・『原始仏典』中村元
・『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿
・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
・初期仏教の主旋律
・初期仏教は宗教の枠に収まらず
・ブッダの教えを学ぶ
冒頭で私は仏教を「宗教」と呼んだが、じつを言うと、この初期仏教が、近代西欧で作られた「宗教」概念に、あるいは我々が抱いている「宗教」の印象に当てはまるのか、はなはだ疑わしい。
まず初期仏教は、全能の神を否定した。ユダヤ教、キリスト教やイスラム教で信じるような、世界を創造した神は存在しないと考える。神々(複数形)の存在は認めているが、初期仏教にとって神々は人間より寿命の長い天界の住人に過ぎない。彼らは超能力を使うことはできるが、しょせん生まれ死んでいく迷える者である。もし「神」を全能の存在と定義するなら、初期仏教は「無神論」である。
神々もまた迷える存在に過ぎない以上、初期仏教は、神に祈るという行為によって人間が救済されるとは考えない。そのため、ヒンドゥー教のように、神々をお祭りして、願いをかなえようとする行為が勧められることはない。願望をかなえる方法を説くのではなく、むしろ自分自身すら自らの思いどおりにならない、ということに目を向ける。
さらに、初期仏教は、人間の知覚を超えた宇宙の真理や原理を論じないため、老荘思想のように「道」と一体となって生きるよう説くこともない。主観・客観を超えた、言語を絶する悟りの体験といったことも説かない。それどころか、人間の認識を超えて根拠のあることを語ることはできないと、初期仏教は主張する。
宇宙原理を説かない初期仏教は、宇宙の秩序に沿った人間の本性があるとは考えない。したがって、儒教(朱子学)のような「道」や「性」にもとづいて社会や個人の規範を示すこともしない。人間のなかに自然な本性を見いだして、そこに立ち返るよう説くのではなく、人という個体存在がさまざまな要素の集合であることを分析していく。
こうした他教だけではない。初期仏教は、日本の仏教ともずいぶんと様相を異にしている。初期仏典では、極楽浄土の阿弥陀仏も、苦しいときに飛んで助けに来てくれる観音菩薩も説かれない。永遠に生きている仏も、曼荼羅(まんだら)で描かれる仏世界も説かれない。
また初期仏教では、修行はするが、論理的に矛盾した問題(公案〈こうあん〉)に集中するとか、ただ坐禅(只管打座〈しかんだざ〉)をするといったことはない。出家者が在家信者の葬送儀礼を執り行うことはなく、祈禱をすることもない。出家者が呪術行為にかかわることは禁止されていた。
初期仏教は、それに代わって、「個の自律」を説く。超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死にゆく「自己」に立脚して倫理を組み立てる。さらに、生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く。
【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)】
真理は言葉にし得ないゆえに否定形をもって伝えられる。馬場のテキストはまるでクリシュナムルティを語っているかのようである。人類は2000年周期で行き詰まり、その度にブッダと称される人物が登場するのだろう。人類は果たして生き方を変えることができるだろうか? あるいは同じ運命を繰り返しながら、やがては滅んでゆくのだろうか? その答えは私の胸の中にある。