2009-12-22

主人公は傷ついたホームレス女性/『喪失』カーリン・アルヴテーゲン


『罪』カーリン・アルヴテーゲン

 ・主人公は傷ついたホームレス女性

『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン

ミステリ&SF

 今、北欧ミステリが熱い。世界中で翻訳されているようだ。カーリン・アルヴテーゲンはスウェーデンの作家で1965年生まれ。アストリッド・リンドグレーンが大叔母に当たるそうだ。なるほど、と頷けるところが大。ストーリーテラーとしての腕前もさることながら、独特の薫りが漂う文章に魅了される。

 主人公はシビラという32歳のホームレス女性である。人生の疲労を隠し切れないものの、彼女はまだ美しい顔立ちを保っていた。ホテルのラウンジでそれとなく金持ちの男を物色し、相手が食事に誘うよう演出を施し、「財布がなくなった」と言って相手にホテル代を立て替えさせる。そんな手口で彼女は生活していた。ホテル代を払ってくれた男が何者かに惨殺される。警察の姿を見るや否やシビラは逃げ出す。寸借詐欺紛いの行為が露見したと錯覚したのだ。新聞はシビラを容疑者として報道し続けた。

 あの味が口中に広がった。それは彼女の頭が拒絶したものを受け入れてきた腹の一部から、じわっと滲み出てくる、馴染みの味だった。
 人々が彼女を支配しようとしている。
 またもや。
 過去に味わったことのある、恐ろしい息詰まるような感じがよみがえってくる。それはどこかの隅に隠れてじっと待機していたのだ。それがいままた暴れ出そうとしている。すべてが戻ってくる。彼女が必死で忘れようとしてきたことが。彼女が忘れることに成功したと思っていたすべてのことが。

【『喪失』カーリン・アルヴテーゲン:柳沢由美子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(小学館文庫、2005年)】

 で、シビラがホームレスという立場で犯罪解決に挑むというのが大筋。そして彼女がホームレスとなるまでの人生がカットバックで挿入されている。シビラは資産家の娘で、幼い頃から心理的虐待を受けていた。

 原題には「失踪」という意味もあるようだが、訳者の柳沢はアルヴテーゲンに取材をした上で邦題を「喪失」にしたという。確かにこの方がいい。シビラは容疑者となることで真実を喪失し、虐待されたことで幼少期を喪失し、ホームレスとなることで自分自身を喪失していた。

 真犯人を見つけ出すことは、シビラにとって過去の自分を取り戻す行為でもあった。彼女は一人の少年と出会う。この少年がたった一人の味方となる。やや都合のいい展開とはなっているが、それでも最後のどんでん返しは手に汗握る。

 家族と社会の残酷さを炙(あぶ)り出した会心作だ。

2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五蘊仮和合(ごうんけわごう)がよく理解できる。

〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。

 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。

 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。

 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。

 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。

 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。

 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。

 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。

 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。

 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。





あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

2009-11-29

欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 いかなるレベルでも、ほしい、なりたい、獲得したいという欲望があるかぎり、そこには必然的に心配や悲しみや恐怖があるのです。豊かになりたい、あれやこれやになりたいという野心は、野心自体の不潔さや腐敗性が見えるときにだけ、なくなります。どんな形の権勢欲も……首相、裁判官、宗教家、導師(グル)としての権勢欲も根本的に悪いとわかったとたんに、もはや権勢欲は持ちません。しかし、私たちには野心が腐敗的なこと、権勢欲が悪いことが見えません。反対に、善いことのために権力を使おう、と言うのです。これはまったくのたわごとです。まちがった手段は正しい目的のためには決して使えません。手段が悪ければ、目的もまた悪いでしょう。善は悪の反対ではないのです。悪いものがまったくなくなったときにだけ、善は生じてくるのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 欲望が満たされないと不安に駆られ、欲望が満たされると今度は失うことを恐れる。つまり欲望の充足を我々は部分的な幸福と思い込んでいるが、完全な錯覚だということ。それが証拠に、満たされた欲望によって獲得された幸福感は長く続かない。いわゆる相対的幸福(他人と比較して得られる幸福)は相対的である以上、上には上がいるわけだから絶対に幸福になれないという矛盾をはらんでいる。村一番の美人が日本一の美人にかなわないのと同じ話だ。しかも欲望というのは釣られて生じる性質があり、メディアは大衆消費社会の扇動に余念がない。鮮やかな色彩と刺激的な音楽や効果音でもって知覚できない領域に揺さぶりをかける。サブリミナル情報にさらされた我々は、必要でもない商品に向かって夢遊病者のようにさまよう。「あると便利」な品物が、「ないと不便」に変換される。所有する人が増えると今度は「ないと恥ずかしい」レベルにまで変化する。世の中に豊富な商品が出回れば出回るほど、我々は何となく居心地の悪さを感じている。物が空間を浸蝕しているためだ。たとえこの世のすべてを手に入れたとしても、我々の欲望は月を欲しがることだろう。ブッダは少欲知足(欲を少なくして足るを知る)と説いた。欲望を否定するのではなく、欲望から離れる生き方を勧めた。



・手段と目的
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2009-11-18

自由の問題 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 クリシュナムルティは前回の部分で、「私達は安心したいがゆえに地位を欲し、肩書きによって自信や自尊心を手中にし、権力と権威を目指して生きている」。しかしながら、「何かに【なろう】という要求がある限り、自由はどこにもない」と語った。

 そして、「何かに【なろう】」――つまり、「理想」「模範」「目標」だ――としている姿勢を「模倣」であると鋭く糾弾する――

 そこで、教育の機能とは、君たちが子供のときから誰の模倣もせずに、いつのときにも君自身でいるように助けることなのです。これはたいへんに行いがたいことです。醜くても、美しくても、妬んでいても、嫉妬していても、いつもありのままの君でいて、それを理解する。ありのままでいることはとても困難です。なぜなら君は、ありのままは卑劣だし、ありのままを高尚なものに変えられさえしたらなんとすばらしいだろう、と考えるからです。しかし、そのようなことには決してなりません。ところが、実際のありのままを見つめて、理解するなら、まさにその理解の中に変革があるのです。それで、自由とは何か違ったものになろうとするところにも、何であろうとたまたましたくなったことをするところにも、伝統や親や導師(グル)の権威に従うところにもなく、ありのままの自分を刻々と理解するところにあるのです。
 君たちは、このための教育を受けていないでしょう。君たちの教育は、何かになるようにと励ましますが、それでは君自身を理解することにはなりません。君の「自己」はとても複雑なものなのです。それは単に学校に行ったり、けんかをしたり、ゲームをしたり、恐れている存在というだけではなく、隠れており明らかではないものでもあるのです。それは、君の考えるすべての思考だけではなく、他の人たちや新聞や指導者から心に入ったすべてのことからできています。そして、えらい人になりたがらないとき、模倣をしないとき、従わないときにだけ、そのすべてを理解することができるのです。それは本当は、何かになろうとする伝統のすべてに対して反逆しているとき、ということです。それが唯一の真の革命であり、とてつもない自由に通じています。この自由を涵養することが教育の本当の機能です。
 親や教師、そして君自身の欲望も、君が幸せで安全であるために何らかのものと一体化してほしいのです。しかし、智慧を持つには、これらの君を虜にし、潰してしまうすべての影響力は打ち破らなくてはならないでしょう。
 新しい世界の希望は、言葉だけではなくて実際に、何が偽りなのかを見て、それに対して反逆しはじめる君たちにあるのです。それで、正しい教育を求めなくてはならないわけです。というのは、伝統に基づいたり、ある思想家や理想家の体質にしたがって形作られたりしていない新しい世界を創造できるのは、自由の中で成長するときだけですから。しかし、君が単にえらい人になろうとしていたり、高尚なお手本を模倣しているかぎり、自由はありえません。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 ありのままの自分であれ、一切の伝統と権威に反逆せよ――まるでブッダ、まるで日蓮そのものである。違いを見つけることの方が難しそうだ。カーストという差別制度が社会に張り巡らされた後にブッダはインドに生まれ、武力に物を言わせる武家政治が台頭し、天変や地震が相次ぐ鎌倉時代に日蓮は登場した。双方ともそれまでの常識を徹底的にあげつらい、批判に批判を加え、人間という人間に語り抜いた。民の呻吟(しんぎん)に耳を傾け、苦悶をひたと見つめる中から真実の思想は生まれ出る。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)は「過去世(かこぜ)の業(ごう)」を持ち出して「今世の差別」を正当化した。そして鎌倉時代の念仏は「この世で幸せになることは決してできないが、死んだ後に西方十万億の彼方の極楽浄土へ往生(おうじょう)できる」と説いた。いずれも、我々が知覚・思考し得ない「前世」や「あの世」の論理をもって、人々を「現状維持」の方向へ誘導する邪論ともいうべき代物だ。こうした思想が結果的に権力を容認し、擁護し、強化していることを見逃してはならない。

 印刷技術、通信、マスメディアが発達した現代社会において、「条件づけ」はますます容易になっている。隠された広告戦略が大衆の欲望に火を点ける。そして、否応(いやおう)なく情報の受け手という立場に貶(おとし)められた視聴者は、テレビの前でどんどん卑小な存在と化してゆく。我々は毒性が高いことを知りながらも、五感が刺激されるために依存性から抜け出すことがかなわなくなっている。まるで、LSDや覚醒剤のようだ。

「まだ殺されたわけではないから何とかなる」――甘いね。既に「生ける屍(しかばね)」だよ。あるいは、とっくに何度も死んでいる可能性すらある。

 偽りを見抜け。さもなければ、自分自身が偽りの存在となってしまうからだ。まなじりが裂けるほど目を見開いて、闇の向こう側にあるものをしかと捉えよとクリシュナムルティは教えている。

(※「自由の問題」は今回にて終了)

恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ




生存適合OS/『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子

2009-11-17

自由の問題 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

「深い洞察」とは、自分の思考・精神・生の過程を束縛している“鎖”を自覚することだとクリシュナムルティは語った。深海の如き深さに達した時、精神は波立つことがなくなる。すると、鏡に映し出されたように「己の歪(ゆが)んだ姿」が自覚されるのだ。そこに「気づくか」「気づかないか」の違いが人の運命を分かつ。

「君たちは恐れている」ともクリシュナムルティは語った。我々が人生で目指しているのは成功であり、地位であり、人々からの称賛である。「周囲の人々からよく思われたい」「願わくは羨望の的となりたい」と日々涙ぐましい努力を重ねている。全員が同じゴールを目指しているため、好むと好まざるとにかかわらず順位が定まる。少しばかり運のよかった者は「勝ち組」と呼ばれているが、彼等は数多く存在する「負け組」の労働力から搾取しているだけに過ぎない。資本主義社会の競争原理とは、「資本の奪い合い」のことなのだから。

 伝統的な価値観は人々を、なかんずく子供達を画一化する。あたかも、スーパーの商品棚に陳列されている商品のように。少しでも傷があれば不良品として棚から外され、捨てられる運命にある。だからこそ、我々は社会という名の棚に必死でしがみつく。外されてしまえば、親兄弟からも白い目で見られる。このようにして我々は「世間の目」にどう映るかという価値観しか持てなくなったのだ。

 安心を求めるのは、「恐怖」と「不安」の裏返しである。居心地のいいソファに座っていても、心が休まることは決してない。社会、集団、コミュニティから受ける圧力によって、心は常にささくれ立っている。そして、傷つき、万力のような力でもって変形させられるのだ。この「変形」に従わせることが、実は教育の目的となっている。

 私たちのほとんどは、安心したいのではないですか。なんてすばらしい人たちだ、なんて美しく見えるんだ、なんととてつもない智慧があるんだろう、と言われたいのではないですか。そうでなければ、名前の後に肩書きをつけたりしないでしょう。そのようなものはすべて、私たちに自信や自尊心を与えてくれます。私たちはみんな有名人になりたいのです。そして、何かに【なりたく】なったとたんに、もはや自由ではないのです。
 ここを見てください。それが自由の問題を理解する本当の手掛かりだからです。政治家、権力、地位、権威というこの世界でも、徳高く、高尚に、聖人らしくなろうと切望するいわゆる精神世界でも、えらい人になりたくなったとたんに、もはや自由ではないのです。しかし、これらすべてのことの愚かしさを見て、そのために心が無垢であり、えらい人になりたいという欲望によって動かない人――そのような人は自由です。この単純さが理解できるなら、そのとてつもない美しさと深みも見えるでしょう。
 というのも、試験はその目的のために、君に地位を与え、えらい人にするためにあるからです。肩書きと地位と知識は何かになることを励まします。君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。あるいは君たちは何かの英雄の手本を模倣したり、大師や聖人のようになろうとします。それで、君たちは決して自由ではないのです。大師や聖人や教師や親戚の手本に倣(なら)うにしても、特定の伝統を守るにしても、それはすべて君たちのほうの、何かに【なろう】という要求を意味しています。そして、自由があるのは、この事実を本当に理解するときだけなのです。(※強調点の箇所を【 】で括った)

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 我々が思い描いている自由は、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)に支配された世界だった。静かに振り返ってみよう。どのような綺麗事を吐いたところで、我々が望む自由は間違いなく欲得づくで好き勝手なことができる立場ではないのか? つまり、「欲望を発散する自由」だったってわけだよ。どうりで、醜さと底の浅さが蔓延しているわけだ。

 真の自由とは「状況」や「環境」を意味するものではない。「魂の自由」のみが真の自由であろう。自由な人は獄につながれていても尚自由である。ネルソン・マンデラは27年間に及ぶ獄中生活を経て自由になったわけではない。彼の精神は牢獄の中でも自由であったはずだ。魂の牢獄につながれていたのは、塀の外側にいる南アフリカ国民であった。

2009-11-16

自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 私にとって「運命の一冊」となった。それまでに3冊読んできたが、本書から受けた衝撃とは比べるべくもない。心の奥からせり上がってくる何かがある。そして、どうしようもない勢いで奔流の如くほとばしる何かがある。やがて渦を巻き、上下に振り回され、螺旋(らせん)状に精神が拡散されるのだ。

 深い感動を及ぼすのは、その思想ではない。言葉でもない。それは、クリシュナムルティの「一念」としか言いようがないものだ。

 訳者の解説によれば、本書での質疑応答はいつどこで行われたものか明記されていないが、1950年代末から1960年代初めのものと推測され、その内容からインドのラジガートにあるクリシュナムルティ・スクールで行われた可能性が高いとのこと。27のテーマでまずクリシュナムルティが短い講話(本文ではいずれも4ページ前後となっている)をし、その後で子供達からの質問を受けている。

 次に紹介するのは「自由の問題」というテーマの講話であるが、少々長いので3回に分けて掲載する。クリシュナムルティ思想のエッセンスが凝縮している――

 君たちと自由の問題について話しあいたいと思います。これはとても複雑な問題なので、深い研究と理解が必要です。自由については信教の自由や自分のしたいことをする自由について、多くの話を聞くでしょう。これらについて学者は多くの書物を書いています。しかし、私たちはとても単純、率直にこの問題に迫れるし、たぶんそれによって本当の解決に到るだろうと思うのです。
 日が沈み、恥ずかしそうな新月がちょうど木立に掛かる頃、君たちは立ち止まり、西のすばらしい夕焼けを観察したことがあるのでしょうか。その時刻にはしばしば、河はとても穏やかですし、その国には橋や橋を渡る列車、優しい月、まもなく暗くなって星と、あらゆるものが河面に映っています。まったく美しいのです。そして、美しいものを眺め、観察し、注意のすべてを向けるには、心は心配事から自由でなくてはならないでしょう。問題や悩みや思考に囚われていてはなりません。本当に観察できるのは、心がとても静かなときだけです。そのとき、心はとてつもない美しさに敏感であるからです。そして、自由の問題への手掛かりは、たぶんここにあるでしょう。
 そこで、自由とはどういうことなのでしょう。自由とは、たまたま自分に合ったことをしたり、好きなところに行ったり、何であろうと好きなように考えるということなのでしょうか。このようなことはどちらにしてもするでしょう。単に自立していさえすれば、自由ということになるのでしょうか。世界の多くの人々は自立はしていますが、ほとんどが自由ではありません。自由とは大いなる智慧を意味しているでしょう。自由であるとは智慧があることなのですが、自由になりたいと願うだけでは智慧は生じません。それは、環境のすべて、絶えず自分に迫りくる社会、宗教、親と伝統の影響力を理解しはじめるときにだけ、生じてきます。しかし、さまざまな伝統の影響力――これらすべてを理解して、そこから自由になるには、深い洞察が必要です。しかし、君たちは内的に怯えているために、たいがいはそれらに屈してしまいます。人生で良い地位が得られるのか、と恐れています。宗教家が何と言うだろうかと恐れています。伝統に従っているのか、正しいことをしているのかと恐れています。しかし、自由とは本当は、恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 自信に満ちた言葉から始まり、あっと言う間に深い領域に辿り着いている。クリシュナムルティは自分の心の動きを観察することで、一切の答えは見つかるとしている。この他にも「敏感」「智慧」「愛」「条件づけ」などのキーワードがあるが、根本は「観察」「洞察」だ。それは明鏡止水の境地から為される。

「自由の問題への手掛かり」として、「心配事からの自由」「問題からの自由」「悩みからの自由」を説いている。いずれも「執着」している精神状態を指している。つまり、何かに囚(とら)われている心の様相といえる。「気になる」というのがその人の生命の境涯を示している。

 それにしても、何と美しい情景だろう。これこそクリシュナムルティの「内なる世界」なのだ。美しい何かは、美しい心にしか映らない。外なる美と内なる美との感応が、さざ波のように伝わってくる。

 大衆消費社会は幸福を「物の中」へ追いやってしまった。幸不幸の違いは、持てる者と持たざる者の違いでしかなくなってしまった。そして、金で買える幸福はいつだってはかないものだ。例えば新車を購入したとしよう。あなたは幸福だ。さぞかし幸福であろう。ところがその新車で死亡事故を起こしたらどうなるか? 幸福は不幸へと呆気(あっけ)なく反転する。むしろ、新車を購入したこと自体が不幸であったようにさえ思えてくる。

 人々が飽くことなく競争する社会では、成功することが幸福の要件となる。すわわち「地位」だ。地位にはお金も名誉も付いている。学校教育の目的は「成功者」を輩出することだ。だから、小学校・中学校はいかに名門校に生徒を送り込んだかを競い、高校はといえば東大を始めとする一流大学に何人の合格者を出したかを争っているのだ。

 本当に確固たる地位を築けば幸せなのか? そんなことはない。地位があっても病気になればアウト。地位があっても家庭不和とかね。地位があるから強請(ゆす)られる場合もあるだろうし、地位があるために殺されるケースまである。

 それでも尚我々は地位の獲得に余念がない。なぜなら、それ以外の価値観を知らないからだ。

「安心への欲求」は恐怖の裏返しである。恐怖を感じればこそ安心したいと願う。今この瞬間、心に安心を抱いている人は多分何も望まないはずだ。そのような人は自分のことよりも、他人のために何ができるかを考えていることだろう。

 成功を欲するのは、我々が伝統的な価値観に「条件づけ」されている証拠に他ならない。つまり、幸不幸の尺度すら自由に持てなくなってしまっているということだ。

 今日はここまで。疲労で頭が回らないが、クリシュナムルティを紹介したいあまり意を決してキーを叩いた次第である。読みにくい部分はご容赦願いたい。



宗教とは何か?
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ

2009-11-08

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二


『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 ・人間に自由意思はない

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』妹尾武治
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二


 脳科学の最新トピックを紹介する軽めの科学エッセイ。といっても、軽いのは文体であって内容はヘビー級だ。恐るべきスピードで進展する科学の世界は刺激に満ちていて昂奮させられる。

 では早速本題に入ろう――

 科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。

【『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(祥伝社、2006年/新潮文庫、2010年)以下同】

 マジっすか? ってこたあ、人間はただ反応しているだけなんスか? 池谷さんよ、証拠を出して下さいよ、証拠を!

 ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。神経細胞も全部で数万個しかありません。これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。この神経回路をしらみ潰(つぶ)しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。
 実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。

 神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。
 神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。
 そして、わかったことはこうだったのです。細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。実にそれだけのことだったのです。〈自由意思〉、〈選択〉をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。
 私たちの高度な〈選択〉もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。

 エ? ヒルと人間を一緒にするんですか? 確かに他人の生き血を啜(すす)っているような連中はいる。ヌラァーっとした性格の男も存在する。やっぱりヒルと遜色がないのか? ないね。違うとすれば記憶の量だけだろう。

 文化、価値観、善悪、損得、好き嫌い、欲望、願望、希望、理想、そして時間の概念――これらは全て記憶に依存しているのだ。決断とは、記憶の中から瞬間的に整合性を導き出す瞬発力を意味する。実は足し算引き算程度の関数しか働いていないように感じる。

 これがだ、脳内の電気信号による「ゆらぎ」に過ぎないとすれば、我々の人生――つまり選択の積み重ね――ってえのあ、風まかせということになる。「愛は風まかせ」なのは知っていたが、よもや脳まで風まかせだったとは……。

 でも、よく考えてみると自然界の一切がゆらめいている。光と風、雲や波、そして川……。何も気体と液体に限ったことではない。固体だって時間とともに風化するのだ。長大な時間軸から見ればやはり流動的なのだ。フーム、諸行無常か。そして万物は流転する。

 結構ショッキングな事実ではあるが、「なあんだ、ゆらぎだったのね」と安心するような気持ちにもなる。決断には責任が伴うが、ゆらぎだと思えば何度でもやり直しができそうな気になってくる(笑)。昨日のゆらぎで失敗したなら、今日反対方向に揺さぶればいいだけの話だ。

 ただ、こんな話を知ってしまうと選挙結果なんか、まるで信用できなくなる。日本人の脳がたまたま民主党にゆらいでしまったということなのだろう。

 どうやら、条件反射の能力を磨く必要がありそうだ。



自由意志は解釈にすぎない
瞑想の世界を見ることができる情報機器/『ひとりっ子』グレッグ・イーガン
意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2009-10-27

理性の開花が人間を神に近づけた/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志


 ・民主的な議員選出法とは?
 ・統治形態は王政、貴族政、民主政
 ・現在の議会制民主主義の実態は貴族政
 ・真の民主政とは
 ・理性の開花が人間を神に近づけた
 ・選挙と民主政
 ・貴族政=ミシュランガイド、民主政=ザガットサーベイ

『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹

 西洋史における中世は魔女狩り(15-17世紀/及び異端審問、12世紀-)という狂気で終焉を告げる。近代への扉を開けたのは、イタリア・ルネサンス(14-16世紀)と宗教改革(16世紀)であった。ただし注意が必要で、魔女狩りに関してはルター派の方が熱を上げていた。

 教会の権威が肥大化を極め、神の名の下で罪なき人々が火あぶりにされる中で(魔女は生木でゆっくりと焼かれた/『魔女狩り』森島恒雄)、科学・数学の大輪の花が次々と咲いた。まさに百花繚乱といったところ。この頃、グーテンベルクが活版技術を完成(1445年頃)させたが、印刷は宗教書に限られていた。

 つまり中世まで、学問・芸術は教会の管理下に置かれていたということだ。このため、学問をするためには教会関係者になる必要があった。中世の科学者のほぼ全員が神学を収めているのはこうした時代背景による。ただし、当時の科学者の殆どは魔女の存在を信じて疑わなかった。人間は時代の支配から免れない、ということだ。

 ただし、17世紀において、世界に冠する科学的な認識は、キリスト教的な枠組の外へ出ることはなかった。そこでは、神が支配する世界における人間の位置づけが変わっただけである。すなわち、神のみが全てを知るのではなく、人間もまた、理性によって、世界に関する知識を持ち得ると考えられるようになったのである。しかし、世界を知り得るようになっただけで、世界を創り、それを支配するのは神であるという前提は変わらなかった。実際、万有引力の法則で有名なニュートンにしても、科学者であったと同時に、熱心な聖書研究者でもあった。当時、世界を知るためには、神の教えを知らねばならないと考えられていたからである。

【『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志〈やくしいん・ひとし〉(PHP研究所、2008年)】

 神は全知全能だ。そこには人間の理想が込められていた。古代の人々はきっと「無知の知」を自覚していたのだろう。知の発見と遭遇するたびに、人間は世界の広さを知り、その調和に驚くあまり「創造者」を思い描いたとしても不思議ではない。

 フン、笑わせるじゃないか。全知全能だと? じゃあ私が昨日の夜食べたものを当ててみせろよ。アン? 数年前に買ったばかりの自転車で私が激しく転倒した場所を言ってみろよ。大体だな、あんたが本当に存在するなら、一度でも下界に降臨して姿を見せたらどうなんだ?

 西洋で総合的な学問が実ったのは他でもない。この世界が「神によって創られたこと」を証明するためだった。中世に至るまで教会はアリストテレスにしがみ続けた(チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』)。

 理性の開花が人間を神に近づけた。ゲーデルの不完全性定理は、神の姿を蜃気楼のように淡いものとしてしまった。しかしながら、西洋において神の影が薄くなった形跡はない。結局、理性と感情とは別物なのだ。

 アメリカ大統領は就任する際、聖書に手を置いて宣誓する。完全な政教一致だ。キリスト教が世界で幅を利かせている間は、十字軍や魔女狩りがなくなることはない。



魔女狩りの環境要因/『魔女狩り』森島恒雄

2009-10-23

日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信


 ・日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」

『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』菊池英博
『騙されないための世界経済入門』中原圭介
『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

 これは勉強になった。しかも、わかりやすい。ネット情報が多いのが気になった程度だ。著作における引用文献は、やはり書籍からにした方が紙価を高からしめる。

 不況対策は大雑把にいえば三つしかない。公共事業、利下げ、そしてバラマキである。利下げは資金需要が高ければ効果はあるものの、銀行が貸し出し基準を緩めなければ意味がない。公共事業とバラマキは何をどうやったところで批判を浴びる。結局のところ、糞づまりだ。進むも地獄、退くも地獄、止まっていても地獄……。

 大体、国家予算が富の再分配を目的としていれば二極化が進むはずがない。つまり、徴収・簒奪(さんだつ)された税金は勝ち組に流れていることになる。

「国債の30兆円枠」は小泉政権が掲げた公約であった。2002年度の予算が既にオーバーした際、「首相としては、もっと大きなことを考えなければならない。大きな問題を処理するにはこの程度の約束を守れなかったのは大したことではない」と開き直って見せた姿は今でも記憶に新しい。

 今尚、国債の30兆円枠に固執する与党の政治家は多いが、こんな連中が言うことを鵜呑みにしてはならない。そもそも、これは一般会計の話である。30兆円枠などと健全な姿勢を見せながら、もっと不透明な特別会計を不問に付そうとする目的があるに違いない。

 余談が過ぎた。本書が明かしているのは、マスコミの経済記事の欺瞞ぶりと、国家と会社は違うんだよ、ってな話だ。

 まず、日本の借金について多くの人々は甚だしい誤解をしている。

財部誠一:日本の借金時計

 初めて見た時は私も驚嘆した。特に「あなたの家庭の負債額」である。しかしながら、これは完全な大嘘。まず、日本の借金=私の負債額ではない。ちょっと考えてみればわかることだ。国家は誰から借金しているのか? 国民である。つまり、借金時計の正しい表示は「あなたの家庭の貸付額」となるのだ。そして二つ目の嘘は、国家の資産がここには計上されていない。部分的な情報をもって危機感を煽る典型的な事例といってよい。実は「日本は17年連続世界最大の債権国」なのだよ。

 そして、マクロ経済から見た場合に国の借金はいかなる意味を持つのか? 「民間企業の黒字」に決まっている。こんな基本的な事実すらマスコミは報じていない。世界経済を支えているのはアメリカの貿易赤字である。アメリカが黒字になれば世界が赤字となり、国家が黒字になれば民間が赤字となる。

 政府の借金(負債)は確かに大きい。しかし、政府の資産も巨額である。
 そして、借金というものを考えるときには、「誰かの借金は必ず誰かの資産」という原理原則を忘れてはならない。政府の借金のほとんどは民間の資産である。

【『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信〈ひろみや・たかのぶ〉(彩図社、2009年)以下同】

 世界全体で「連結」してしまえば、全ての資産と全ての負債は一致するはずである。つまり純資産(=資産から負債を差引いた残額)は全世界で合計すればゼロとなる。

 一方、日本経済全体を俯瞰するとどうか――

 非金融法人企業の金融純負債はピーク時には700兆円近くに達しているのだが、こんなことになってもマスコミは「普通の家庭に例えれば破産寸前」などと騒ぎ立てたりすることはない。
 最新(2008年3月)の政府の金融純負債はいまだ450兆円程度である。しかも、民間の純資産の伸びが政府の純負債の伸びを上回っているし、国全体で連結すれば世界最大かつ過去最高の対外純資産250兆円(資金循環統計では282兆円)があるのだ。
 本来ならマスコミ各社は「普通の家庭に例えれば、日本はビル・ゲイツやウォーレン・バフェット並みの億万長者」とでもいって騒ぎ立てるべきなのである。

 では何が問題なのか――

 問題は国の借金が大きいことではない。
 GDPが伸びないこと、資産効率が落ちていることが問題なのだ。

 サブプライムローン問題が発覚するまで、世界の先進国はバブルに沸いていた。その中にあって日本は「空白の10年」を経て、やっとこれからという時期だった。これほどの貧乏くじはない。

 世界各国を見ても借金は一貫して増えている。日本だけが特別な財務状況となっているわけではない。では、どうすればGDPを伸ばすことができるのか――

 ちなみに、詳しい計算過程は〔図表35〕に示すとおりで、数学的には「無限等比級数の和」の公式から求められる。
 つまり、政府が100万円支出を増やせば、GDPが233万円増えるということになるのだ。このような効果を「乗数効果」という。
 政府の支出は、それ以上のGDPを生み出す。政府が支出を増やせば、GDPはそれ以上に増える。これが、アメリカのGDPが借金以上に伸びていることの原理である。

 これが答えである。政府支出を増やすことで、民間企業に活力を与えれば当然のごとく税収は増える。政府与党の無策ぶりを見ていると、意図的に不況を維持しているようにすら感じてしまう。

 空白の10年のツケは大きい。終身雇用がことごとく破壊され、将来不安を招いてしまった。未来に不安を抱えたままで消費が上向きになることは考えにくい。とすると、「いつでも安心して転職できる」社会基盤が求められる。

 最後にもう一つ。資本主義経済の本質は、効率ではなく無駄(=余剰)にあると私は考える。景気対策には無駄づかいが一番。

2009-10-10

世界銀行の副総裁を務めた日本人女性/『国をつくるという仕事』西水美恵子


田坂広志『なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか』

 ・世界銀行の副総裁を務めた日本人女性

『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 面白かった。国際社会が政治力学のみで動いているわけではないことがわかる。西水美恵子はサザエさんそっくりだ。性格はもとより顔つきまで似ている。ただし、この人は良家の出。これが読み始めた際の印象を悪くした。途中で一度挫けそうになったことを白状しておこう。本書のタイトルも同様で、「フン、金貸し風情が随分と大きく出たもんだ」と思わざるを得ない。

 ただ、こうした違和感は上流階級の文化に基くものであり、所詮は庶民のひがみなのだろう。鼻につく表現が時折見られるが、それは西水が育ってきた環境を形成している文化であって、私は彼女の人間性を批判するつもりはない。

 西水はイギリス人男性と結婚。夫はIMF(国際通貨基金)に勤務し、本人はプリンストン大学の助教授をしていた。

 チェネリー副総裁は、そんな不真面目な私を笑いながら、契約にひとつの条件を出した。
「一国でもいい。発展途上国の民の貧しさを、自分の目で見てくるように……」
 プリンストンの修士課程を終えて世銀で活躍していた教え子が、それならエジプトがいいと誘ってくれた。彼が率いる開発5カ年計画調査団に同行して、首都カイロへ飛んだ。
 週末のある日、ふと思いついて、カイロ郊外にある「死人の町」に足を運んだ。邸宅を模す大理石造りの霊廟がずらりと並ぶイスラムの墓地に、行きどころのない人々が住み着いた貧民街だった。
 その街の路地で、ひとりの病む幼女に出会った。ナディアという名のその子を、看護に疲れきった母親から抱きとったとたん、羽毛のような軽さにどきっとした。緊急手配をした医者は間にあわず、ナディアは、私に抱かれたまま、静かに息をひきとった。
 ナディアの病気は、下痢からくる脱水症状だった。安全な飲み水の供給と衛生教育さえしっかりしていれば、防げる下痢……。糖分と塩分を溶かすだけの誰でも簡単に作れる飲料水で、応急手当ができる脱水症状……。
 誰の神様でもいいから、ぶん殴りたかった。天を仰いで、まわりを見回した途端、ナディアを殺した化け物を見た。きらびやかな都会がそこにある。最先端をいく技術と、優秀な才能と、膨大な富が溢れる都会がある。でも私の腕には、命尽きたナディアが眠る。悪統治。民の苦しみなど気にもかけない為政者の仕業と、直感した。
 脊髄に火がついたような気がした。

【『国をつくるという仕事』西水美恵子〈にしみず・みえこ〉(英治出版、2009年)】

 ナディアの死が西水の人生を変えた。不正が罪なき人を殺す現場に遭遇した瞬間、それまでは自分のものであった人生を、彼女は貧しい人々に捧げることを決意した。

 本をどう読むかは、「人をどう見るか」、「人生をどう生きるか」といった次元に連なっている。そこに如何なる価値を見出し、反価値(マイナス価値)を見定めるか――物語を読み解く営みの本質はこの一点にある。手放しの称賛は目を曇らせる。頭ごなしの批判は目を閉じさせる。仏像が半眼(はんがん)であるのは、あの世とこの世を見つめているとされているが、結局のところは“正視眼”(せいしがん)の肝要さを示しているのだろう。

 本書は西水の経験に即して書かれており、世界銀行という存在の正当性については全く触れられていない。例えば、ブッシュ政権で国防副長官を務めたポール・ウォルフォウィッツが、その後世界銀行の総裁に就任している。彼は「米国で最も強硬なタカ派政治家」だよ。タカ派というのは、舌禍(ぜっか)でもって世論に波風を立て、センセーショナルな言動をぶちまけて世論を誘導しようと目論む。石原慎太郎のように。エゴが国家の名をまとうと、何となく説得力を持ってしまう。さしたる考えもなしで、「やっぱり、俺も日本人だからなあ」と頷いてしまう。ここが恐ろしい。

愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆

 チト、余談が過ぎた。ま、そんなわけで物足りなさを感じはするものの、西水というサザエさんは本気で仕事をした。副総裁となった彼女が接する相手は国家元首クラスの連中だ。彼等の前で常識を説くことが、どれほど勇気を要することか。だが、胸にナディアを抱く西水は、真っ直ぐな言葉を浴びせる。

 決して一筋縄ではいかない国際舞台で、一人の日本人女性が必死で貧しい人々の側に立って、与えられたポジションを最大限に利用し、奮闘した足跡が綴られている。悪しき権力者に対して、西水の筆鋒は鋭さを増す。遠慮するところが全くない。その意味で本書は、「権力の正しい使い方」を描いた作品といってよい。

 民主党政権は西水を閣僚に起用すべきだった。

 尚、余談となるが田坂広志の「解説」が薄気味悪い。まるで新興宗教の教祖みたいだ。



モンサント社が開発するターミネーター技術/『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
ソフィアバンク
ガバナンス・リーダーシップ考:西水美恵子

2009-10-04

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳


『われら』ザミャーチン
『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳

 ・現在をコントロールするものは過去をコントロールする
 ・修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく
 ・ビッグブラザーと思考警察

『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー
『AI監獄ウイグル』ジェフリー・ケイジ
ドキュメンタリー映画『プランデミック 3 ザ・グレート・アウェイクニング』〜PLANDEMIC 3: THE GREAT AWAKENING〜

必読書リスト その五

 ディストピア小説の傑作が新訳で蘇った。信じ難いほど読みやすくなっている。高橋和久が救世主に思えるほどだ。世界を読み解く上で不可欠の一書である。舞台設定を未来にすることで、権力の本質が管理・監視・暴力にあることを描き切っている。一見、戯画化しているように思われるが、むしろ細密なデフォルメというべき作品だ。

 それにしてもこんなに面白かったとは! 私は舌なめずりしながらページをめくった。権力は、それを受け容れる人々を無気力にし、自由を求める者には容赦なく暴力を振るう。暴力を振るわなければ維持できない性質が権力にはある。

 優れた小説は人間精神の深奥に迫る。そして精神の力は、肉体に加えられる暴力によって試される。アラブ小説が凄いのは、「想像力としての暴力」ではなく、「現実の暴力」に立脚しているためだ。

 もう一つの太いテーマは、「歴史と記憶」である。権力者は歴史を修正し改竄(かいざん)する。なぜなら、権力の正当性は常に過去に存在するからだ。過去は現在という一点に凝縮され、その現在は未来をも包摂している。つまり、過去と未来は現在を通してつながっているのだ。このため、過去に異なる情報が上書きされると、現在の意味が変質し、未来までもが権力者にとって都合のいいように書き換えることが可能となる――

 党は、オセアニアは過去一度としてユーラシアと同盟を結んでいないと言っている。しかし彼、ウィンストン・スミスは知っている、オセアニアはわずか4年前にはユーラシアと同盟関係にあったのだ。だが、その知識はどこに存在するというのか。彼の意識の中にだけ存在するのであって、それもじきに抹消されてしまうに違いない。そして他の誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば――すべての記録が同じ作り話を記すことになれば――その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、“過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と。それなのに、過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠の昔から真実である、というわけだ。実に単純なこと。必要なのは自分の記憶を打ち負かし、その勝利を際限(さいげん)なく続けることだ。それが〈現実コントロール〉と呼ばれているものであり、ニュースピークで言う〈二重思考〉なのだ。

【『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳(ハヤカワepi文庫、2009年/吉田健一・龍口直太郎訳、文藝春秋新社、1950年/『世界SF全集10 ハックスリイ オーウェル』村松達雄・新庄哲夫訳、早川書房、1968年新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972年)】

 恐ろしいことに記憶よりも記録が歴史を司る。そして、記録が抹消されれば過去の改竄はたやすく行われる。移ろいやすく変質しやすい記憶は、記録によって塗り替えられる。

「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」という党のスローガンはこの上なく正しい。民衆をコントロールできる権力者は、歴史をもコントロールできるのだ。

 仏教では権力者の本質を「他化自在天」(たけじざいてん)と説いた。「他を化(け)すること自在」というのだ。しかも、人界の上の天界が住処となっているから、上層で君臨している。本書に照らせば、「他」というのは「他人の記憶」までもが含まれることになる。

 二重思考(ダブルシンク)は人間の業(ごう)ともいうべき性質である。例えば理性と感情、分析と直観、意識と無意識など我々はいつでもどこでも二重性に取り憑かれている。なぜなら、人間の脳が二つ(右脳と左脳)に分かれているからだ。そう考えると、人間は元々分裂した状態にあると考えることも可能だ。

 そして権力者は人々を分断する。自他の間に懸隔をつくり出す。悪の本質はデバイド(割り→分断)にある。

 オーウェルが象徴的に描き出したビッグ・ブラザーは社会のそこここに存在する。それにしてもオーウェルはとんでもない宿題を残してくれたもんだ。

【問い】ビッグ・ブラザーのような権力者とあなたはどのように戦えるかを答えなさい。制限時間は死ぬまで。



岡田英弘
岡崎勝世
野家啓一
『死生観を問いなおす』広井良典
寿命は違っても心臓の鼓動数は同じ/『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄
将来は過去の繰り返しにすぎない/『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
人間と経済の漂白/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
忠誠心がもたらす宗教の暗い側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
新世界秩序とグローバリゼーションは単一国を目指す/『われら』ザミャーチン:川端香男里訳
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
過去の歴史を支配する者は、未来を支配することもできる/『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明
コミンテルンの物語/『幽霊人命救助隊』高野和明
『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島裕介
パーソナルデータは新しい石油である/『パーソナルデータの衝撃 一生を丸裸にされる「情報経済」が始まった』城田真琴
アルゴリズムという名の数学破壊兵器/『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール
1948年、『共産党宣言』と『一九八四年』/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

2009-09-14

「存在」という訳語/『翻訳語成立事情』柳父章


 ・明治以前、日本に「社会」は存在しなかった
 ・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」
 ・「存在」という訳語
 ・翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった

・『「ゴッド」は神か上帝か』柳父章
・『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』柳父章

 この手の本はもっと軽い内容で書いてもらいたい、というのが私からのお願いだ。簡潔な文章だと尚いい。本書は言葉の文化的背景に迫っているため、やや重厚な雰囲気が漂い、読者を選ぶ格好になってしまっている。

 こうして考えると、私たちが西欧哲学の翻訳を、「存在」のような漢字二字の表現を中心に行なってきたのには、まことにもっともなわけがあった、と言わなければならない。
 この翻訳用日本語は、確かに便利であった。が、それを十分認めたうえで、この利点の反面を見逃してはならない、と私は考えるのである。つまり、翻訳に適した漢字中心の表現は、他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日常語表現を置き去りにし、切り捨ててきた、ということである。そのために、たとえば日本の哲学は、私たちの日常に生きている意味を置き去りにし、切り捨ててきた。日常ふつうに生きている意味から、哲学などの学問を組み立ててこなかった、ということである。それは、まさしく、今から350年ほど前、ラテン語ではなくあえてフランス語で『方法序説』を書いたデカルトの試みの基本的態度と相反するのであり、さらに言えば、ソクラテス以来の西欧哲学の基本的態度と相反するのである。

【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)】

 この辺りについては、石川九楊著『二重言語国家・日本』(NHKブックス、1999年)が詳しい。

 ここで柳父章は、「やまとことばを切り捨ててきたこと」と「西洋哲学の姿勢と相反すること」の是非は述べていない。ま、後から述べているかも知れないが、私はもう覚えていないのだ(笑)。

 漢語はまず表意文字であり、部首からもイメージを引き出す。このような派生的なイメージの喚起力によって、つかみどころを失ってしまう。意味が拡散するのだ。つまり、全体像の雰囲気をつかむのには適しているが、言葉に核がないわけである。

 西洋における「存在」とは、まず第一に「神の存在」が問われたことだろう。ニーチェが「死んだ」というまでは、きっと生きていたはずである。で、いるのかいないのかわからない神の存在を固く信じることによって、自分の存在があやふやになってしまうわけだ。ここにおいて、「いないはずの神」と「存在する自分」とが反転するのだ。

 神様なんかいないよ。もし、いたとしてもほとんど留守にしている。かつてルワンダやシエラレオネにはいなかった。アフガニスタンにもいなかったし、もちろんパレスチナにもいない。神は不在だ。それとも、居留守だったとでもいうのか? あるいは長期出張、はたまた逃避行……。

 日本人にとって「存在」は自明のことだった。日本人が思い描く神は森羅万象に宿っていた。そう、アニミズム(精霊信仰)だ。つまり、「存在」するもの全てに神が宿り、神と存在とは一体化していたのだ。我々にとって「存在」とは「ただ在る」ことであって、思索の対象とはなり得ない。原始仏教においてもテーマとなっていたのは、「どう在るべきか」「いかに在るべきか」といった人生の振る舞いについてであった。

 ラテン語のアニマには「気息」という意味がある。多分、「生きる」とは「息する」が変化した語彙なのだろう。現在でも「生息」という言葉がある。

 結論――「存在」は息に現れる。今時と来たら、大きなため息や青息吐息ってのが多いね。



・虫けらみたいに殺されるパレスチナの人々/『「パレスチナが見たい」』森沢典子

2009-08-27

不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男


 ・豊かな生命力は深い矛盾から生まれる
 ・家族の目の前で首を斬り落とされる不可触民
 ・不可触民の少女になされた仕打ち
 ・ガンジーはヒンズー教徒としてカースト制度を肯定

『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ
『中国はいかにチベットを侵略したか』マイケル・ダナム

 私はタゴールの言葉を想った。「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている」――。

 で、「侮辱された人」って誰のことなんだろうね? タゴールはマハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持していた。とすると、イギリス支配下のインドにいた上流カーストあたりを意味しているのかもしれない。

 ガンディーの尊称である「マハトマ(偉大なる魂)」は、タゴールが付けたという説がある。ガンディーは確かにインド独立を勝ち取ったが、カースト制度を終生にわたって支持した。彼は偉大なる魂ではなく、“偉大なる下半身”の持ち主だろう。ガンディーは晩年、若い女性を同衾(どうきん)させることを常としていた(※自分が性欲に打ち克つことを証明するために)。

 では、ガンディーが死守しようとしたカースト制度は、不可触民に対してどのような仕打ちをしてきたのか――

「わしの姪っ子二人は、この近くの村にいます。
 上は16、下は14です。二人ともまだ嫁入り前の生娘(きむすめ)だった。
 地主のところで畑仕事をさせてもらっていました。気立てのええ働きもんでの、地主も重宝がってくれとった。
 あれらの日当は、よそより低かったのが不満での。1日、3ルピーさ。いまどきよそはどこでも4ルピーは払うとるよ。
 上の娘は負けん気だったでの、地主に半ルピー(15円)でええから、日当を増やしてもらえんかって頼んだのじゃ。
 地主はまるっきり取り合ってくれなんだ。
 それで娘は、4ルピーで他に働くところはいくらもある、というたそうな。
 その一言が、地主の癇(かん)にさわったのじゃ。
 いきなり、もっとった杖で娘をひどく殴ったら、その娘が怒って、もうあんたんところでは働かん、いうたんだじゃよ(ママ)。
 他に人がいる前じゃったのが悪かったのよ。
 地主は、生意気な小娘じゃ、いうて、手下に命じて、上の娘を素裸にむいて、木にくくりつけた。そして木の枝で散々ぶったんじゃ。
 見物人が集まっての、面白そうに笑って見ておったそうな。だれも助けてくれるもんはおらん。みんな地主を怖れておるし、不可触民の娘なぞいい慰めにしか思うておらんでの。
 地主の家の若いもんが興がって、くくりつけられとるその娘の股倉に棒を押しこんだりはじめた。周りがもっとやれとけしかけ、娘のアソコに棒をムリヤリ突っこもうとしたんだ。
 娘は厭(いや)がってあらがったよ、当たり前じゃ。嫁入り前の小娘に、そんなむごい悪戯(いたずら)をしてええもんかの。娘があんまり暴れるんでロープがゆるんで、娘の足が運悪く、その若いもんの顔に当ってしもうた。
 男は大声で“不可触民がオレの顔を足げにした”とわめきおった。
 周囲は益々面白がって、懲(こ)らしめろ、見せしめにしろ、と騒いだ」
 老農夫は、そこでつばをぐっと呑みこみ、眼を光らせた。
「そいつはあんた、家の鍛冶場(かじば)から真赤な鉄火箸を持ってきて――。
 娘の、アソコにぐいと突っこんだのじゃ。怖ろしい悲鳴を上げて娘は気を失ってしまった。下の娘も気が違うなってその場に倒れてしもったのです。
 可哀そうに、上の娘は家でも病人ですじゃ。人相もなにも変ってしもうた。一生、嫁にもいけん体にされてしもうて――。
 あんた、たったの半ルピーで、どうしてあのような目にあわされんねば ならんのです」
「カーストヒンズーたちは、わしらを慰みもんにして楽しんどるだ」
 その言葉にホールの中の顔が一斉に頷いた。目の前の“母親”も、何度も深く頷いた。
「あいつらの一番の楽しみは、弱いもん苛(いじ)めなんじゃ」別の声がいった。

【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/知恵の森文庫、2000年)】

 私の中に怒りは湧いてこない。ただ、静かなる殺意が確固たる形を成すだけだ。法で裁くなどと悠長なことを言っている場合ではない。「速やかに殺害せよ」と私のDNAが命令を下す。宗教だとか文化だとか言語の違いは全く関係ない。罪もない少女にこんな仕打ちをするような手合いは人類の敵なのだ。

 この文章が恐ろしいのは、まず娘の惨状を傍観している親がいて、それを傍観している著者がいて、更に傍観する読者が存在するという点に尽きる。何層にもわたる傍観が、ともすると無力感へと導こうとしている。「どうせ、お前は何もできないだろう?」という問いかけが、「何もできなかった」という事実と相俟(ま)って私から力を奪おうとする。

 結局、ガンディーが守ろうとしたのは、上流カーストが不可触民を虐待する権利だったってわけだ。結果的にそう言われてもガンディーは反論のしようがあるまい。

 人類が犯してきた数多くの虐殺の歴史が教えているのは、「沈黙していれば殺される」という事実である。だから私は、殺される前に殺すことは罪にならないと考える。これは正当防衛なのだ。

 極論かもしれないが、私は人種差別者は死刑に処すべきだと本気で思っている。なぜなら、明日以降「殺されるために生まれてくる人々」による正当防衛であると信ずるからだ。差別とは「相手を殺す」思想に他ならない。

 私は歯ぎしりしながら、自分にできることを淡々と行う。そして、自分にできる範囲を少しでも広げてゆく。そうでなければ、生きている甲斐がないから。

2009-08-21

愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆

 ・愛国心への疑問
 ・ギネス認定はインチキ
 ・個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
 ・無投票の権利
 ・勝ち上がってくる力士
 ・長時間睡眠自慢

『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 かつて掲示板上で愛国心についてやり取りしたことがある。随分前の話だ。愛国心について否定的な論調を私が書いたところ、「あなたに愛国心はないのか?」と質(ただ)された。すかさず「ないね」と応じた。この時、本当に愛国心がないことを自覚した。

 これは、私が道産子であることも関係していると思う。北海道では学校行事において「君が代」を歌う場面がほぼ完全にない。私の場合だと、中学の音楽の授業で歌ったことが一度あるだけだ。だから今でも「君が代」を歌えない。ちなみに「蛍の光」を歌うことも殆どない。私が通った中学の卒業式では、原語で「ハレルヤ・コーラス」を卒業生が歌うのが伝統となっていた。合唱の盛んな学校だったのだ。

 愛国心――ないね。どこを探しても爪の垢ほどもないよ。愛郷心はある。愛町内会心もある。愛国心を売り物にしている連中を見ると、私はどうしようもない嫌悪感を覚える。「だったら、自衛隊に入れよ」と言いたくなる。

 更に二つばかり理由がある。一つは私が海外へ行ったことがないため、日本と外国を比較しにくいこと。つまり、日本人であることを強く自覚する経験が乏しいのだ。

 もう一つは、国から何かをしてもらった記憶がない。「お前な、道路や空港を作ったのは誰だと思ってるんだ?」と言われればそれまでなんだが、如何せん日本国に対して「ありがとう」と思ったことがないのだから仕方がない。例えば、ヨーロッパの一部の国のように無料で高校や大学に行けたり、他国からの侵略行為を防いでもらったりしていれば、愛国心が芽生える可能性もあったことだろう。でも、どちらかといえばやっぱり「税金ばっかり取りやがって」という不満の方が多い。

 小田嶋隆が愛国心をバッサリと斬り捨てている――

 S誌に目を通す。巻頭のコラム子は「日本人には、国のために死ぬ覚悟があるんだろうか」と言っている。ふむ。君たちの言う「国」というのは、具体的には何を指しているんだ? 「国土」「国民」あるいは「国家体制」か? それとも「国家」という概念か? でないとすると、もしかしてまさかとは思うが「国体」か? はっきりさせてくれ。なにしろ命がかかってるんだから。
 もうひとつ。
「死ぬ」というのはどういうことだ? 私の死が、どういうふうに私の国のためになるんだ? そのへんのところをもう少し詳しく説明してくれるとありがたい。
 もうひとつある。「国のため」と言う時の「ため」とは、実質的にはどういうことなんだ? 防衛? それとも版図の拡大? 経済的繁栄? あるいは「国際社会における誇りある地位」とか、そういったたぐいのお話か? いずれにしろ、「これも国のためだ」式の通り一遍な説明で「ああそうですか」と無邪気に鉄砲を担ぐわけにはいかないな、オレは。
 国家権力を掌握している人間の利益を守るために、国民が命を捨てねばならないような国があるんだとしたら、先に死ぬべきなのは国民より国家の方だということになるが、君たちはこの答えで満足してくれるだろうか?

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 こんなコラムを巻頭に掲載するのは『諸君!』(文藝春秋)か『正論』(産経新聞社)しかないわな。右寄りの論調というのは愛国心を当然の前提とし、そこに思い切り寄り掛かっている。愛国心を疑ったり、まして愛国心のない野郎は国賊と評価される。

 しかしながら、愛を強制することはできない。街で擦れ違った見目麗しき女性に対して、「あなたは私を愛すのが当然だ」と言っても通用しないのと同じだろう。その昔、『愛される理由』というタイトルの本があったが、確かに愛されるには何がしかの理由や根拠が必要だ。

「国」というのは何だ?
 君たちの想定する「国」と革命分子の想定する「国」が違うものなのだとしたら、そりゃ単に内乱ってことにならないか? 逆に訊ねるが、君たちは、国民に死を要求するような国に対して忠誠を尽くすことができるのか? ついでに言えば、君たちが二言目には口にする「愛する者や家族が目の前で殺されているのを黙って座視するのか」式の設問は、無効だよ。覚えておくといい。質問は、答えを限定する。より詳しく言うなら、質問というのは、時に、回答の思考形式を限定するための手段として用いられるということだ。

 この指摘は実に鋭い。例えば、生まれたばかりの赤ん坊がパレスチナ人であるという理由だけでイスラエル人の手で殺されている。そして、まだお腹の中にいる胎児まで殺されている。殺された赤ん坊に国家という意識があるはずもないし、人種すら自覚していない。結局、国家意識というのは後天的に教育されるものだ。言語を始めとする文化や風習に馴染み、自分がコミュニティの一員であるという自覚が生まれた後に、「異質な別世界」を実感できるようになる。

 戦争が国家単位で行われている事実を踏まえると、国家という単位はない方がいいかもしれぬ。

 枠組みは常に悪用される。「国を守る」ということと「家族を守る」ということが無批判に同一視されているような質問は、発せられた時点で既に罠だってことだ。家族が暴漢に襲われている状況と国が戦争をしている状況は同じものではない。それどこから、逆かもしれない。だって、相手の国にとっては、暴漢はこちらということになるからね。つまり、君たちの質問の意図は、仮想敵国を強盗殺人犯に仕立て上げるところにあるわけで、国防とはまったく関係がないのだよ。
 兵隊が何を守るか知っているか? 国土?
 ははは。幸運な場合、結果として兵隊が国土を守ることもあるだろう。
 しかし、たいていの場合、兵隊が守るのはなによりもまず、軍隊の秩序であり、上官の命令だ。
 そして軍隊の機能はなによりもまず殺人であって防衛ではない。殺人が防衛の手段になるということが事実であるにしろ、軍隊の本意は防衛にはない。あくまでも殺人ということが彼らの動機であり目的であり存在意義です。さらに言うなら、その軍隊が命にかえて防衛するのは、国民の安全ではなくて、権力者の意志だよ。権力者の意志が国防にあればそれでいいじゃないかって?
 そうかもしれない。しかし、その権力者と対立する陣営の権力者の意志もまた国防にある。そして、国防という概念は敵の側から見れば侵略と区別がつきにくいものだ。ってことは、忠良な国民をかかえた2人の権力者は、自分の国防のために互いに侵略をし合うことにならないか?
 国のために命を捨てるのはけっこうだ。が、それが相互侵略のためだとしたら、犬死にどころか無理心中じゃないか。

 戦争の欺瞞を見事に暴き出している。俗に愛憎は紙一重と言う。であれば、愛国心とは他国を敵国と仮想することで成り立っているのかもしれない。とすると、権力者にとっては近隣諸国に敵国が存在した方が都合がいいとも考えられる。

 確かにそうだ。北朝鮮がテポドンを北海道に落としたら、私はたちどころに愛国者となるだろう。北朝鮮に対する憎悪を燃やした瞬間に、私の中の日本人が目を覚ますのだ。単純なもんだね。いや、ホントの話。恐ろしくなってくるよ。

 それでも人類が戦争をやめることはないだろう。戦争こそは人類の業(ごう)なのだ。だから、いっそのこと大掛かりな「戦争シミュレーションゲーム」を開発すればいいと思う。実際の戦争と同じように国会を召集し文民統制の下、自衛隊が戦略を練る。保有する武器や兵力もそのまま反映させて、ネット上のゲームで勝敗を決する。コントローラーを握るのはもちろん首相や大統領だ。

 これが実現すると選挙運動も大きく変わってゆくことだろう。ま、首相はアキバ系で間違いなし。指にはタコができている。また、数ヶ月前まで引きこもりだった青年が突如、首相になることも考えられる。

 皆が手を取り合う平和よりも、犠牲者の少ない戦争のあり方を模索した方が実行可能な気がしてくる。



小田嶋隆『イン・ヒズ・オウン・サイト』│mm(ミリメートル)
民族という概念は「創られた伝統」に過ぎない/『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優
民族という概念は18世紀に発明された
ポピュリズムによるナショナリズムの昂揚
戦争は「質の悪いゲーム」だ/『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
戦争で異形にされた人々/『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編

2009-08-17

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治


『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ・石原吉郎と寿福寺
  ・寿福寺再訪
 ・常識を疑え
 ・「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた

『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 石原吉郎〈いしはら・よしろう〉、鹿野武一〈かの・ぶいち〉、菅季治〈かん・すえはる〉の三人はシベリアの同じ収容所で過ごした時期がある。終戦のどさくさに紛れてソ連は、60万人もの日本人を抑留し奴隷同然に扱った。日本政府はこれを黙認した。

 菅季治は二人に先んじて帰国していたが、徳田要請問題で政治家に利用された挙げ句、中央線の鉄路に身を投げた。シベリア抑留から解放されてわずか5ヶ月後のことだった。

“究極のペシミスト”鹿野武一は、勤務先の病院の宿直室で心臓麻痺を起こして死んだ。帰国してから一年半後のこと。石原吉郎は詩人として名を残し、62歳(1977年)まで生きたが晩年は狂気の中を彷徨(さまよ)った。

 不幸と悲劇は一度つかまえた人間を離すことがないのであろうか。シベリアでは目の前に悪が対峙していた。向こう側に存在する悪に自分が犯されないようにすることが彼等の戦いであった。ところが帰国した日本では、そこここに悪が蔓延していた。善と悪に対して鋭く研ぎ澄まされた彼等の感覚は、小さな悪の後ろに広がる巨大な闇を捉えていた。

 夏が終わりを告げそうな今日、石原が足を運んだ鎌倉の寿福寺へ行ってきた。石原と会うために――

 この頃、石原吉郎はよくひとりで鎌倉へ出かけて歩きまわっていた。特に好んだのは、昔の面影が色濃く残る北鎌倉で、なかでもよく訪れたのが、鎌倉五山の中でも最古を誇る寺で、苔むしたやぐら(洞窟)に、北条政子、源実朝の墓がある寿福寺だった。
 寿福寺との出会いを、石原は「生きることの重さ」(74年6月、朝日新聞)にこう書いている。

 少し前に、雨の北鎌倉を一日歩きまわったことがある。たまたま立ち寄った寺に、北条政子と源実朝の墓があった。いずれも洞窟の暗がりに凝然と立ちすくんでおり、その荒涼とした気配が気に入ってしばらくたたずんでいたのをおぼえている。
 たぶんその時私が立っていたのは他界への入口のような所であったろう。しばらく生きるために、私はそこを立ち去った

【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】

 妻の夏休みが今日しかなかったので海水浴のついでに足を延ばした。



 地図を持って行かなかったため、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の左側から建長寺に辿り着き、そこの案内板を見て、長寿寺の手前の道を左に曲がった。入った瞬間、石原もここ(亀ヶ谷坂切通し)を歩いたことだろうと密かに確信した。影の濃い道だった。



 私の眼が石原の視線を探した。探し回った。そして、やっと目的の場所を見つけた。





 上が北条政子の墓で、下が源実朝の墓である。実際に足を運べばわかるが、写真からは窺い知ることのできない異様な雰囲気がある。確かに冥界といえる。夏の日差しの中で、そこだけぽっかりと別世界が口を開けていた。大の大人を恐れさせる何かがあった。暗がりや湿度では説明のつかない異質さが佇(たたず)んでいた。


【実朝の右隣の墓の内側から撮影】


 石原はここで何を見たのか。沈黙の中で闇を睨(にら)んでいたその時、潮風の向こうから電車の走る音が聴こえた。私は、〈走る留置所〉と呼ばれるストルイピンカを想った。そして、微(かす)かな潮の香りを嗅ぎながら、シベリアの地で望郷の思いを海に託した石原の心に触れたような気がした――

 海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、3000キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へと変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。

【「望郷と海」(『展望』1971年8月)/『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、2005年)】

 源実朝は和歌を嗜(たしな)んだ。詩人の石原も和歌を詠んだ。実朝は甥(おい)の手で殺された。石原は祖国から見捨てられた。

 岩穴の闇を正視する時、石原の心はシベリアに引き戻されたに違いない。そして、生きるためにそこを立ち去った瞬間、今度は闇を背負い込んでしまうのだ。そのまま別の闇に向かって彼は歩き続けた。

 石原の孤独にはブラックホールの如き重量があった。その重みに耐えられなくなった時、精神は狂気へと避難した。石原は独居の浴槽の中で心臓麻痺死した。酷寒のシベリアを生き延びた者に対する神の祝福と思えてならない。


寿福寺
寿福寺
・「岸壁の母」菊池章子

2009-08-15

紙幣とは何か?/『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代


『金持ち父さん 貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター
『国債は買ってはいけない! 誰でもわかるお金の話』武田邦彦
『平成経済20年史』紺谷典子
『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎

 ・貨幣経済が環境を破壊する
 ・紙幣とは何か?
 ・「自由・平等・博愛」はフリーメイソンのスローガン
 ・ミヒャエル・エンデの社会主義的傾向
 ・世界金融システムが貧しい国から富を奪う
 ・利子、配当は富裕層に集中する

・『税金を払う奴はバカ! 搾取され続けている日本人に告ぐ』大村大次郎
・『無税国家のつくり方 税金を払う奴はバカ!2』大村大次郎
『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー

必読書リスト その二

 我が国における紙幣とは「日本銀行券」のことである。私はこれを小学生の時分にクイズで知った。よもや、こんな妙ちきりんな名前だとは夢にも思わなかった。「券」だと? じゃあ、映画のチケットと変わりがないことになる。しかし、流通の範囲がべらぼうに異なる。ただ、日本全国のお店、会社で取引可能な商品券と考えると腑に落ちる。

「紙幣(しへい)とは、広義には、公的権力(主に国家)により通貨として強制通用することが認められている紙片である」(Wikipedia)――何だ、この素っ気ない言い方は(笑)。まるで、大金持ちの坊っちゃんが「ケッ、こんなモンは所詮紙切れなんだよ」と捨てゼリフを吐いているように聞こえる。

 ミヒャエル・エンデは紙幣の意味を法律家に問い質(ただ)した――

「私は10人の法律家に手紙を書き、法律的見地から銀行券とは何かと尋ねました。それは『法的権利』なのか、国家がそれを保証するのか。もしそうなら『お金』は経済領域に属さず、法的単位ということになります。『法的単位』なら商いの対象にはできません。しかし、そうではなく経済領域に属するものなら、それは商品といえます。10人の法律家からは10通りの返答がきました。つまり、法的に見て、銀行券とは何なのかを私たちはまるで知らないわけです。定義は一度もされませんでした。私たちは、それが何か知らないものを、日夜使っていることになります。だからこそ、『お金』は一人歩きするのです」

【『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳〈かわむら・あつのり〉、グループ現代(NHK出版、2000年/講談社+α文庫、2011年)】

 何ということか。我々は紙幣の意味もわからずに紙幣を使い、紙幣を追い求め、紙幣のためにあくせくと生きていたのだ。もっと混乱させてあげよう。では、紙幣と貨幣はどのように違うのか? 紙幣は日本銀行が発行し、貨幣は国が発行する。で、発行元が異なる理由もわからない。

 疑問はどんどん膨らむ。国立印刷局が紙幣を印刷し、造幣局が貨幣を鋳造すると、どの程度の報酬が支払われているのであろうか? ちなみに、券種を問わず紙幣1枚あたりの印刷代は約16円である(廣宮孝信著『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』彩図社、2009年)。これぞ錬金術(笑)。

 脳がそうした性質を持つことから、われわれがなぜお金を使うことができるかが、なんとなく理解できる。お金は脳の信号によく似たものだからである。お金を媒介にして、本来はまったく無関係なものが交換される。それが不思議でないのは(じつはきわめて不思議だが)、何よりもまず、脳の中にお金の流通に類似した、つまりそれと相似な過程がもともと存在するからであろう。

【唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司】

「国家」と「貨幣」は人間を超越する/『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優、魚住昭

 ということは、だ。お金とは「情報」ということに落ち着く。つまり貨幣とは、交換媒介機能、価値尺度機能、価値保蔵機能を併せ持った情報なのだ。永井俊哉氏は貨幣の機能を「コミュニケーションメディアである」としている。

 この情報は、一般的に労働の対価として考えられている。多くの人々がそのように考えることは国家権力にとって甚だ都合がよい。では、目覚めた民衆となるべく二つの疑問を提示して今回は筆を擱(お)こう。

 労働の対価は正当に支払われているのか? 労働以外にお金を獲得する方法はないのか?

2009-08-13

貨幣経済が環境を破壊する/『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代


『金持ち父さん 貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター
『国債は買ってはいけない! 誰でもわかるお金の話』武田邦彦
『平成経済20年史』紺谷典子
『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎

 ・貨幣経済が環境を破壊する
 ・紙幣とは何か?
 ・「自由・平等・博愛」はフリーメイソンのスローガン
 ・ミヒャエル・エンデの社会主義的傾向
 ・世界金融システムが貧しい国から富を奪う
 ・利子、配当は富裕層に集中する

・『税金を払う奴はバカ! 搾取され続けている日本人に告ぐ』大村大次郎
・『無税国家のつくり方 税金を払う奴はバカ!2』大村大次郎
『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー

必読書リスト その二


 お金は不思議な存在だ。お金は本来であれば単なる約束事に過ぎない。ところが等価交換の物差しが、いつしか目的と化してしまっている。「金に物を言わせる」という表現があるように、お金は雄弁だ。そして言葉の如く流通する。

 お金の意味を我々は知っているようで知らない。学校で教わることもなかった。お金に関する何冊かの本を読んできたが、疑問は膨らむ一方だった。しかし、本書を読んで私の蒙(もう)は啓(ひら)かれた。貨幣の欺瞞、信用創造のインチキを本書は十全に暴いている。

 唯一の難点は、ミヒャエル・エンデの言葉にキリスト教的な臭みがあることだ。謙遜が慇懃無礼(いんぎんぶれい)のレベルに達している。ま、死者はいつだって美化されるということか。

 重要な内容を鑑み、何度かに分けて書く予定である。

 まずは、「貨幣経済が環境を破壊する」事実を示す――

「紙幣発行が何をもたらしたのか? 一つの実例が、ビンスヴァンガーの著書に出ています。たしかロシアのバイカル湖だったと思いますが、その湖畔の人々は紙幣がその地方に導入されるまではよい生活を送っていたというのです。日により漁の成果は異なるものの、魚を採り(ママ)自宅や近所の人々の食卓に供していました。毎日売れるだけの量を採っていたのです。それが今日ではバイカル湖の、いわば最後の一匹まで採り尽くされてしまいました。どうしてそうなったかというと、ある日、紙幣が導入されたからです。それといっしょに銀行のローンもやってきて、漁師たちは、むろんローンでもっと大きな船を買い、さらに効果が高い漁法を採用しました。冷凍倉庫が建てられ、採った魚はもっと遠くまで運搬できるようになりました。そのために対岸の漁師たちも競って、さらに大きな船を買い、さらに効果が高い漁法を使い、魚を早く、たくさん採ることに努めたのです。ローンを利子つきで返すためだけでも、そうせざるをえませんでした。そのため、今日では湖に魚がいなくなりました。競争に勝つためには、相手より、より早く、より多く魚を採らなくてはなりません。しかし、湖は誰のものでもありませんから、魚が一匹もいなくなっても、誰も責任を感じません。これは一例に過ぎませんが、近代経済、なかでも貨幣経済が自然資源と調和していないことがわかります」

【『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳〈かわむら・あつのり〉、グループ現代(NHK出版、2000年/講談社+α文庫、2011年)】

 これは、アーロン・ブラウンの主張と全く同じである。

帝国主義による経済的侵略/『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン

 ブラウンが結論を人間不信に着地させたのに対し、エンデは環境破壊に結びつけている。

 貨幣経済は、将来の価値を先取りするために現在の環境を踏みにじる。人間は未来に生きる動物といえる。そして「未来=蓄え」を意味する時、人は現在を犠牲にする。

 ここで行われていることは「未来を先取りする競争」である。つまり、貯蓄を可能にした貨幣経済は、「未来を奪い合う」社会を招来する結果となる。しかもこの未来は、人類全体のものではない。ということは、「エゴの競争」である。

 エゴイズムは限りなく肥大する。肥大したエゴイズムを地球環境は支えることができない。「自分さえよければ」という生き方が、湖の魚を獲り尽くしてしまった。人間の未来が魚の未来を奪ったのだ。共存の崩壊。

 お金は未来である。とすると、蓄えられたお金は意志を持つようになる。エゴ未来は人間を、畜生道の下の餓鬼道に引き摺り込む。ここにおいて人間は動物以下の存在と化す。

 お金はエゴイズムに火を点ける。お金を持っている人は確かに幸せだ。だが、お金から離れられる人はもっと幸せではなかろうか。

 欲望は否定されるものではなくして、コントロールされるべきものである。「少欲知足の経済」を実現しなければ、地球の寿命は短くなる一方だ。



信用創造のカラクリ/『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン
時は金なり/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ
信用創造の正体は借金/『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎

2009-07-30

究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』〜「ペシミストの勇気について」


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『海を流れる河』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 石原吉郎〈いしはら・よしろう、1915-1977〉の詩・散文・日記が収録されている。岡真理著『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)で「望郷と海」が紹介されていて、そこから辿り着いた一冊。

 シベリア抑留版『夜と霧』(V・E・フランクル)、あるいは『溺れるものと救われるもの』(プリーモ・レーヴィ)といっていいだろう。極限状況からの生還者は、生還後の思索によって再び極限状況を生きることになる。彼等にとっての現実は、極限状況の中にしか存在しない。彼等は常に、迫り来る死を自覚しながら生にしがみついた過去へと否応なく引き戻される。山男にとっての現実は山頂にしか存在しない。それと同様に彼等は極限状況を志向する。

 人間は追い詰められると“卑小な存在”と化す――

 入ソ直後の混乱と、受刑直後のバム地帯でのもっとも困難な状況という、ほぼ2回の淘汰の時期を経て、まがりなりにも生きのびた私たちは、年齢と性格によって多少の差はあれ、人間としては完全に「均らされた」状態にあった。私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、ほとんど同じ発想で行動した。私たちの言動は、シニカルで粗暴な点でおそろしく似かよっていたが、それは徹底した人間不信のなかへとじこめられて来た当然の結果であり、ながいあいだ自己の内部へ抑圧して来た強制労働への憎悪がかろうじて芽を吹き出して行く過程でもあった。おなじような条件で淘汰を切りぬけてきた私たちは、ある時期には肉体的な条件さえもが、おどろくほど似かよっていたといえる。私たちが単独な存在として自我を取りもどし、あらためて周囲の人間を見なおすためには、なおながい忍耐の期間が必要だったのである。

【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年/初出は「思想の科学」1970年4月)以下同】

 これほど恐ろしい表現は他にあるまい――“均(な)らされた状態”。権力者の手によって、シベリアに抑留された人々は均された。それに加えて、堕落という重力も日常以上に強く働いたに違いない。平均化、均質化、一般化された人々は個を失う。もはや彼等は人間ではない。ただの労働力だ。

 良識も自制心も道徳心も破壊される状況にあって、一人の男が異彩の光を放った。鹿野武一〈かの・ぶいち〉その人である――

 このような環境のなかで、鹿野武一だけは、その受けとめかたにおいても、行動においても、他の受刑者とははっきりちがっていた。抑留のすべての期間を通じ、すさまじい平均化の過程のなかで、最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た彼は、他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であったにちがいない。
 しかし、のちになって思いおこしてみると、こうした彼の姿勢はなにもそのとき始まったことでなく、初めて東京の兵舎で顔をあわせたときから、帰国直後の彼の死に到るまで、つねに一貫していたと私は考える。彼の姿勢を一言でいえば、明確なペシミストであったということである。

 ここで石原吉郎が使う「ペシミスト」は、悲観論者ではなく厭世主義者の意味であろう。では、鹿野武一は具体的にどのように振る舞ったのか――

 バム地帯のような環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない。バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場をとるということは、おどろくほど勇気の要ることである。なまはんかなペシミズムは人間を崩壊させるだけである。ここでは誰でも、一日だけの希望に頼り、目をつぶってオプティミズムになるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようなオプティミズムから生れる)。そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。
 後になって知ることのできた一つの例をあげてみる。たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず5列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないことであるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。しかしそのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、列外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくに危険が大きい。なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている17〜18歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する。
 犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の3列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる。
 実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。

 鹿野武一は「世を厭(いと)い」、そして嘲笑したのだ。しかも彼は、行動をもってそれを示した。吠え立てる犬によって羊の群が同じ方向へ進む中で、鹿野武一は事もなげに反対方向を目指した。

 ここにあるのはペシミズムではない。ニヒリズムだ。私は、ニヒリズムが肯定的なユーモアを生ましめる瞬間を“ヒューマニズム”と呼びたい。石原が「ペシミズム」と表記したのは、鹿野に対する感傷が強すぎたためであろう。

 鹿野武一の生が凄まじいのは、彼は抑留された同胞に対して範を垂(た)れたわけでもなければ、何らかのメッセージを放ったわけでもないという一点に尽きる。鹿野は徹底して“個”に生きたのだ。“個”は“孤”の内側で完結している。

 それが証拠に、鹿野は誰に言うこともなく収容所内で絶食を始めた。鹿野は絶食しながら強制労働に従事した。まったく狂気の沙汰という他ない。しかし、シベリア抑留それ自体が狂気であった。すなわち、狂気が支配する世界で発揮される狂気は、正真正銘の正気となる。鹿野はたった一人で世界に向かって「異を唱えた」のだ。

 地獄の中にあって、これほどの孤高に辿り着いた人物がいた。人間がどこまで崇高になれるかを彼は示した。真の人間は、真に偉大である。

 鹿野武一は、シベリアから帰還してから1年後に急死した。まだ37歳という若さであった。



「鹿野武一」関連資料集
鹿野武一
文体とスタイル/『書く 言葉・文字・書』石川九楊
『香月泰男のおもちゃ箱』香月泰男、谷川俊太郎
「岸壁の母」菊池章子
真の人間は地獄の中から誕生する/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
ストア派の思想は個の中で完結/『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳

2009-07-29

回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

必読書リスト その五

 回帰効果とは、不完全な相関関係における極端な数値に対して、もう一方の数値が平均へと回帰する現象をいう。エ、わかりにくい? 確かに。

 例えば、身長が195cmの父親から生まれた子供は、195cm未満である可能性が高いということ(※遺伝学者のフランシス・ゴルトンが実際に調べた)。あるいは、今月の交通事故死亡者数が極端に低下すれば、来月は上回ることが予想される。はたまた、今回の試験の平均点が90点であれば、次回は90点未満であること。そう。大きく振れた振り子は必ず戻ろうとする。

 ところが人間は往々にして回帰効果を無視して、勝手な物語を作り上げる傾向が強い――

 こうした予想を行なう際に回帰効果を無視してしまうという傾向は、偏りの錯誤と同様に、代表制にもとづく判断のせいであると考えられる。予想されるものと予想の根拠となるものは限りなく類似しているはずだという直観が人々の判断に影響して、両者の得点をほぼ同じものとさせてしまうのである。身長195センチの父親に対しては、身長195センチの子どもが最も代表的だと思われてしまうのである。(実際には、身長195センチの父親を持つ子どもの大半は、これより低い身長となる。)ここでもまた、代表性にもとづく判断が、過度の一般化を引き起こしている。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでこ〉訳(新曜社、1993年)以下同】

 ということは、だ。鳶(とび)が鷹を生み、今度はその鷹が鳶を生むことはあり得るが、鷹が鷲を生み、鷲が鳳(おおとり)を生むことはないってことだな。ここで重要なのは、極端にいい結果が出た後は、少々悪い結果が出やすいし、その逆もまた真なりってことだ。

 回帰効果を無視すると、今度は回帰の誤謬が生じる――

 回帰の概念を本当に理解できていないときに人々が直面する二つの問題点のうちのもうひとつは、「回帰の誤謬」として知られている。回帰の誤謬というのは、単なる統計学的な回帰現象にすぎないものに対して、複雑な因果関係を想定したりして余計な「説明」をしてしまうことを言う。素晴らしい成績の後、成績が落ち込むと怠けたせいであるとされたり、反対に、凶悪犯罪が頻発した後で犯罪件数の減少が見られると、新しい法律の施行が効を奏したためと考えられたりすることである。回帰の誤謬は、偏りの錯誤と似たところがある。どちらも、偶然に生じたできごとに人々が余計な意味づけをしてしまう現象だからである。統計学的な回帰の結果生じたにすぎない現象に、無理な説明づけをしようとするあまり、間違った信念が形成されることにさえなってしまう。

回帰の誤謬:Wikipedia

 政治の世界では常套手段といってよい。「相関関係と因果関係の混同」と言い換えることも可能だ。具体的な例も示されている――

 言い替えれば、回帰効果は、「ほめることを罰し、罰することをほめる」ことに一役買ってしまうのである。
 こうした現象を見事に示してみせた実験研究がある。この実験は、参加者に教師の役割を演じてもらい、コンピュータが演ずる架空の生徒たちをほめたり、叱ったりするものであった。コンピュータが演ずる生徒は、毎朝8時20分から8時40分までの間に登校し、その登校時刻がディスプレイに表示される。教師は、生徒が朝8時20分から8時30分までに登校して来るよう努めなければならない。生徒の登校時刻が表示されるごとに、参加者は、生徒をほめるか、叱るか、何もしないかのどれかを選択できる。そこで、生徒が8時30分より前に登校してきた時には、参加者は生徒をほめ、遅刻してきた時には叱るであろうと予想される。しかし、実際には、生徒の登校時刻は実験前にあらかじめ決められており、実験に参加した被験者がほめたり叱ったりしても、まったくその影響はない。それにもかかわらず、回帰効果があるために、生徒の登校時間は、遅刻して叱られた後では向上し(つまり、平均の8時30分の方に回帰し)、早く登校してほめられた後では悪くなる(つまり、ここでも平均の8時30分の方に回帰する)ことになる。さて、こうした実験の結果、参加者の7割が「叱ることの方が誉めることよりも登校時刻を守らせる効果がある」という結論を出した。回帰によって生じた、ほめることと叱ることの見かけの効果にだまされてしまったのである。

 以下のリンク先も参照されよ――

やる気のない中学生の子を持つ親の心得

 病気で考えてみよう。いくつもの原因が重なって発症する病気を「多因子疾患」という。遺伝要因と環境要因とが複雑に絡み合っているため、治療をしても一定の効果が現れない場合が多い。ところがアメリカの製薬会社は、相関関係を因果関係に見立てて、「精神疾患は“脳の病気”であり、薬を服用することで治る」という物語を作ることに成功した。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 こうした意図的なマーケティング手法にも、回帰の誤謬が含まれていると考えられる。というよりも、最初っから「誤謬の物語」を創作している節すら窺える。

 選挙においても回帰効果は見られる。以下はWikipediaのデータである――

1992年参院選
1993年/自民党223
1995年参院選
1996年/自民党239
1998年参院選
2000年/自民党233
2001年参院選
2003年/自民党237
2004年参院選
2005年/自民党296
2007年参院選

 定数の変化はあるものの、自民党が単独で衆議院の過半数を獲得したのは2005年だけとなっている。来る8月30日の投票において、自民激減は必至と予想されているが、民主党による回帰の誤謬は既に見受けられている。選挙結果を政争の具に利用するようなことがあれば、直ちに国民からそっぽを向かれることだろう。

 ただし、これは統計学の世界の話である。経済学的見地からすれば、金にものを言わせて、誤謬を真実にしてしまうことが多い。



回帰の虚偽
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル

2009-07-17

言葉の重み/『時宗』高橋克彦


 北条時頼と時宗、時輔(※時宗の異母兄)父子(おやこ)を描いた政治小説。飽くまでも歴史小説という形を用いた政治小説である。鎌倉時代を築いた武士とそれ以前に栄華を誇っていた公家との違い、天皇・将軍・執権というパワー・オブ・バランス、関東における武士の合従連衡などがよく理解できる。

 親子にわたる政(まつりごと)を縦糸に、そして国家という枠組が形成される様を横糸にしながら、物語は怒涛の勢いで蒙古襲来を描く。時頼と日蓮との関係を盛り込むことで、政治・宗教・戦争という大きなテーマが浮かび上がってくる仕掛けだ。お見事。

 私は以下の件(くだり)を読んで衝撃を受けた――

「そなたが関白でよかった」
 上皇は言って基平を見詰めた。
「近衛の一族はそなたを今に生み出すために代々我らの側にあったのじゃな」
 なにを言われたのか基平には分からなかった。それが最上級の褒めの言葉であると察したのは少し間を置いてのことである。
「ははっ」
 感極まって基平は泣きながら平伏した。抑えようにも涙は止まらない。五度に及ぶ混迷の合議、しかも半ば以上諦めていた裁定をたった一通の意見書が覆(くつがえ)したのだ。

【『時宗』高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)以下同】

 北条家の意向を受けた近衛基平が「蒙古からの国書に返書を出すべきではない」と折衝する。これには、蒙古に対する北条父子の深慮遠謀があり、基平は命懸けで訴え抜いた。最後の最後でようやく基平の意見は採用される。そして、上皇が感謝の意を表明するシーンである。

 真の褒賞(ほうしょう)は「感謝の言葉」であった。何という言葉の重み。金品でも土地でもない。国家を守るために命を張り、それに報いる言葉があれば、人は幸福になれるのだ。日蓮は門下に宛てた手紙の中で「ただ心こそ大切なれ」(「四条金吾殿御返事」弘安2年/1279年)と記しているが、まさしく心を打つものは心に他ならない。

 まだ天下が統一される前の時代に、国の行く末を思い、犠牲を厭(いと)わぬ人々が存在した。歴史に記されることがなかったとしても、礎石になる人生を選んだ男達がいた。

 泰盛は時宗の肩に手を置いて言った。
「そなたがここにおるではないか。そなたであればどんな山とて乗り越えられる。国は皆のものと言い切る執権じゃぞ。そういうそなたの言なればこそ皆が命を捨てたのだ」
 時宗は泰盛を見詰めた。
「そなたが気付いておらぬだけ。新しき国の姿はそなたの中にある。皆はそれを信じて踏ん張った。そなたが今の心を持ち続けている限り、我らも失うことはない」

 安達泰盛の言葉もまた最高の褒賞となっている。真実を知る者からの称賛が、喝采なき舞台を力強く支える。地位でも名誉でもなく、人間と人間とが交わす讃歌こそ究極の幸福なのだ。

   

北条時頼
北条氏略系図
北条時宗
北条時宗(NHK大河ドラマ)
北条時輔
北条時宗が見た北鎌倉を歩く
元寇
蒙古襲来絵詞