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2021-11-28

不確実性に耐える/『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環解説、まんが水谷緑


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
統合失調症の内なる世界
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環

 ・不確実性に耐える

『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン

虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

「自分自身を知る」とは「自分はこういう人間だった、わかった!」という理解ではありません。自分自身もまた「汲み尽くすことのできない他者」として理解することです。対話実践とはその意味で、自分自身との対話でもあるのです。

【『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環〈さいとう・たまき〉解説、まんが水谷緑〈みずたに・みどり〉(医学書院、2021年)以下同】

 オープンダイアローグを通して斎藤自身が変わった。結局、統合失調症患者を媒介にして参加者全員が変わるところに「オープン」の意味があるのだろう。「変わる」と言っても決して大袈裟なことではない。今まで言えなかった何かや、見えなかった自分に気づけばそれでいいのだ。

 オープンダイアローグでは途中でリフレクティングを行う。これは一旦対話を中断して、専門家同士が目の前で対話の内容を検討するというもの。この時、見えないカーテンで仕切られているとの自覚で、当事者とは目も合わせてはいけない。また、当たり前だが否定的な意見は言わない。

 結果的に私たちがしてきたことは、「そんなことあるわけがない」と反論するわけでもなく、「そうですよねぇ」と同調するわけでもなく、ただ、「私はそういう経験をしたことがないからよくわかりません」という基本姿勢で、「どういう経験か知りたいので、もっと教えてくれませんか」と尋ね続けたことだと思います。
 そのように聞いていくと本人は、みんながわかるような言葉を自分で絞り出して説明するわけです。おそらく、他人にわかってもらうように説明するという過程のなかに、ちょっとこれは自分でもおかしいかなとか、自発的に気づくきっかけがあったのかもしれません。人から言われて気づかされるのではなくて、自分から矛盾や不整合に気づいて修正していくと、結果的に正常化が起こってくるということかもしれないなとは思いました。

 漫画で描かれているのは完全な妄想性障害である。旦那が浮気をしていると思い込んで、やや狂乱気味の女性だ。何度もオープンダイアローグを重ねて、「もう駄目かも」と斎藤があきらめかけた時、彼女は一変した。

 この人の訴えを「妄想」と呼ぶ医師もいるかもしれません。妄想というと、きっちり構築された理屈みたいに聞こえますが、実は妄想の背景にあるのは、怒りや悲しみなどの強い「感情」なんですね。だから感情の部分に隙間ができると、妄想の内容もだんだん変わってくる。それをこのケースでは痛感しました。

 いやいや妄想ですよ。それも完全な。ここで常識人は意味の罠に囚(とら)われる。「妄想の原因は何か?」「妄想の意味は何か?」と。あるいは単なる脳のバグかもしれない。

「オープンダイアローグの7原則」の6番目に「不確実性に耐える」とある。この一言は重い。だがよく考えてみよう。生きるとは「不確実性に耐える」ことだ。紀貫之〈きのつらゆき〉は「明日知らぬ 我が身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ かなしかりけれ」と詠んだ。従兄弟の紀友則〈きのとものり〉が亡くなったことを嘆いた歌だ。一寸先は闇である。その不確実性に分け入り、切り拓いてゆくのが人の一生なのだろう。

【変えようとしないからこそ変化が起こる】――この逆説こそが、オープンダイアローグの第1の柱です。オープンダイアローグでは、治療や解決を目指しません。対話の目的は、対話それ自体。対話を継続することが目的です。(中略)
 ただひたすら対話のための対話を続けていく。できれば対話を深めたり広げたりして、とにかく続いていくことを大事にする。そうすると、一種の副産物、【“オマケ”として、勝手に変化(≒改善、治癒)が起こってしまう。】これは一見回り道のように見えるかもしれませんが、私の経験をもとにして考えると、結局はいちばんの最短コースになっていることが多いんですね。
 裏返して癒えば「対話というものは続いてさえいればなんとかなるものだ」――これがオープンダイアローグの肝だと私は思っています。これはこの言葉どおり捉えていただいてかまいません。対話を続けてさえいればなんとかなる。続かなくなったらヤバいかも、ということです。

 ここまで指摘されてオープンダイアローグが集合知であることに気づく。ヒトという群れが言葉を介してつながる姿が鮮やかに見える。「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説が正しいなら、胎内で魚からヒトにまで進化した赤ん坊が、言葉を操るようになるまで3年ほど要することを見逃せない。つまり大脳ができても言葉のなかった人類の時代があったに違いない。

 まだ成り立てのほやほやだった人類は、限りなく動物に近い存在だった。言葉のない時代の方がコミュニケーションは円滑であったと想像する。社会性動物の真価は群れにあるのだ。それゆえ群れの中で上手く動けない者は淘汰されたことだろう。そして人類の多くは統合失調症であった(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ)。右脳と左脳を統合したのは言葉と論理だ。理窟で抑えきれない情動は狂気となって滴り、迸(ほとばし)る。

 たぶん言葉が脳を豊かにし、そして脳にブレーキをかけている。更に文字が言葉を強力に支える。歴史も文明も言葉から生まれた。だが果たして現在の我々の生き方が本当に人間らしいのだろうか? やや疑問である。

精神医療の新しい可能性/『オープンダイアローグとは何か』斎藤環


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
統合失調症の内なる世界

 ・精神医療の新しい可能性

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン

虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 どれほど精神療法志向の医師でも、統合失調症だけは薬物療法が必須であると考えています。かつて反精神医学運動のなかで、薬物投与や行動制限をしない治療の試みが何度かなされ、ことごとく挫折に終わっているという苦い記憶もあります。統合失調症だけは薬を用いなければ治らない。それどころか、かつて早発性痴呆と呼ばれたように、放置すれば進行して荒廃状態に陥ってしまう。これは精神医学において専門家なら誰もが合意する数少ないハード・ファクトのひとつです。少なくとも、そう信じられています。

【『オープンダイアローグとは何か』斎藤環〈さいとう・たまき〉著、訳(医学書院、2015年)以下同】

 オープンダイアローグとはフィンランドで行われている統合失調症の治療法である。「開かれた対話」を家族と関係者で行う。斎藤は精神科医の本音を赤裸々に綴っている。私は過去に5~6人の統合失調症患者と接する機会があったが、やはり同様に考えていた。ギョッとさせられる言動や行動が多いためだ。妄想は想像の領域を軽々と超える。突拍子もない支離滅裂な話に「うん、うん。そうか――」と耳を傾けることは意外としんどい。もっとはっきり言うと「治そう」という意欲すら湧いてこない。できれば何とかしてくれ、時間よ。と嵐が通り過ぎるのを待つ心境に近い。

 自殺を防ぐためだと思われるが強い薬が処方されることも多い。一日に30~40錠もの薬を服用している人もいた。服薬後は頭がボーッとして何もできなくなる。当然、仕事もできない。

【映画に登場する病院スタッフたちが語る内容は、実に驚くべきものでした】。
 この治療法を導入した結果、西ラップランド地方において、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮されました。薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられていたというのです。そう、なんとこの治療法には、すでにかなりのエビデンス(医学的根拠)の蓄積があったのです。

 これは革命といっていいだろう。私は予(かね)てから左脳と右脳の統合に支障がある病気と考えてきたが、情報の紐づけが混乱している状態と考えた方がよさそうだ。対話は言葉で行われる。しかし言葉だけではない。情緒が意味や位置をくっきりと浮かび上がらせるのだ。我々はちょっとした目の動きや何気ない動作から様々な情報を受け取る。ひょっとすると体温や体臭まで感じ取っているかもしれない。

 尚、斎藤が購入した映画は現在、You Tubeで公開されている。


 オープンダイアローグとは、これまで長い歴史のなかで蓄積されてきた、【家族療法、精神療法、グループセラピー、ケースワークといった多領域にわたる知見や奥義を統合した治療法なのです】。

 やや西洋かぶれ気味で鼻白む。なぜなら、ほぼ同じことを20年以上も前から、べてるの家が実践してきたからだ。本書の中では申しわけ程度に紹介されているが、べてるの家を無視してきた日本の精神医療が炙り出された恰好だ。

 余談になるが、表紙を飾る冨谷悦子〈ふかや・えつこ〉のエッチング(「無題(19)」2007年)が目を引く。個と群れの絶妙なバランス感覚が際立っている。

2021-02-14

精神障碍者を町に解き放つ/『ベリー オーディナリー ピープル とても普通の人たち 北海道 浦川べてるの家から』四宮鉄男


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄

 ・精神障碍者を町に解き放つ

『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍

 べてるのメンバーはどんどん町へ出ていく。病気が治ってからとか、症状がよくなってから、というのではない。症状が良くても悪くても、よほど状態が悪かったり急性期の錯乱状態でもなければ、本人に外に出ていきたいという意志や意欲があれば、積極的に後押しして町へ出ていけるようにしている。(中略)
 患者さんが町に出ていくと問題が起きやしないかと心配する人がいる。しかしべてるでは、誰もそんな心配はしない。むしろ問題が起こることを歓迎する。問題が起こった方が、問題の在りかが明らかになり、それが問題解決の手がかりになる。そもそも、べてるには、問題は必ず解決しなければいけないという発想がない。すぐに解決するような問題は放って置いてもたいしたこがないし、逆に、本質的な大問題は少々の努力をしてみても、すぐにどうこうなるものではないからだ。

【『ベリー オーディナリー ピープル とても普通の人たち 北海道 浦川べてるの家から』四宮鉄男〈しのみや・てつお〉(北海道新聞社、2002年)】

 四宮鉄男はドキュメンタリー映画監督で、長期間に渡ってべてるの家を撮り続けてきた。斉藤道雄著『悩む力 べてるの家の人びと』と同年に刊行されており、べてるが広く社会に知られるきっかけとなったことだろう。驚くほど文章が巧みで著作が一冊しかないのはもったいない限りである。必読書に入れてもよかったのだが既にべてる本は3冊あるため教科書本とした。

『ベリー オーディナリー ピープル』は全8巻、続いて『シリーズ・精神分裂病を生きる』は全10巻のビデオ作品となっている。たった今知ったのだが林竹二〈はやし・たけじ〉の映像作品も撮っていた。こりゃ本物ですな。現在入手可能な作品は限られているが、図書館を探せばビデオ作品は見ることができるかもしれない。尚、一連の映像はコピー可で営利を目的としていない。

 精神障碍者といえばどうしてもレッサーパンダ帽男殺人事件(2001年)を思い出してしまう。

『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫

 あの頃は幼児を高層マンションから投げ落とす事件が何度も起こった(児童投げ落とし事件の考察 異常犯罪行動学の試み:佐藤弘弥)。後日報道が途絶えた。いずれも知的障碍者や精神障碍者の犯行だった。本書でも池田小事件(2001年)が起こった際のべてるメンバーの反応が紹介されている。犯人は統合失調症であった。

 こうした事件があると「精神障碍者は危ない」となりがちだが、そこには認知バイアスが働いている。殆どの障碍者は罪を犯していない。健常者だって人を殺す。正確な犯罪率を出すことにも意味はないだろう。例えば都道府県の窃盗犯罪率を調べて、最も多い県名を挙げて「泥棒県」と評価するような行為に堕してしまう。こうしたデータは原因を究明するところに意味があり、長期的な視点に立たないと単純な現状批判の刃(やいば)になりかねない。

「開かれた社会」という言葉がある。べてるが行ったのは「社会を開かせる」一種の蛮行であった。横紙破りといっていい。地域に迷惑をかけ、110番通報されることも多かった。しかし数年を経て地域に溶け込み、更にはなくてはならない存在にまでなるのである。べてるの家は地域密着サービス事業を行い、勇名を馳せてからは観光資源にまでなる。ともすれば障碍者の自由は地域住民の不自由につながりなけないが、不自由と自由が入り乱れて予測し得ない化学反応を起こした。

 私が知る限り、べてるの家は最高に理想的なコミュニティである。ダイアローグ(対話)の意味はべてるを知らずして理解できまい。向谷地生良〈むかいやち・いくよし〉(ソーシャルワーカー)と川村敏明医師の功績は年々輝きを増している。





2021-01-31

話すことができないコメディアン(ブリテンズ・ゴット・タレント2018年)


 我々は日常の些末な苦労を、仕事を、人生を笑い飛ばすことができているだろうか? 彼の朗らかな笑い声が聴こえてくるような気がするのは私だけではないだろう。「障碍者」(しょうがいしゃ)の烙印を押す医師や社会が彼らの可能性を奪っている事実に気付かされる。

2020-12-23

パラリンピックを3倍楽しむために/『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか』伊藤亜紗


・『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗

 ・パラリンピックを3倍楽しむために

・『どもる体』伊藤亜紗
・『記憶する体』伊藤亜紗
・『手の倫理』伊藤亜紗
『ポストコロナの生命哲学』福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史『悲しみの秘義』若松英輔

 けれど、同じことをしたとしてもやはりそこには違いがあるはずです。「視覚なしで走るフルマラソン」や「視覚なしでするダイビング」がどんな経験なのかが気になる。たとえば、ある中途失明の女性が、「走るっていうのは両足を地面から同時に離す快楽なんです」と興奮ぎみに話してくれたことがありました。視覚なしの生活になって、常に摺(す)り足をする癖がついていた彼女にとって、それは大きな解放感をもたらしたそうです。それまで、私は走ることを「両足を地面から同時に離す行為」と捉えたことなどありませんでした。こうした「同じ」の先にある「違い」こそ、面白いと私は信じています。
 それは感情ではなく知性の仕事です。私たちの多くがいつもやっているのとは違う、別バージョンの「走る」や「泳ぐ」。それを知ることは、障害のある人が体を動かす仕方に接近することであるのみならず、人間の身体そのものの隠れた能力や新たな使い道に触れることでもあります。「リハビリの延長」でも「福祉的な活動」でもない。身体の新たな使い方を開拓する場であることを期待して、障害スポーツの扉を叩きました。

【『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか』伊藤亜紗〈いとう・あさ〉(潮新書、2016年)以下同】

 恐るべき才能の出現である。2冊読み、思わずBABジャパン社にメールを送った。直ちに伊藤亜紗を起用して日野晃初見良昭〈はつみ・まさあき〉を取材させるべきである、と。単なる説明能力ではない。柔らかな感性から紡ぎ出される言葉が音楽的な心地よさを感じさせるのだ。その文体は福岡伸一を凌駕するといっても過言ではない。

 街や家はあくまで私たちが生活する場。最低限の法律やルールは用意されているけれど、基本的には個人がそれぞれの目的や思いにしたがって自由に動き回っています。不意に立ち止まって写真を撮る人もいれば、立ち止まったその人をよけて小走りで先を急ぐ人もいる。お互いの配慮は必要ですが、思い思いの活動が許されています。
 それに対して、スポーツが行われる空間は、圧倒的に活動の自由度が低い空間です。管理されているのです。物理的な意味でも地面や水面が線やロープで区切られていますし、ルールという意味でも明確な反則行為が規定されています。
「自由度が低い」というとネガティブな印象を与えますが、近代スポーツとはそもそもそういうものでしょう。つまり、運動の自由度を下げることで、競争の活性を高めるのです。
 このような「生活の空間」と「スポーツの空間」の違いを、「エントロピー」という言葉で説明するならこうなるでしょう。生活の空間はエントロピーが大きく、スポーツの空間は逆にエントロピーが小さい空間である、と。
 エントロピーとは「乱雑さ」を意味する熱力学の用語です。分子が空間内をあちこち自由に動き回っている気体のような状態は、分子が整列して結晶構造を成している固体の状態に比べると、エントロピーが大きいということになります。(中略)
 グラウンドやプールに引かれた空間的な仕切りや実施上の細かなルールは、いわばエントロピーを調節するためのコントローラーのようなもの。コントローラーのツマミをどのように設定するかによって、その空間で行われる競技の内容は変わってきます。

 スポーツが「運動の自由度を下げることで、競争の活性を高める」との指摘自体が卓見であるが、更に続いてエントロピーの概念を引っ張り出すところが凄い。しかも正確な知識だ。エントロピーはしばしば誤って語られることが多い。

 障碍(しょうがい)は情報量を少なくする。眼や耳の不自由な人を思えば五感が四感になったと考えてよかろう。そんな彼らがエントロピーの小さな舞台で不自由な体を躍動させるのだ。障碍とルールという二重の束縛が競技を豊かなものにしていることがよく理解できる。

「パラリンピックを3倍楽しむために」というのは釣りタイトルであるが、明年のパラリンピックがあろうとなかろうとスポーツ観戦に興味がある人は必読である。

2020-12-20

統合失調症の内なる世界


 ・統合失調症の内なる世界

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環解説、まんが水谷緑
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家

 ツイートの日付をクリックすればスレッド表示となる。認知(受信)の歪みは誰にでも起こり得る。意識は繊細な糸でできており、右脳と左脳の統合が崩れると五感情報の整合性がとれなくなるのだろう。




「少しでもいい影響が広がりますよ...」、@M_hytk09 さんからのスレッド - まとめbotのすまとめ

2020-09-30

ヒモ一本でカラダ目覚める/『ヒモトレ革命 繋がるカラダ動けるカラダ』小関勲、甲野善紀


 ・ヒモ一本でカラダ目覚める

ヒモトレでX脚が治った
『ムドラ全書 108種類のムドラの意味・効能・実践手順』ジョゼフ・ルペイジ、リリアン・ルペイジ

身体革命

甲野●最近、私の講習会でも、必ずと言っていいほどヒモトレを紹介していますが、これは本当にすごい発見ですね。別に特別なことを覚えるとか、何かを意識するとか、そういうことを全くしないで、ただ、ヒモを一本巻くだけで体の動きが、たちまち変わりますから。

小関●私も驚いています(笑)。

甲野●私がヒモトレを初めてハッキリと認識し知ったのは、2014年に小関さんが日貿出版社から『ヒモトレ』という本を刊行され、私にも献本してくださった時です。
 それ以前にも、なんとなく耳にしていた気はしますが、あの本でハッキリと知りました。その後、2014年の秋頃、小関さんのお家に泊まらせていただいた時に、詳しくヒモトレの巻き方や効能を伺い、例えば「脚の付け根にヒモを緩く巻くと、階段の上り下りが楽になるんですよ」と教えていただいてから、早速試したところ、“これはいい!”と感動したのを覚えています。

【『ヒモトレ革命 繋がるカラダ動けるカラダ』小関勲、甲野善紀〈こうの・よしのり〉(日貿出版社、2016年)以下同】

虎拉(ひし)ぎ」を本書で知った。

 ヒモトレについては、100円ショップで太めの紐を買ってきて、あれこれ試したみたのだが特別な効果は感じなかった。だからといって軽んじることはできない。あの甲野が評価しているのだから。

 五官は外部情報をキャッチするアンテナである。靴や衣服はアンテナの感度を下げてしまう。裸で木登りをすれば全身で枝や風を感じることができるはずだ。ヒトの脳は集中すると周辺情報を見失う。ヒモトレは集中で凝り固まった意識を解放する効果があるのだろう。

小関●夜に尿意で5、6回ほど起きる人が、ヒモをゆる~く腰に巻くと、その日の夜から1回も起きなくなったり、起きる回数が減ったりという話を、あちこちで聞いています。夜間覚醒も随分減るようですね。
 また、鼠径部(そけいぶ)からお尻の下にかけて緩くヒモを巻いて寝ると、寝返りがとても楽にできるので、お腹の大きくなった妊婦さんからも、「寝るのが楽になった」というお声をいただいています。

 これは試してみる価値がある。いずれにしても「紐を緩く巻く」というのが肝心で、サポーターのように固く巻いてはいけない。人体がわずかな突起に反応してバランスするのは確かだろう。靴の中の小石ですら全身に不快な影響を及ぼすことからも明らかだ。

 身体障碍者にも格段の効果があるという。

 例えば、側湾(背骨が曲がっている症状)や寝たきりの子ども達の胸にヒモを巻いてみたところ、ペコンと潰れていた胸が膨らみ、呼吸が大きくなりました。人工呼吸器を付けている子どもの胸にヒモを巻いたところ、呼吸量が通常の1.5倍になっていたのですが、これにはお母さんも驚いていましたね。
 また、脳性麻痺のある子どもの中に、左右どちらかに片麻痺がある子どもがいます。自力で座ったり、真っ直ぐに立つことが大変むずかしいのですが、ヒモをお腹とタスキ掛けにして巻くと、座ったり、立ったりするときの姿勢が安定します。肩の緊張がとれて、重心が下がってくるので、足の裏でしっかり床を踏みしめることができるんですね。
 それから、嚥下障害には烏帽子掛けが有効です。下顎から頭頂部にかけて、緩くヒモを巻くのですが、そうすると、あまり機能していなかった舌骨上筋と舌骨下筋が、ヒモの微妙な刺激によってうまく連動して、嚥下反応が起こります。(藤田五郎:香川県立善通寺養護学校教諭)

 体の復元力というべきか。紐という小さな刺戟によって体が目覚める。人体で最も大きな臓器は皮膚である。これを侮ってはなるまい。なんと言っても最大のアンテナなのだから。

2020-07-30

身体障碍の現実/『寡黙なる巨人』多田富雄


『免疫の意味論』多田富雄
『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史

 ・身体障碍の現実

『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一

 そのとき突然ひらめいたことがあった。それは電撃のように私の脳を駆け巡った。昨夜、右足の親指とともに何かが私の中でピクリと動いたようだった。
 私の手足の麻痺が、脳の神経細胞の死によるもので決して元に戻ることがないくらいのことは、良く理解していた。麻痺とともに何かが消え去るのだ。普通の意味で回復なんてあり得ない。神経細胞の再生医学は今進んでいる先端医療の一つであるが、まだ臨床医学に応用されるまでは進んでいない。神経細胞が死んだら再生することなんかあり得ない。
 もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創り出されるものだ。もし私が声を取り戻して、私の声帯を使って言葉を発したとして、それは私の声だろうか。そうではあるまい。私が一歩踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何かを摑むんだとしたら、それは私ではない何者かが摑むのだ。
 私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんなやつだろうとひそかに思った。得体のしれない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるもののに期待と希望を持った。
 新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱々しく鈍重(どんじゅう)だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた。私には、彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた。

【『寡黙なる巨人』多田富雄(集英社、2007年/集英社文庫、2010年)】

 多田富雄は脳梗塞で右麻痺となり言葉を失った。嚥下(えんげ)障害の苦しさを「自分の唾に溺れる」と記している。感情の混乱についても赤裸々に書いており、妻への感謝を表現できずイライラばかりが募る様子に身体障碍(しょうがい)の現実が窺える。それでも多田は表現することをやめなかった。本書は左手のみのタイピングで著した手記である(柳澤桂子)。

 地べたに叩きつけられたような現実の中で多田は大いなる生の力を実感した。「寡黙なる巨人」とは卓抜したネーミングである。不思議な運命の糸を手繰り寄せ、生かされている事実を見出すことは難しい。決して大袈裟ではなく「全てを失った」時に“生きる力を奮い立たせる”といった言葉はあまりにも軽すぎる。ルワンダ大虐殺シベリア抑留にも匹敵する極限状況といってよい(『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル)。

「凄いなあ」と感心して終われば他人事である。そうではなく我々の日常も「小さな極限状況の連続」と捉えるべきだ。命に関わるような重大な出来事はなくても、些細な暴力や抑圧、恐怖や不安はあるものだ。そこでどう判断して動くか。ただただ耐えているだけなら、いつか殺される日を待っているようなものだろう。いじめやパワハラも最初は小さな仕打ちから始まる。その時「やがて命に関わる問題になる」と見抜くことができれば対応の仕方は変わってくるだろう。

 多田が体の自由を奪われた時に見出した「巨人の力」を私は自分の内側に感じない。私は本当に生きているのだろうか?

2019-05-17

母と子の物語/『壊れた脳 生存する知』山田規畝子


『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬

 ・病気になると“世界が変わる”
 ・母と子の物語

・『壊れた脳も学習する』山田規畝子
『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー

必読書 その五

 もとを正せば、山鳥重〈やまどり・あつし〉先生の本の「人間の行動は『記憶』である」という言葉に衝撃を受け、神経生理学というものにかみついてみた結果が、この本だ。
 その山鳥先生に解説をしていただけるなんて、先生の解説を読んで、涙が出た。親にもほめられたことのない私をこんなにほめてくださり、事細かな解説をしてくださった。恥ずかしながら、自分の症状に「ああ、あれはそういうことだったのですか」と、今さら納得してうなずいている。人間、生きていれば、こんなにいいことも、うれしい出会いもある。
 生死を画する一線から、こちら側に引き込んでくれたのは、姉夫婦、片木良典〈かたぎ・りょうすけ〉・留美子〈るみこ〉両氏だ。親子二人の生活を、折に触れて明るいものにしてくれてありがとう。
 この本は、私がよたよたと生きてきた40年目の記念碑でもある。最愛の息子・真規〈まさのり〉には、母が生きた証(あかし)、彼を世界中の誰よりも愛した証として、近くに置いておいてもらいたい。

【『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年)/角川ソフィア文庫、2009年)以下同】

必読書」を精査するために再読した。二度目の方が感動が深かった。山田の父親も医師だった。少々複雑な家庭環境であったようだがあっけらかんと本音をさらしている。裏表のない性格が行間から伝わってくる。

「当たり前のこと」ができなくなった時にこそ生きる姿勢が問われる。少し前に知り合った男性の老人は「何もすることがない」「寝るのが仕事だ」「生きているのがイヤになってくる」と独りごちた。心が暗くなってしまえば暗い世界が現出する。自己否定に傾く心を否定する精神力が求められる。

 障碍(しょうがい)を背負うことになった山田はやがて離婚し、一人息子と二人三脚で雄々しく生きる。

〈いつもお母ちゃんを助けれくれたまあちゃんへ〉
 雨の日、風の日、いつもいっしょに歩いたね。でこぼこ道、暗い道、まあちゃんはお母ちゃんの手を引いてくれたね。
 まあちゃんがいてくれたから、お母ちゃんは天国に行かなくてすんだよ。いっしょに救急車に乗って、手を握っていてくれたね。真冬の夜中、暗い大学病院の待合室で、お母ちゃんが手術室に入ったあと、おばあちゃんが来るまでひとりで待っててくれたね。
 まあちゃんが寒くないかなって気になって、お母ちゃんは帰ってこられたよ。
 お母ちゃんのところに生まれてきてくれたのがまあちゃんだったから、お母ちゃんは生きてこられたよ。ほかの子だったらだめだったかもしれない。(以下略)

 この部分を5回読んで5回泣いた。巻末見開きに掲載されている真規〈まさのり〉君は賢そうな顔つきで笑っている。

 山田は友人にも恵まれ、本書自体が多くの医師仲間に支えられて出版の運びとなった。医師も捨てたものではないと思いたいところだが現実は異なる。ま、私が知る限りでは7~8割の医師は人間のクズだ。まともな常識すらないのが大半である。年がら年中病人と接しているから連中の精神も病んでいるのだろう。



ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ

2018-11-01

記憶喪失と悟り/『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介


『暗殺者』ロバート・ラドラム

 ・記憶喪失と悟り

『抑圧された記憶の神話 偽りの性的虐待の記憶をめぐって』E・F・ロフタス、K・ケッチャム

必読書リスト その二

 こ れ か ら な に が は じ ま る の だ ろ う

 目のまえにある物は、はじめて見る物ばかり。なにかが、ぼくをひっぱった。ひっぱられて、しばらくあるく。すると、おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、ばたんと音がする。
 いろいろな物が見えるけれど、それがなんなのか、わからない。だからそのまま、やわらかい物の上にすわっていると、とつぜん動きだした。外に見える物は、どんどんすがたや形をかえていく。
 上を見ると、細い線が3本ついてくる。すごい速さで進んでいるのに、ずっと同じようについてくる。線がなにかに当たって、はじけとぶように消えた。すると2本になった。しばらくすると、こんどは4本になった。
 この線はなんなのだろう。なん本ついてくるのだろう。ふえたり、へったりして、がんばってついてくる線の動きがおもしろい。
 急に、いままで動いていた風景が止まった。すると、上で動いていた線も止まる。さいしょと同じ3本になっている。みんないっしょにきてくれたんだ。
 外に出されると、ぼくが見ていた細い線は、ずっとおくまでのびていた。上を見ていると、なにかがぼくの手をひっぱる。足がかってについていく。つぎに止まったばしょには、しずかで大きな物があった。
 それは見上げるほど大きい。どうしたらいいのか、まよっていると「ここがゆうすけのおうちやで」と言われた。おうちも、ゆうすけも、なんなのことかわからなくて、ただ立つだけだ。なにかにひっぱられて、そのまま入っていく。

【『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介(幻冬舎、2001年『ぼくらはみんな生きている 18歳ですべての記憶を失くした青年の手記』改題/幻冬舎文庫、2003年/朝日文庫、2011年)】

 坪倉優介はスクーターで帰宅途中、トラックと衝突する事故に遭い意識不明の重体となる。10日後に意識は回復したものの記憶を完全に喪失していた。

 冒頭のテキストである。私は俵万智〈たわら・まち〉の解説を読むまで気づかなかったのだが「3本の線」とは電線のことだった。「やわらかい物」はクルマのシートだろう。空白マスを挿入した見出しが実にいい。そこはかとない不安と行方の知れぬ先行きを巧みに表している。

 自我とは記憶の異名である。過去をもとにした感情の反応や関係性の物語が「現在の私」を紡ぎ出すのだ。とすると記憶喪失はそれまで蓄積したデータやソフトなどを消去して初期状態に戻したパソコンのようなものと考えることができる。

 更に自我=記憶であれば、記憶喪失は無我を志向し、悟りに近い状態になるのではあるまいか、と私は考えた。が、違った(笑)。

 坪倉の奇蹟は物の意味すらわからなくなった状態に陥りながらも言葉を失わなかったことだ。言い方は悪いが、赤ん坊が無垢な瞳で世界をどのように見つめているかを知ることができる。その意味で若いお父さん、お母さんは必読である。

 電線に対して「がんばってついてくる」「みんないっしょにきてくれたんだ」という純粋な気持ちに涙がこぼれる。大人からすれば景観の邪魔でしかない電線にこれほど豊かな感情を添えている。そんな子供の心を踏みにじり、大人は競争の世界へと彼らを誘導する。

 真っ白な世界が少しずつ色合いを増してゆく。その後坪倉は大阪芸術大学工芸学科染織コースに復学し、努力の末、染物作家として活躍している(卒業生インタビュー | 大阪芸術大学)。

 疑問の一つが解けた。自我を打ち消すことが悟りなのではない。自我から離れることが悟りなのだろう。一瞬一瞬の時を経て経験を積み重ねてゆくわけだが、その経験にとらわれることなく離れることは、時間からも離れることを意味する。ここに至れば過去と未来は死ぬ。現在は過去の集積でもなければ、未来のために犠牲にする時間でもない。現在は「ただ、ある」のだ。

 よく考えてみよう。苦しみは過去から生まれ、不安は未来に向かって抱くものだ。つまり苦悩が現在性を見失わせるところに不幸の根本原因があるのだ。そんなことを気づかせてくれる読書体験であった。



悟ると過去が消える/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

2018-10-31

「書く」行為に救われる/『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子


『免疫の意味論』多田富雄
『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
『寡黙なる巨人』多田富雄
『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄

 ・「書く」行為に救われる

『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一

必読書リスト その二

 先生は一晩にして、声が出ないためにお話ができない(構音障害)という状態になられました。これはどんなにかお辛いことだったと存じますが、失語症(言葉が理解できなくなる)になられなくてほんとうに良かったと存じます。言葉を失うということは、人格を否定されるのと同じくらい辛いことではないかと思います。
 それに致しましても、たおられてから半年も経たないうちに、この「文藝春秋」の原稿を書き上げられるというのは、何というエネルギーでしょう。
 私は思わず字数を数えてしまいました。6000字余り、原稿用紙にして15枚。先生は右半身麻痺になられ、左手しかお使いになれないはずです。左手でワープロを打つと書いておられますが、6000字全部を左指で打ち込まれるご苦労はどんなだったでしょうか。それに締め切りのある原稿は、健康な人にとってもきついものですのに。
 何かに憑かれたように、左手でワープロを打っておられる先生のお姿が目に浮かびます。お座りになることはできるのでしょうか。先生も書くということの不思議を強く感じられたと存じます。
 私も次第に動けなくなり、たいせつにしてきたマウスの研究もやめなければならなかったときに、書くということがどれだけ私を救ってくれたかしれません。私は先生のように有名ではなかったので、書いた原稿が本として出版されるかどうかはまったくわかりませんでした。それでも、書いて書いて、書くことが生きることだったのです。(柳澤桂子)

【『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄〈ただ・とみお〉、柳澤桂子〈やなぎさわ・けいこ〉(集英社、2004年/集英社文庫、2008年)】

 幾度となく読むことを躊躇(ためら)った本である。高齢・病気・障碍(しょうがい)というだけで気が重くなる。ブッダは生老病死という人生の移り変わりそのものを苦と断じた(四苦八苦の四苦)。まして功成り名を遂げた二人である。落魄(らくはく)の思いがあって当然だろう。「露の身」というタイトルが露命の儚(はかな)さを象徴している。

 恐る恐るページを繰った。指の動きがどんどん速度を増して気がついたら読み終えていた。私の懸念は完全な杞憂であった。むしろ自分の浅はかさを暴露したようなものだ。人間の奥深さを知れば知るほど謙虚にならざるを得ない。人の偉大さとは何かを圧倒することではなく、真摯な姿を通して内省を促すところにある。

 私はまず老境のお二方が男と女という性の違いを豊かなまでに体現している事実に驚いた。男の優しさと女の気遣いが際立っている。しかも尊敬と信頼の情に溢れながらも慎ましい静謐(せいひつ)さが漂う。エロスではない。プラトニックラブでもない。これはもう「日本の男と女」としか形容のしようがない。

 老いとは衰えの季節である。老いとは弱くなることで、今までできたことができなくなることでもある。そして「死んだ方がましだ」という病状にあっても尚生きることなのだ。

 多田富雄は脳梗塞で一夜にして構音障害失語症とは別)、嚥下障害、右麻痺の体となった。臨死体験から生還した彼は雄々しく「新しい生」を生き始める。過去の自分と現在の自分を比較するのではなく、ただ現在の自分をひたと見据えた。

「書く」行為に救われたと柳澤桂子が書いているが、我々が普段当たり前にできることの中に実は本当の幸せがあるのだろう。話すこと、聞くこと、書くこと、読むこと……。ひょっとすると生そのものが幸福なのかも知れない。私は生きることをどれほど味わっているだろうか? 美酒を舐め、ご馳走に舌鼓を打つように瞬間瞬間を生きているだろうか? 渇きを癒やすように生の水を飲んでいるだろうか? そんな疑問が次々と湧いて止まない。

「詩は、『書くまい』とする衝動なのだ」と石原吉郎〈いしはら・よしろう〉は書いた(『石原吉郎詩文集』)。多田富雄と柳澤桂子は「動くまい」とする体の衝動と戦うために書いたのだ。

2018-09-27

身体感覚の喪失体験/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保


 ・自閉症児を「わかる」努力
 ・自閉症は「間(あいだ)の病」
 ・人の批判は自己紹介だ
 ・身体感覚の喪失体験

『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝
『心からのごめんなさいへ 一人ひとりの個性に合わせた教育を導入した少年院の挑戦』品川裕香
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン
『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍

「私は混沌とした融合しそうな世界から、私を私自身として浮かび上がらそうとした。しかし、それは徒労であった。一瞬気力が失せた時、私は世界に融合した。あたかも流れてとけ込むようであった。世界にとけ込みながら私は発病したと思った。私はどうなるのだろうか。私と密な関係にあるみんなに、何も残せないままで消える。私はうつろいでいて、やがて、無になった。そして無であることすらも消えてしまった。
 無限なのか瞬時なのか、時の流れが感じられない。そこに消えていた私が、私というものになって点のように生まれてきた。私というものが流れに添(ママ)ってモコモコと肥大化してきた。私というものができ上がったようである。私があるのは分かるのだが、私がいるのが分からない。私は私の所在を突き止めようと、必死にもがいた。
 私がどこにも位置しないで、暗黒の中で浮遊し漂っていた。意識だけがあり、その意識が不安定というものでつくられていた。不安定であるというその意識は鮮明であった。鮮明であるがゆえに、とどまることのできる位置を必要としていた。
 私は遊離していた。暗黒に浮かんでいるようであった。不安とか恐怖とは異なる、ネガティブな感情が生まれてきた。やがて私とネガティブな感情とが分離した。分離してもそれはいずれもが私であった。私は細分化していくのであった……。
 私の体が椅子のようなものに座っていた。座っているというよりも置かれているようであった。重いという感じだけが何とか伝わってきた。体がまったく力の入らない状態で、椅子にボッテリとへばりついていた。そこでは再び考えることができた。私はどうなったのだろう。私は死ぬのだろうか。そうだ、私は死につつあるのだ……これは確信であった。ここで少し記憶を辿ることができた。時間を意識することがわずかだができたのだ。私には妻も子どももいるのだ。いいのだろうか、私、30歳、そう私は30歳なのだ、これからなのに、これからなのに、これからなのに……。
 私は私の全体の輪郭を感じとることができた。それは感覚の輪郭であった。薄ぼんやりと外の世界が、私に伝わってきた。そこでは世界が断片化されていた。断片のひとつひとつが、見え隠れしていた。やがてすべての断片が寄り集まって、それが一枚の大きな世界になった。紙をクシャクシャにしたようなものが動いた。そいつが私に覆いかぶさってくるようだ。そいつは人らしかった。平面的ではるが、2カ所が大きくへこんでいた。
 何かが私の中に入ってきた。それは声だった。私はうつろであった。世界にものがぽつぽつ浮かんできた。それらは平坦な世界から、浮かび上がってきて、三次元の形状を持つのであった。人の顔の輪郭がはっきりしてきた。左手に強い痛みを感じた。点滴の針があらぬところに刺さっていた。私ははっきりと背中を感じた。それはまぎれもない私の背中であった。
 私に覆いかぶさっていたのは私の友人だった。大きくへこんでいた2カ所は彼の目と口であった。〈気がつきましたか〉と友人が声をかけてくれた。ようやく麻酔からさめることができたのだ。とてつもなく長い苦痛であった。夢なのか、思考なのか、幻覚なのか、幻想なのか区別がまったくつかなかった」

 これは、手術を受けた患者が、麻酔から醒めた時の様子を語ってくれたものです。

【『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保〈さかき・たもつ〉(PHP新書、2001年)】

 リツイートされて思い出した一冊。こうした抜き書きが数千もあり、画像保存したページは数万にも及ぶ。増え続ける情報がもはや自分の処理能力をはるかに超えている。縁に触れて時に応じて引き出してゆく他ない。

 存在とは空間と時間における目方であることがよくわかる。患者の言葉は期せずして生誕と死滅の様相を描き出す。それがまるで宇宙創生のようにすら思える。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーの眠りと覚醒の周期が宇宙の生成と消滅を示していると考えられた。

 発想を少し変えてみよう。認知症や狂気を我々が恐れるのは「自我の部分的な死」を意味するためだ。渡辺哲夫は狂気から生と死を浮かび上がらせた(『死と狂気 死者の発見』1991年)。

 ルールや常識が生の躍動を抑制する。阻害といってもよい。現代人は獣性を抑えることで野性をも失ったのだろう。スポーツに魅了されるのはそこに野性の輝きが横溢(おういつ)しているからだ。狂気は解き放たれた右脳の野性である。特に統合失調症の言動は二分心(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ、2005年)時代の人間を髣髴(ほうふつ)とさせる。

 探し続けた関連テキストを今やっと見つけた。小一時間ほどを要した。疲れ切ったので次回紹介する。

自閉症の子どもたち―心は本当に閉ざされているのか (PHP新書)
酒木 保
PHP研究所
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2016-09-03

精神障碍者の自立/『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『新版 分裂病と人類』中井久夫
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳

 ・精神障碍者の自立

『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『ベリー オーディナリー ピープル とても普通の人たち 北海道 浦川べてるの家から』四宮鉄男
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト

 けれど、これがべてるの転機となる。
 先の見えない苦労がつづくなかで、いやもうそんな苦労を10年もつづけてきたところで、彼らは知らず知らずのうちにそれなりの力を身につけていた。泥沼のなかで、それでも萌え出ようとする芽が彼らのなかには生まれはじめていた。沈黙の10年の間、べてるの問題だらけの人たちは、ただ漫然と暮らしていたわけではない。ぶつかりあいと出会いをくり返しながら、そこにはいつしかゆるやかで不確かで気まぐれでありながら、肌身で感じることのできるひとつの「場」が作り出されていたのである。それはけっして強固な連帯に支えられた場でも、明晰な理念に支えられた場でもなかった。規則や取り決めや上下関係によって規定されたわざとらしい場でもなかった。ただ弱いものが弱さをきずなとして結びついた場だったのである。それはこの世のなかでもっとも力の弱い、富と地位と権力からいちばん遠く離れたところにいる人びとが作り出す、およそ世俗的な価値と力を欠いた人間どうしのつながりだった。
 けれどそこでは、だれが決めたわけでもなく、まためざしたわけでもなく、はじめから変わることなく貫き通されてきたひとつの原則があった。それは、けっして「だれも排除しない」という原則である。落ちこぼれをつくらないという生き方である。そもそも彼らのなかでは排除ということばが意味をなさない。彼らはすでに幾重にも、幾たびもこの社会から排除され落ちこぼれてきた人びとだったのだから。おたがいにもうこれ以上落ちこぼれようがない人びとの集まりが、弱さをきずなにつながり、けっして排除することなくまた排除されることもない人間関係を生きてきたとき、そこにあらわれたのは無窮の平等性ともいえる人間関係だった。そのかぎりない平等性を実現した「けっして排除しない」という関係性こそが、べてるの場をつくり、べてるの力の源泉になっていた。その力が、昆布内職打ち切り事件のさなかで発揮されようとしていた。

【『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄(みすず書房、2002年)以下同】

 後輩から勧められて読んだ一冊。べてるの家の名前は知っていたが、「どうせキリスト教だろ?」との先入観があった。斉藤道雄はガラスのように透明な文体で微妙な揺れや綾(あや)を丹念に綴る。本書で第24回講談社ノンフィクション賞を受賞した。

「三度の飯よりミーティング」がべてるの家のモットーである。彼らは話し合う。どんなことでも。生活を共にする彼らの言葉は生々しい。企業で行われる会議のような見せかけは一切ない。読み進むうちにハッと気づくのは「社会が機能している」事実である。私は政治に関しては民主政よりも貴族政を支持するが、組織や集団には民主的な議論が不可欠であることは言うまでもない。1990年代から正規雇用が綻(ほころ)び始め、格差が拡大した。普通のサラリーマンがあっという間にホームレスとなり、女子中高生が給食費や修学旅行費を納めるために売春行為に及んだ。親の遺体を放置したまま年金を受け取る家族や、生活保護の不正受給がニュースとなる裏側で、社会保障が切り詰められていった。弱者が切り捨てられるのは社会が機能していない証拠である。

 学級崩壊やブラック企業という言葉が示すのは集団のリスク化であろう。そして社会はおろか家族すら機能不全を起こしている。バラバラになってしまった人々が健全な社会を取り戻すことは可能だろうか? そんな疑問の答えがここにある。

 なにか仕事はないものか、倒れたり入院したりする仲間でもできることはないだろうか。メンバーは向谷地(むかいやち)さんとともに、道内の各所にある精神障害者の作業所も見学にいった。そこでさまざまなことを学んだが、帰るとまた延々と話しあいをくり返すばかりだった。そうした話のどこで、いつ、だれがいい出したのだろうか。ひとつのアイデアがミーティングに集う人びとのこころのなかに輝きはじめていた。
「どうだ、商売しないか」
 内職ではなく、自分たちで昆布を仕入れ、売ってみよう。
「そうだ、金もうけをするべ!」
 このひとことが、みんなの心を捉えていった。精神障害者であろうがなかろうが、金もうけと聞いて浮き立たないものはいない。人にいわれてするのではなく、内職なんかではなく、自分たちで働いて売って金もうけに挑戦してみよう。1袋5円の昆布詰めをいくらやっても仕事はきついし先は見えない。おなじ苦労をするなら、仕入れも販売も自分たちでやって商売した方がよほど納得できる。そうだ、やってみよう……。

 ケンちゃんが出入り業者と喧嘩をする。昆布詰めの内職は打ち切られた。そして彼らは自分の足で立つことを決意する。「精神障碍者の自立」と書くことはたやすい。だがその現実は決して甘くはない。本書に書かれてはいない苦労もたくさんあったことだろう。彼らは小規模共同作業所「浦河べてる」を設立した(※現在は社会福祉法人)。

 社会はコミュニケーションによって機能する。何でも話し合える組織は発展する。問題を隠蔽(いんぺい)し、陰で不平不満を吐き出すところから組織は腐ってゆく。斉藤道雄がべてるの家に見出したのは「悩む力」であった。我々は悩むことを回避し、誰かに責任を押しつけることで問題解決を図る。困っている人々は多いが本気で悩んでいる人は少ない。悩む度合いに心の深さが現れる。そして悩まずして知恵が出ることはない。

 家族に統合失調症患者がいる方はDVDも参照するといいだろう。



2012-03-03

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫


『物語の哲学』野家啓一

 ・狂気を情緒で読み解く試み
 ・ネオ=ロゴスの妥当性について

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳

必読書リスト

 我々が生を自覚するのは死を目の当たりにした時だ。つまり死が生を照射するといってよい。養老孟司〈ようろう・たけし〉が脳のアナロジー(類推)機能は「死の象徴化から始まったのではないか」と鋭く指摘している。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 ま、一言でいってしまえば「生と死の相対性理論」ということになる。

 前の書評にも書いた通り、渡辺哲夫は本書で統合失調症患者の狂気から生の形を探っている。

 歴史は死者によって形成される。歴史は人類の墓標であり、なおかつ道標(どうひょう)でもある。たとえ先祖の墓参りに行かなかったとしても、歴史を無視できる人はいるまい。

 死者たちは生者たちの世界を歴史的に構造化し続ける、死者こそが生者を歴史的存在者たらしめるべく生者を助け支えてくれているのだ、(以下略)

【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】

 渡辺は狂気を生と死の間に位置するものと捉えている。そして狂気から発した言葉を「ネオ=ロゴス」と名づけた。

統合失調症患者の内部世界

「あの世で(あの世って死んだ事)子供(B男)が不幸になっています  十二歳中学二年で死にました  私(母親の○○冬子)がころしました
 目が見えません  目玉をくりぬいて脳の中に  くりぬいた目の中から小石をつめ けっかんをめちゃめちゃにして神けいをだめにして 息をたましいできかんしをつめて息ができません  又くりぬいための中に ちゅうしゃきでヨーチンを入れ目がいたくてたまりません  また歯の中にたましいが入ってはがものすごく痛くがまんが出来ません
 又体の中(背中やおなかや手足)の中に石田文子のたましいが入って具合が悪く立っていられない  それをおぼうさんがごういんにおがんで立たしておきます
 又ちゅうかナベに油を入れいっぱいにしてガスの火でわかして一千万度にして三ばいくりぬいた目の中に入れ頭と体の中に入れあつすぎてがまんが出来ません
 又たましいの指でおしりの穴をおさえて便が全然でません又おしっこもおしっこの出る穴をおさえてたましいでおさえて出ません
 又B男のほねをおはかからたましいでぬすんでほねがもえるという薬をつかってほねをおぽしょて ほねをもやしてその為にB男のほねは一本もありません
 又きかんしに石田文子がたましいできかんしをつめて息が出来ません又はなにもたましいでつめて息が出来ません  だから私(冬子)母親のきかんしとB男のきかんしをいれかえて下さい」(※冬子の手記)



「……言葉がトギレトギレになって溶けちゃうんです……言葉が溶けて話せない……聴きとれると語尾が出て心が出てくるんですね、語尾がないとダメダメ……秋子の言葉になおして語尾しっかりさせないと……流れてきて、わたしが言う他人の言葉ですね……わたしの話は死人に近い声でできてるからメチャクチャだって……死人っていうのは、思わないのに言葉が出てくる不思議な人体……言葉が走って出てくるんですね。飛び出してくる、……言葉が自分の性質でないんです。デコボコで、デコボコ言葉、精神のデコボコ……」(※秋子)

 筒井康隆が可愛く見えてくる。通常の概念が揺さぶられ、現実に震動を与える。このような言葉が一部の人々に受け容れられた時に新たな宗教が誕生するのかもしれない。

アジャパー!!」「オヨヨ」「はっぱふみふみ」といった流行語にしても同様だろう。


 デタラメな言葉だとは思う。しかし意味に取りつかれた我々の脳味噌は「言葉を発生させた原因」を思わずにはいられない。渡辺は実に丁寧なアプローチをしている。

 ところが冬子にとっての「たましい」たる「B男」は彼岸に去ってゆかない。あの世もこの世も超絶した強度をもって実態的に現前し続ける。生者を支えるべく歴史の底に沈潜してゆくことがない。つまり、「たましい」は、死者たちの群れから離断された“有るもの”であり続ける。「たましい」は冬子の狂気の世界のなかで、余りにもその存在強度を高めてしまったのである。死者たちの群れに繋ぎとめられない「B男」は、死者たちの群れの“顔”になりようがない。逆に「B男」という「たましい」は、死者たちを圧殺するような強度をもってしまう。「たましい」は、生死を超越して絶対的に孤立している。否、「B男」の「たましい」は、死者たちでなく冬子に融合してしまっている。「B男」は、死者たちの群れを、祖先を、歴史の垂直の軸あるいは歴史の根幹を圧殺し、母たる生者をも“殺害”するほどの“顔”なのである。これはもう“顔”とは呼べまい。「B男」という「たましい」は、死者たちの群れに絶縁された歴史破壊者にほかならない。冬子も「B男」も、こうして本来の死者たちの支えを失っているのである。

 つまり「幽明界(さかい)を異(こと)に」していないわけだ。生と死が淡く溶け合う中に彼女たちは存在する。むしろ存在そのものが溶け出していると言った方が正確かもしれない。

 仏教の諦観は「断念」である。しがらむ念慮を断ち切る(=諦〈あきら〉める=あきらか、つまびらかに観る)ことが本義である。それが欲望という生死(しょうじ)の束縛から「離れる」ことにつながった。現在を十全に生きることは、過去を死なすことでもある。

 他者という言葉は多義的である。私は常識の立場に戻って、この多義性を尊重してゆきたいと思う。
 まず第一に、他者は、ほとんどの他者は、死者である。人類の悠久の歴史のなかで他者を思うとき、この事実は紛れもない。現世は、生者たちは、独力で存立しているのではない。無料無数の死者たちこそ、事物や行為を名づけ、意味分節体制をつくり出し、民族の歴史や民俗を基礎づけ、法律や宗教の起源を教えているのだ。否、教えているという表現は弱過ぎよう。最広義における世界存在の意味分節のすべてが、死者たちの力によって構造的に決定されているのである。言い換えれば、他界は現世の意味であり、死者たちは、生者たちという胎児を生かしめて(ママ)いる胎盤にほかならない。知覚や感覚あるいは実証主義的思考から解放されて、歴史眼をもって見ることが必要である。眼光紙背に徹するように、現世を現世たらしめている現世の背景が見えてくるだろう。
 死者が他者であることに異論の余地はない。それゆえ、他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつのである。
 第二に、他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する。歴史的に意味分節化されたこの現世から言葉を収奪しつつ、また新たな意味分節世界を喚起し形成しつつ、生者各人はこの他者と交流する。この他者は、ひとつの意味分節として、言語のように、言語と似た様式で、差異化され構造化されている。この他者を、それゆえ、以後、言語的分節世界と呼ぶことにしたい。自己ならざるもの一般の世界が言語的分節世界としての他者であるならば、他者は、言葉の働き方に関するわれわれの理解を一歩進めてくれる。
 言うまでもなく、言葉は、各人の脳髄に内臓されているのではない。一瞬一瞬の言語行為は、発語の有無にかかわらず、言語的分節世界という他者から収奪された言葉を通じて遂行される。否、収奪そのものが言語行為なのだ。では、言語的分節世界という他者は、言語集蔵体(ママ)の如きものなのであろうか。もちろん、そうではない。言葉は、言語的分節世界という他者の存立を可能ならしめている死者たちから、彼岸から、言わば贈与されるのである。生者が収奪する言葉は、死者が贈与する言葉にほかならない。この収奪と贈与が成功したとき、言葉は、歴史的に構造化された言葉として力をもつのである。それゆえ、われわれの言葉は、意識的には、主体的に限定された他者の言葉なのであるが、無意識的には、歴史的に限定された死者の言葉なのである。死者の言葉は、悠久の歴史のなかで、死者たちの群れから生者たちへと、一気に、その示差的な全体的体系において、贈与され続ける。それゆえに、言語的分節世界としての他者は歴史的に構造化され続けるのである。

 言語集蔵体とは阿頼耶識(あらやしき/蔵識とも)をイメージした言葉だろう。茂木健一郎が似たことを書いている。

「悲しい」という言葉を使うとき、私たちは、自分が生まれる前の長い歴史の中で、この言葉を綿々と使ってきた日本語を喋る人たちの体験の集積を担っている。「悲しい」という言葉が担っている、思い出すことのできない記憶の中には、戦場での絶叫があったかもしれない、暗がりでのため息があったかもしれない、心の行き違いに対する嘆きがあったかもしれない、そのような、自分たちの祖先の膨大な歴史として仮想するしかない時間の流れが、「悲しい」という言葉一つに込められている。
「悲しい」という言葉一つを発する時、その瞬間に、そのような長い歴史が、私たちの口を通してこの世界に表出する。

【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】

 ここにネオ=ロゴスが立ち上がる。

 言い換えるならば、言語的分節世界という他者から排除され、言葉を主体的に収奪限定する機会を失ってしまった独我者が、自力で創造せんとする新たなる言葉、ネオ=ロゴスこそ独語にほかならない。主体不在の閉鎖回路をめぐり続ける独語に、示差的機能を有する安定した体系を求めるのは不可能であろう。それにもかかわらず、他者から排除された独我者は、恐らくは人間の最奥の衝動のゆえに、ネオ=ロゴスを創出しようとする。もちろんここに意識的な意図やいわゆる無意識的な願望をみることなど論外だろう。もっと深い、狂気に陥った者の人間としての最も原初的かつ原始的な力動が想定されねばなるまい。



 ネオ=ロゴスは、死者を実体的に喚起し創造し“蘇生”させると、返す刀で狂的なる生者を“殺害”するのである。これが先に述べた、ネオ=ロゴスの死相の二重性にほかならない。ネオ=ロゴスは、全く新奇な“死者の言葉”あるいは“死の言葉”であると言っても過言ではない。

 スリリングな論考である。だが狂気に引き摺り込まれているような節(ふし)も窺える。はっきり言って渡辺も茂木も大袈裟だ。無視できないように思ってしまうのは、彼らの文体が心地よいためだ。人は文章を読むのではない。文体を感じるのだ。これが読書の本質である。

 言葉や思考は脳機能の一部にすぎない。すなわち氷山の一角である。渡辺の指摘は幼児の言葉にも当てはまる。そして茂木の言及は幼児の言葉に当てはまらない。

 生の営みを支えているのは思考ではなく感覚だ。我々は日常生活の大半において思考していない。

 どうすればできるかといえば、無意識に任せればできるのです。思考の無意識化をするのです。
 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
 意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
 無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。

【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

 結局、「生きる」とは「反応する」ことなのだ。思考は反応の一部にすぎない。そして実際は感情に左右されている。ヒューリスティクスが誤る原因はここにある。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 意外に思うかもしれないが、本を読んでいる時でさえ我々は無意識なのだ。意識が立ち上がってくるのは違和感を覚えたり、誤りを見つけた場合に限られる。スポーツを行っている時はほぼ完全に無意識だ。プロスポーツ選手がスランプに陥ると「考え始める」。

 渡辺と茂木の反応は私の反応とは異なる。だからこそ面白い。そして学ぶことが多い。

死と狂気 (ちくま学芸文庫)
渡辺 哲夫
筑摩書房
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脳と仮想 (新潮文庫)
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茂木 健一郎
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心の操縦術 (PHP文庫)
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圧縮新聞
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治
ワクワク教/『未来は、えらべる!』バシャール、本田健

2011-10-02

耳が聴こえるようになった瞬間の表情


視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
 ・耳が聴こえるようになった瞬間の表情

色盲の人が初めて色を見た瞬間の感動動画
生まれて初めて色を見て咽(むせ)び泣く人々

 生後8ヶ月の赤ちゃんと、29歳の女性の動画だ。世界が変わる瞬間を捉えた映像といってよい。




 耳が聴こえるのはこんなにも凄いことなのだ。ありのままの世界は美しく豊かな姿をしている。彼女たちの姿を見て我々健常者の鈍感を思わずにはいられない。耳が聴こえることは、多分それだけで「悟り」だ。美しさ、豊かさを「素晴らしい」と感じられることが真の人間性であることを教えられる。

2011-05-21

統合失調症への思想的アプローチ/『異常の構造』木村敏


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・統合失調症への思想的アプローチ

『時間と自己』木村敏
『新版 分裂病と人類』中井久夫

 統合失調症を思想面から捉え、システムとして読み解こうとしている。文学的情緒からアプローチした渡辺哲夫と正反対といっていいだろう。

 実は読み始めて直ぐ挫折しそうになった。文章が才走り、ツルツルしすぎているためだ。簡単に言えることを、わざわざ小難しくしているような印象を受けた。1973年から版を重ねてきた理由を知りたくて何とか読み通した。

 木村は精神分析の世界に道元や西田哲学を持ち込んだことで名を知られているようだが、あまりよくわからなかった。そもそもユング唯識(ゆいしき)は親和性が高いし、仏を医師に譬(たと)える経文も多いのだから、さほど驚くことでもあるまい。

 心理学は学問の世界で長きにわたって低い位置にあった。現在でも低いかもしれない。まず、この分野が果たして学問たり得るのか? という根本的な問題がある。フロイトを占い師みたいに扱う人も多い。因果関係の特定が困難なこともさることながら、心理療法として考えると「治ればオッケー」みたいなところもある。

 精神疾患のことを昔は精神病と言った。精神異常とも気違いとも言っていた。日本の人権感覚は現在の中国と遜色がなかったと考えてよかろう。たかだか30年ほど前の話だ。

 本書のタイトルは精神異常と、異質なものを排除する社会構造とを掛けたものだ。

 異常とは「常と異なる」ことだ。異常気象など。ところがこの「常」が普段や普通を意味すると、「あいつは普通じゃない。異常だ」となる。つまり、皆と同じではないこと=異常という図式である。昔はまだ「はみ出し者」がドラマの主人公たり得た。ところが社会が高度に情報化されると、極端にドロップアウトを忌避するムードが蔓延した。学校におけるいじめとの関連性もあるかもしれない。

 木村は「合理性」について疑義を示す。

 現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、そのうえに基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的世界観は、それがいかに自らの堅固さを盲信しようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聞いているに違いない。それだからこそこの合理的世界観は、いっそう必死になって自らの正当性を主張するのである。それはあたかも、主権の簒奪者(さんだつしゃ)が自己の系譜を贋造して神聖化し、その地位を反対にしようとする努力にも似ている。その裏で、彼はつねにみずからの抹殺した先の主権者の亡霊につきまとわれ、報復を恐れてその一族を草の根をわけても根絶しにしようとするだろう。これは、現代の合理主義者会がいっさいの非合理を許そうとしない警戒心と、あまりにも酷似してはいないだろうか。異常と非合理に対して現代社会の示すかくも大きな関心と不安とは、どうやら合理性が自己の犯罪を隠し、自己の支配権の虚構性を糊塗しようとする努力の反面をなしているように思われるのである。
 さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人とほかの人びととの間の【関係の異常】として、つまり社会的対人関係の異常として現れてくる。

【『異常の構造』木村敏〈きむら・びん〉(講談社現代新書、1973年)以下同】

 権力者が交代すればルールも変わる。なぜなら権力とは「俺がルールだ」という仕組みであるからだ。猿山のボスと内閣の首相は一緒だ。社会的な意味合いとしては何も変わらない。服を着ているかいないかという程度の違いだ。

 木村は持って回った書き方をしているが、要は権力交代時における暴力性を新勢力がどう正当化するかということだろう。あまり無理無体なことをしてしまうと寝首を掻(か)かれる恐れがある。暴力は数の論理だ。基本的には人数に左右される。

 ここから振り下ろされた刀は更に「常識」へと向かう。

 さてこれが、アリストテレスのいう「共通感覚」すなわちコイネー・アイステーシスのおおよその意味である。さきに述べたように、このコイネー・アイステーシスがラテン語に訳されてセンスス・コムーニスとなり、それがやがて「常識」の意味に用いられるようになって、現代のコモン・センスという言葉になった。元来は一個人内部の感覚としてとらえられていた「共通感覚」が、いつどのような経路をへて世間的な「常識」の意味に転じてきたのかについては、ここでは詮索しない(カントの『判断力批判』においては、すでにセンスス・コムーニスの語が常識に近い意味で用いられている)。だがこのようにして意味の転化は生じたにせよ、私たちの用いている「常識」の概念とアリストテレスの「共通感覚」の概念との間には、どこかに隠された深いつながりが残っているはずである。

 孔子は「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)と教えた。これが常識というものだ。だが、「して欲しくないこと」は人によって異なる。善意が仇をなすこともある。結局、常識は概念なのだ。それゆえ常識に囚われた人ほど異常を恐れる。「非常識よね」を連発する。

 私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とが同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、かならずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界はけっして同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界はまったく違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に【認識的】な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが【認識的】な態度をやめて【実践的】な態度で世界とのかかわりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。

 世界は人の数だけ相対化されるのだ、という私の持論と同じことが書かれている。なぜなら、世界を構築ならしめているのは私の五感であって、知覚されたものが世界であるからだ。もう一歩踏み込むと「知覚された情報空間」が世界の正体だ。だから当たり前の話であるが、あなたと私の世界は違う。それどころか昨日の私と今日の私とでも異なる場合があり得るのだ。

 コミュニティは利益を共有する集団であるゆえ、常識やルールで折り合いをつける必要がある。これを我々は「普通」と称している。

 木村のいう「実践的」とは「主体的なコミュニケーション」と言い換えてよい。ところが我が国には「出る杭は打たれる」という精神風土がある。出るのも引っ込むのも異常ってわけだ。1億人で行うムカデ競争。

 私たちの当面の課題は、常識からの逸脱、常識の欠落としての精神異常の意味を問うことにあるけれども、これは決して常識の側から異常を眺めてこれを排斥するという方向性をもったものであってはならない。私たちはむしろ、現代社会において大々的におこなわれているそのような排除や差別の根源を問う作業の一環として、常識の立場からひとまず自由になり、常識の側からではなく、むしろ「異常」そのもの側に立ってその構造を明らかにするという作業を遂行しなくてはならない。そしてこのことは、ただ、私たちが日常的に自明のこととみなしている常識に対してあらためて批判の眼を向けることによってのみ可能となるのである。

 この言葉からは力が感じられない。熱意も伝わってこない。論にとどまっていて、言葉をこねくり回しているだけだ。例えば先日起こった癲癇(てんかん)が原因とされている交通事故、古くは日航機逆噴射事故(1982年)、あるいは浅草レッサーパンダ事件(2001年)などの痛ましい事故や事件が実際に起こっている。

『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫

 他人に危害を及ぼさないのであればいくら論じてもらっても構わないが、殺傷事件となれば話は別である。

 精神といったところで脳の機能である。精神疾患が直ちに犯罪の構成要因になるとは思わない。逆説的になるが犯罪という異常行為にブレーキが利かないのは脳に問題があるからだと私は考える。

 これは一筋縄ではいかない問題だ。教育が「常識」を押しつけ、鋳型にはめ込んで整形することによって、異形の人間をつくっている可能性もあるからだ。価値観が多様化してくると、社会そのものからストレスを感じる人も増えてゆく。

 昨今増えている自閉傾向が見られる軽度発達障害LDADHDアスペルガー症候群など)も遺伝要因なのか環境要因なのかすら明らかにはなっていない。などと、書いている自分を疑う必要だってあるのだ(笑)。

 最終的には暴力と抑圧に行き着くテーマである。そして病人とどう付き合うかは、自分が病気とどう向き合うかと同じ問題である。


欲望と破壊の衝動/『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

2008-05-20

病気になると“世界が変わる”/『壊れた脳 生存する知』山田規畝子


『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬

 ・病気になると“世界が変わる”
 ・母と子の物語

・『壊れた脳も学習する』山田規畝子
『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー

必読書 その五

 カバー装丁がまるでダメだ(講談社版)。もっとセンスがよければ、ベストセラーになっていたはずだ。出版社の怠慢を戒めておきたい。

 どんな剛の者でも病気にはかなわない。権力、地位、名誉、財産も、病気の前には無力だ。幸福の第一条件は健康なのかも知れない。普段は意に介することもない健康だが、闘病されている方の手記を読むと、そのありがたさを痛感する。まして、私と同い年であれば尚更のこと。

「病気になると“世界が変わる”」――決して気分的なものではない。脳に異変が起こるとそれは現実となるのだ。医師である山田さんはある日突然、高次脳機能障害となる。

 当時、私は医師として10年ほどの経験を積み、亡き父の跡を継いで、高松市にある実家の整形外科病院の院長を務めていた。子どものころから成績はともかく、勉強は嫌いではなかったのし、知識欲も人一倍あったほうだと思う。とくに記憶することは得意で、自分の病気についても、教科書に書いてある程度のことはだいたい頭に入っていたつもりである。
 だが私の後遺症、のちに「高次脳機能障害」と聞かされるこの障害は、これまで学んだどんなものとも違っていた。
 最初は自分の身に何が起こったのか、見当もつかなかった。
 靴のつま先とかかとを、逆に履こうとする。
 食事中、持っていた皿をスープの中に置いてしまい、配膳盆をびちゃびちゃにする。
 和式の便器に足を突っ込む。
 トイレの水の流し方が思い出せない。
 なぜこんな失敗をしでかすのか、自分でもさっぱりわからなかった。

【『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年)/角川ソフィア文庫、2009年)】

 脳の機能障害で、立体像を認識することができなくなっていた。入院直後には中枢神経抑制剤を投与され、正常な認知ができずベッドから転落した。「暴れる患者」と判断され、「精神異常者」として扱われた。医師や看護師すら、この病気を正しく認識していなかった。

 それでも、山田さんの筆致はユーモラスで明るい。以前とは性格まで変わってしまった自分を振り返ってこう言い切ってしまうのだ。

 いろいろな自分に会えるのも、考えようによっては、この障害の醍醐味である。

 また、山田さんを取り巻く医師の言葉が、何とも味わい深い。まるで、哲学者のようだ。

「高次脳機能障害は、揺れる病態です。同じ病巣(びょうそう)の患者さんをつれてきても、必ずしも同じ症状ではない。今日できたことが、明日もできるとはかぎらない。患者さんは揺れています。だから診(み)る方も、いつも揺れていないと診られない」(山鳥重〈やまどり・あつし〉教授)

 ある日の朝礼で、私の上司であり、主治医でもある義兄が、全職員を前にして言った。
「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」

 山田さんは、不自由な生活を強いられながらも社会復帰を果たす。

 3歳の時、一緒に救急車に乗って以来、子息は山田さんを支え続けた。最後に「いつもお母ちゃんを助けてくれたまあちゃんへ」と題して、20行のメッセージが書かれている。私は、溢れる涙を抑えることができなかった。何度となく読んで、何度となく泣いてしまった。

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典
リハビリ

天声人語

 たとえば地下鉄の階段の前で立ちすくむ。上りなのか、下りなのかがわからない。時計の針を見ても左右の違いがわからず4時と8時とを取り違えてしまう。靴の前と後ろとの区別がつかない。
 脳卒中をたびたび経験した医師の山田規畝子(きくこ)さんが自らの体験をつづった『壊れた脳 生存する知』(講談社)は、後遺症の症状を実に冷静に観察している。「脳が壊れた者にしかわからない世界」の記録である。「病気になったことを『科学する楽しさ』にすりかえた」ともいう。
 脳の血管がつまったり破れたりする脳卒中の患者は多い。一昨年10月時点で137万人にのぼる。高血圧の699万人、歯の病気487万人、糖尿病の228万人に次いで4番目だ。
 この病気が厄介なのは、いろいろな後遺症が現れることだ。極めて複雑な器官の脳だけに、現れ方も千差万別らしい。医師にも個々の把握は容易ではない。視覚に狂いが出た山田さんも、何でもないような失敗を重ねて「医者のくせに」と、冷たい目で見られたこともあった。
 リハビリが大事である。山田さんは生活の中で試行錯誤を続けた。階段の上り下りにしても「目で見て混乱するなら見なければいい」と足に任せた。足は覚えていた、と。とにかく無理は禁物だという。育児をしながらの毎日、しばしば「元気出して。がんばって」と励まされる。しかし「元気出さない。がんばらない」と答えるようにしている。
 脳梗塞(こうそく)で先日入院した長嶋茂雄さんも、リハビリを始めるらしい。無理をしないで快復をめざしてほしい。

【朝日新聞 2004-03-09】



ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ