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2020-12-27

初期仏教は宗教の枠に収まらず/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律
 ・初期仏教は宗教の枠に収まらず

ブッダの教えを学ぶ

 冒頭で私は仏教を「宗教」と呼んだが、じつを言うと、この初期仏教が、近代西欧で作られた「宗教」概念に、あるいは我々が抱いている「宗教」の印象に当てはまるのか、はなはだ疑わしい。
 まず初期仏教は、全能の神を否定した。ユダヤ教、キリスト教やイスラム教で信じるような、世界を創造した神は存在しないと考える。神々(複数形)の存在は認めているが、初期仏教にとって神々は人間より寿命の長い天界の住人に過ぎない。彼らは超能力を使うことはできるが、しょせん生まれ死んでいく迷える者である。もし「神」を全能の存在と定義するなら、初期仏教は「無神論」である。
 神々もまた迷える存在に過ぎない以上、初期仏教は、神に祈るという行為によって人間が救済されるとは考えない。そのため、ヒンドゥー教のように、神々をお祭りして、願いをかなえようとする行為が勧められることはない。願望をかなえる方法を説くのではなく、むしろ自分自身すら自らの思いどおりにならない、ということに目を向ける。
 さらに、初期仏教は、人間の知覚を超えた宇宙の真理や原理を論じないため、老荘思想のように「道」と一体となって生きるよう説くこともない。主観・客観を超えた、言語を絶する悟りの体験といったことも説かない。それどころか、人間の認識を超えて根拠のあることを語ることはできないと、初期仏教は主張する。
 宇宙原理を説かない初期仏教は、宇宙の秩序に沿った人間の本性があるとは考えない。したがって、儒教(朱子学)のような「道」や「性」にもとづいて社会や個人の規範を示すこともしない。人間のなかに自然な本性を見いだして、そこに立ち返るよう説くのではなく、人という個体存在がさまざまな要素の集合であることを分析していく。
 こうした他教だけではない。初期仏教は、日本の仏教ともずいぶんと様相を異にしている。初期仏典では、極楽浄土の阿弥陀仏も、苦しいときに飛んで助けに来てくれる観音菩薩も説かれない。永遠に生きている仏も、曼荼羅(まんだら)で描かれる仏世界も説かれない。
 また初期仏教では、修行はするが、論理的に矛盾した問題(公案〈こうあん〉)に集中するとか、ただ坐禅(只管打座〈しかんだざ〉)をするといったことはない。出家者が在家信者の葬送儀礼を執り行うことはなく、祈禱をすることもない。出家者が呪術行為にかかわることは禁止されていた。
 初期仏教は、それに代わって、「個の自律」を説く。超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死にゆく「自己」に立脚して倫理を組み立てる。さらに、生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)】

 真理は言葉にし得ないゆえに否定形をもって伝えられる。馬場のテキストはまるでクリシュナムルティを語っているかのようである。人類は2000年周期で行き詰まり、その度にブッダと称される人物が登場するのだろう。人類は果たして生き方を変えることができるだろうか? あるいは同じ運命を繰り返しながら、やがては滅んでゆくのだろうか? その答えは私の胸の中にある。

2020-10-06

メタフィクションが表す真実/『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ


 ・メタフィクションが表す真実

『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダルタは端坐して呼吸を少なくすることを学んだ。わずかの呼吸で事足りることを学んだ。呼吸を止めることを学んだ。彼は呼吸から始めてさらに心臓の鼓動を制御することを学んだ。その鼓動を減らしてその数を少なくし、ついにはほとんど鼓動なきに至ることを学んだ。
 沙門の大長老に教えられてシッダルタは新しい沙門の定めに従って滅我を修め、観想を行(ぎょう)じた。一羽の鷺(さぎ)が竹林の空を飛んだ――とシッダルタはその鷺を自己の魂の中におさめ、森と山の上空を飛び、みずからすでに鷺そのものであり、魚を食らい、鷺の飢えを飢え、鷺の叫びを叫び、鷺の死を死んだ。一匹の豹(ひょう)が砂浜に横たわっていた、とシッダルタの魂はたちまちその亡骸(なきがら)に忍び入り、死せる豹として砂浜に横たわり、ふくれ上がり、臭(にお)いを発し、腐り、鬣狗 ( ハイエナ )に肉を食(は)まれ、禿鷹(はげたか)に皮を剥(は)がれ、骸骨となり、塵(ちり)となり、広野へ飛び散った。そして再びシッダルタの魂はもとに戻った。それはすでに一(ひと)たび死滅し、腐り、塵と化して、輪廻(りんね)の物悲しい陶酔を味わってきたものである。そして再び、新しき渇きに駆られて、輪廻の輪から脱(のが)れうべき隙間、因果の鎖が終わり、悩みなき永劫が始まるべき隙間を、猟師のように狙(ねら)うのであった。彼は五官の覚えを殺し、記憶を殺し、自我を脱け出て数限りない他の行像に忍び入り、獣となり、腐肉となり、石となり、木となり、水となった。そしてそのたびごとに覚醒めてまたその自己を見出した。日は照り、月は輝いていた。彼は再び彼であった。輪廻の中をめぐり、渇きを覚え、渇きに克(か)った。そしてまた別の新しい渇きを覚えた。

【『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ:手塚富雄〈てづか・とみお〉訳(岩波文庫、2011年/『シッタルタ』三井光弥訳、新潮社、1925年/『ジッタルタ 印度の譚詩』芳賀檀訳、人文書院、1952年/『悉達多』手塚富雄訳、『ヘッセ全集』三笠書房、1941年、のち角川文庫/『内面への道 シッダールタ』高橋健二訳、1959年、新潮文庫/『シッダールタ』岡田朝雄訳、草思社、2006年:草思社文庫、2014年/『ヘルマン・ヘッセ全集12 シッダールタ・湯治客・ニュルンベルクへの旅 物語集VIII 1948-1955』日本ヘルマンヘッセ友の会・研究会編訳、臨川書店、2007年/ 原書は1922年)】

 革新的な小説である。現代であれば実験的手法と評されることだろう。主人公のシッダルタはブッダではない。そうでありながらも悟る以前のシッダルタを踏襲しているのだ。「ブッダを描く」という構想から更なる構想が生まれたのだろう。すなわち手法としてのメタフィクションを選んだわけではなく、真実を表現するためにメタフィクションとならざるを得なかったのだ。私はそう読んだ。

 もう一つの読み方としてはタイムトラベルと受け止めればいい。つまりシッダルタは己心のブッダに邂逅(かいこう)したのだ。こう考えると法華経如来寿量品第十六における釈尊と久遠仏(くおんぶつ)の関係に近い。

 構想は神の視点で行われる。映画監督や小説の書き手は文字通り神の役割を果たす。登場人物の一言一句から生殺与奪まで意のままだ。ところが生命を吹き込まれたキャラクターが勝手に歩き出すことがある。創作の醍醐味はここにあるのだろう。ヘッセが本書で行ったのは一神教的構想の打破ではあるまいか。

「事実は小説より奇なり」(バイロン)と言うがそうではない。いかなる事実であれ、言葉に置き換えられた瞬間にそれは解釈された物語となる。解釈は構想に支えられ、構想は解釈によって膨(ふく)らみを増す。思考は時間に則(のっと)る。因果が示すのは時系列だ。歴史は過去から未来に向かって流れる。人生は川の流れに喩(たと)えられる。しかし川の外側に立ち、はるか上空の視点から川全体を眺めれば現在から過去や未来までを見渡すことができる。これが悟りだ。

 見たものに同化する、相手の内部世界を観じる――あるいは感じる――のはクリシュナムルティも書いている。

「観察」のヒント/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 後期仏教(大乗)ではこれを「同苦」と表現する傾向があるが、共感的な側面よりも、ありありと苦を見つめる意味合いが強いと私は考える。安っぽい慈悲の物語よりも現実に即した理知と受け止めるべきだろう。

2020-02-15

初期仏教の主旋律/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律
 ・初期仏教は宗教の枠に収まらず

ブッダの教えを学ぶ

 このように、「成仏伝承」に説かれる「ブッダの悟り」の内容は、「律」の仏伝的記述において説かれる「ブッダの教え」の内容と、よく対応する。すなわち「四聖諦(ししょうたい)」「縁起」「五蘊六処」、および六処と構造を共有する「十二処十八界」は、諸部派の出家教団でともに中心的教理に位置づけられているのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

 六処以降は私もよく知らず。特に知る必要もないと考える。ブッダが説いた教理は四諦・縁起・五蘊と覚えておけばよろしい。

 テキストの成立という点では、こうして重要な点が不明なままである。しかし、思想の成立という点では、かなりの程度はっきりとしたことが言える。諸部派、少なくとも上座部大寺派化地部法蔵部説一切有部大衆部の結集仏典で共通して伝承される「布施」「」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、初期仏教の時代、すなわち遅くとも紀元前後までに成立していたといえる。
 というのは、紀元後1-2世紀のガンダーラ写本にも、2世紀に訳出された漢訳仏典にも、1-2世紀に著されたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)の作品にも、これらの教えは広く説かれているからである。(中略)
 以上の事実をふまえると、諸部派がブッダの教えとして共有した「布施」「戒」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、紀元前に、かつ大乗仏教の興起以前に存在していたことがわかる。これらが初期仏教で広く伝承されていた思想であることは確実である。初期仏教の思想における「主旋律」があったとすれば、これらを措いて他にない。

 ガンダーラ写本については以下の記述がある。

 1990年代中頃に始まるガンダーラ写本の発見は、近代仏教学の歴史のなかでも衝撃的なものだった。なぜなら、ネパールや中央アジアのサンスクリット写本の作られた年代が古くともせいぜい紀元後7-8世紀なのに対し、ガンダーラ写本は紀元前後から紀元後3-4世紀のものと考えられ、それまでの年代をはるかに遡るものだったからである。

 ウーム。もしも古い写本が見つかるたびに教理が変わるとしたら、仏教は既に宗教ではなく歴史なのだろう。「教え」が与えた余韻は長く響き渡り、人々の心を震わせたはずだと私は考える。

 もう一つは北伝仏教をどう捉えるかという問題がある。ブッダの教えからどんどん乖離して変形していった背景にはまず気候の違いがある。文化を支配するのもまた気候である。仏教東漸の歴史を思えば日本仏教までの道程は進歩史観さながらである。

 問われるべきは「悟ったかどうか」であり「悟りの中味」である。そう考えると禅宗を除いた鎌倉仏教は悟りから離れていったように見えてならない。

 今後あるべき日本仏教の姿としては鎌倉仏教から密教要素を取り除くか、あるいはルネサンス運動として部派仏教に回帰するのが望ましいと思う。もちろん「密教の正当化」という方向性もあるが、これだとヒンドゥーイズムに取り込まれてしまうだろう。

 鎌倉仏教が日本思想の精華であるのは確かだが、当時の情報量の少なさを思えば現代の仏教徒はもっともっと知的格闘を行う必要があろう。

2020-02-14

小部は苦行者文学で結集仏典に非ず/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律
 ・初期仏教は宗教の枠に収まらず

ブッダの教えを学ぶ

 このように五部派で一致して、結集仏典の「法」に位置づけられる四阿含(四部)が成立した後に、「小蔵」(または「小部」「小阿含」)という集成が「法」に追加されたということは、「小蔵」に収録されている仏典がもともと結集仏典に位置づけられていなかったことを示している。実際、この集成に収録されているのは、基本的に韻文仏典であり、経蔵の「四阿含」の諸経典が用いる定型表現を用いていない。まったく異なる様式のものなのである。
 以下に説明するように、韻文仏典のなかには紀元前に成立したものが含まれているが、元来、結集仏典としての権威をもたず、その外部で伝承されていたのである。
 このことは、かつて中村元らの仏教学者が想定していた、韻文仏典から散文仏典(三蔵)へ発展したという単線的な図式が成り立たないことを意味する。韻文仏典に三蔵の起源を見出すことには、方法論的な誤りがあるのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

犀の角のようにただ独り歩め
ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

 馬場紀寿が「初期仏教」としたのは「原始仏教」に対する批判が込められている。更に小部(しょうぶ/パーリ五部のうち半分以上の量がある)は苦行者文学で結集(けつじゅう)仏典に非ずとの指摘は『ブッダのことば スッタニパータ』が「ブッダの言葉ではない」と断言したもので、少なからず中村元〈なかむら・はじめ〉に学んだ者であれば大地が揺らぐような衝撃を覚えるだろう。

 『犀角』も、『経集』と同様に「小部」に収録されている『義釈』において『到彼岸』とともに注釈されており、『経集』のなかでも成立の古い偈である。おそらく紀元後1世紀頃に書写されたと考えられるガンダーラ写本が見つかっているから、その成立は紀元前に遡ると考えてよい。
 しかし、これらの仏典には、仏教特有の語句がほとんどなく、むしろジャイナ教聖典や『マハーバーラタ』などの叙事詩と共通の詩や表現を多く含む。仏教の出家教団に言及することもなく、たとえば『犀角』は「犀の角のようにただ一人歩め」と繰り返す。多くの研究者が指摘してきたように、これらの仏典は、仏教外の苦行者文学を取り入れて成立したものである。

 古いから正しいわけではない。これは「小乗非仏説」といってよい。小部には「スッタニパータ」以外にも「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」を含む。

「いやあ参ったなー」と思うのは私だけではないだろう。困惑のあまり不可知論に陥りそうだ。

 ま、言われてみれば「犀の角のようにただ一人歩め」というのは単なる姿勢であって教理ではない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」(『孟子』公孫丑篇)と同工異曲だ。クリシュナムルティの仏教批判は正当なものであった(『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ)。

毀誉褒貶に動かされるな/『原始仏典』中村元


『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
『ブッダ入門』中村元
『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集

 ・毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされるな

『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

「比丘たちよ、他の人たちがわたしを誹謗しようとも、あるいは法を誹謗しようとも、あるいは僧団を誹謗しようとも、それに対してあなたたちは怒ったり、不機嫌になったり、心を不快にしてはいけあい。比丘たちよ、他の人たちがわたしを誹謗し、あるいは法を誹謗し、あるいは僧団を誹謗して、あなたたちがそれに対して怒り、あるいは快く思わないなら、それはあなたたちの障害となるであろう。(中略)
 比丘たちよ、他の人たちがわたしを賞賛しようとも、あるいは法を賞賛しようとも、あるいは僧団を賞賛しようとも、それに対してあなたたちは喜んだり、うれしく思ったり、心に得意に思ったりしてはならない。比丘たちよ、他の人たちがわたしを賞賛し、あるいは法を賞賛し、あるいは僧団を賞賛して、あなたたちがそれに対して歓び、うれしく思い、得意に思うなら、それはあなたたちの障害となるであろう。

【『原始仏典』中村元〈なかむら・はじめ〉(ちくま学芸文庫、2011年)】

 感情の相対性理論である。ブッダが示すのは中道の生き方だ。瞑想とは怒りや喜びを見る行為である。見るためには離れる必要が生じる。毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされるなとの指針は心理的テクニックを教えるものではなく、自身の反応を静かに見つめる内省的な次元でそのメカニズムを解体するとことに目的がある。

 ブッダはかつて存在した。しかしブッダの教えは変遷に変遷を重ねて仏教各種を生んだ。そこにブッダの面影を偲ぶことは可能だろうか? 私が想うブッダはインドを闊歩したブッダと同じであろうか? ひょっとすると脚色を施されたブッダという名のキャラクターを勝手に妄想しているのかもしれない。

 中村元が編んだ仏典シリーズは『ジャータカ全集』(全10巻、春秋社)~『原始仏典』(全7巻、春秋社)~『原始仏典Ⅱ』(全6巻、春秋社)と続く。

2020-02-03

仏教は神道という血管を通じて日本人の体内に入った/『神風』ベルナール・ミロー


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之

 ・読書日記
 ・フランス人ジャーナリストが描く特攻の精神
 ・仏教は神道という血管を通じて日本人の体内に入った
 ・特攻隊員は世界の英雄

『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 仏教が日本人に与えた影響がきわめて大きいことを、再度強調しておきたい。なぜなら、仏教は日本人を精神主義化させ、形而上的レベルにまでひきあげることによって、この国にもとからあった伝統や、慣習的思考に一種の帰結、結論をもたらしたからである。この国には伝来当時からほとんど変貌していない、原型を多分にとどめた禅宗という仏教の一派があるが、これを調べてみると、仏教の教義と戒律は、神道という血管を通じて日本人の体内に入ったものであることが判る。そして仏教を通らせた血管の神道は、権威への絶対服従、半神天皇の崇拝から、さらに悔恨や屈辱からまぬがれて愛国的飛躍に達するための自己愛による自己犠牲といった、それまでの仏教になかったものを、それにつけ加えたものであった。
 日本人はこれらのドグマから、国家の真の倫理をひき出すほどまでに、この修正仏教に帰依し、かぶれきった。その影響は多岐にわたり、かつ多様ではあるけれども、とにかく武士も芸術家も居者も、仏教の戒律と仏教的思考法を通じて、日本人はみな同一思考に結びつけられた。これは生まれた土地がちがおうと、階級がちがおうと、差異はなかった。日本人には同じような純粋さ、同じような解脱心、同じような感情の圧殺が生じた。苦悩や死を前にしての日本人の行動、努力するかぎりは栄光のあの世へ行けるのだという観念、大戦を通じて我々の見たこのような日本人像は、疑いもなく主として仏教の形づくったものであり、仏教の真髄であるともいえるのである。

【『神風』ベルナール・ミロー:内藤一郎〈ないとう・いちろう〉訳(ハヤカワ・ノンフィクション、1972年)】

 たまたま今読んでいる小室直樹の『中国共産党帝国の崩壊 呪われた五千年の末路』(カッパ・ビジネス、1989年)に「人民の要諦(ようてい)は、われわれは一つであるという、連帯(ソリダリティ)の意識である。換言(かんげん)すれば、連帯なきところに人民なし、といえる」と書かれている。それゆえ「中国に人民はいない」と。小室によればアメリカ国民が確立されたのは南北戦争を通してのことであった。リンカーンが第二の国父と仰がれる理由もアメリカを歴(れっき)とした国家(ネイション)にした功績による。

 そう考えると日本に国民感情が芽生えたのは元寇(蒙古襲来)の頃だろう。モンゴル軍の実態については杉山正明著『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』(講談社学術文庫、2010年)が詳しい。この時全国の武士が掻き集められた。軍事力に優れた日本だったが自衛戦争であったため、後々参戦した武士に幕府は恩賞を与えることができなかった。これが鎌倉幕府滅亡の遠因となる。日蓮が文永の役の14年前(1260年)に認(したた)めた「立正安国論」も国家意識を雄弁に物語っている。

 私は予(かね)てから神仏習合を「神道と仏教の妥協・歩み寄り」と考えてきたのだが間違っていたようだ。

小林●日本人の宗教という問題で一番の困難は、他の部門の文化と同様に、やっぱりその外来性にあるんだなあ。本地垂迹(ほんじすいじゃく)という難しい問題に衝突してしまうところにあるんだな。
 素朴な宗教的経験のうちから教理が生まれ育って行くという過程がなく、持って生まれた宗教心と外来宗教のドグマとの露骨な対立、その強引な解釈というものがまずあった。そこから宗教の歴史が始まっている。

【『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』小林秀雄(新潮社、2004年)】

 私はこれをリアリズムに基づく折衷主義と考えていた(本地垂迹説/『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基)。だが実は神道というエートスに仏教が骨格を与えたのだろう。それまでアニミズムに過ぎなかった神道が仏教によって行動原理を樹立したのだ。実際の戦闘がないにもかかわらず江戸時代の様式化した武士道が死を見据えたのも仏教の影響が大きいと思われる。

 ミローの慧眼は「修正仏教」の一語に表れている。仏教史から見れば日本仏教は噴飯物だが、国民意識を涵養するための方便と考えることも可能だろう。

 特攻に仏教の精神を見抜くジャーナリストの眼光が行間からほとばしる。

2017-05-14

仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉


『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

 ・仏教における「信」は共感すること

『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

(※上座部仏教に魅惑されながらも)では、なぜ、再出家を実行しなかったのか。
 道元禅師に帰依したが故、と言えば格好がつくのだろうが、実は最大の理由はそれではない。そうではなくて、私自身の仏教に対する身構えの問題である。
 この対談でもふれているが、私は仏教、釈尊や道元禅師の教えが「真理」だと思って出家したのではない。私は、自分自身に抜き差しならぬ問題を抱えていて、これにアプローチする方法を探し求めた果てに、仏教に出合ったのである。つまり、仏教は問題に対する「答え」としての「真理」ではなく、問題解決の「方法」なのだ。

【『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ選書、2011年)以下同】

 言葉に哲学的な明晰さがあるのは南が病弱で幼い頃から死を凝視してきたためだろう。自分がよく見えている文章だ。

 今回のスマナサーラ長老との対談で、話が噛み合わないところが見えるとしたら(見えるはずだが)、その理由は、我々の民族・文化・宗教の違いだけではない。多数派における、ほとんど完璧な論理と実践を体得した指導者と、足もと覚束ないままに開き直った少数派修行僧の間の、懸隔であろう。
 今、私は忍耐強く私との対談に付き合ってくださった長老に深く感謝申し上げたいと思う。
 私たちの間には、今述べたような身構えの違いが厳然とあった。それは、対談開始直前に、
「さあ、何でも質問してください。答えますから」
 と言われた瞬間にわかったことだった。長老は「真理」の教師であり、私は「問題」に迷う生徒だったのだ。

 私はたちどころに卑屈の匂いを嗅ぎ取った。しかも怜悧な卑屈である。だが注目すべきはそこではない。数十年の修行を経ても尚且つ保ち得た「率直さ」が侮れないのだ。南は自分に対して正直に生きてきたのだろう。ここには名の通った僧侶にありがちな見栄や傲岸さは微塵もない。スマナサーラの言葉に悪意はなかったことだろう。そして私は南の率直さを通してスマナサーラの傲慢が見えた。南のことを「先生」とは呼びながらも、養老孟司の対談とは全く違った態度を取っている。仏教に対するアプローチが異なる二人の対談が噛み合うわけもない。

スマナサーラ●「『信じる』とはどういうことですか?」と尋ねられたとき、「共感することです。それしかないのです」と答える。それが、仏教の言う「信」――「信仰」ではなくて「信」なのです。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

「信仰」とは一神教の神を仰ぐ姿勢である。日本の仏教だと「信心」だ。「信じる」とは何も考えないことである。疑えば信は生じない。鎌倉仏教で信心を説いたのは法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)と日蓮だ。いずれもマントラ仏教といってよい。信じる→呪文を唱える→悟る、との三段論法である。

 法華経に信解品第四があり、涅槃経には「信あって解(げ)なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信解円通してまさに行の本(もと)と為る」とある。法華経の成立年代については諸説あるが西暦40~150年である。ブッダ滅後400~550年となる。三乗(声聞・縁覚・菩薩)を否定的に捉え一乗を説いたのは初期仏教(上座部)に対する後期仏教(大乗)の政治的な戦略であろう。そのためにわざわざ「信」を強調したとしか思えない。三乗を悟っていない存在に貶め、人智の及ばぬ高み(一仏乗)を設定した上で「信」を勧めるのである。日蓮は信解(しんげ)・理解(りげ)と分けたがそうではあるまい。信と理の対立よりも「解」に重みがあると私は考える。

 信が共感であれば、クリシュナムルティが説く「理解」と一致する。

南●人間が、何かを考えるときに、必ず言語を使うでしょう? 私が思ったのは、無明というのは、人間が言語を使うときに、必然的に引き起こすある作用だろう、と思ったのです。
スマナサーラ●ああ、なるほど、それもそれで正しいとは思います。しかし、私は認識のほうに行くのです。(中略)そこで、分析してみると、我々の認識全体に、欠陥があることが発見できるのです。
南●私もそう思います。
スマナサーラ●その欠陥が、無明なのです。
南●ああ、わかりました。

 南直哉は僧侶の格好をした哲学者である。彼が仏法に求めたのは『方法叙説』(デカルトの主著。刊行当時の正確なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』1637年)の「方法」であろう。

 南は最も世間に広く届く言葉を持った宗教者であり、深き思考が世相の思わぬ姿を照射する。私は本書を読んで南を軽んじていたのだが、『プライムニュース』(BSフジ)を見て評価が一変した。

『プライムニュース』動画

 普段は軽薄なフジテレビの女子アナが思わず話に引き込まれ、素の表情をさらけ出している。

 南直哉と友岡雅弥の対談が実現すれば面白い。司会はもちろん宮崎哲弥だ。

2016-07-10

ブッダ以前に仏教はない/『つぎはぎ仏教入門』呉智英


 ・ブッダ以前に仏教はない

『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英

 ところで、仏教のそもそもの宗祖は釈迦である。釈迦はその弟子や信徒たちと、どんな仏像を拝み、その前でどんなお経を唱えていたのだろうか。
 ちょっと考えてみよう。釈迦以前に仏教はない。覚(さと)りを開いて仏陀(ぶっだ)となった釈迦が仏教の宗祖だからである。イエス・キリスト以前にキリスト教はない。イエスの教えがキリスト教である。キリスト教では神父や牧師が信徒たちと十字架の前に額(ぬか)ずくけれど、イエス自らが使徒たちと十字架に額ずいたことなどありえない。十字架上にあるのはイエスその人だからである。これと全く同じように、仏陀釈迦が弟子や信徒たちと仏像を拝んだことなどありえない。釈迦以前に仏教はなく、仏像はないからである。

【『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年/ちくま文庫、2016年)】

 気づくのは一瞬だ。「あ!」と思った途端に目から鱗が落ちる。少しずつ徐々に気づくということはない。呉智英〈くれ・ともふさ〉は儒者である。外側に立っていたからこそ仏教の本質が見えるのだろう。

 ブッダ以前に仏教はなく、イエス以前にキリスト教はない。言葉の限界性を思えば、悟りから発せられた言葉であったとしても、言葉そのものは悟りではない。

 念仏を発明した人は南無阿弥陀仏と唱えて悟ったわけでもないし、題目を編み出した人が南無妙法蓮華経と念じて悟ったわけでもない。

 ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)であるが、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み/サンスクリット語読みではガウタマ・シッダールタ)以前にもブッダと呼ばれる人々は存在した。つまり悟りの道は一つではないのである。尚、イエスの実在については多くの疑問があり確かな証拠がない。

 理窟をこねくり回すのは悟っていない人々だろう。論者・学者は覚者ではない。ひとたび論理の網に搦(から)め捕られると、知識の重みに満足してニルヴァーナ(涅槃)から離れてゆく。

 教団が形成されると教義と儀式の構築に傾いてゆく。ブッダの教えはシナを経て日本に至り信仰へと変質した。お経を読み、仏像やマンダラを拝む宗教になってしまった。

 教義は死んだ言葉である。繰り返されるマントラ(真言)も生きた言葉ではない。

 言葉はコミュニケーションの道具である。真のコミュニケーションは自我を打ち消す。そして言葉を超えた地点にまで内省が深まった時、世界を照らす光が現れるのだろう。瞑想とは思考を解体する営みだ。

 教義を説く者を疑え。

つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)

2016-04-19

「隠れた脳」は阿頼耶識を示唆/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 ・人間の脳はバイアス装置
 ・「隠れた脳」は阿頼耶識を示唆
 ・人種差別というバイアス

『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
『たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する』レナード・ムロディナウ
『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク

必読書リスト その五

 私は隠れたところで人に影響を与える力を、“隠れた脳”(ヒドゥン・ブレイン)という造語によって表したい。これは頭蓋骨の中にある秘密の物体でもなければ、最近発見された脳の新たな機能でもない。隠れた脳とは要するに、気づかないうちに私たちの行動を操るさまざまな力のことを言う。頭の中で結論への近道を探す作業、あるいはヒューリスティックス(訳注:計算やコンピュータ・プログラムのような決まった手順によらない、直感的な問題解決の方法)と関わる部分もあるし、記憶や認識の錯誤と関わる部分もある。それらすべてに共通しているのは、私たちがその影響力に気づかないということだ。努力によって、ある程度バイアスに気づく側面もあるが、隠れた脳の大半は自覚の及ばないところにある。無意識のバイアスは頭の中にいる秘密の操り人形師が起こすものではない。バイアスの影響によって、そのような人形師がいるように見えるのだ。

【『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム:渡会圭子〈わたらい・けいこ〉訳(インターシフト、2011年)】

 認知科学がバイアス(歪み)を明らかにした功績は大きい。それまでつかみどころのなかった無意識を具体化したからだ。ダニエル・カーネマンは経済学に認知科学を導入し、行動経済学というジャンルを打ち立てた。この分野はまさに百花繚乱の趣がある。

 認知バイアスは我々が歪(いびつ)な世界に生きることを教える。私自身の眼には薄い――あるいは濃い――色のサングラスが掛かっており、心は歪(ゆが)んだ鏡なのだ。世界や社会に蔓延(まんえん)する恐怖・差別・暴力の原因はここにあるのだろう。

 ヒューリスティクスはAI(人工知能)やロボット工学で脚光を浴びた概念だ。正確を期して無数の選択肢を吟味するよりは、大雑把で曖昧ではあるが直感的に判断することが時間的合理性に優れる。もちろん失敗することも多いわけだが、立ち止まって可能性を数え上げるよりは、賭けに近い行動を選ぶ。

「何となく嫌な感じ」というものがある。人の印象や出来事の推移に違和感を覚え、「何だかなあ」という思いを抱えた経験は誰しもあることだろう。嫌悪感はコントロールすることが極めて難しい。嫌な奴はどうしても嫌なのである(笑)。

 反対のケースを考えてみよう。美人を嫌う男性はいないだろうし、ハンサムを嫌う女性もいないだろう。高い身長・グラマーな体型・逞しい筋肉・豊かな黒髪・長い足・つぶらな瞳などなど。身体的特長以外でも数え上げればキリがない。大まかに言ってしまえば、カネ(資産・収入)・頭のよさ(学識・知性・アイディア)・コミュニケーション能力・感情・精神性といったところだ。

 異性に惹(ひ)かれる要素はいずれも進化的優位性にまつわるものと考えてよかろう。つまり相手と自分の間に生まれる子供の生存率が高まるのだ。「恋は盲目」なのは当然である。本能に衝き動かされているわけだから(笑)。草津の湯でも治る見込みのない病気である。また離婚の多さや家庭内別居などの現状が「本能の誤り」を証明している。

「隠れた脳」は阿頼耶識(あらやしき)を示唆する。唯識思想では眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜっしき)・身識(しんしき)・意識(いしき)・末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の八つが認識機能とされる。末那識は自我やエゴを支える深層部分で、阿頼耶識は更に深く広大な領域となる。阿頼耶識は他の七識を司るゆえに根本識ともいい、かくれて見えないがゆえに蔵識とも名づける。

 唯識思想は存在論ではなく認識論である。つまり目の前に世界が実際に存在するわけではなく、八識の中に認識世界があると考えるのだ。識を情報と訳せば、五蘊(ごうん)に仮託された人間という事象は「情報処理の当体」であり、その行為を計算――あるいは演算――と考えることも可能だ。因みにワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』(岩波文庫、2016年)で今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉は五蘊を「五集合要素」と訳している。

 認知科学は人が自覚し得ない領域に迫り、嫌悪感・偏見・差別感情の要因をも解明しつつある。認識の歪(ゆが)みを自覚する人々が増えれば、人種差別やいじめをなくすことも可能だろう。阿頼耶識は情動や本能が吹き荒れる世界と考えられるが、集合知もまたここから現れるのだ。すなわち自我よりも深い部分で、我々は憎悪で結びつくこともできるし、英知でつながることもできるのだ。

 ひょっとすると今、人類の業(ごう)を転換する時が到来しているのかもしれない。

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2016-04-16

序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵


 ・長尾雅人と服部正明
 ・序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり
  ・秘教主義の否定/『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎

『ウパニシャッド』辻直四郎
『はじめてのインド哲学』立川武蔵
『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

スピリチュアリズム(密教)理解のテキスト

 ウパニシャッドは「奥義書」と訳されたり、「秘教」とよばれたりするが、その本来の意味は必ずしもはっきりしていない。語源的には「近く」(原語略)「坐る」(原語略)という意味があり、弟子が師匠に近座すること、こうして伝授される秘説、さらにその秘説を集録した文献を意味する、という解釈が一般に行なわれてきた。
 近来の学者は、それに対して次のような考え方を提示している。そのほうがより多くわれわれを納得せしめるようである。すなわちこの語は古くから「対照」「対応」の意味をもち、それはのちに述べる大宇宙と小宇宙との等質的対応の関係――究極的には宇宙の最高の原理であるブラフマンと、個体の本質としてのアートマンの神秘的同一化を説くウパニシャッドの内容に、よく符号調和するというのである。

【『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人〈ながお・がじん〉責任編集(中央公論社、1969年/中公バックス改訂版、1979年)】

 序文「インド思想の潮流」(長尾雅人、服部正明)に日本仏教を解く鍵がある。バラモン教の聖典ヴェーダは、サンヒター(本集)・ブラーフマナ(祭儀書、梵書)・アーラニヤカ(森林書)・ウパニシャッド(奥義書)の4部から成り、更に各部が四つに派生し、重ねて細密化し、絢爛(けんらん)たる思想のタペストリーを紡(つむ)ぐ。

 イエスがユダヤ教の論理に則ってキリスト教を説いたように、ブッダもまたバラモン教の論理を再構築・止揚するスタイルで教えを説いた。

六五〇 生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 言葉を自由に駆使しながら、バラモンを否定することなく、その階級制を撃破している。手垢まみれの表現を恐れずに使えば、ブッダはまさしく「言葉の天才」であった。そしてこの天才性に抗し切れず、額(ぬか)づくところに教義が形成される。

 インド仏教には二つの大きな流れがあり、上座部(じょうざぶ/いわゆる小乗・部派仏教・テーラワーダ)と大衆部(だいしゅぶ/いわゆる大乗)に分かれ、前者は南伝仏教(スリランカやタイ、ミャンマー)となり後者は北伝仏教(中国やチベット、日本)として伝わった。

 厳密にいえば大衆部=大乗ではなく、諸説があって定まっていない。学者ではない私が神経質になることもないのだが、やはり古本屋魂が許さないため、個人的には「初期仏教」「後期仏教」と表記する。

 インドの宗教史は、おおよそ以下の6期に分けることができる。

 第1期 紀元前2500年頃~前1500年頃 インダス文明の時代
 第2期 紀元前1500年頃~前500年頃 ヴェーダの宗教の時代(バラモン教の時代)
 第3期 紀元前500年~紀元600年頃 仏教などの非正統派の時代
 第4期 紀元600年頃~紀元1200年頃 ヒンドゥー教の時代
 第5期 紀元1200年頃~紀元1850年頃 イスラム教支配下のヒンドゥー教の時代
 第6期 紀元1850年頃~現在 ヒンドゥー教復興の時代

【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)以下同】

 根本分裂はブッダの死後100年頃と考えられているので、中村元説を取れば紀元前283年前後となる。

 全くの私見であるが、後期仏教はバラモン教復興(「バラモン教からヒンドゥー教へ」の流れ)への対抗措置として生まれたと考える。一言で述べれば、双方が「信仰化」を図(はか)ったのだ。具体的には祭儀を求めた大衆心理に迎合する形で仏教が密教化していった。

 インド仏教は紀元前5世紀あるいは紀元前4世紀に生まれて、13世紀頃にはインド亜大陸から消滅したのであるが、この千数百年の歴史は初期、中期、後期の3期に分けることができよう。
 まず、初期とは仏教誕生から紀元1世紀頃まで、中期は紀元1世紀頃から600年頃までの時期を指す。後期とは紀元600年頃以降、インド大乗仏教滅亡までである。

 そしてインドで仏教が消滅した13世紀に鎌倉仏教が花開くのである。

 アルボムッレ・スマナサーラが日本仏教の特徴を「祖師信仰にある」(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司)と喝破している(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司〈ようろう・たけし〉、宝島社、2004年/宝島SUGOI文庫、2014年)。そして祖師信仰が座主(ざす)・法主(ほっす)・血脈志向を生んだ。ここにウパニシャッドの近座思想が垣間見えるではないか。

 日本仏教は梵我一如に染まり、大日如来久遠本仏を設定し、即身成仏を説くのである。その神格化と理論化がヒンドゥー教変遷の歴史と酷似している。

 言葉はコミュニケーションの道具である。すなわち言葉を通してブッダの悟りに迫ることが大切なのであって、言葉を崇(あが)め奉(たてまつ)るるところにブッダの精神はない。ブッダの教えは仏教へと変わり果てた。

 私は数年前にクリシュナムルティと出会い、ブッダの姿がくっきりと見えるようになった。また、アメリカインディアンに伝わる言葉の数々はアルハット(阿羅漢)を示すものと考えている。バイロン・ケイティジル・ボルト・テイラーも現代のアルハットであろう。



仏教学への期待:長尾雅人、上山大俊
中央公論社「世界の名著」一覧リスト
「私は在る」(I Am)その二/『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルド編

2015-11-02

自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑


『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英

 ・自殺は悪ではない
 ・わかりやすい入門書

『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
『ただ坐る 生きる自信が湧く一日15分坐禅』ネルケ無方

 たとえば、「自殺は決して罪悪ではない」(本書第40話)ということを書いたところ、それに対しては、何通かの批判の投書と、多くの方からの丁寧なお礼状を頂戴した。礼状はもちろん、身近な人を自殺で亡くされた方々からの封書である。
 1通読むたびに涙があふれた。そして、私の発する言葉が、良し悪しはともかく、こうして大勢の人たちの心に様々な思いを呼び起こすのだと知って、襟を正したのである。メディア上で発言するということは、その言葉に対して無条件に責任を負うということだ。まして人の生き方にかかわる言葉なら、なおさらである。

【『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)以下同】

 朝日新聞に連載された仏教エッセイ。佐々木は仏教史と戒律の研究で知られる。

 そのような人が、もし仮に、自分で自分の命を絶ったとしたら、それは悪事であろうか。一部のキリスト教やイスラム教では、せっかく神が与えてくださった命を勝手に断ち切るのだから、それは神への裏切り行為として罪悪視される。自殺者は犯罪者である。
 では仏教ならどうか。仏教は本来、我々をコントロールする超越者を認めないから、自殺を誰かに詫びる必要などない。確かに寂しくて悲しい行為ではあるが、それが罪悪視されることはない。仏教では煩悩と結びつくものを「悪」と言うのだが、自殺は煩悩と無関係なので悪ではないのである。ただそれは、せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスがあるのに、それをみすみす逃すという点で、「もったいない行為」なのだ。
 人は自殺などすべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けなければならない。しかしながら、その一方で、自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断だということも、理解しなければならない。人が強い苦悩の中、最後に意を決して一歩を踏み出した、その時の心を、生き残った者が、勝手に貶(おとし)めたり軽んじたりすることなどできないのだ。
 自殺は、本人にとっても、残された者にとっても、つらくて悲しくて残酷でやるせないものだが、そこには、罪悪も過失もない。弱さや愚かさもない。あるのは、一人の人の、やむにやまれぬ決断と、胸詰まる永遠の別れだけなのである。

「一部」ではなく「全部」である。アブラハムの宗教において自殺は罪と認識されている。「自殺は煩悩と無関係」との根拠も不明で、全体的には腰砕けの印象を拭えない。それでも救われた人々が多いという事実が重い。

「自殺は煩悩と無関係」よりも「自殺は不殺生とは無関係」(仏教は自殺を本当に禁じているのか?)の方がすっきりしてわかりやすい。とすると、やはり「自殺」という言葉よりも、「自死」「自裁」が相応(ふさわ)しいのだろう。


 かつてこう書いた。

 事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

 身近な人々が「なぜ自殺をしたのか?」と問うことは「毒矢の喩え」と似た陥穽(かんせい)におちいる。


 9.11テロの直後、カリフォルニアでは流産件数が跳ね上がったという。しかも増加分はすべてが男児であった(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス、2007年)。胎児が五感情報を通して生まれ来る世界が戦争状態であると認知すれば、男であることは生存率の低さを意味する。その瞬間、遺伝子は死のスイッチを押すのではあるまいか。

 少子化も無関係ではないだろう。「この世は生きるに値しない世界だ」と認識すれば、自分の遺伝子を残そうとは思わない。病んだ社会は人々を緩慢な自殺へといざなうことだろう。飽食や運動不足を始めとする不健康さが、我々の人生そのものにべったりと貼り付いている。

「なぜ自殺したのか?」と問うなかれ。ただ「その人と出会えたこと」を喜べるかどうかを問うべきだ。



「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
マラソンに救われる/『56歳でフルマラソン、62歳で100キロマラソン』江上剛

2015-06-19

真の無神論者/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥


 ・ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」
 ・人を殺してはいけない理由
 ・日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)
 ・友の足音
 ・真の無神論者

『仏陀の真意』企志尚峰
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 さて、よく「俺は無神論者だ」などという人がいます。
「無神論」という言葉が、例えばヨーロッパではどのような戦いの中で、勝ち取られてきた言葉か――自称「無神論者」の人たちは理解しているでしょうか。「神」の権威を振りかざす王や権力者との間で行われた戦いの熾烈さを、想起しているのでしょうか。少なくとも、「真の無神論者」は、真剣に信仰に生きている人をバカにしたりはしません。おそらく「真の無神論者」がもっとも嫌悪するのが、年中行事として形骸化した葬式でしょう。それこそが、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのですから。
 しかし、日本の自称「無神論者」はしっかり、初詣には行くのです。神殿の前でしっかり、「本年一年無病息災、商売繁盛」と祈るのです。言葉の厳密な意味で「無神論者」が最も批判するのは、日本的な「仮称無神論者」かもしれません。
「初詣は宗教じゃない。みんなやっている習慣なんだ」。しっかり神だのみをしている事実を覆い隠すように「仮称無神論者」は言います。この「習慣」というのが曲者(くせもの)なのです。「習慣」とは、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのです。ミシェル・フーコーが「権力のまなざし」として感じ、ヴァルター・ベンヤミンが「勝者の歴史」と見抜いたものに通じるのです。そして、まさに仏教が疑問を投げかけた、サンカーラそのものなのです。

【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥(第三文明社、2000年)】

 一度抜き書きで紹介しているのだが再掲。

無神論者/『世界の[宗教と戦争]講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦

「年中行事として形骸化した葬式」とはサンカーラを意味する。せっかくなんでサンカーラとサンスカーラについて調べてみた。

 サンカーラはパーリ語でサンが「集める」という意味をもった接頭語。カーラは「作る」の意味の名詞で「再構成」を示しています。仏典のなかには「サンカーラー」という複数形で使われ、これが諸行無常の「諸行」を表します。(田口ランディ

「五蘊」とは「色受想行職」のことで、「行」は「意志」などと解説されるが、サンスクリットでは「サンスカーラ」、パーリ語では「サンカーラ」で……「行」は、形成力、および形成された物という2つの意味を併せ持ち、「意志」と訳される場合も、「意志的形成力」というニュアンス(ややこしい「サンカーラ」の話

 ちょっと自分を観察すると、心の中に「何かをしたい」という気持ちが常にあることがわかります。それがサンカーラです。(初期仏教の世界

 サンカーラというのは、潜在意識の残存印象、経験の蓄積によって条件付けられたすべてのパターンの保管場所で、いわゆるエゴに当たるものであり、用語として熟しています。(諸行無常は間違い?

行(サンカーラ)―― サンカーラの作用は識として認識に出る少し前。(お釈迦様の悟り、般若心経

 広義のサンカーラは、五蘊の全体を含むものです。しかしこの場合は、色・受・想・識の四蘊は別出されていますので、四蘊に含まれないサンカーラ、主として心理的な形成力を、この場合の「行」としているのであります。(五蘊とサンカーラー

 サンスカーラとは「好むと好まざるに関わらず、対象を捉えようと対象に向かって無意識に(自分勝手に)働きかけていってしまう力。形成力」のことです。(仏教とは何か?

 サンスカーラとは : 様々な経験は、その残存物を生じさせ、それが心の中に保存される。この残存物をサンスカーラ(残存印象)と呼び、これが刺激されると、その反応として習慣的パターン化した思考や行為が生じる。この反応は、それ自身の残存物を生じさせ、それが再び心の中に保存される。人はこの循環を繰り返している。(心の反応パターン

 サンスカーラの原因は煩悩であり、それはヴァーサナーという、非常に古い時間の中で形成されてきたものです。ヴァーサナーというのは傾向、習性と訳されます。(カルマ-苦とその原因

 古代インドのバラモン教徒が誕生,結婚など生涯の各時期に通過儀礼として家庭内で行った宗教的儀式の総称で,通常〈浄法〉と訳される。サンスクリットの〈サンスカーラ〉という語は本来,なんらかの現実的効果をもたらす潜在的な力を意味したといわれ,この意味で聖別,浄化などの効力を賦与する各種の儀式がこの名称で呼ばれるようになったと思われる。(世界大百科事典 第2版

行蘊(ぎょううん、saṃskāra) - 意志作用(Wikipedia

 ああ疲れた。ものを書くことはつくづく疲れる(笑)。以前、北尾トロに「ライターという仕事を続けてきて、精神というか、自分の内部で擦り切れてくるような感覚はないんですか?」と尋ねたら、「ああ、それは確かにある」と答えた。たぶん「書く」行為は彫刻のように何かを削る営みなのだろう。

 広義と狭義の違いを踏まえながらも一言でいってしまえば、サンカーラおよびサンスカーラとは「業に基づく意志作用」なのだろう。もちろん“業に基づく”とは五蘊(ごうん)全体に言えることだ。

 無神論はたいていの場合「科学への信頼」とセットになっている。合理に向かえば神の影は薄くなる。近代自然科学が発達すると理神論が生まれる(PDF「近代キリスト教と自然科学」)。ま、折衷案みたいなものか。

 本書は大変に優れた仏教書ではあるが、この部分については友岡が信仰者であるためやや宗教側に傾いた姿勢が強い。いくら何でも「『習慣』 とは、権力者が作り上げた『虚構の共同体の維持装置』なのです」は言い過ぎだ。そもそも共同体という共同体をすべて「虚構」と考えることも可能だ。渡辺京二著『逝きし世の面影』を読むと、江戸末期のお伊勢参りが脱日常の行事であったことが理解できる。例えば「抜け参り」といって江戸の奉公人が主人に黙って仕事中にもかかわらず伊勢参りの一行に潜り込むことが容認されていたという。着の身着のままで同行しても、往く先々で施しを受けることができたそうだ。これを友岡の論理で切り捨てることは難しいだろう。

 1990年代から日本の近代史が注目されるようになり、それまでは否定的に扱われてきた江戸時代を捉え直す動きが出てきた。実は士農工商という言葉は身分社会を意味するものではない。既に現在の教科書からは削除されている。

教科書から消えたもの 士農工商
江戸時代の身分制度に関する誤解

 職業や性別、年代を超えた「連」という知的コミュニティもあった。

 総じて日本人が名乗る場合の無神論者とは「創造的人格神」を否定したものであって、全体的には精霊信仰(アニミズム)に染まっている。

2014-05-26

上座部を体系化したブッダゴーサ/『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿


『原始仏典』中村元

 ・上座部を体系化したブッダゴーサ

『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

 上座部仏教では、「ブッダの言葉」として認められた三蔵が〈正典〉とされ、パーリ語が〈正典の言葉〉である。パーリ語は、サンスクリット語と同様、インド=ヨーロッパ語族に分類される古代インド語の一つだが、上座部仏教の拡大にしたがって、スリランカと東南アジアに伝えられ、正典の言葉として当該地域に多大な影響を与えた。

【『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(春秋社、2008年)以下同】

 馬場紀寿の博士論文を改稿したもの。気魄がこもっている。ただし読みにくい。相応の知識も必要だ。小乗というネーミングは大乗側がつけた貶称(へんしょう)で上座部とするのが正しい。大乗は大衆部(だいしゅぶ)という。ブッダが死去して100年後に仏教教団は二つに分かれた。これを根本分裂と称する。

 上座部仏教が他の仏教とは異なる固有の性格を帯びて、その〈原型〉を形成したのは、5世紀前半の上座部大寺派においてなのである。

 大寺はスリランカの僧院でマハーヴィハーラともいう。スリランカ上座部の総本山と考えてよかろう。

 因みに龍樹が2世紀に、無著が4世紀に登場する。

 大寺では、紀元前後から三蔵に対する註釈が作成されるなど、思想活動が続けられていたと考えられるが、5世紀初頭にブッダゴーサという学僧が登場し、これらの古資料を踏まえて、上座部大寺派の教学を体系化した。現存資料を見る限り、「上座部」や「大寺」の伝統を掲げて作品を著し、思想を体系化したのは、ブッダゴーサが初めてであって、彼以前に遡ることはできない。

 私はブッダゴーサ(仏音〈ぶっとん〉、覚音)の名を本書で初めて知った。「5世紀初頭」というタイミングを見れば、初期大乗経典への対抗意識があったと考えてよさそうだ。

初期大乗
初期大乗仏教 (広済寺ホームページ)

 根本分裂が「大衆部離脱」であったとすれば、上座部は律に傾きすぎていたことだろう。そしてその流れは5世紀にまで及んだに違いない。しかもちょうどインドで仏教が弾圧された時期と重なっている。インド仏教は13世紀に滅ぶ。

 上座部大寺派の成仏伝承は、経典では主に四諦型三明説だったが、遅くとも5世紀初頭までには縁起型三明説に変化した(本篇第一章)。インドにおける諸部派の成仏伝承にも同様の変化が確認できた。経典や律蔵では四諦型三明説だったが、独立した仏伝作品では三明説に縁起を組み込み、縁起型三明説が成立している(本篇第二章)。縁起型三明説は上座部大寺派に固有の伝承なのではなく、部派を超えて、南アジアに広く流布した成仏伝承なのである。
 縁起型三明説の成立は、遅くとも、上座部大寺派では5世紀初頭なのに対し、北伝の仏伝作品では2世紀である。下限年代から見る限り、縁起型三明説の形成は、上座部大寺派よりも他部派がはるかに古い。おそらく、上座部大寺派は縁起型三明説をインド本土から導入したと考えられる。

三明知の持つ意味と四聖諦
「三明説の伝承史的研究 部派仏教における仏伝の変容と修行論の成立」馬場紀寿
ブッダゴーサについて 『上座部仏教の思想形成』を読んで:曽我逸郎

 曽我逸郎さんが既に書いていたとはね。詳細については曽我サイトに譲る(笑)。書く気が失せた。

 ひとつお詫びをしておこう。ずっと勘違いしていたのだが、ここに書かれているのは大寺派の教学体系化における時系列が四諦型から縁起型になったというだけで仏教史の時系列を意味したものではない。

「永遠不滅の存在(無為法)に対してあれだけ正しく警戒することのできたブッダゴーサが、縁起については輪廻転生と直結した形で解釈していたことは、私にとって困惑することである」(曽我逸郎)。三明に関する疑問は私も同感だ。ヒントが一つある。

 インドの社会では宗教に励む人が精神的な修行をして、認識の範囲をものすごく広げてみたのです。(中略)そういう人々が初めて、死後の世界、というよりは過去の世界について語り始めた。それはほとんど自分自身の過去のことなのです。「自分は過去世でこんなふうに生きていました」と。そこで過去世があるのだから、推測によって未来世もあるだろうと言い出したのです。

【『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ(角川文庫、2012年)】

 始めに過去世ありき、というわけだ。これは輪廻転生を説いたヒンドゥー教の影響だろう。過去世と認識された情報は現在の脳に収まっている。そして記憶は当てにならない。つまりこうしたインド文化に受け入れられやすい形でブッダの悟りを展開したのだろう。仮にブッダ本人が説いたとしても、相手が過去世を信じる人々であれば過去世というアンカーを利用したとしても別におかしな話ではない。

 仏の別名の一つに善逝(ぜんぜい)とある。「善く逝く」とは輪廻からの解脱を意味する言葉で、二度と生まれ変わらないことである。数学的視点に立って時系列を逆転させれば、過去世がないことは明らかだ。過去世や来世があろうがなかろうが、そもそもブッダの教えは「現在を生きよ」という一点に尽きる。

2014-04-02

あなたの現実はあなたの信念によって形成される/『タープ博士のトレード学校 ポジションサイジング入門 スーパートレーダーになるための自己改造計画』バン・K・タープ


『デイトレード マーケットで勝ち続けるための発想術』オリバー・ベレス、グレッグ・カプラ
『ゾーン 最終章 トレーダーで成功するためのマーク・ダグラスからの最後のアドバイス』マーク・ダグラス、ポーラ・T・ウエッブ
『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス

 ・あなたの現実はあなたの信念によって形成される

『なぜ専門家の為替予想は外れるのか』富田公彦

 彼の最大の問題点は、エンジニアになるのには8年も勉強したにもかかわらず、投資はだれもが簡単にできるものと甘く見て十分な勉強をしなかった点である。これでは素人が橋を建造するようなものだ。仕事は素人ではできないが、市場では素人で通用する、というわけだ。素人が橋を造れば崩壊する。同じように素人が投資するということは、口座の死を意味するのである。

【『タープ博士のトレード学校 ポジションサイジング入門 スーパートレーダーになるための自己改造計画』バン・K・タープ:長尾慎太郎監修、山下恵美子訳(パンローリング、2009年)以下同】

 投資とは資本を投ずること。ま、わかりやすくいえばカネを貸すことだと思ってよい。貸す相手も知らずにお前は投資をするのか、という助言である。確かに。そして投資とはリスクを引き受ける行為でもある。株式(現物)であればその企業の未来を買っているわけだ。先のことは誰にもわからない。当てが外れれば当然損失を被る。ただし貸す相手が確かであれば(預金や国債や投資信託など)旨味は少ない。

 ギャンブルをするのであれば投資をした方がよい。特に若い人は小口で投資の経験を重ねてゆけばリスクマネジメントが身につくことだろう。あらゆるマネーは最終的に投資される。銀行や保険会社が行うか、自分がやるかだけの違いだ。自動車に例えればタクシーに乗るか、自分が運転するかの違いである。バン・K・タープは会社を立ち上げるつもりで事業計画を練るように投資をせよと警鐘を鳴らす。

 洒脱な文章でグイグイ読ませる。価格も良心的だ。投資手法はポジションサイズに極まる。

 ギャンブル本や投資本の妙(面白味)は人間心理の洞察に尽きる。賭場や相場で身を滅ぼす人は決して珍しくない。大小の差はあれど利益は生、損失は死を意味する。

 分かりやすい例を見てみよう。マレーシア出身の私のめいは19歳のときに私たちの元にやってきた(アメリカの大学を卒業するまで私と妻が面倒を見た)。ここに来て1年ほどたったある日、彼女は私に言った。「おじさん、私、次に生まれてくるときは、もっときれいで有能に生まれたいわ」。めいは非常に芸術的(彼女は芸術畑を歩んできた)で、まるで歌うために生まれてきたように歌がうまい。文系肌でありながら、大学では生物医学工学を修め、主席で卒業した。有能さという点では合格点に達しているのではないだろうか。美しさという点でも、私から見れば驚くほどの美人で、会う人々は口々に彼女の美しさをたたえる。これほど美しく有能な女性であるにもかかわらず、彼女が自分のことを美しくもなければ有能でもないと嘆くのは彼女の信念によるところが大きい。【あなたの現実はあなたの信念によって形成される】のである。(中略)
 同じように、あなたがどういう人間なのかはあなたの自分自身についての考え方によって決まる。ついでに言えば、あなたがトレードするのは市場ではなく、市場についてのあなたの信念なのである。自己改善を図るうえでのひとつのキーポイントは、自分の信念を吟味し、それが役に立つかどうかを見極めることである。役に立たない信念であれば、役に立つ別の信念に改める。これは自己改善を図るうえで最も重要なことである。

 思考も信念も現実化する。そんなことは当然である。客観的な世界が「目の前」にあるわけではない。世界とは自分の感覚や認識および解釈の中に存在するのだから。それゆえ楽しい人の周りには楽しい出来事が多いし、悲観的な人には不幸が押し寄せる。それにしても見事な文章だ。「あなたの現実はあなたの信念によって形成される」ことを仏典では次のように説かれている。


 五陰(五蘊〈ごうん〉とも)とは人間を形成している五つの要素のこと。仏教では人間を五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く。「仮に和合」しているから死ぬわけだ。そして世界は五蘊に収まる。今の世界に違和感を覚える人ほど不幸になりやすい。運がよい人の世界はバラ色だ。だから世界が暗いわけではなくて、お前が暗いだけってな話だ(笑)。

「あなたがトレードするのは市場ではなく、市場についてのあなたの信念なのである」――これはどんな世界にも当てはまる。トレードとは交換を意味する。因みにディーリングのディールは取引、スワップポイントのスワップも交換の意である。会社では労働力と賃金がトレードされている。宗教団体ではご利益と奉仕(あるいは修行)がトレードされている。人間の営みはすべてがトレード行為といってよい。ボランティアだって労力や時間を自己満足や感謝の言葉とトレードしていると見なすことが可能だ。そこに我々の信念が反映されている。少しの過不足もなく。

 で、相場である。テクニカル分析(チャート分析)にせよファンダメンタル分析(経済要因分析)にせよ、プレイヤーは必ず何らかの信念に基いて売買を行う。自分の意に反した動きがあると「相場がおかしい」と決めつける。「この動きは誤っている」と判断した時から損失はどんどん膨らむ。そしてストップ(強制執行)となり、挙げ句の果てには追証(おいしょう=追加証拠金)を求められる。撤退を想定しない戦闘行為は必ず敗北を招く。投資は博打(ばくち)に似て博打には非ず。リスクマネジメントとは損失の計算に他ならない。

 売買回数が増えれば増えるほど損失が拡大することが既に数学的に証明されている。やはり個人投資家の場合、中長期投資が正しい。日本社会は格差という形のリスクが顕著となりつつある。普通預金の金利は現在、年利0.02%で、スーパー定期(300万円以上)で年利0.034%である。これを上回るパフォーマスはそれほど難しくはない。何と言っても難しいのは「自己改善」である。

2014-03-13

今枝由郎訳『ダンマパダ』『スッタニパータ』(トランスビュー、2013年、2014年)

日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉

 ブッダは難しい仏教語ではなく、誰にもわかるふだんの言葉で説いた。やさしい日本語で読める。絶望にとらわれず、欲に振り回されず、気持ち安らかに、こころ豊かに、より良く生きるための珠玉の実践法。

日常語訳 新編スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉

 最初期に編まれた経典・スッタニパータから、ブッダの教えにせまる核心と日常生活における心がけや実践にかかわる部分を抄訳。覚者・ブッダから、貪欲な人、怒りっぽい人、迷っている人、愛しすぎる人、快楽に弱い人、苦しみをかかえた人への最良の処方箋。

若松英輔
神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉、富樫櫻子〈とがし・ようこ〉訳

2014-03-11

道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人


 中国では「魂魄(こんぱく)思想」という考え方があります。これは、道教儒教にも強い影響を与えています。
 魂魄思想によれば、霊魂には「魂」と「魄」の2種類があり、「魂」は体から抜け出して位牌に宿って、やがて天に登り、「魄」は死体に残って土に埋められ、やがて土に還るといいます。日本でもいまだに位牌を大事にしたりするのは、この魂魄思想が定着しているからです。
 これは仏教ではありません。中国の道教と仏教が融合してしまい、それを日本人が中国から輸入したために、日本にも根づいてしまったのです。

【『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(KKベストセラーズ、2010年)以下同】

 日蓮の遺文にも「魂魄」という語が2箇所に出てくる。日本の仏教はキメラの様相を呈している。胴体は密教で頭が仏教。そして手足は儒教と道教で構成されている。幸福の科学は日本仏教の正統かもね。

 誰もが死を恐れる。自分の死を喜ぶ人はいない。自分という存在や自分という価値が消えて無くなる。その事実を人間は直視することができない。だから宗教は「死後の物語」を創作・捏造(ねつぞう)するわけだ。「死んでも大丈夫ですよ」と。しかしその安心代は高くつく。

 宗教が語る死後の世界とか、死についての考え方というのは、すべて妄想であると考えなければいけません。なぜなら、生きている人で死後の世界を見た人は誰もいないからです。
 生死の境をさまよい、九死に一生を得て助かった人が、「臨死体験をした」などと言って、あたかも死後の世界を見てきたかのように語ることがありますが、それも完全に妄想です。生死の境をさまよいながら、あの世の夢を見ていただけです。
 本当に死後の世界を見たのなら、戻って来られるはずがないのです。戻って来られたということは、そこで見たものは死後の世界ではなく、生前の世界に決まっています。
【こうした妄想を、妄想だとわかって受け入れるのはかまいません。それによって、「死」への恐怖が和らぎ、「死」に対する心の整理がつくのであれば有益です。】

「妄想」に一票。「有益」には反対だ。有益を目的とするのであれば、それは宗教ではなくプラグマティズム(効用主義)だ。本人にとっても遺族にとっても何の慰めにもならないと私は考える。極端な例えを示そう。振り込み詐欺の被害者に「『オレ、オレ』と電話をしてきたのは、アストラル界にいるあなたの息子さんなのです」と納得させたら、それが救いになるのだろうか?

 苫米地はこの後、三諦(さんたい)を示し、妄想とわかった上で物語を採用する姿勢を「中観」(ちゅうがん)としている。

「空観」(くうがん)の視点でフィクションだとしっかり認識しつつ、「仮観」(けがん)の視点でその役割を認めて、フィクションの世界に価値を見いだす視点が「中観」(ちゅうがん)なのです。

 ここからは私見である。三諦は無記との関連性で捉える必要がある。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
「無記」の教え=十難無記、十四難無記

 ブッダは霊魂や死後の存在に関して「ある」とも「ない」とも説かなかった。説かなかったのだから考えたり、思いあぐねたりする必要はない。すなわち霊魂や死後の存在の有無から離れることが正しいのだ。ここにおいて新しい物語を創作する必要性は認められない。

 3年前の今日、東日本大震災があった。今日現在で行方不明者の数が2633人と報じられている。今もご家族の遺体を探している人々がいるとも聞く。人は情に生きる動物だ。合理性で割り切れるものではない。哀しみの表情は人それぞれに複雑な陰影をなす。

 遺体が見つかれば見つかったで哀しみは倍加することだろう。遺体が見つからなければ見つからなかったで哀しみは膨(ふく)れ上がることだろう。いずれにしても哀しみは深まるばかりで癒されることがない。

 遺体に魂が存在するわけではない。そして遺体は必ず土に還(かえ)る。海にあろうと墓にあろうと土に還るのだ。哀しみは執着である。人間にとって最も深い執着といってよい。遺体から離れ、哀しみから離れる。離れてただ見つめればよい。自分自身もやがて死ぬ。亡くなったことを哀しむよりも、共に生きた時間を喜ぶべきだろう。亡くなったご家族や友人もそう思っているはずだ。死者を胸に抱(いだ)きながら、心の中で生かせばいい。私はそうしている。

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死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎