・『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
・Difang(ディファン/郭英男)の衝撃
・高砂族にはフィクションという概念がなかった
・ディープ・フォレスト~ソロモン諸島の子守唄
・『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
一行は途中アブダン駐在所に休憩し、約14キロの山道を、時には鉄線橋とよばれる長い吊橋を渡って、目的地カビヤン社に着いたのは5時5分。
この途中驚くべき事件に逢った。私を乗せた椅子駕籠が先頭にたっていたが、先棒の青年が急に立ち止まった。そして相棒の青年と緊張した面もちで語り合っている。「何が起こったのか」の私の問いに、彼らは、「昨日、ここを親子づれの鹿が通って右の谷へ下りた」というのだ。そして明日鹿狩りをしようとの相談らしかった。砂利道に鹿の足跡などわかるものではない。「どうしてわかるのか、これか」といって鼻を指さしたが、彼らは笑っているだけである。
聞くところによると、雨が降らなければ、3日ぐらい前に通ったものの識別ができるという。これはまったく名犬の嗅覚ではないか。
動物の種類はもちろん、人間でも自社のものか他社のものか、男か女か、2人づれか3人づれか。この特技を使って、当時花運港付近の捕虜収容所から脱走して行方不明になっていたアメリカ兵2名を、3日後に山の岩陰から嗅ぎ出したというエピソードもあった。とにかく高砂族という原始民族は、耳も鼻も、眼も、兎やキリンのように、犬のように、猫や豹のように、人間が神によって創生されたままの感覚を、いまだにもっていたのである。
【『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝〈くろさわ・たかとも〉(雄山閣、1973年)以下同】
1973年(昭和48年)に刊行されているが、内容は第二次世界大戦以前のフィールドワークに基づいている。上記テキスト最後の部分は差別意識というよりは率直な驚きを表明したものだろう。500ページを超す極めて本格的な学術書で各部族の音楽は当然のこと、楽器の詳細にまで研究が及ぶ。台湾は日清戦争で1895年に割譲され、1945年まで日本の一部であった。幸か不幸か台湾原住民は日本語という共通語を持つことで初めて部族間の意思の疎通が可能となった。もしも日本の統治がなければ各部族の文化は歴史の谷間に埋没していたことだろう。高砂族の人間離れした能力は戦時においても遺憾なく発揮され、高砂義勇隊の結成に至る。
さて今夜の結婚式は疑似結婚式であるが、高砂族中の文化人でありながら、偽りの結婚式は神をあざむくものだというので、人選には、なかなか苦労したようである。
青年たちも顔を見合わせて応じてくれない。中には今晩ひと晩だけ結婚を許してくれるならやってもいいというモダンボーイもいて、大変なごやかになる。この時部長殿が頭目に酒を呑ませて相談を重ねると、頭目は「では神様に詫びを入れるから、酒をもう1本供えてほしい」ということになり、駐在所員の飲み料の1升びんが持ち出された。頭目はにこりともせず栓をぬき、なに事か呪文らしきつぶやきがあって、さていうには「今晩のまね事は、神様が見ぬふりをすることに話がついた」と宣言した。こうして、結局指定によって青年団の幹部である模範青年たちが、晴れの席についたのである。
高砂族はこのように、フィクションというものが考えられない民族で、今まで仮面を含めて、演劇という形式が育たなかった。これも民俗学の問題になるテーマであろうかと思う。
ライ社(カビヤン社の同族)でのエピソードである。私の頭の中で電球が灯(とも)った。Difang~『セデック・バレ』を経て台湾にハマったわけだが、その道筋はこの文章に出会うためだったとさえ思えた。
ユヴァル・ノア・ハラリはフィクションを信じる力が人類を発展させた(『サピエンス全史』)と説くが、未開部族にはフィクションという概念が存在しなかった。つまり主観だけで生きていることになる。先祖から代々受け継がれてきた物語や、あるいは右脳の声(ジュリアン・ジェインズ)はそのまま事実として認識されたのだろう。
小説における劇中劇をメタフィクションという。小説の中で小説を読んだり、小説を批評する手法である。知能が発達した動物は自己鏡像認知が可能であるが、メタフィクションは合わせ鏡認知といってよい。高砂族はメタ認知能力を欠いていた。部族がより大きなコミュニティ(国家)に発展できなかった原因もここにある。
この凄さが理解できるだろうか? 高砂族に対する私の憧れはいや増して太陽のように輝く。フィクションという概念がないのだから高砂族は嘘をつくことができない。すなわち「騙(だま)す」という行為と無縁である。
フィクションは多くの人々を結びつけ機能を有した嘘である。我々は自ら喜んで騙される。宗教や国家に。アイデンティティとは信じられる虚構の異名に過ぎない。
もちろん集団が大きくなればなるほど文明は発達し、社会も高度化される。事実として高砂族は日本や中華民国あるいは中国共産党に勝つことができなかった。だが一対一ならば我々は負ける。彼らの優れた身体能力と首刈りの勇気に太刀打ちすることは難しい。
果たしてどちらが幸せなのだろうか? 私には判断がつかない。ただじっと高砂族の音楽に耳を傾けるだけだ。
昨年の12月のことだが母の誕生日にCDを贈った。プレゼントをするのは小学2年生以来のこと。45年前、私は大事にしていた赤いプラスチックの指輪を母に手渡した。今思えば取るに足らないお菓子のオマケだが私にとっては宝物だった。そして45年後に再び宝物といえる音楽と巡り合った。虚構(フィクション)なき歌声に耳を傾けよ(『Mudanin Kata/ムダニン・カタ』デヴィッド・ダーリング、ブヌン族)。
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