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2021-10-25

真相が今尚不明な柳条湖事件/『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子


『工藤写真館の昭和』工藤美代子
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒

 ・佐藤栄作と三島由紀夫
 ・「革新官僚」とは
 ・真相が今尚不明な柳条湖事件

 事件は昭和6(1931)年9月18日に、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖の満鉄(南満州鉄道)線路で起きた小さな爆発事件だった。
 一般的に「柳条湖事件」と呼ばれているこの爆発事件の首謀者は関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、同じく関東軍作戦参謀石原莞爾(かんじ)中佐だとされてきた。
 両者ともその事実を否定したまま故人となった。
 ところが戦後になって当時の奉天特務機関にいた花谷正少佐(最終階級陸軍中将)が「手記」を発表し、板垣、石原のほかに関東軍司令官本庄繁中将、挑戦軍司令官林銑十郎(せんじゅうろう)中将、参謀本部第一部長建川美次(よしつぐ)少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも一緒にこの謀略に荷担していた、と書いた。
 雑誌「別冊知性」(河出書房刊)に発表された花谷の手記は「満州事変はこうして計画された」と題するもので、戦史研究家・秦郁彦の取材に答えたとされる。
 だがその時点で、主役の登場人物はすべて物故しており肝心な裏付けはとれない。
 さらに、インタビューした秦郁彦自身による次のような記述を読めば、花谷発言の信憑性に疑問すら浮かぶ。

「私はこの事件が関東軍の陰謀であることを確信していたので、要は計画と実行の細部をいかに聞き出すかであった。最初は口の重かった花谷も少しずつ語り始め、前後8回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。みずから進んで語るのを好まない関係者も、花谷談の裏付けには応じてくれた。
 それから3年後の1956年秋、河出書房の月刊誌『知性』が別冊の『秘められた昭和史』を企画したとき、私は花谷談をまとめ、補充ヒアリングと校閲を受けたのち、花谷の名前で『満州事変はこうして計画された』を発表した」 (『昭和史の謎を追う』上)

 花谷はこのときまで62歳だったが、翌年死亡が伝えられている。すでに体調を崩していたための代筆とも考えられるが、それだけに真相がどれだけ語られていたのか、すべては死人に口なし、である。
 したがって、この一文をもって柳条湖事件を関東軍の謀略と決めつけるのはいささか無理がありそうだ。
 事件の背後にはもっと複雑な謀略が絡んでおり、事件の真相はまだ闇の中と言えよう。
 いわゆる「リットン調査団」の報告書も微妙な表現を用い、断定を避けている。
 岸が生涯の前半生を賭けた大仕事が満州経営であってみれば、その発端を切り拓いた柳条湖事件は極めて重要なポイントとして見逃せない。
 だが、軍部中心のこの事件の真相に迫るのは本書の主題から離れるので、史料がいまだにいかに不確実な事件かという事実だけを指摘するに留めたい。
 満鉄線の一部が何者かによって爆破されたということ、それを契機として日中間に銃撃戦が発生し、関東軍が自衛のために満州各地へ進出(錦州爆撃など)を開始した、という経過だけが明らかなのである。

【『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(幻冬舎文庫、2014年/幻冬舎、2012年『絢爛たる悪運 岸信介伝』改題)】

 吃驚仰天した。柳条湖事件を起こしたのが板垣征四郎と石原莞爾〈いしわら・かんじ〉であったというのは既成事実ではないのか? 慌てて検索したのだが工藤美代子の主張を裏づける情報は皆無であった。

 工藤は文章が巧みである。工藤の手に掛かればいかなる人物であったとしてもそれなりの物語にすることが可能だろう。我々は文章や言葉に直ぐ騙される。その最大の見本がバイブルである。あの文体は脳を束縛する心地好さがある。イエスという人物があたかも実在したように錯覚させられる。しかも西洋人はイエスの言葉を通して、更に実在の不明な神を信じているのだ。胡蝶の夢のまた夢といってよかろう。

 工藤の文章が危ういのは、「事件の背後にはもっと複雑な謀略が絡んでおり」と思わせ振りなことを書いておきながら、その根拠を全く述べていないところだ。事実に印象を盛り込んでおり、読者を誘導しようとする魂胆が透けて見える。

 歴史が厄介なのは、嘘を確認するために学ぶことがあまりにも多いためだ。その作業が疎(うと)ましく感るごとに歴史から遠ざかってしまう。嘘がどれほど罪深いかを知ることができよう。

 日本国民は満州事変を熱狂的に支持した。三国干渉(1895年/明治28年)以降、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉にしてきた日本人が諸手を挙げて喝采を送ったは当然であった。すなわち柳条湖事件はきっかけに過ぎず、たとえ同事件が発生しなくとも、別の事件で事変に至ったのは確実である。



工藤美代子の見識を疑う/『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔

2021-08-31

関東軍「陰謀論」こそウソ/『愛国左派宣言』森口朗


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗

 ・社会主義国の宣伝要員となった進歩的文化人
 ・陰謀説と陰謀論の違い
 ・満州事変を「関東軍による陰謀」と洗脳する歴史教育
 ・関東軍「陰謀論」こそウソ
 ・新型コロナウイルス陰謀説
 ・皇室制度を潰す「女系天皇」

『知ってはいけない 金持ち悪の法則』大村大次郎

必読書リスト その四

 では、「柳条湖事件」が関東軍の陰謀だったという「陰謀論」の方は、なぜ、学校教育に定着したのでしょう。当時の国際連盟がそのように判断した訳ではありません。むしろ国際連盟から派遣されたリットン調査団は、当時の満州の発展は中華民国ではなく日本の努力によるものだと認め、柳条湖事件が起きた夜の日本側の軍事行動は正当防衛とまでは認め得なかったけれども、将校達が自衛のために考え行動した(つまり誤想防衛をした)のは仕方がないとしたのです。その上で、日本の主張を一部認め、日本軍に今後の満州における匪賊(ひぞく)の討伐権を認めました。
 日本は第二次世界大戦に負けたのですから「関東軍が全面的に正しかった」と教えることは難しいでしょう。でも、せめて国際連盟から派遣されたリットン調査団の調査内容が正しい、つまり「柳条湖事件の真相は不明だが、当時の関東軍は正当防衛と考えて軍事行動を起こした」と教えるのが、正しい歴史教育のはずです。
 ところが、学校で「関東軍の陰謀により満州事変は起こった」と教え、大学でもマスコミでもあらゆるところで、それを前提にして議論しているのです。その根拠は、たった一人、花谷正(はなやただし)が戦後に語った、いかがわしい発言だけです。
 花谷が言うには、昭和6(1931)年に関東軍高級参謀(大佐)板垣征四郎と関東軍作戦参謀(中佐)石原莞爾(いしは〈ママ〉らかんじ)と、少佐だった花谷が中心となって、この陰謀を実行したそうです。全く信用できません。何故なら、板垣征四郎と石原莞爾は極めて有能で、現役時代から「陸軍の巨星」とまで呼ばれた二人でした。これに対して花谷正は、多くの作戦に失敗し部下の命を失わせたことで、また人格面においても問題の多い人物でした。彼が死んだ時には、盛大な葬儀が営まれましたが、部下は誰一人会葬(かいそう)しませんでした。
 そんな男が、両雄である板垣征四郎(昭和23(1948)年12月23日、死刑執行)も石原莞爾(昭和24(1949)年8月15日に病死)も亡くなった後の昭和30(1955)年に『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」昭和30年12月号 河出書房)において秦郁彦氏の取材に答える形で、「あの2人と自分が中心になって、柳条湖事件を起こしました」と発言しただけなのです。彼は、さらに関東軍司令官本庄繁中将(昭和20(1945)年11月19日GHQから戦犯に指名され翌日自決)、朝鮮軍司令官林銑十郎中将(昭和18(1943)年2月4日病死)、参謀本部第1部長建川美次(たてかわよしつぐ)少将(昭和20(1945)年9月9日死去)が、この謀略に賛同していたと言いふらしているようですが、この方々も全員が1955年までには亡くなっていました。
 花谷が「謀略に賛同した」幹部の1人と指名した中で1955年段階で唯一生き残っていたのは橋本欣五郎(当時、参謀本部ロシア班長で中佐)でした。彼は、昭和31(1956)年の第4回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補し落選しているのですから、彼が「花谷の言うとおり」と発言していない限り、花谷の発言は、自分を大物に見せたいだけの「ウソ」と判断すべきでしょう。もちろん、橋本から「花谷の発言は正しい」といった発言はありません。
 常識で考えれば、花谷の証言こそが「ウソ」なのですが、昭和時代は戦前の日本を悪者にして自分だけが「いい人」ぶる行為が流行っていました。保守言論では「従軍慰安婦」なるものを創った吉田清治が有名ですが、花谷の発言こそ最大のウソではないでしょうか。

【『愛国左派宣言』森口朗〈もりぐち・あきら〉(青林堂、2021年)】

 驚愕の事実である。腰を抜かす人がいてもおかしくないほどだ。あまりにも驚いてしまったので少し調べた。どうやら工藤美代子著『絢爛たる醜聞 岸信介伝』(『絢爛たる悪運 岸信介伝』改題文庫化)に書かれている内容のようだ。同書には「(※板垣、石原の)両者ともその事実を否定したまま故人となった」との記述がある。

 著者が言いたいことは、教科書で教える歴史は事実に基づくべきであり、日本の戦争だけを詳細に取り上げて、わざわざ舞台裏まで記述し、意図的に自国を貶めることに何の意味があるのか? ということだ。「昨今の陰謀論を嘲笑う風潮」に対する批判という文脈の中で書かれているテキストであることを失念してはなるまい。

 つくづく人の脳が物語に支配されやすい事実を思い知らされた。明らかな因果関係を示されると脳は「疑う」ことを忘れる。おばあさんが川で洗濯をしていると、どんぶらこどんぶらこと桃が流れてくることになっている。いじめられている亀は助けなければならないし、わらしべは取り敢えず大事にしておく。神話、昔話、宗教はその物語性によって社会を維持する装置である。

 自虐史観という言葉は既に手垢まみれとなっているが、日本を貶める左翼の行状(ぎょうじょう)を詳(つまび)らかにして、その罪状を一々論(あげつら)うことなくして、正常な歴史を知ることはないだろう。

2020-09-24

異能の軍人/『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄


『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆

 ・異能の軍人

『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 本書には、岩畔豪雄(1897~1970年)に対して木戸日記研究会・日本近代史料研究会が1967年に3回にわたり行った聴き取り調査の記録、および岩畔自身が記した41年の日米交渉の顛末に関する文書が収められている。
 岩畔豪雄は、昭和戦前期に軍事官僚として陸軍省と参謀本部(いわゆる省部)の要職を歴任、満州国の経営に参画し、さらには謀略工作も担当した。アジア・太平洋戦争勃発直前には日米交渉に関与し、そして開戦後はマラヤ作戦ビルマ作戦および対インド政治工作に従事する。この他にも中野学校機甲本部大東亜共栄圏戦陣訓登戸研究所偽造紙幣工作、など岩畔が関与した事案は枚挙にいとまなく、「異能の軍人」の面目躍如であった。(等松春夫〈とうまつ・はるお〉)

【『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉(日本経済新聞出版、2015年/日本近代史料研究会、1977年『岩畔豪雄氏談話速記録』を改題)以下同】

 古書店主の仕事は目録作りである。要は本の並べ方に工夫を凝らし、鎬(しのぎ)を削るのが古本屋の仕事だ。上記リンクの並びは思わずニンマリした出来映えである。岩畔豪雄と田中清玄〈たなか・きよはる〉には妙に重なる部分がある。裏方に徹して少なからず国家の動向に影響を及ぼした点もさることながら、二人の人物評が目を引く。何気ない一言が本質を浮かび上がらせ、偶像に亀裂を入れる破壊力がある。

 巻頭に「なお、本記録の編集は竹山護夫会員が担当した」とある。護夫〈もりお〉は竹山道雄の長男である。惜しくも44歳で没した。そのほか、伊藤隆、佐藤誠三郎、松沢哲成、丸山真男の名前がある。

「異能の軍人」とは言い得て妙だ。岩畔豪雄は軍人という枠に収まる人物ではなかった。戦時にあっても平時にあっても遺憾なく才能を発揮できる男であったのだろう。真の才能は韜晦(とうかい)を拒む。水のように溢れ出て周囲を潤すのだ。

 二・二六事件に関しても当時を知っているだけあって指摘が具体的で思弁に傾いていない。

―― それが、二・二六というものが将校だけの画策であれば、ああいう裁判はなされなかったのでしょうか。

岩畔●やっぱりやったでしょうね。
 二・二六というのは非常に遺憾なことだったのですが、大体が陸軍の首脳部の初めからこういう問題に対する態度が悪いですよ。一番最初の三月事件の時あたりに橋本欣五郎をパッとやるというようなことをやっておればけじめがついたのですが、その時なにもなかったから、あとからまた10月事件をやった。その時も処罰を20日か30日食って終り。これではいかんですよ。パッとやればそうすればその後にあんなことなど起こらないのですよ。
 一番態度が悪いのが首脳部ですよ。これはみなさんもよく注意して下さいよ、「その精神は諒とするも行動が悪い」と言っているのです。行動が悪いものは精神も悪いので、これが日本人の一つの欠点だと思うのです。だから、「お前行動も悪い、したがって精神も悪い」、こういかなければならないところを、みんなが「精神は可なるも行為が悪い」と言う。こんなバカな話があろうかというのですよ。これが三月事件、10月事件が二・二六事件に至った大きな原因であったわけですよ。だからなんでも同じなので、初めにスパッと手の中を見せんようにやっておけばあとはサッといったものを、そこがコツだと思うのですが。

 実務家の面目躍如である。三島由紀夫は反対方向へ行ってしまった。大東亜戦争における軍の暴走を解く鍵は二・二六事件にある。是非や善悪が極めてつかみにくく、責任の所在すら曖昧になりやすい。日本の談合文化が最も悪い方向へ露呈した歴史と言ってよい。司馬遼太郎が否定した気持ちも何となく理解できよう。

 調べれば調べるほどわからなくなる大東亜戦争や二・二六事件であるが、岩畔の指摘はスッキリしていてストンと腑に落ちる。二・二六事件は社会主義という流感のようなものだったのではあるまいか。そんな気がしてならない。

―― 石原莞爾はどうだったんですか。

岩畔●この人は私もよくわからないのですが、大谷はそれを非常にはっきり書いておるようですが、大体ああいう態度を取ったと思うのだが、石原なんという人は、「よし、これは治める、しかし、これを利用してなにかやる」というそういう政治的な見透しはあったでしょうね。そういう感じがあの人については非常にするのです。

「某(なにがし)」ではなく「なん」というのが岩畔の口癖である。「なん」呼ばわりした人物は大抵評価が低い(笑)。自分たちで勝手に次期首相を決めようとしたわけだから(『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹)、岩畔の指摘は正鵠(せいこく)を射ている。

 それで石原莞爾〈いしわら・かんじ〉の軍事的才能が翳(かげ)りを帯びることはないが、満州事変が後進に与えた悪影響は計り知れない。



【赤字のお仕事】「インスタバエ」ってどんな「ハエ」? 「…映え」「…栄え」の書き分け原則とは(1/3ページ) - 産経ニュース
インターネット特別展 公文書に見る日米交渉
三月事件、十月事件の甘い処分が二・二六事件を招いた/『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
二・二六事件前夜の正確な情況/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦

2020-08-21

満洲建国と南無妙法蓮華経/『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』寺内大吉


『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之

 ・満洲建国と南無妙法蓮華経

・『石原莞爾と昭和の夢 地ひらく』福田和也
・『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』保阪正康
・『血盟団事件 井上日召の生涯』岡村青
『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一

 旧満洲国時代、「爆破地点」と麗々しく記念標識を線路ぎわにかかげながら、その地点から「柳条湖」という固有名詞を抹殺し、存在もしない「柳条溝」としたことは日本名に書き替えたにひとしい。それこそ侵略である。
 こうした身勝手さが、無神経ぶりが明治人間には旋毛のようにこびりついている。徳川300年の鎖国から由来する蛮性であるか。

【『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』寺内大吉〈てらうち・だいきち〉(毎日新聞社、1988年/中公文庫、1996年)以下同】

 寺内は浄土宗の坊さんである。尚且つ戦前を黒歴史と認識しているところから左翼史観に毒されていることが判る。ま、1990年代までの知識人はおしなべてこのレベルで批判するのがリベラルと錯覚していた。大東亜戦争を批判するのは一向に構わないのだが、白人帝国主義という時代背景を見落としている人物が多すぎる。

 ところがである。この記念スナップは、ただ一点で世にも不可思議な装飾を撮しだしていた。画面の右端で天井から垂れさがる達筆な七文字であった。

 ――南無妙法蓮華経

 不気味とも異妖でもある上貼りセロファン紙の説明がなければ特定の宗教結社の集会を思わせる。それにしては軍服姿が多すぎる。
「これ……何でしょうねぇ」
 改作は写真部長に指で示した。無論セロファン紙のそこに注釈、説明はなかった。
「知らんのかいな。お題目やがな」
 ことなげに言い捨てて、かえりみようともしない。
「わかってますよ、それくらいは……でもなぜ、こんなものが会場にぶら下がっているんだろう」
 建国会議のスローガンにしては面妖だし、さりとて関東軍が日常にぶら下げていたとしら、いよいよ奇怪である。
「そやなぁ、改作よ。石原参謀は熱心な法華信者やさかい、あの人が持ちこんだんとちがうかいな」
 写真部長は相変らずの無関心ぶりである。(中略)

 日中両国の共存共栄が、満蒙三千万無産大衆の楽園が、石原莞爾にあってはナショナリズムを超越した南無妙法蓮華経からみちびき出されるということになる。だからこそ国旗も軍旗も飾らない会場を染め上げtあ七文字の題目であった。
「改作よ。思い出した」
 写真部長はあわてて補足しようとする。
「何ですか」
「関東軍ハンが言うとったな。この2月16日は日蓮聖人の誕生日なんやと」
 この関東軍ハンは大連支局長のことだ。彼は石原莞爾から教えられたのであろう。
 日蓮聖人の誕生日だからお題目を会場へかかげた……いよいよその無神経さが疑われるではないか。曲がりなりにも建国会議は国際会議である。これを世界へ訴えて日本に領土的野心が絶無なことを理解してもらおうと意図もしている。
 そこへ個人の信教を持ち出して、押しつけようとする。公私混同も甚だしく、国際感覚はゼロにひとしい。


 主人公の改作は尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉をモデルにしている(『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫)。ソ連のスパイに身を落とした尾崎もまた獄に囚(とら)われたのち法華経に傾倒している。改作という名前は池田大作をもじったものか。

 石原莞爾〈いしわら・かんじ〉は国柱会(立正安国会)の信徒であった。「田中智学先生に影響を受けた人々」を見ると著名人が名を連ねている。田中よりも10歳年下の牧口常三郎は創価教育学会を立ち上げたが、これほどの影響は及ぼしていない。先が見えない動乱の時代にあって指導性を発揮し得た事実を単なるカリスマ性でやり過ごすことはできない。それなりの悟性が輝いていたと考えて然るべきだろう。

 一応私が過去に読んできた書物を列挙してみたが、やはり近代史の中で捉える必要があり、日蓮系の系譜に固執すると全体が見えなくなる。石原莞爾については大変面白い人物だとは思うが、昭和天皇ですら「わからない」と判断を留保した将校だ。小室直樹は「天才」と評価しているが、偏った傾向があまり好きになれない。岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉の評価あたりが正確だと思われる。

2018-12-11

ソ連の予審判事を怒鳴りつけた石原莞爾/『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 ・天才戦略家の戦後
 ・ソ連の予審判事を怒鳴りつけた石原莞爾

『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 5月27日は、ソ連の予審判事が3人やってきた。陰湿な男で、いきなり満州事変について質問した。
 石原は昭和8年ジュネーブでの国際連盟臨時総会に出席する途中、招かれてソ連のエゴロフ総参謀長と会ったことを話した。するとソ連の検事は顔色を変え、一瞬言葉に詰った。相手が余りにも大物だったからである。
 ソ連の検事は「国体」について尋問した。石原は「天皇中心とした国家でなければ日本は治まらない」と理由を説明した。ところが共産党国家の検事はせせら笑って、スターリンのソ連国体を持ち出した。その時、石原はムッとして、
「自分の信仰を知らずして、他の信仰を嘲笑うような下司なバカ野郎とは話したくない。帰れ!」と激怒した。通訳官が慌てて、「この人は、ソ連では優秀な参謀です。話をすれば分かると思います。ぜひ進めてください」と頼んだ。
 すると石原は、「バカなことを言うな。こんなのはソ連では参謀で優秀かも知れんが、日本には箒で掃き出すほどいる。こんなバカとは口をききたくない、帰れ」と突っぱねた。
「分かるように話してやる。君らはスターリンといえば絶対ではないか。スターリンの言葉にはいっさい反発も疑問も許されないだろう。絶対なものは信仰だ。どうだ判ったか。自分自身が信仰を持っていながら、他人の信仰を笑うようなバカには用はない。もう帰れ」
 それきり、石原は口を固く閉じた。

【『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之(双葉新書、2013/双葉文庫、2016年)】

 天才とは規格外の才能を意味する。凡人が理解できるのは秀才までで天才が放つ光は時に「狂」と映る。やや礼賛に傾きすぎていて人物の描き方は浅いと言わざるを得ないが、それでもかつての日本にこうした人物がいたことを知る必要があろう。

 石原莞爾〈いしわら・かんじ〉は満州事変の首謀者で、1万数千名の関東軍を率いて23万人を擁する張学良〈ちょう・がくりょう〉軍を打ち破った。その名は軍事的天才として世界に知れ渡った。二・二六事件では単身で鎮圧に乗り出し、凄まじい剣幕で反乱軍兵士を怒鳴りつけ、青年将校にピストルを突きつけられても微動だにすることがなかった。

 二・二六事件のとき、石原は東京警備司令部の一員でいた。そこに荒木貞夫がやって来たとき、石原は「ばか! お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な! 上官に向かってばかとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」とさらに言い返した。そこに居合わせた安井藤治東京警備参謀長がまぁまぁと間に入り、その場をなんとかおさめたという。

Wikipedia

 後に昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している(『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』文藝春秋、1991年)。

 石原は満州国を建国した後は一貫して平和主義者の態度を変えていない。しかしながらさすがの彼も関東軍の暴走を抑えることはできなかった。ここが凡人にはわかりにくいところである。暴走した石原の腹心は石原の行動に倣(なら)っているつもりであったのだ。

 大東亜戦争の戦線拡大に反対し続けた石原は遂に犬猿の中であった東條英機〈とうじょう・ひでき〉の暗殺にゴーサインを出す。その時刺客を務めることになったのが木村政彦であった(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也)。また東京裁判の酒田出張法廷に出廷する際、病に伏していた石原をリヤカーに乗せて運んだのは大山倍達〈おおやま・ますたつ〉であったと伝えられる。

 極端から極端へと走る姿がいかにも日蓮主義者らしい。同時期の国柱会信者には宮沢賢治がいた。

2016-01-19

天才戦略家の戦後/『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 ・天才戦略家の戦後
 ・ソ連の予審判事を怒鳴りつけた石原莞爾

『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 片倉(衷)は陸大教官石原の教え子で、昭和6年の満州事変の時は見習い参謀だった。ともに満州事変を乗り切った、いわば子弟である。その片倉が、重病の石原に変わって供述書を口述・代筆する。
 石原はむしろ戦犯になり、ペリー来航まで遡って戦う腹だった。しかし4月8日の参与検事会議で戦犯リストから外され、残念がった。それでも彼は、検事たちが新しい証拠を見つけては再び戦犯リストに挙げてくるだろうと、むしろ期待した。

【『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之(双葉新書、2013/双葉文庫、2016年)以下同】

 礼賛本である。客観性に乏しいため割り引いて読む必要があろう。にもかかわらず「必読書」としたのは、やはり石原莞爾〈いしわら・かんじ〉という男が規格外の日本人であったためだ。稀代の天才戦略家は合理性の権化(ごんげ)であった。不合理には昂然と異を唱え、たとえ上官であったとしても罵倒した。普通の日本人とは立つ位置が異なっていたのだろう。

 病室にアメリカ軍の法務官と通訳が新聞記者たちと一緒に入ってきて、「これから証人尋問を開始する!」と宣告した。

「オレは戦犯だ。なぜ逮捕しないのだ。裁判になったら何もかもぶちまけてやる。広島と長崎に原爆を落としたのはトルーマンだ。彼こそ第一級の戦犯ではないか。どうした。なぜオレを逮捕しないんだ」

 と、石原は怒鳴りつけた。


 敗戦後、原爆に関する報道はGHQにより規制された。日本国民が初めて原爆の惨禍を知ったのはサンフランシスコ講和条約が発効した(1952年4月28日)独立後のことで、『アサヒグラフ』が1952年8月6日号で報じた。


米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人

 昭和21年4月29日は月曜日で、戦後初めて迎えた天長節である。キーナン首席検事は起訴状を読み上げ、裁判開始の日どりは5月3日からとした。起訴された名前は荒木貞夫から始まって梅津美治郎までの28名。
 石原は、翌30日の連盟会員が持ってきた新聞でそのことを知ると、
「オレの名前があったらな。この裁判を引っくり返してやるんだが――」
 と残念がった。

 Wikipediaの石原記事は読み物として通用するほど面白い。個人的にはハンガリー人宇宙人説の筆頭ジョン・フォン・ノイマンと双璧をなす記事だと思う。

戦犯自称の真相」という中途半端な記述があるが、酒田臨時法廷における石原の堂々たる態度や、公判終了直後にその場でアメリカ人検事が非礼を詫(わ)びたことなどを併せ鑑み、各人が判断すればいいだろう。

「ときに東京裁判は、日清日露戦争まで遡って戦犯を処罰するべきだ、という者がいる。君はどう思うかね」
 すると法務官は「そうする方針です」と答えた。
 その時だった。石原はニヤリとして、
「これは面白い。大いにやってくれ。それだったら、ペリーこそが戦争犯罪人だ。ペリーを呼んでこい」と言った。

 ペリーを知らないという法務官に石原は歴史を語り、「だからペリーを呼んでこい。彼をあの世から呼んで来(ママ)て、戦犯としてはどうかね」と言いくるめた。返答に窮した法務官が「今度の戦犯の中で、いったい誰が第一級と思われますか」と尋ねると、間髪を入れず「それはトルーマンだよ」と、アメリカ大統領の名前を上げ、具体的な国際法違反を懇々と語り、更にはナポレオンの話までする。法務官は「まるで陸軍大学の講義を聴いているみたいでした」と感激しながら帰っていった。

 石原は国際法の仕組みをきちんと理解していたのだろう。それゆえ欧米の土俵(≒論理)に上がろうとも、「勝てる戦略」が見えていたのではないか。ただし寺内大吉著『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義』(1988年)は石原の日蓮主義を批判的に捉えている。