という質問に答えるため」に実験が行われたとあるが、本書にそのような記述はない。ソロモン・アッシュの下(もと)で同調行動の実験を行っていたミルグラムが、服従実験を思いつくのは自然な流れであろう。

 権威ある人間からの合法的な命令であると思いさえすれば、それがどんな命令であっても、良心の呵責に苦しむこともなく、非常に多くの人が、言われたとおりに行動をしてしまう……。
 私たちの研究の結果から得られる教訓は、次のようなものである。
 ごく普通に仕事をしている、ごく普通の人間が、特に他人に対して敵意を持っているわけでもないのに、破壊的な行為をする人たちの手先になってしまうことがあり得るのである。

 ──スタンレー・ミルグラム、1974年

 この映像は時折テレビで紹介されている。サクラである「学習者」は事前に心臓が悪い旨を伝え、電気ショックを与えられるたびに大声で叫ぶが、殆どの被験者は指示通りに電圧を上げ、更に驚くべきことにクスッと笑っていた。

 服従のメカニズムは日常生活のそこここに存在する。例えば会社内のルールは、世間の常識とは全くの別物だ。営業マンに人権はない。給料の額を天秤にかけて、服従レベルとのバランスを保っている。そう。ダブルスタンダード。

 人間は所属するコミュニティの数だけルールを有している。組織という組織は、序列という秩序によって構成されている。例えば泥棒の集団があったとしよう。このコミュニティにおいては「盗む」ことが「正しい」ことになる。組織においては、上司に額づくことが正しい価値となるのだ。「善」が不変であるのに対して、「正義」はコロコロ変わるってわけだ。

 淫祠邪教やマルチ商法の類いは決してなくなることはない。そこに集うのは「特殊なルール」に従っているだけの善良な人々である。相対的な批判力を欠いた人が存在する限り、権威という怪物は無理難題を吹っかける。結局、権威を支えているのは沈黙であることが明らかだ。



リビア軍に捕らえられた反乱軍の男の証言
消費を強制される社会/『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
今日、ルワンダの悲劇から20年/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

2009-02-05

光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン


『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング

 ・光は年をとらない

『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック
『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック

 ブライアン・グリーンは超ひも理論の権威。私と同い年である。後半は小難しくなるものの、これだけの読み物にしたお手前が見事。自分達の発見に関しても、実に控え目な表現となっている。

 物体が私たちにたいして動くときに時間の進み方が遅くなるのは、時間に沿った運動の一部が空間のなかでの運動に振り向けられるからだということがわかる。つまり、物体が空間のなかを進む速さは、時間に沿った運動がどれだけ他に振り向けられるかということの反映にすぎない。
 また、物体の空間的速度に限界があるという事実が、この枠組みですぐに説明がつくこともわかる。時間に沿った物体の運動がすべて、空間のなかでの運動に振り向けられれば、物体が空間のなかを進む速さは限界に達する。このとき、時間に沿った光の速さでの運動がすべて、空間のなかを光の速さでおこなう運動に振り向けられる。時間に沿った物体の運動がすべて使い果たされてしまったときのこの速さが、空間のなかを動く速さの限界だ。どんな物体も、これ以上速くは動けない。これは、先の車を南北方向に運転するのにたとえられる。ちょうど、この場合、東西の次元に動くための速さが車に残らないの(と)同じように、光の速さで空間を進むものには、時間に沿って動くための速さが残らない。したがって、光は年をとらない。ビッグバンで生じた光子は、今日でも当時と同じ年齢なのだ。光の速さでは時間は経過しないのである。

【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン:林一〈はやし・はじめ〉、林大〈はやし・まさる〉訳(草思社、2001年)】

 相対性理論がすっきりと整理されている。光速度に達すると時間は止まる。だがそれは観測者である我々から見た話である。時間が経過する実感は全く変わらない。ここが面白いところ。

 科学の世界は想像力を駆使して宇宙の秘密を解き明かす領域にまで踏み込んだ。とすれば宗教は、科学的姿勢・実験的な態度で思想を再構築する必要が求められるだろう。

 浅川の緩やかな流れが反射する光や、城山湖が照らす光の波を見ていると、不思議なほど亡くなった友のことが思い出される。死者は亡くなった時点で光と化し、いつも変わらぬ姿でメッセージを送っていると思えてならない。



神は細部に宿り、宇宙はミクロに存在する/『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』佐藤勝彦監修
相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典