・明治以前、日本に「社会」は存在しなかった
・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」
・「存在」という訳語
・翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった
・『「ゴッド」は神か上帝か』柳父章
・『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』柳父章
「恋愛」とは何か。「恋愛」とは、男と女がたがいに愛しあうことである、とか、その他いろいろの定義、説明があるであろうが、私はここで、「恋愛」とは舶来の概念である、ということを語りたい。そういう側面から「恋愛」について考えてみる必要があると思うのである。 なぜか。「恋愛」もまた、「美」や「近代」などと同じように翻訳語だからである。この翻訳語「恋愛」によって、私たちはかつて、1世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかったのである。 しかし、男と女というものはあり、たがいに恋しあうということはあったではないか。万葉の歌にも、それは多く語られている。そういう反論が当然予想されよう。その通りであって、それはかつて私たちの国では、「恋」とか「愛」とか、あるいは「情」とか「色」とかいったことばで語られたのである。が、「恋愛」ではなかった。
【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)】
「エ!?」となった。人を好きになるのは自然なことだ。私が初めて好きになった女の子は同じ幼稚園に通うヨーコちゃんだった。同じ想いを抱いていたカタギリで二人でヨーコちゃんの頬にチューをしたことがある。淡い感情は思春期に入ると性的色彩を帯びてどす黒くなってゆく。それでもまだ中学生くらいまでは話していて面白いレベルでうろうろしている。
恋愛以前にあったものは何だろうか? それは「情」である。「恋」の語源は「乞(こ)う」で、「愛」は「かなしい」とも読む。ここまで解説すると、「じょう」(情)や「なさけ」(情け)と通底していることがおわかりいただけよう。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。要はこうだ。誰かが誰かを好きになる。言葉や恋文で赤裸々な真情を伝える。相手はそれを持ち帰ってあれこれ迷う。自分も想いを寄せていた人物であればハッピーエンドとなるわけだが、犬が涎(よだれ)をこぼしながら餌にありつくような真似はしたくない。少し時間を置いて焦(じ)らしてみようか。それとも……。
実はこうした駆け引き、あるいはセオリー(理論)、はたまた概念は近代ヨーロッパで生まれた。恋愛という新しい概念で人類を束縛したのが実は『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ著、原著は1774年刊、和訳は1891年高山樗牛訳)であった。つまりゲーテこそが恋愛の父なのだ。
それ以前にも『ロミオとジュリエット』(1595年前後)など恋愛作品は存在したがゲーテほどの衝撃を与えていない。『若きウェルテルの悩み』はヨーロッパでベストセラーとなり自殺者が続出した。
人間とは「概念を生きる動物」なのだ。夢や理想と言えば聞こえはいいが所詮妄想である。