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2022-02-17

大川隆法の腕時計やスーツは特注品で一度しか使わない/『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』宏洋


 ・大川隆法の腕時計やスーツは特注品で一度しか使わない

『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『カルト脱出記 エホバの証人元信者が語る25年間の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『マインド・コントロール』岡田尊司
『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 もうひとつ私が伝えたいのは、幸福の科学を熱心に進行されている信者さんに、「そんなことにお金や時間を費やしても、いいことは何もありませんよ」というメッセージです。
 信者の方々は、教団にお布施をします。お金持ちならポンと何百万円も出せるかもしれませんが、普通の方にとってはなけなしのお金であるはずです。そういう貴重な5000円や1万円が、希望されているような神聖な使われ方をしていないことを知ってほしい。
 皆さんが身を削るような思いでお布施をしたお金は、隆法が「世界に一つしかないんだ」と自慢するウン百万円やウン千万円の腕時計のほか、女性幹部の高い給料やアクセサリーに化けています。
 隆法の腕時計は、基本的に特注です。しかも、基本的に1回しか着けません。特に東京ドームなどの大きなイベントの際につけるものは、1回しか使いません。宝石がキンキラキンにちりばめられているお袈裟(けさ)もウン百万円しますが、やはり基本的に1回しか使いません。
 普段着るスーツも全て特注です。大手デパートの外商がやって来て、注文します。隆法にはファッションセンスがないので、女性秘書の方が選びますが、似合っているかどうかは疑問です。そうやってあつらえたスーツも、やはりほぼ1回しか着ません。
 大川隆法は至高神「エル・カンターレ」なので、神が身に着けた服や時計は、すべて宝物(ほうもつ)という扱いです。

【『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』宏洋〈ひろし〉(文藝春秋、2020年)】

 ロングインタビューをもとに構成した独白記。平凡というよりは凡庸な印象あり。表紙の顔写真は死んだ魚のような目で、「ひろし」という名前もボヤキ漫談を連想してしまう。

 教団側はかなり慌てたようで、「宏洋〈ひろし〉問題」に関する書籍を7冊も発行している。よほど都合が悪いのだろう。至高神も醜聞には弱いようだ。叛逆者を鞭打つのは創価学会にも共通する。両教団は宗教団体というよりも、ミニ独裁主義国家の様相を呈している。

 何を信じるかは人の自由である。お金だって好きなだけ出せばいいだろう。他人がどうこう口を挟む話ではない。否、信者諸兄は更なる信仰心を燃やして、自らがたとえ飢えようとも教団に喜捨すべきである。そう焚き付けておこう。

2022-02-05

ホームレスが宗教ビジネスで運命を引っくり返す/『砂の王国』荻原浩


・『明日の記憶』荻原浩

 ・ホームレスが宗教ビジネスで運命を引っくり返す

 路上に寝て街を眺めれば、人生観は確実に変わる。

【『砂の王国』荻原浩〈おぎわら・ひろし〉(講談社、2010年/講談社文庫、2013年)以下同】

 ハードカバーの表紙がいいので紹介しよう。

 

 見返しには以下の記載がある。

 烏山由美
 ぼくたちの東京ストーリーズ。No.2
 2010
 カンヴァスに鉛筆、インク、アクリル絵具
 ©KARASUMARU Yumi

 何度も確認したが「烏山」で「からすまる」と読むのだろうか? 検索したが情報らしい情報が皆無だ。淡い色づかいが移ろいやすい都会の輪郭を巧みに捉えている。そして時に優しく時に儚(はかな)い。

 荻原浩といえば『明日の記憶』が有名だが、私は二度挫けている。映画は名作である。特に樋口可南子の演技が眼を引いた。

 本書は今年に入り再読した。面白いものは二度読んでも面白い。ホームレスが宗教ビジネスで運命を引っくり返すストーリーもさることながら、人を集めるマーケティング手法に説得力がある。新興宗教の運営が上手くいったにも関わらず、主人公が行き詰まるのもストレス耐性のない現代人を諷刺しているように感じた。

 短いパラグラフに寸鉄人を刺す趣がある。

 空腹は怒りを生む。

 この世には神も仏もない。あるのは運と不運だけだ。

 一度すべてを失うと、何かを取り戻したところで、完全にもと通りになるわけではない。

「気づいたよ。信じると、見えなくなっちまうんだ。信じることをやめれば、何が本当かがすぐに見えてくるんだ」

 現実の宗教に関しては以下の書籍が参考になる。

『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる

 信じる者は救われる。そして信じる者は掬(すく)われる。足を。更に信じる者は巣食われる。財布を。

 

2022-01-21

アラン・ワッツとクリシュナムルティ/『エスリンとアメリカの覚醒』ウォルター・トルーエット・アンダーソン


『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン

 ・アラン・ワッツとクリシュナムルティ

 ワッツはロンドン時代にクリシュナムルティに会った。彼は、精神生活について偶像を破壊するような思想をもったインドのすぐれた導師だった。クリシュナムルティは、少年時代から神智学協会の指導者にと見出され、その救世主となるべく英才教育を受けていたが、後に、その協会の階層と独断の機構は精神的成長にとって有害であり、自分はその一員になりたくないと宣言して世間をアッと驚かせた。自分が主宰していた「星の教団」を解散し、誰かの追随者となることは真理の探究をやめることだ、と弟子たちに申し渡した。そのために神智学運動全体がほとんど壊滅し、その後数年の間、精神界における熱心な論議のテーマになった。ワッツはクリシュナムルティに強く賛同した。ワッツは彼の、いかなる組織ともいかなる伝統的思想とも結託することなく自由に放浪する導師としての生活を送る、という立場とその決意を尊敬したのである。

【『エスリンとアメリカの覚醒』ウォルター・トルーエット・アンダーソン:伊藤博〈いとう・ひろし〉訳(誠信書房、1998年)】

星の教団解散宣言〜「真理は途なき大地である」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス

 アラン・ワッツは恐ろしく雄弁な人物である。再度紹介しよう。












 Wikipediaには「哲学的エンターテナー」とある。話し言葉と比べると著作の出来はかなり悪い。アメリカにはラジオ伝道師やテレビ伝道師の伝統もあって言葉が巧みな人々が多い。一種の才能だろう。

 本書では「エスリン研究所」となっているが、Wikipediaでは「エサレン協会」との表記である。サイズを小さくした比叡山、あるいは宗教色を薄めた神智学協会といった風情がある。この小さな協会がやがてヒューマンポテンシャル運動の推進力となる。

 訪れた人々の多彩な顔ぶれに驚く。ヒューマニスティック心理学のアブラハム・マズローカール・ロジャーズダブルバインド(二重拘束)を説いたグレゴリー・ベイトソンゲシュタルト療法フリッツ・パールズ。更にはオルダス・ハクスリーアーノルド・トインビーパウル・ティリッヒも講演した。そして、アーサー・ミラーが全国に紹介した。

 個人的にはオルダス・ハクスリーを見直すきっかけとなった。彼の祖父はダーウィンの進化論を擁護したトマス・ハクスリーである。後期仏教(大乗)の軸を密教化と踏まえると、オルダス・ハクスリーは神秘主義を通して西洋に密教の風を吹かせたと言ってよい。それが儀式化・様式化しなかったところに後期仏教(大乗)との大きな相違がある。

 私はニューエイジムーブメントを「西洋における密教運動」と理解している。二百数十年前にインド人だと誤解した先住民のインディアンを虐殺したアメリカ人が、時代を経てインドに精神的なリーダーを求めたのも不思議な時代の回帰を思わせる。アメリカはプロテスタントの国である。偶像崇拝を忌避するためか、ニューエイジにおいても教祖を祭り上げなかったのが特長的である。

 本書はエサレン協会の歴史を辿った書籍である。具体的な悟りに関する記述はほぼない。

2022-01-17

封建制は近代化へのステップ/『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠


『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『自然観と科学思想』倉前盛通

 ・中国の女性は嫁入りをしても宗族に入ることはできない
 ・封建制は近代化へのステップ

『ゲームチェンジの世界史』神野正史
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

世界史の教科書
宗教とは何か?
必読書リスト その四

 ――封建制度って、江戸時代までの日本や、中世ヨーロッパにもありましたよね。

 そこがややこしいところです。
 実は、日本とヨーロッパの封建制は、中国のそれとはまったく違います。これはかなり大事なことで、「周の封建制とヨーロッパ、日本の封建制との違いを述べなさい」といったかたちで、入試問題にも出題されます。
 いずれの封建制も、主君と臣下の関係である点は同じです。主君(親分)が臣下(子分)に土地を与え、臣下は親分に対して戦争のときに助けに行く、ということも共通です。周の場合には、臣下からの貢納があるのがちょっと違う点ですか(ママ)、これは決定的な違いではない。
 重要なのは、周の封建制においては、主君と臣下のもともとの関係が血縁を媒介にしている、とういこと。兄と弟、従兄弟(いとこ)同士、おじと甥(おい)、舅(しゅうと)と婿(むこ)といった関係ですね。
 対してヨーロッパと日本の封建制はどうか。たとえば織田信長の臣下が豊臣秀吉ですが、二人の関係は血縁関係ですか?

 ――秀吉って確か、農民出身だったはず……。

 そう、赤の他人ですね。赤の他人がどうして主君・臣下になるんでしょう? 秀吉が信長に憧(あこが)れてずっと追っかけていって、冬の朝に信長の草履(ぞうり)を懐で温めたりして、信長が秀吉を気に入って、という個人的な関係からです。

 ――契約のような?

 そう、いわば契約関係ですね、これは。
 これはヨーロッパの場合も同じです。まったく赤の他人が相手を信用して、「おまえに○○とか✕✕の城を与えるから、俺のために忠誠を尽くしてくれ」という契約を結ぶ。その契約がちゃんと履行される社会、これがヨーロッパと日本なんです。
 逆に言いますと、中国はそれがない。つまり、血縁がない赤の他人だと信用できない、他人は平気で裏切るという社会です。
 この違いは非常に重要です。というのは、近代の資本主義の世の中になってから、契約というのがますます重要になるからです。たとえば納期はいつまで、代金はいくら、という約束をしょっちゅう破るようでは、資本主義経済は成り立ちません。
 それがいままさに中国で起こっていることです。中国に進出した日本起業が散々苦労しているのは、しょっちゅう納期遅れとか、代金のごまかしとかが起きるからです。これは「他人は騙(だま)されても仕方がない」という文化があるからです。中国の資本主義のいちばんの弱点はここでしょうね。

 ――中国の封建制には契約観念がなかった、というのは重要なわけですね。

 封建制というと何か悪いこと、遅れた体制のように考える傾向がありますが、実は逆なんです。日本やヨーロッパのように、契約関係としての封建制がちゃんと機能した地域は、実は近代化に成功している。一方、血縁に頼った中国式の封建制は、近代化の障害になった。

【『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠〈もぎ・まこと〉(ヒカルランド、2014年)】

「世界で紋章を有する地域は西欧と日本のみである。これは正当な意味の封建社会の成立した地域であり、古代官僚制や古代帝王制が最近まで続いていた地域には紋章は発生しなかった」(『自然観と科学思想』倉前盛通)。西欧と日本はシーパワー国家である。一方、ランドパワーである大陸国は大規模な治水・灌漑工事が必要となるため中央集権的な官僚国家を形成する。海洋勢力と大陸勢力は地政学的に決まっており、これを変えるという考え方は存在しない。つまり、国家が有する位置エネルギーと捉えてよい。

世界史は陸と海とのたたかい/『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』水野和夫

 もう一つ大切なことは、伊藤博文がキリスト教の神に替わるものとして天皇を国家の中心に据えたことである。

伊藤博文の慧眼~憲法と天皇/『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹

 このような近代化の急所を伊藤博文が抑えることができたのも封建制を経験していたためなのだろう。

 前近代的なものを「封建時代」と揶揄(やゆ)していたのは1990年代まで続いた。マルクス史観の汚染が国を覆い尽くしていたことがわかる。進歩史観においては古い歴史は常に黒歴史と認定される。

2022-01-16

中国の女性は嫁入りをしても宗族に入ることはできない/『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠


『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『自然観と科学思想』倉前盛通

 ・中国の女性は嫁入りをしても宗族に入ることはできない
 ・封建制は近代化へのステップ

『ゲームチェンジの世界史』神野正史
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

世界史の教科書
宗教とは何か?
必読書リスト その四

 歴史とは、「歴史的事実(証拠)」+「歴史観(解釈)」です。

 事実に基づかない歴史は、単なる妄想です。
「日本は戦争犯罪を繰り返した」という歴史観に忠実だった朝日の記者は、吉田証言の事実関係を検証することなく、妄想を記事にしてしまったのです。
 逆に、歴史観に欠けた歴史は、事実の羅列にすぎません。

【『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠〈もぎ・まこと〉(ヒカルランド、2014年)以下同】

 つまり、だ。朝日新聞の購読者は妄想あるいは小説が好きなのだろう。北海道新聞や東京新聞を始めとする地方紙も同様である。沖縄タイムス、琉球新報に至ってはSFの領域に突入しつつある。左翼と彼らのシンパは「反日」という物語であれば何にでも飛びつく。彼らにとっては天皇陛下を国家元首とするシステムは破壊の対象であり、それは自明の真理と化している。つまり自分の感情を疑うことをしない。教条は人を奴隷にする。赤い旗の下(もと)で斃(たお)れることが彼らの理想なのだ。

 原則として、一つの邑(ゆう≒都市国家)に住んでいるのは全員ファミリー、血縁者です。このような大家族を宗族(そうぞく)と言います。同じ祖先を祀(まつ)る、同じ苗字(みょうじ)、つまり同姓の男系血縁集団です。
 宗族は男系ですから、男の子に跡を継がせます。ここで、「同姓不婚」という決まりが生まれます。同じ姓の男女は結婚できないということです。つまり、結婚相手は別の宗族に求めないといけません。(中略)

 ――近親婚はダメ、ということですか?

 いや、もっと政治的な理由からです。
 基本的に隣の邑というのは敵です。常に争っています。だからお互いに嫁をとることによって平和条約を結ぶ。安全保障のための道具であり、お互いに贈り物をするうちの一つが女性だ、ということ。はっきり言うと、人質になるわけです。
 すると、もしも王さんと李さんが戦(いくさ)になれば、彼女は殺されるかもしれない。結婚は恋愛ではなく政治です。嫁に行くというのは命がけなわけですね。ですから、李さんの町の女性が王さんのところに嫁入りをしても、彼女は、王さんのファミリーには決して入れてもらえません。「おまえは李の娘」だ、と一生言われます。
 最近は夫婦別姓という話があって、「女性が夫の姓に変わるのは女性蔑視(べっし)だ」と言う人がいますが、中国の場合は女性が人質のように扱われた古代から夫婦別姓です。逆に言えば、夫のファミリーの一員として迎えられる日本の女性というのは非常に恵まれているとも言えるのです。

 ――なるほど。ところで子供が生まれたら、父親の宗族に加わるんですか。

 そうなります。だから子供から見ると、お父さんは自分と同じ宗族ですが、お母さんは違う宗族ということになる。この感覚は、日本人にはわからないと思います。
 中国史を見ていきますと、ものすごい悪女がしばしば出てきます。

 ――則天武后〈そくてんぶこう〉や西太后〈せいたいこう〉が有名ですね。

 漢の呂后〈りょこう〉も加えて「三大悪女」なんて言います。中国の悪女というのはすごくて、平然と夫を殺したり、息子を殺したりする。それは中国の女性が残忍だから、というよりは、「旦那やその一族は敵だ」、「自分の本当の味方は、お父さんやお兄さんだ」という文化があるからんですね。
 このように、血縁に重きを置く、血縁しか信用しないというカルチャーが中国にはある。そこから、封建制度という政治体制が生まれてきます。(中略)
 とはいえ、王様と血縁がない有力者を諸侯にしなければならない場合もある。敵国が降参して支配下に入り、諸侯に任じるような場合です。
 こういうときはどうするかというと、嫁の交換をします。先ほど李さんの町と王さんの町と同じです。こうやって、何がなんでも血縁関係を結んでいかないと、彼らは安心できない。そういう文化なのです。
 王様が諸侯に与える領地には、周りにちょっと盛り土をして目印を創りました。この盛り土のことを「封」(ほう)と言う。「封」を建てるから封建(ほうけん)制度というわけです。

 宗族(そうぞく)が男系血縁主義である事実は知っていたが、私は近親婚を避けるのが目的だと思い込んでいた。「中国の女性は嫁入りをしても宗族に入ることはできない」――これは覚えておくべき事柄だ。

2022-01-12

ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生/『カミとヒトの解剖学』養老孟司


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

宗教とは何か?
必読書リスト その三

 抽象とはなにか。それは頭の中の出来事である。頭の中の出来事というのは、感情を別にすれば、つまりはつじつま合わせである。要するに頭の中でどこかつじつまが合わない。そこで頭の外に墓が発生するわけだが、どこのつじつまが合わないかと言えば、それは昨日まで元気で生きていた人間が今日は死んでしまってどこにも居ない、そこであろう。だから墓というものを作って、なんとかつじつまを合わせる。本人は確かに死んでもういないのだが、墓があるではないか、墓が、と。臨終に居あわせ損ねたものの、故人とは縁のあった人が尋ねて来て、尋ねる人はすでに死んだと始めて聞かされた時、物語ではかならず故人の墓を訪れる約束になっている。さもないとどうも話の落ち着きが悪い。その意味では、墓は本人の代理であり、ヒトとはこうした「代理」を創案する動物である。それを私は一般にシンボルと呼ぶ。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

 頭のいい人特有の強引さがある。死者のシンボルが墓なら、真理のシンボルがマンダラ(曼荼羅)というわけだな。墓は死者そのものではない。飽く迄も代用物である。とすれば、マンダラもまた代用物なのだろう。ところが代用品であるはずのマンダラや仏像が真理やブッダよりも重んじられてしまうのである。つまりアイドル(偶像)となるのだ。その意味においてマンダラとアイドルのポスターに差はない。

 もう一つ重要なシンボルに「言葉」がある。言葉を重視すると経典(あるいは教典)になる。ここでも同じ過ちが繰り返される。シンボルが真理と化すのだ。言葉で悟ることはできない。その厳粛なる事実を思えば、経典は悟りを手繰り寄せる手段に過ぎないのだ。

 一流のアスリートはスポーツという限られた世界での悟りに至った人々だ。しかしながらスポーツでは一流でも人間としては二流、三流の人も存在する。生きること、死ぬことを悟るのはまた別次元のことなのだろう。

2021-12-07

エティ・ヒレスムの神 その二/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック


『エロスと神と収容所 エティの日記』エティ・ヒレスム

 ・エティ・ヒレスムの神 その一
 ・エティ・ヒレスムの神 その二

キリスト教を知るための書籍

 オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。手書きの日記は1941年3月に始まり、1943年10月に終わっている。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直訳(岩波書店、2011年)以下同】

 反響を呼ぶのは理窟ではない。真理が散りばめられた言葉である。これが悟りの証(あかし)である。

 エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた。彼女は何のこだわりもなく、直接、神に話しかけた。そして自己発見と神の発見、自己探求と神の探求、自己創造と神の創造はまるで当然のことのように一体化していた。彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信者たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。
 必要とされるのは、宗教的なもののこういした主観的次元を適切に扱いうる宗教社会学的視点だ。

 いや、そんなもんは要らない。個人の悟りを学問の枠組みにはめ込もうとするのが西洋世界の教父的伝統なのだろう。私としては、ただ言葉を味わい、真理の光を見つめ、自己観察の一助にするのが適切だと思う。

 私はブッダとクリシュナムルティの言葉に心酔する一人であるが、実はまだ瞑想を実践していない。エティ・ヒレスムに敬意を表して、今日から瞑想を実行する。彼女への哀悼の念を込めて。

  

2021-11-19

カリスマは「断言する」/『宗教で得する人、損する人』林雄介


・『省庁のしくみがわかると政治がグンと面白くなる 日本の内閣、政治、そして世の中の動きが一気に読める!』林雄介

 ・カリスマは「断言する」

『エピクロスの園』アナトール・フランス

宗教とは何か?

【政治や世界を理解する際に宗教の歴史を抜きにして理解することはできません。】例えば、【アメリカの政財界人、最高裁判事等のエリートは、キリスト教のプロテスタント系の聖公会(せいこうかい)の信者が大多数です。】
 なぜ、アメリカのエリートに聖公会の信者が多いのでしょうか?
 それは、アメリカでは社会的ステータスが高くなると他のキリスト教(メソジスト教会等)から聖公会に改宗する風習があるからです。つまり、アメリカでは、社会的ステータスとどの教会の信者かが密接に結びついているのです。

【『宗教で得する人、損する人』林雄介〈はやし・ゆうすけ〉(ML新書、2017年/マガジンランド、2013年『政治と宗教のしくみがよくわかる本 入門編』改題)以下同】

 昨今は改題が目立つ。出版社の意図が奈辺にあるのかよくわからず。検索対応なのか? ま、いずれにせよ売り上げアップを狙ったものだろう。クルクルとタイトルを改めるところに書籍と読者を軽視する風潮が覗いている。

 聖公会とは「イングランド国教会(Church of England)の系統に属するキリスト教の教派」らしい(Wikipedia)。「西方教会におけるカトリック教会とプロテスタントの中間として位置づけ」た中道路線であるとのこと。つまり、過去にローマ教皇庁と対立したが、プロテスタントには傾かなかったということなのだろう。聖公会がイングランド国教会の系統に属するのであれば、イギリス傘下に加わったことを意味する(イングランド国教会の最高権威はエリザベス女王)。大英帝国はまだ滅んでいないようだ。

 アメリカに中央銀行(Central Bank)は存在しない。あるのは連邦準備制度(Federal Reserve System)である。政府機関とされているが完全に独立しており、信じ難いことだがアメリカ政府はドルを発行することができない。政府紙幣を発行しようとしたリンカーンやケネディは暗殺された。FRSを構成するのは10社の民間銀行で、尚且つ半数以上がヨーロッパの銀行だ。


 結局のところ北米はヨーロッパにとっての満州みたいなものか。

 16世紀、ルターによる宗教改革(プロテスタント運動)をきっかけに、カトリックとプロテスタントの宗教戦争がはじまります。ルターの教義は、「信仰義認(しんこうぎにん)」、「聖書万能」、「万人祭司(さいし)主義」の3点です。信仰があればよく、その信仰の基礎は聖書にあり、全ての人が司祭でありカトリックの驚異のように司祭が特別扱いされることはない、という教義です。
 そのため、【プロテスタントの牧師は、信者のリーダーであるけれど聖職者ではない】という立場を採用しています。

 これも知らなかった。大体、小児性愛者はカトリックの神父である(カトリックは神父、プロテスタントは牧師)。聖職者の威厳を利用して幼子に手をつけるのだろう。アメリカのもう一つの宗教的な捻(ねじ)れは、プロテスタント国家でありながらローマ教皇を尊敬していることだ。プロテスタントの教会は簡素で飾り気がない。我々が思い浮かべる豪華な大聖堂はカトリックのものだ。

 なぜ、【カリスマが存在するのでしょうか?】
 キーワードは、「断言すること」です。キリスト教暗黒時代があり、デカルトが「われ思うゆえに我あり」という相対主義を導入して近代科学がはじまります。つまり、【全てのインテリは「相対的」な価値観の中で生活しています。】しかし、【新宗教や自己啓発セミナー等は「絶対的」な価値観の中で運営されています。】そこで、インテリが騙されるのです。むしろ、インテリだからこそ騙されるといってもいいでしょう。
 近代社会は、「正しいか?正しくないか?」がわからない【相対的(懐疑的)な価値観】で運営されています。しかし、【ナチスのヒトラーは、「ユダヤ人が悪い」等の、極論を断言しました】(句点欠)
 その【断言がカリスマになれる理由】です。私はそう考えています。

 先日亡くなった細木数子〈ほそき・かずこ〉が思い浮かぶ。「必ず」「絶対に」を連呼する人物には要注意だ。健康食品やマルチ商法、あるいは占い師や新興宗教など。「相対的」であることよりも、そこに迷いがあるかどうかが大きい。判断を躊躇(ちゅうちょ)したり留保したりすることは少なからずある。そこに誰かの断言がスポッとはまると脳が束縛される。電気的な反応が生まれ、シナプスが一定方向で形成されてしまうのだ。「何かを信じる」とはそういことだ。

 将来の見通しが悪くなると社会もまた迷う。「失われた10年」は気がつくと「失われた30年」となっていた。弾けたバブルの余波にしては長すぎる。政治の無策もさることながら、日本を弱体化させたい国際的な意図が働いているのだろう。そして迎えたのがコロナ騒動である。

 雇用の非正規化が進み、1世帯あたりの平均所得が緩やかに下がり続けてきた。諸外国の所得が上がり続けているにもかかわらず。アメリカは1990年比で2倍の所得になっている。日本の生活意識で「ややゆとりがある」「ゆとりがある」と答えた世帯は合計4.3%しかない(平均所得は551万円……だけど「平均以下が62%」という現実 「生活苦しい」も57% 厚労省調査 - ねとらぼ)。


 こうした事実を報道し、政治に活を入れるのが新聞・テレビの仕事だと思うのだが、反対に国民の目を逸らさせるような役割を大手メディアが果たしている。

 今まさしく時代は混迷の度を深めている。人々はカリスマを待望しているのではないか。確かに自民党は旧民主党よりはまともだが、世界基準で見れば日本経済を沈滞させた責任を取っていない。そろそろ古い憲法と一緒に古い政党も捨て去る頃合いだろう。

 安定した時代にカリスマは出現しない。激動からカリスマは生まれる。今、時代の迷いを払拭する断言が求められている。

2021-07-07

肥田春充の食事/『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀


『月刊「秘伝」特別編集 天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』月刊「秘伝」編集部編
・『幻の超人養成法肥田式強健術 腰腹同量正中心の鍛錬を極めよ!』佐々木了雲
『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
・『肥田式強健術2 中心力を究める!』高木一行

 ・肥田春充の食事

『武術を語る 身体を通しての「学び」の原点』甲野善紀
『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
『惣角流浪』今野敏
『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽
『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』池月映
『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『「筋肉」よりも「骨」を使え!』甲野善紀、松村卓
『ナンバ走り 古武術の動きを実践する』矢野龍彦、金田伸夫、織田淳太郎
『ナンバの身体論 体が喜ぶ動きを探求する』矢野龍彦、金田伸夫、長谷川智、古谷一郎
『ナンバ式!元気生活 疲れを知らない生活術』矢野龍彦、長谷川智
『すごい!ナンバ歩き 歩くほど健康になる』矢野龍彦
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史

身体革命
悟りとは

 また、宗教団体自体が巨大な霊術団体の趣きがあった近代の典型例としては「大本」がある。
 この現代新宗教群の最大の産みの親である大本は、今でこそ目立たない小教団になっているが、現在大本が産んだ新宗教群とそれらに絡む政財界人、文化人の顔ぶれをみても、それにこの“裏の体育”の源流である霊術を語る上からいっても、無視できない巨大な存在であったことは確かだ。

【『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀〈こうの・よしのり〉(地方・小出版流通センター、1986年/PHP文庫、2016年)以下同】

 amazonだと「オンデマンド2750円」で販売されているが、楽天などではPHP文庫が754円で売られているので注意されよ。

 甲野の初著(※既に「処女作」という言葉は使いにくい)である。霊術に注目したのは卓見で日本近代の宗教的変遷に鮮やかな色彩を施している。2/3ほどは肥田春充〈ひだ・はるみち〉に関する記述で、その引用の多さを思えば書籍タイトルに肥田の名前を入れないのは詐欺に近い。

【私の食物に対する注意は、控え目に食べる、菓子を止めるという、ただそれだけのことであり、しかも滋養とは、獣鳥魚肉、牛乳卵等が、最なるものと思っていた。だから間食しない、食べ過ぎないという注意だけで、何でも食べて居り、ことに御馳走は、喜んで摂って居ったのである。
 しかるに鍛えて鍛えて、真健康を獲得し、更に次第に、中心力が強くなるのに従って、私が食物に対する、嗜好と要求とは、自然に変って来た。
 それは淡白なアッサリした食物を、好むようになったことである。麦飯と味噌汁と香の物位が、一番美味しい。御馳走なんかは、かなわんという気になった。ことに濃厚な西洋料理などは、殆ど堪え得られないように感じた。
 日本料理でも、種々の御馳走は閉口で、生漬の香のもの、生煮えの野菜の味噌汁などを、最も要求するようになった。(中略)
 演説する前だけは、飯を五六杯、香の物を副て食べる。うどんのかけだと、四ッ位、平げて、腹を拵える。二三時間熱弁を振って、三十分間も、猛烈な練習をするのには、その位食べた方が、良いようだ。だが、卵だの、牛乳だの、肉だの、魚だのと動物性は、全然摂らない。
 その方が晴々して、気持が良くて、力が湧き溢れて来る。種々と、濃厚な所謂栄養物を摂らなくては、体が続かないなどと、考えるのは、飛んだ間違いであることを、私は明らかに体験している。】

 肥田春充〈ひだ・はるみち〉のテキストである。肥田式強健術に関しては3冊ほど読んできたがこの部分は記憶にない。あるいは私の関心が変わったのかもしれない。食事法についてはここ数年重点的に学んできたが、これほどの粗食にはお目にかかったことがない。ひょっとすると人間離れした強靭な身体(しんたい)の肥田だから通用した可能性もある。または日本人であれば適用できる可能性もある。

 ここで思い出されるのはブッダの弟子が行っていた托鉢である。午前中一食のみで、余っても翌日に持ち越すことは禁じられた。選り好みも許されなかった。仏弟子の生活は托鉢が前提となるゆえ都市部周辺にサンガは形成される。中には傷(いた)んだ食べ物を施す者もいたようだ。受け取った食料は食べるか捨てるかのどちらかであった。

 人間の最も基本的な欲望は食欲・性欲・睡眠欲の三つである。托鉢は食欲から離れる目的もあったと思われるが、完全に食を軽視しているようにも見える。「何かを食べれば死ぬことはない。むしろ食べ過ぎることが不健康の原因である」と喝破していたのかもしれない。人体は飢餓には強いが飽食には弱い。

 そもそも食事に注意を払う行為そのものが不健康の証と言っていいだろう。肥田春充は運動を通して悟りに至り、最後は自ら餓死を選んだ。己(おのれ)の意思で植物が枯れるように死んでいった。このような日本人が昭和に存在したのである。

2021-05-19

近代化と宗教/『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート


『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット

 ・近代化と宗教

必読書リスト その四

 文化とは、その社会の生き残り戦略を構成する、一連の学習された行動である。

【『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート:山崎聖子〈やまざき・せいこ〉訳(勁草書房、2019年)】

 痺れる。簡にして要を得た言葉が短刀の如く胸に突き刺さる。武士道といっても結局は適応化の一つなのだ。そう考えると社会・世間・コミュニティの影響力は想像以上に大きいことがわかる。部族であればしきたりだが、民族や国家にまでコミュニティが拡大すると、思考を束縛するだけの説得力が必要になる。真相は国家が文化を育むのではなく、文化の共有が国家を形成するのだろう。

 工業社会では、生産は屋内の人工的な環境へと移り、太陽が昇ったり季節が移り変わったりするのを受け身で待つこともなくなった。暗くなれば証明をつけ、寒くなれば暖房をつける。工場労働者は豊作を祈らない――生産を左右するのは人の創意工夫で作られた機械だ。病原菌と抗生物質の発見により、疾病さえも天罰とはみなされなくなった。病気もまた、しだいに人の手で制御が進みつつある問題の一つなのだ。
 人々の日常体験がこうも根本的に変わった以上、一般的な宇宙観も変わる。工場が生産の中心だった工業社会では、宇宙の理解も機械的な見方が自然に思えた。まずは、神は偉大なる時計職人で、いったん宇宙を組み立ててしまうと後はおおむね勝手に作動するに任せるという考え方が生まれた。ところが、環境に対する人の支配力が大きくなると、人々が神に仮託する役割は縮小していく。物質主義的なイデオロギーが登場して、歴史の非宗教的な解釈を打ち出し、人間工学で実現できる世俗の理想郷を売りこんでくる。知識社会が発展するにつれ、工場のように機械的な世界は主流ではなくなっていく。人々の生活体験も、形ある物よりも知識を扱う場面の方が多くなった。知識社会で生産性を左右するのは物的制約ではなく、情報や革新性、想像力となった。人生の意義や目的についての悩みが薄らいだわけではない。ただ、人類の歴史のほとんどを通じて大半の人々の人生を支配してきた生存の不確かさの下では、神学上の大難問など一握りの人にしか縁がなかった。人工の大多数が求めていたのはそんなことより、生き延びられるかどうか危うい世界で安心を与えてくれることであり、伝統的な宗教が大衆の心をつかんでいられたのも、主な動機はこれだった。

「工場労働者は豊作を祈らない――生産を左右するのは人の創意工夫で作られた機械だ」。近代化と宗教の図式を見事に言い当てている。文明とは環境のコントロールを意味する。そう考えると現代の先進国は幸福を獲得したと言ってもよさそうだ。ストレスや肥満なんぞは贅沢病なのだ。我々には今日、明日をどう生き延びるかという悩みはない。

 実は3分の1ほどで挫折した。いささか難解で読むスピードがどうしても上がらない。宗教社会学者にでも解説を願いたいところである。それでも必読書にした私の眼に狂いはないだろう。エドワード・O ウィルソン著『人間の本性について』とよく似た読書体験である。

2020-11-09

瞑想の否定/『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ


『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 ・人は自分自身の光りとなるべきだ
 ・瞑想の否定

『最後の日記』J・クリシュナムルティ

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト

 どんな形であれ、意識的な瞑想は真実ではない。けっしてそうはありえないのだ。故意に瞑想しようと試みることは、瞑想ではない。それは起こるべきものであって、こちらから招き寄せるものではない。瞑想は精神の遊びではなく、欲望や楽しみでもない。瞑想しようと試みること自体が、まさに瞑想を否定している。ただ、あなたがいま考えていること、行為していることだけに気をとめていなさい。見ること、聞くことは、報いも罰もない行為である。行為の技(わざ)は、見方、聞き方にかかっている。形をとった瞑想はすべて、かならず欺瞞や幻影にいたる。なぜなら欲望は盲目だから。  美しい宵で、春のやわらかい光が地をおおっていた。

【『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ:宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉訳(めるくまーる、1983年/原書は1982年)】

 いつの間にか読むものがなくなったので再読した。宮内の訳文は読みやすい。さほどこなれた文章ではないのだが読んでいると気にならない。点線のように言葉が辿りやすいのだろう。

 瞑想の否定である。もちろん瞑想そのものではなく形式・方式に収まった瞑想を指す。これを私は仏教徒への批判と読んだ。悟っていない者が悟った者に額づく時、隷従する精神が悟性の妨げとなる。他人の言いなりになって悟りを開けるのであれば、それは技術となってしまう。よもやブッダが「私に従え」と言うはずもなかろう。

「精神の遊び」という一言が針の如く突き刺さる。悟りへの羨望こそが迷いの本質なのだろう。むしろ迷いをありのままに見つめ、否定も肯定もしないところに悟道がある。

 最後の一行で思弁に基づく批判が封じ込められる。内部が偉大なる空(くう)の境地で占められている人は、ただ世界を受容し、ひたと見つめ、世界そのものと化している。

2020-08-26

武田邦彦「日本人の宗教は自然と祖先」


 日本の宗教は世界でもレベルが段違いに高い。(神道という意味ですか?)違う。神道というのはヨーロッパの宗教思想で日本の宗教を見たら、一神教とか多神教とかなる。日本には一神教も多神教もない。「信教の自由」もない。「男女平等」がないのと同じで根本的に西洋と概念が違う。日本の宗教というのは二つの神様がある。一つが自然。もう一つが祖先。なぜ自然と祖先かというと、自分をつくったもの。日本の宗教観というのは「自分をつくったもの」が神様。だから「お天道様の下では嘘をつかない」。お天道様がなければ自分は存在できないから。お天道様、海、山、川、全部が神様なんだ。それからもう一つは祖先。なぜ祖先か。自分の親は二人、親の親が4人、親の親の親が8人。(さかのぼるごとに)2のn乗となる。僕がある時に計算したら日本の県というのは、大体600年さかのぼると全員が兄弟になる。高知県で調べたところ、現在の高知県民は600年前の高知県民の遺伝子全てを受け継いでいる。日本の宗教は自然と祖先で、自然と祖先は全部お祈りする。日本人がハロウィンを楽しみ、結婚式を教会で挙げ、クリスマスはサンタクロース、正月はお宮参りをする。その後お墓参りをする。これはなぜそうなのかというと日本人の宗教は自然と祖先だから、宗教という次元で争うことをしない。日本人にとってはお釈迦様も偉い、イエス・キリストも偉い。神道だからとか靖国神社だとかいうのは関係ない。そうした考えは学者がヨーロッパの学問を勉強してもっと進んだ日本に適用しようとするからそうなる。

虎ノ門ニュース 2020年8月21日(金)

2020-08-23

創価学会の思想は田中智学のパクり/『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一


『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』寺内大吉
・『石原莞爾と昭和の夢 地ひらく』福田和也
・『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』保阪正康
・『血盟団事件 井上日召の生涯』岡村青

 ・創価学会は田中智学のパクり

 その結果、智学は決意する。日輝の教学は時勢の推移のなかでは妥当だと思われることもあったが、万代不易の道理ではない。しかし、日蓮の主張は万古を貫いて動かざるものである。いまこそ、「祖師に還る」「純正に、正しく古に還らなければならぬ」、と。
 日輝は摂受を重視しる「折退(しゃくたい)・摂進(しょうじん)」論を採ったのにたいして、智学は「超悉檀(ちょうしつだん[大谷註:悉檀とはサンスクリットのsiddhāntaの音訳で、教説の立てかたの意]の折伏)」にもとづく「行門の折伏」(実行的折伏)を強調した。折伏が祖師・日蓮の根本的立場であると捉え、それへの復古的な回帰を唱えたのである。この折伏重視の立場性こそが、智学生涯の思想と運動を貫く通奏低音であり、政府にたいする「諌暁(かんぎょう)」(いわゆる国家諌暁)もこの折伏の精神にもとづく。
 明治12年(1879)1月、病気再発の兆しがみえたため、智学は、横浜にいた医師の次兄・椙守普門(すぎもりふもん)の家で療養した。病気は小康を得たが、同年2月、還俗の意思を兄に伝え、病気療養を理由として、17歳で還俗することになる。また、3月には日蓮宗大教院の教導職試補の辞任届も提出している。以後、生涯を通じて、智学は在家仏教者として活動することになる。

【『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一〈おおたに・えいいち〉(講談社、2019年)】

 田中智学・本多日生北一輝〈きた・いっき〉-大川周明〈おおかわ・しゅうめい〉は昭和初期の軍人に多大な影響を及ぼしたが、これを日蓮主義で括ると視野が狭まる。むしろ大正デモクラシーの流れを汲んだ社会民主主義と捉えるのが正当だろう。佐藤優がわざわざ保守論客の関岡英之に近づいて大川周明を持ち上げているのも社会民主主義というタームで考えると腑に落ちる。

 大谷栄一は宗教社会学者である。それゆえ宗教や教団に固執して近代史全体の流れが見えにくくなっている。むしろ話は逆で、時代が揺れ動く波しぶきの一つに日蓮主義があったと私は見る。鎌倉時代にあって日蓮ほど国家意識を持った宗教指導者はいない。出家の身でありながら迫害に迫害を加えられても尚、政治的意見を進言し続けた。昭和初期は内憂外患の時代であり鎌倉の時代相と酷似している。

 日蓮主義は戦後にも継承された、と私は考える。田中智学の国立戒壇論が創価学会に継承されたのである。戦後の一時期まで、智学の国立戒壇論は創価学会の運動の中核部分に保持されていた。創価学会の国立戒壇論は「国柱会譲り」のものだった。

 創価学会は元々日蓮正宗の一信徒団体であったが、戦前より折伏(しゃくぶく)を標榜し原理主義に傾いていた。初代会長の牧口常三郎〈まきぐち・つねさぶろう〉にも田中智学の影響が及んでいた事実が興味深い。戦後、国柱会の勢いは已(や)んだが、創価学会は共産主義的な組織運営で教勢を拡大した。折伏はオルグと化した。公明党が政権与党入りしてからは尖鋭(せんえい)さを失い、与党内野党みたいな中途半端なブレーキ役に甘んじている。創価学会もまた本質的には社会民主主義傾向が顕著なため、外患の多い現代にあって国政をリードすることは不可能だろう。

 尚、大谷栄一には『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館、2001年)との著作もある。

2020-06-27

キリスト教の教えでは「動物に魂はない」/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

 ・経済が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書リスト その五

山極●聖書によれば、動物には魂はないのですか。

小原●そうです。

山極●なるほど。だからね、それは農耕牧畜とともに生まれたんだと思うんですよ。狩猟採集民の世界というのは、動物に魂があるか、人間に魂があるかという話ではなくて、動物と人間は対等ですから、動物と会話ができていたわけですね。

小原●そうですね。狩猟採集の時代にあった動物と会話できるという感覚は、その後、形を変えながらも、様々な神話や物語の中に引き継がれてきたと思います。日本の昔話では、動物と人間が会話を交わす物語がたくさんありますし、さらに言えば、動物にだまされたり、助けられたり、「鶴の恩返し」のように動物と結婚したり、いろいろなバリエーションがありますね。動物が人間をどう見ていたかはともかくとして、少なくとも人間の側からは、長きにわたって、動物は会話できる対象と見られてきたのではないでしょうか。

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

 日本人ならすかさず「一寸の虫にも五分の魂がある」と反論するだろう。一神教は神の絶対性を強調する。その神に似せて造ったのが人間だ。人間は神に最も近い動物であるが神には絶対になれない。この断絶性が「動物に魂はない」とする根拠になっているのだろう。

 具体的には南極観測隊の犬の扱い方が好例だ。日本は15頭の犬を南極に置き去りにした(1958年)。イギリスでは「日本人はなんと残酷な民族か!」と糾弾され、「イギリス犬の日本輸出を中止せよ!」という声まで上がった。翌年、奇蹟的に2頭の生存が確認された。これがタロとジロである。一方、イギリス隊は1975年、帰還を余儀なくされた時、100頭の犬を薬物で殺害した。「犬を殺すのが一番経済的だ」という理由で。こうした二面性は神の愛を説きながら殺戮(さつりく)を繰り返してきた彼らの歴史に基づく性質だ。彼らは一方で戦争を行いながら、もう一方で慈善活動を行うことができる。

 かつての捕鯨もそうだ。欧米は鯨油だけを採ってクジラの遺体は捨てた。黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。日本の場合、食用で尚且つ骨からヒゲに至るまでを活用する。そんな連中が「クジラは知能が高い」という理由で日本を始めとする捕鯨国を口汚く罵っているのだ(『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人)。日本は「動物に魂はあるのか?」と反論すべきであった。

   日本人がキツネに騙されなくなったのは高度経済成長の真っ只中で昭和40年(1965年)のことだ(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節)。暮らしが豊かになり我々は自然との交感を失ったのだろう。

2020-06-25

フランス人哲学者の悟り/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル


 ・宗教の語源
 ・フランス人哲学者の悟り
 ・幸福を望むのは不幸な人

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

キリスト教を知るための書籍
悟りとは

 夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。

【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

 もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。

 悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。

 ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。

 クリシュナムルティは努力をも否定した(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。

 宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。

 努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。

 技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。

 だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。

 私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。

2020-06-15

古代インドが「祈り」を発明した/『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良


岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ

 ・古代インドが「祈り」を発明した

『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』鎌田東二編

 この大自然の同じ魔を逃れるのに、両文明地域とも、それぞれに神を発明したが、古代印度(先住民族;ドラヴィタ人、又はドラヴィタ言語使用民族グループ)はメソポタミアと違って、唯一絶対神の人格神に同化する立場をとらなかった。古代印度は、「魔」を「神」(「魔」神から「善」神へ)に転換(蘇生)する呪術、祈りを発明した。即ち、後に仏教で、「変毒為薬」、「煩悩即菩提」、「色即是空」などにも通じる思考である。その後、征服統治者のアーリア人(広義には、アーリア言語使用民族グループも含める。)も次第に同化し、この文化をその習慣的に受け入れた。

PDF『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良

 実に興味深い指摘である。祈りが本来、自然災害などのマイナス要因を転換するために行われたであろうことは想像できる。呪術の「呪」には「祝う」意味もある(「祝」の字ができたのは後のこと)。確かに「災い転じて福となす」ためには悪鬼が善鬼となってもらわねば困る。人間万事塞翁が馬というように不幸の後で幸福が訪れたこともあっただろう。その触媒が祈りにあったと人々が信じれば宗教的体験が共有される。実際は不幸の連続であったとしても輝かしい奇蹟の記憶はそう簡単に消えたり、訂正されたりするものではない。

 メソポタミアの宗教については全く知識がないので何とも言いかねる。同じセム族から生まれたアブラハムの宗教は「神との同化」を説いていない。神の絶対性は予定説に極まり、祈りが現実に対して何らかの変化を及ぼすことはあり得ない。祈りはただ神を仰ぐことを意味する。神と人間は隔絶している。

 気候が寒く厳しい地域では教義もまた厳格になるという説がある。仏教の南伝と北伝が異質な教えになったようにメソポタミアの宗教もまた変化したのだろうか?

 いずれにせよ宗教も情報理論に収まる。外部情報をどう読み解くかという問題なのだ。17世紀科学革命以降、情報は観察とデータが優先され、古い神話や物語は葬られた。それでも尚、人類の脳はバイアスを払拭できない。

2020-05-10

老人ホームに革命を起こす/『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ


『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子

 ・病苦への対処
 ・老人ホームに革命を起こす

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『悲しみの秘義』若松英輔

必読書リスト その二

 トーマスはチェイスの管理事務所に相談に行った。革新的サービスに対するニューヨーク州の小規模援助金を申請できると提案した。トーマスを雇った所長のロバート・ハルバートはトーマスのアイデアを基本の部分では気に入った。何か新しいことをやってみるのは楽しそうだった。(中略)
 トーマスは自分のアイデアの背景を説明した。彼が言うには、この目的は彼が命名したナーシング・ホームに蔓延する三大伝染病を叩くことである――退屈と孤独、絶望である。三大伝染病を退治するためには何かの命を入れる必要がある。ホームの各部屋に観葉植物を置く。芝生を剥がして、野菜畑と花園を作る。そして動物を入れる。
 おおよそ、この程度ならば大丈夫なようにみえる。衛生と安全の問題があるので、動物は場合によっては微妙である。しかし、ニューヨーク州のナーシング・ホームに対する規制は、1匹の犬と1匹の猫だけを許可している。ハルバートはトーマスに、過去に2~3匹犬を入れようとしたが、不首尾に終わったことを説明した。動物の性格が悪かったり、動物にきちんとした世話をするのが難しかったりした。しかし、ハルバートはもう一度試す気はあると話した。(中略)
 みなで申請書を記入した。まあ、おそらく無理だろうとハルバートは踏んだ。しかし、トーマスは作業チームを引き連れて州議会議事堂に行き、担当官を相手にロビー活動をした。そして、補助金申請が通り、規制についても必要な特例措置がすべて認められた。

【『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ:原井宏明〈はらい・ひろあき〉訳(みすず書房、2017年)以下同】

 2匹の犬、4匹の猫、そして鳥100羽、更にスタッフは自分の子供を連れてきた。ただ死を待つばかりだった老人ホームに生そのものが吹き込まれた。ナーシング・ホームとは看護師つきの老人ホームなのだろう(ナーシングホームとは)。日本の場合、介護や医療は7~9割を保険報酬に負っている。経済的に余裕のある人であれば自費でサービスを受けることも可能だが、普通の人は国が決めた基準のサービスしか受けられない。対価を支払う内容は細かく決められており、有無を言わさず見直しされる。施設を経営するのは営利企業だから優しさや親切が過剰なサービスとなっていないかどうか厳しく管理している。「余計な真似をするな」というルールに貫かれている。

 植物や動物、そして子供は自然そのものだ。管理しようと思って管理できる対象ではない。それこそが「生きる」ということだ。管理された人生は「死んだ生」だ。老人ホームは死を待つバス停でしかない。

 一人の男性が老人ホームに革命を起こした。環境を一変させたのだ。誰もが思いつくようなことだが、いざ実行となれば話は別だ。施設のスタッフは上を下への大騒ぎとなった。

 このプログラムの効果を知るために、2年以上にわたってチェイスの入所者と近くの他の施設の入所者を研究者がさまざまな指標を用いて比較した。研究の結果、非各群と比べると一人当たりに使われた薬の数が半分になったことがわかった。興奮を鎮静させるために使うハロベリドールのような向精神薬の減少が特に大きかった。薬剤費のトータルが他施設と比べて38パーセント減少した。死亡は15パーセント減少した。

 見事な結果が出た。生きる希望を与え、生きる気力を奮い立たせたと言ってよい。元気になるお年寄りの姿を見てスタッフも充実感を覚えたことだろう。

 社会全体が子供と老人をどのように扱うかでその国の命運は決まる。子供は国家の未来そのものであり老人は伝統を現す。革命を標榜する政党がいつまで経っても国民の支持を得られないのは伝統に対する敬意を欠くためだ。左翼は革新の名の下に伝統の破壊を試みる。進歩を標榜したソ連が崩壊したにも関わらず。

 かつて長寿は幸福を意味した。それが今、不幸に変わりつつある。厳しい戦後を生き抜き、日本の高度経済成長を支えてきた人々が、老人ホームで何もすることがない日々を黙って生きている。



サンセベリアの植え替え/『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード

2020-04-30

真実在/『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ


 ・シンボルは真実ではない
 ・真実在

『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト 2

 もしわれわれが神の存在を信じるならば、その信仰は確実にわれわれのおかれた環境の結果である。子供の頃から神を否定するように訓練された人々もいれば、反対にわれわれのほとんどがそうであるように、神を信じるように教育を受けている人々もいる。このようにわれわれは各自の受けた教育や育った背景に従い、また好き嫌い、希望、恐怖といった個人的傾向に従って、神についての考えを作り上げる。そのため、われわれの思考過程をはっきりと理解しないかぎり、神についての単なる観念はまったく価値がない。そうではないだろうか?
 なぜなら、われわれの思考は、好きなものを何でも投影することができるからである。思考は神を創造することも、否定することもできる。人は誰もが、自分の傾向、快楽や苦難次第で、神を発明することも破壊することもできる。したがって、思考が活動し、組み立てたり発明したりしているうちは、時間を超えたものが発見されることはけっしてあり得ない。神あるいは真実在は、考えることをやめたときに初めて見出される。

【『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ:中川正生〈なかがわ・まさお〉訳(めるくまーる、2007年)】

 再読。「真実在」という言葉があちこちに出てくるのだが見るたびにイライラさせられる。「真理」「未知のもの」「神聖なもの」ならまだしも、「真実在」とは一体何なのだ? 「reality」の翻訳なのか?(クリシュナムルティと仏教の交照 玉城康四郎氏の誤読を正す1 藤仲孝司

真実在について

 仮に真実在がイデアを志向しているのであれば、それは真我論となる。クリシュナムルティはよもや「アートマン」と語ったわけではあるまい。

 言葉は当のものではなく、言(=事)の葉であるのは当然だが、人を煙に巻くような意味不明の翻訳は訳者の知的怠慢ではないのか?

 たとえこのテキストを読んだとしても神を否定する人と神を肯定する人とがいることだろう。それほどまでに神という概念は脳を汚染している。それが仏でも宇宙人でも幽霊でも一緒だ。確認し得ないものを存在させることにおいて脳はその力を最大に発揮する。ザ・妄想装置。

 長らく「必読書」に入れておいたのだが外した。代わりに『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』を入れようと考えている。

2020-03-30

呪術の本質は「神を操ること」/『日本人のためのイスラム原論』小室直樹


・『国民のための経済原論1 バブル大復活編』小室直樹 1993年
・『国民のための経済原論2 アメリカ併合編』小室直樹 1993年
・『小室直樹の中国原論』小室直樹 1996年
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹 1997年
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹 1997年
・『日本人のための経済原論』小室直樹 1998年
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹 2000年
『日本人のための憲法原論』小室直樹 2001年
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹 2001年

 ・呪術の本質は「神を操ること」

・『イスラーム国の衝撃』池内恵
『イスラム教の論理』飯山陽

 このモーセとの対話にかぎらず、古代イスラエルの神はなかなか自分の名前を明かそうとしない。
 たとえば、アブラハムの子孫のヤコブに対してもそうだった。
 ヤコブというのは、イスラエル民族の直接の先祖とされる男なのだが、この人物のところにある夜、神が現われて彼と格闘をする。
 結局、ヤコブが神を負かしてしまうのだが、このとき彼が神に「どうかあなたの名前を教えてください」と尋(たず)ねるのである。
 すると神は、
「なぜわたしの名前を知りたいのだ」
 と言ったきり、本当の名前を教えなかったとある(「創世記」三二)。
 なぜ、神はモーセにもヤコブにも、自分の名前を教えなかったのか。
 また、なぜ神は十戒の中で「あなたの神、主(しゅ)の名をみだりに唱(とな)えてはならない」と命令したのか。
 それは呪術(じゅじゅつ)につながるからだ。
 マックス・ウェーバーは当時のエジプトにおいて、「もしもひとが神の名を知って正しく呼ぶなら神が従(したが)うという信仰」(『古代ユダヤ教』内田芳明訳)があったことを指摘している。
 つまり、神の本名(この場合、ヤハウェ)を呼び、そこで願い事をする。そうすれば、神は人間の願いをかなえてくれるというわけだ。
 呪術の本質は、神をして人間に従わせるということにある。
 その目的をかなえるために、神の名前を呼ぶ、あるいは火を焚(た)く、生贄(いけにえ)を差し出す、呪文を唱えるなどの方法が古来“開発”されてきた。
 こうした呪術を知っている人のことを、普通は呪術者とか魔術師と呼ぶわけだが、実は古代宗教の神官(しんかん)というのも、みな呪術者のようなものである。

【『日本人のためのイスラム原論』小室直樹〈こむろ・なおき〉(集英社インターナショナル、2002年)以下同】

 密教の特徴は呪術性にあると私は考える。鎌倉仏教はむしろ日本密教と呼ぶのが正確だろう(ただし禅宗は除く)。祈祷(呪法)・曼荼羅(絵像、木像)・人格神の3点セットが共通している。

 呪術の本質が「神を操ること」と喝破した慧眼には恐れ入った。私は長らく祈りと悟りについて思索してきたが「祈りが一種の取り引き」であり、欲望から離れることを教えたブッダに背く行為であることは理解できた。それが「神を操ること」であるならば人は神の上位に立ってしまう。仏教でいえば「法(真理)を操ること」になるのだ。

 こうした呪術は古代エジプトだけにあったわけでは、もちろんない。
「宗教のあるところ、かならず呪術あり」と言ったほうがいいくらいだ。
 人間というのはわがままだから、とうにかして自分の都合のいいように物事を動かしたがる。だからこそ、呪術がはびこり、大きな力を持つようになるというわけだ。
 そこで、心ある宗教者ならこうした呪術を何とか追放しようと試みる。
 たとえば仏教においてもそうである。
 仏教は本来「法前仏後」(ほうぜんぶつご)の構造を持つのだから、釈迦(しゃか)といえども、この世の法則を動かすことはできない。
 したがって、仏を操る呪術が出てくる余地はないのだが、その代わりに超能力は存在する。  仏教ではそれを「五神通」(ごじんつう)と呼ぶ。(中略)
 こうした神通力は釈迦自身も持っていたのだが、釈迦はけっして神通力の開発を奨励(しょうれい)しなかった。
 というのも、超能力は修行を深めていけば、自然に備(そな)わるものであって、それを目的に修行するのは本末転倒(ほんまつてんとう)になるからである。神通力ほしさに修行するなど、外道(げどう)の行なうことであるというのが仏教のスタンスであった。
「であった」と過去形でなぜ書いたかといえば、こうした釈迦の精神は仏教の普及とともに失(うしな)われていったからである。
 ことに決定的だったのは大乗(だいじょう)仏教の成立である。
 すでに述べてきたように、仏教は本来、修行によって救済を得るというのがその本旨(ほんし)であった。だから、悟りを得ようとすれば、いきおい出家をしてサンガに入ることが求められたわけである。
 だが、仏教が広がるにつれて、多数の在家信者(ざいけしんじゃ)が生まれてくると、そうは言っていられなくなった。出家しなくても、悟りを得る方法はないのかという要求が高まったのである。
 そこで生まれたのが大乗仏教であったわけだが、仏教の大衆化は否応(いやおう)なく呪術の発達を促(うなが)した。護摩(ごま)を焚(た)き、あるいは呪(じゅ)を唱(とな)えることで仏(ほとけ)や菩薩(ぼさつ)を動かし、自分の願いをかなえようとする方法が開発されるに至(いた)ったのである。
 また、仏教を各地に普及させるため、超能力も積極的に使われるようになった。中国で仏教が広まったきっかけも、インドからきた浮図(ふと/仏教僧)が驚くべき超能力を使ったからに他ならない。

 日本に仏教が伝わった時は超能力ではなく医学が使われた。私はブッダを思慕する者ではあるが仏教徒ではない。戒律と修行が悟りにつながるとは到底思えないのが大きな理由だ。ブッダに近侍(きんじ)したアーナンダ(阿難)が悟りを開いたのはブッダ死後のことである。

 悟りには段階がある(『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃)。しかしながら預流果(よるか)に至った人すら私は出会ったことがない(『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ)。仏教徒を名乗るのであれば、せめて悟ったか悟っていないのかをはっきりと表明すべきだろう。

 繰り返されるマントラ(真言)は輪廻そのものにすら見える。

一神教と天皇の違い/『日本語の年輪』大野晋


・『日本語の起源』大野晋

 ・一神教と天皇の違い

『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
・『日本語練習帳』大野晋
・『日本語で一番大事なもの』大野晋、丸谷才一

 自然のあらゆる物事が、生物と無生物とを問わず、すべて精霊を持つと思い、その精霊の働きを崇拝する。これがアニミズムであり、古代日本人の意識を特色づける一つの代表的なものである。人々は、海や、波や、沖や、山や、奥山や、坂や、道や、大きな岩や、つむじ風、雷などに霊力があると思い、その精霊や威力を恐れ、それらの前にかしこまった。その気持が「かしこし」という気持である。これが拡張されて、神に対する畏敬の念についても「かしこし」と表現したのである。
 日本人が、「自然」を人間の利用すべき一つの物としては考えず、「自然」の中のさまざまのものが持つ多くの霊力を認めて、それに対して「かしこ」まる心持を持っていたことは、「古事記」や「万葉集」の歌に、はっきり示されている。
 現代の日本人にとって最もわかりにくいのは、ヨーロッパのような、唯一の神が支配し給う世界ということであり、神々という言葉ほどわかりやすいものはない。お稲荷さんも神様で、八幡さまも神さま(ママ)で伊勢神宮も神さまである。しかも、その神たるや何の実体もなく、ただ何となく威力があり、霊力があり、人間に【たたり】をすることがあり、力を振う存在と考えられる。日本人はその不思議な霊力の前に、ただ「かしこまる」だけである。
 この「かしこし」に似た言葉に「ゆゆし」がある。これはポリネシアで使われるタブーという言葉と同じ意味を表わすものと思われる。タブーとは二つのことを指している。一つは神聖で、清められたものであり、供えられたものであり、献身されたものであるゆえに、特別なところに置かれ、人々から隔離され、そして、人間が触れないようににされたもの、つまり、触れるべからざるほどの神聖で素晴らしいものである。もう一つは、けがらわしい、あるいは汚いと考えられたがために、別の所に置かれたものを指している。例えば死骸とか、ある場合には妊娠した女、あるいは特別の時期の女など、これらは触れてはならないものという意味において、ともにタブーされる。つまり、「タブー」とは、神聖なという意味と、呪われたという意味との二つの意味を持つ、ラテン語、 sacer に対応する言葉で、フランス語の sacré もそれを受け継いでいる。だから、「ゆゆし」も、神聖だから触れてはならないとする場合と、汚れていて不吉だ、縁起が悪いから触れてはならないとする場合の二つがあった。
 例えば、「懸けまくもゆゆしきかも、言はまくもあやにかしこき」と歌った柿本人麻呂の歌がある。これは「口にかけていうのも神聖で恐れ多い、口に出していうのも慎むべきわが天皇の」という意味で、この場合、「ゆゆし」は、神聖だから触れてはならないという意味である。

【『日本語の年輪』大野晋〈おおの・すすむ〉(有紀書房、1961年/新潮文庫、1966年)】

「カミの語源が『隠れ身』であるように、ほんとうに大切な崇(あが)めるべき存在は、隠されたものの中にある(『性愛術の本 房中術と秘密のヨーガ』)。その隠れ身が「ゆゆ-・し」と結びついて「上」(かみ)と変化したのだろう。

 日本語の神は唯一神のゴッドと異なる。天皇陛下は神であるがゴッドではない。仏の旧字は佛で「人に非ず」の意である。印象としてはこちらに近い。畏れ多くも天皇陛下(※後続にも)は基本的人権を有さないのでその意味でも人(国民・市民)ではない。ラレインが語った「部族長」という表現が一番ピンとくる(『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖)。

「ただ何となく威力があり、霊力があり」との一言が目から鱗(うろこ)を落とす。日本人の多くが天皇陛下を信じ仰ぐがそれは信仰ではない。赤子(せきし)である国民のために祈り(天皇は祭祀王)、私(わたくし)なき生活に対する敬意であろう。そうでありながらもいざ戦争となると日本人の紐帯(ちゅうたい)として存在をいや増し、輝きは絶頂に達した。

 日本人はそれを国体と呼んだ。天皇に対する素朴な敬意は八紘一宇(はっこういちう)の精神に押し広げられ、アジアの同胞を帝国主義の軛(くびき)から解放することを目指した。青年将校の蹶起(けっき)や陸軍の暴走は大正デモクラシーの徒花(あだばな)であったのだろう。歴史は大きくうねりながらゆっくりと進む。

「天皇制打倒」を掲げて歴史を直線的に進歩させようと試みるのが左翼である。ソ連が崩壊したことで社会主義システムの欺瞞が明らかになったわけだが、今尚コミュニズムの毒が抜けない人々が存在する。彼らはリベラルの仮面をかぶり、人権を説き、地球環境に優しい生き方を標榜する。破壊という目的を隠しながら。