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2021-05-19

近代化と宗教/『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート


『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット

 ・近代化と宗教

必読書リスト その四

 文化とは、その社会の生き残り戦略を構成する、一連の学習された行動である。

【『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート:山崎聖子〈やまざき・せいこ〉訳(勁草書房、2019年)】

 痺れる。簡にして要を得た言葉が短刀の如く胸に突き刺さる。武士道といっても結局は適応化の一つなのだ。そう考えると社会・世間・コミュニティの影響力は想像以上に大きいことがわかる。部族であればしきたりだが、民族や国家にまでコミュニティが拡大すると、思考を束縛するだけの説得力が必要になる。真相は国家が文化を育むのではなく、文化の共有が国家を形成するのだろう。

 工業社会では、生産は屋内の人工的な環境へと移り、太陽が昇ったり季節が移り変わったりするのを受け身で待つこともなくなった。暗くなれば証明をつけ、寒くなれば暖房をつける。工場労働者は豊作を祈らない――生産を左右するのは人の創意工夫で作られた機械だ。病原菌と抗生物質の発見により、疾病さえも天罰とはみなされなくなった。病気もまた、しだいに人の手で制御が進みつつある問題の一つなのだ。
 人々の日常体験がこうも根本的に変わった以上、一般的な宇宙観も変わる。工場が生産の中心だった工業社会では、宇宙の理解も機械的な見方が自然に思えた。まずは、神は偉大なる時計職人で、いったん宇宙を組み立ててしまうと後はおおむね勝手に作動するに任せるという考え方が生まれた。ところが、環境に対する人の支配力が大きくなると、人々が神に仮託する役割は縮小していく。物質主義的なイデオロギーが登場して、歴史の非宗教的な解釈を打ち出し、人間工学で実現できる世俗の理想郷を売りこんでくる。知識社会が発展するにつれ、工場のように機械的な世界は主流ではなくなっていく。人々の生活体験も、形ある物よりも知識を扱う場面の方が多くなった。知識社会で生産性を左右するのは物的制約ではなく、情報や革新性、想像力となった。人生の意義や目的についての悩みが薄らいだわけではない。ただ、人類の歴史のほとんどを通じて大半の人々の人生を支配してきた生存の不確かさの下では、神学上の大難問など一握りの人にしか縁がなかった。人工の大多数が求めていたのはそんなことより、生き延びられるかどうか危うい世界で安心を与えてくれることであり、伝統的な宗教が大衆の心をつかんでいられたのも、主な動機はこれだった。

「工場労働者は豊作を祈らない――生産を左右するのは人の創意工夫で作られた機械だ」。近代化と宗教の図式を見事に言い当てている。文明とは環境のコントロールを意味する。そう考えると現代の先進国は幸福を獲得したと言ってもよさそうだ。ストレスや肥満なんぞは贅沢病なのだ。我々には今日、明日をどう生き延びるかという悩みはない。

 実は3分の1ほどで挫折した。いささか難解で読むスピードがどうしても上がらない。宗教社会学者にでも解説を願いたいところである。それでも必読書にした私の眼に狂いはないだろう。エドワード・O ウィルソン著『人間の本性について』とよく似た読書体験である。

2020-11-25

戦争が向社会的行動を促す/『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック


『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
・『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 ・共同体のもつ【集団脳(集団的知性)】
 ・戦争が向社会的行動を促す

『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス (
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ

 社会規範が強化され、共同体の結束が強まると、より多くの、より活発な共同体組織が生まれてくるようだ。戦争の【影響を受けていない】共同体で、農業協同組合や婦人団体のような新たな地域組織が設立されたところは【まったく】なかった。それに対し、戦争の影響を受けた共同体では、その40%において、戦後、新たな組織が設立されていた。暴力を経験した共同体では、新組織の設立がなかったところでも、既存の組織や外部の者た起ち上げた組織組織の活動が、暴力を受けていない村の組織よりも活発になった。戦争を経験したことで向社会的な規範が強まり、その結果、より多くの活力に満ちた共同体組織が生まれたのである。  戦争にはなぜ、このような向社会的行動を促進する効果があるのだろう?  何十万年にもわたって集団間競争が繰り広げられるなかで、さまざまな社会規範が広まっていった。団結して共同体を守ろうとする気運を高め、干魃、洪水、飢饉のような自然災害に対処するためのリスク共有ネットワークを作り、食物、水、その他の資源の分かち合いを促すような社会規範である。つまり、時が経つにつれてだんだんと、個人の生存や集団の存続は、集団を利する向社会的な規範を遵守できるかどうかで決まるようになっていった。とくに、戦争の脅威が迫っているとき、飢饉に襲われたとき、干魃が続くときはそうだった。  このような世界では、文化-遺伝子共進化によって、集団間競争に対する心理的反応が促された可能性がある。集団の結束力を高めなければ生き残れないような脅威にさらされると、あるいはそれが常態化した環境に置かれると、個々人をしっかりと監視し、違反者に厳しい懲罰を加える習慣が集団間競争で有利になって広まるので、その結果、(飢饉にときに食物を分かち合わないなど)規範を破ろうとする誘惑は抑え込まれていく。また、そうした脅威のもとでは、違反者は村八分、鞭打ち、死刑など苛酷な制裁を受けるようになるので、その結果として、人々は無意識かつ反射的に社会規範を遵守するようになり、信念や価値観や世界観をも含め、集団やその社会規範にしがみついて生きるようになっていったのかもしれない。  つまり、集団間競争がきっかけとなって、集団の結束力や自集団への帰属意識が強められ、規範を守ろうとする意識が高まっていったのだ。規範意識が高まると、規範が遵守されるようになると同時に、違反行為に対するネガティブな反応が強まる。

【『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック:今西康子訳(白揚社、2019年)】

 逆説的ではあるが戦争が向社会的行動を促すのは国民の結束を強めるためだろう。もう一段深く捉えれば国民感情の結合が戦争を求める姿が浮かび上がってくる。これだけでも驚くべき指摘だが、後半のテキストは私がかねがね考えてきた「集団と暴力」の実相を鮮やかに描写している。

 集団には必ず同調性が働き、時に同調圧力となって個人の自由を抑制する。教室コミュニティからいじめがなくならないのは同調圧力が作動するためだ。加担しなければ次は我が身に降り掛かってくることがわかれば、リスクを回避する行動は自動的に選択される。いじめが多勢で行われるのも「団結の形」である。マイナスのインセンティブを与える何らかのシステムが必要だ。

 向社会的行動からコミュニティ内の団結が生まれる。そう考えると最強の社会は軍隊で、次に官僚・政党・宗教団体が続き、その後を企業や組合が追いかける。いずれも利益(国益)が原動力となっていることがわかる。

 自由が自発性に基づくのであれば理想的な社会はスポーツチームやオーケストラであろう。個々人は部分に過ぎないが協力から全く新しい価値が生み出される。

 中国共産党の一党支配や、イスラム教の独裁王政、インドのカースト制度を批判するのはたやすいことだが、社会規範として機能するからには何らかのメリットがあると考えられる。民主政こそが正しい政治システムだと思い込むのは勝手だが他国にまで押しつける道理はない。

 振り返ると明治維新前後は様々な結社ができた。その後も雨後の筍のように政治結社を輩出した。大正デモクラシーに至るまでの半世紀に渡って日本人は離合集散を繰り返して多彩な化学反応をし続けた。そして昭和に入ると行き過ぎた政党政治を払拭すべく軍が立ち上がった(昭和維新)。

 戦後は労働運動や学生運動は活発化したが、結社の伝統が根づくことはなかった。このあたりがイギリスとは異なる(『結社のイギリス史 クラブから帝国まで』綾部恒雄監修、川北稔編)。日本はもう一度私塾からやり直した方がよさそうだ。

2020-11-24

共同体のもつ【集団脳(集団的知性)】/『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック


『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
・『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 ・共同体のもつ【集団脳(集団的知性)】
 ・戦争が向社会的行動を促す

『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ

 このようにして、文化進化によって生まれた【自己家畜化】のプロセスが、ヒトの遺伝的な変化を促し、その結果、私たちは向社会的で、従順で、規範を遵守する動物になっていった。共同体に監視されながら社会規範に従って生きることを、当然のこととして受け入れるようになったのだ。(中略)  人類の成功の秘密は、個々人の頭脳の力にあるのではなく、共同体のもつ【集団脳(集団的知性)】にある。この集団脳は、ヒトの文化性と社会性とが合わさって生まれる。つまり、進んで他者から学ぼうとする性質をもっており(【文化性】)、しかも、適切な規範によって社会的つながりが保たれた大規模な集団で生きることができる(【社会性】)からこそ、集団脳が生まれるのである。狩猟採集民のカヤックや複合弓から、現代の抗生物質や航空機に至るまで、人類の特長とも言える高度なテクノロジーは、一人の天才から生まれたのではない。互いにつながりを保った多数の頭脳が、何世代にもわたって、優れたアイデアや方法、幸運な間違い、偶然のひらめきを伝え合い、新たな組み合わせを試みる中から生まれたものなのだ。  規模が大きく、しかも成員相互の連絡性が高い社会ほど、高度なテクノロジーや、豊富なツールキット、多くのノウハウを生み出せるのはなぜか? 小さな共同体が突如孤立すると、高度なテクノロジーや文化的ノウハウがしだいに失われていくのはなぜか? いずれも、集団脳の重要性で説明できることを第12章で示す。後ほど詳しく述べるが、人類のイノベーションは、個々人の知性よりもむしろ、社会のあり方に依存している。言うまでもなく、共同体の分断や社会的ネットワークの崩壊をいかにして防ぐかということが、長い歴史を通じてずっと、人類にとっての重要な課題だったのだ。

【『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック:今西康子訳(白揚社、2019年)】

 飛ばし読み。再読するかどうかは未定である。脳やメンタルの調子もさることながら、本は読む順序にも大きく影響される。『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』の衝撃が大きすぎて、どうもまったりした印象を拭えなかった。

 冒頭の文章は危うい。環境要因と遺伝要因を入れ替えることも可能だろう。定住-農耕から文明が誕生したわけだが、文明の発達は人間を自然環境から遠ざけ、身体性を弱め、思考重視の生活様式に傾斜してゆく。その様相はまさしく「家畜化」と言ってよい。もしも明日、食料品がなくなれば先進国の大半の人々は餓死するはずだ。食べることのできる野草や木の実の種類も知らないのだから。

 集団脳だとあたかも中心的な実態や存在があるように感じられるため、集団的知性の方が言葉としては適切だろう。例えば蜂や蟻の社会的生態を想えば腑に落ちる。




 下の動画はハキリアリの巨大な巣である。彼らは空調システムを完備(アリ塚と空調、自然に学ぶエネルギー)した巣でキノコを培養する。「廃棄された菌床には窒素などが多く含まれていて、それがやがて土に還り、森をより豊かにする」(第44回 ハキリアリは農業を営む(パート2))。「アリやハチなどの社会性昆虫と同様にシロアリは社会の中で生きているが、そこではコロニーの集団の力が個体の力をはるかに凌駕する。超個体の一部となることで、小さなシロアリは強大な力を得る。しかしシロアリのアリ塚は、監督のいない建設現場のようなもので、計画の責任を担うシロアリは存在しない」(巨大なアリ塚を築くシロアリの集合精神)。「個々のシロアリは考えるというより反応しているだけだが、集団レベルではある意味周囲の環境を認知しているように振る舞う。同様に脳では、個々のニューロンが考えているわけではないが、そのつながりの中で思考が発生する」(同頁)。

 集団システムから創発される何かを我々は「社会」(social)と呼ぶのだろう。

 社会学者の故・蔵内数太によると、会社も社会も「(同じ目的を持つ人々による)結合の一般概念」で、その起源は中国の「社」に遡ります。その後「company(会社)」は「営利目的の組織」を意味する言葉として、「society(社会)」はより生活をともにする共同体に近い意味に分化していきました。

「会社」と「社会」と「ソーシャル」:日本経済新聞

 古い本なので致し方ない側面はあるが柳父章〈やなぶ・あきら〉の指摘(『翻訳語成立事情』)が身分を問題視するのはマルクス主義の影響が濃い。むしろ身分そのものが社会的なコミュニケーションの形であり、適応の様態と見るべきではないか。

 アルビン・トフラーが「情報革命の波」を示したのが1980年である(『第三の波』)。40年語にGAFAが世界を席巻する時代が到来した。それは言葉と商品を網羅するビッグデータが基本となっている。しかしそれに収まらない情報も存在する。我々がスポーツや音楽を愛してやまないのはそこに言葉以外のコミュニケーションが成立し、論理に収まらない感情の昂(たか)ぶりを感じるためだ。

 社会性昆虫が思考を介在させることなくして社会システムを構築できるのであれば、果たして人間に同じことが可能だろうか? サッカーは11人のプレイヤーがいるが、1億人で政治というゲームをプレイしてサッカーの試合のように盛り上がることはできるだろうか?