・『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄
・健康と病気はヒトの環境適応の尺度
・感染症とカースト制度
・『感染症クライシス』洋泉社MOOK
・『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
・『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝
・『感染症の世界史』石弘之
・『人類史のなかの定住革命』西田正規
・『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
農耕の開始は、それまでの社会のあり方を根本から変えた。
第一に農耕は、単位面積あたりの収穫量増大を通して、土地の人口支持力を高めた。第二に、定住という新たな生活様式を生み出した。定住は、出産間隔の短縮を通して、さらなる人口増加に寄与した。狩猟採集社会における出産間隔が、平均4-5年であったのに対し、農耕定住社会における出産間隔は、平均2年と半減した。移動の必要がなくなり、育児に労働力を割けるようになったことが大きい。ちなみに、樹上を主たる生活場所とする他の霊長類を見てみれば、チンパンジーの平均出産間隔は約5年、オランウータンのそれは約7年となっている。
【『感染症と文明 共生への道』山本太郎(岩波新書、2011年)以下同】
著者は医師である。俳優上がりのそそっかしい政治家と同姓同名だが誤解なきよう。
「新型コロナウイルスに負けない 私たちは人間だ」と書かれた幟(のぼり)が天神橋筋商店街に掲げられたという(産経フォト 2020-04-30)。進化論的には適応するかしないかだけのことだ。感染症や自然災害は「戦って勝てる相手」ではない。どうも日本人の精神性は「進め一億火の玉だ」から変わっていないようだ。
「農耕定住社会」という正確な記述が目を惹く。出産間隔が短くなったことが人口を増加させた事実は覚えておく必要がある。
健康と病気は、ヒトの環境適応の尺度とみなすことができる。ここでいう環境とは、気候や植生といった生物学的環境のみでなく、社会文化的環境を含む広義の環境をいう。この考えは、次のリーバンの定義と重なる。
「健康と病気は、生物学的、文化的資源をもつ人間の集団が、生存に際し、環境にいかに適応したかという有効性の尺度である」
こうした考えの下では、病気とは、ヒトが周囲の環境にいまだ適応できていない状況を指すことになる。
一方、環境は常に変化するものである。このことは、環境への適応には、適応する側にも不断の変化が必要になることを意味する。こうした関係は、小説『鏡の国のアリス』のなかで、「赤の女王」が発した言葉を想起させる。「ほら、ね。同じ場所にいあるには、ありったけの力でもって走り続けなくちゃいけないんだよ」
環境が変化すれば、一時的な不適応が起こる。変化の程度が大きいほど、あるいは変化の速度が速いほど、不適応の幅も大きくなる。農耕の開始は、人類にとって環境を一変させるほどの出来事であった。長い時間のなかで、比較的良好な健康状態を維持していた先史人類は、農耕・定住を開始した結果、変化への適応対処に苦慮することになり、その苦慮は現在も続いている、ということなのかもしれない。
「社会文化的環境」から精神疾患が生まれる。ストレス理論の開祖はウォルター・B・キャノン(1914年)とハンス・セリエ(1936年)の二人である(『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ)。PTSD(心的外傷後ストレス障害)が広く認知されるようになったのはベトナム戦争(1955-1975年)後のことだ。近代~大衆消費社会~高度情報化社会は「心の時代」と括ることができよう。
農耕は自然を無理矢理ヒトの側に適応させる営みである。牧畜・魚介類の養殖も同様だ。ここでもまた病気を防ぐために様々な薬品が用いられる。人間の意図によって自然にかけられる負荷が自然にとってはストレスと化すのが当然だ。ブロイラーの実態を知ればケンタッキー・フライドチキンでニコニコできなくなる。
・飼育密度が高すぎる日本の鶏肉(ブロイラー)
「赤の女王」は遺伝子本でもよく引用されている。マット・リドレーに『赤の女王 性とヒトの進化』という作品がある。