2021-04-09
自閉症の子どもは「低脂血症」 福井大学などの研究チームが発見
発達障害の一つ、自閉症の子どもは血液中の脂質の濃度が低い「低脂血症」であることを福井大学などの研究チームが発見した。福井大子どものこころの発達研究センターの松崎秀夫教授(54)が8月7日、福井県永平寺町の同大松岡キャンパスで記者会見し発表した。研究論文は7月末、英医学誌イーバイオメディシン電子版に掲載された。
松崎教授は、脂質の濃度だけで幼少時に自閉症かどうか見分けることはできないとしながらも「治療に貢献できる要因になる可能性がある」と強調した。
自閉症は発症のメカニズムが分かっておらず、治療薬もないのが現状。乳幼児の自閉症かどうかの診断は難しいという。
松崎教授は2005年から、診断指標を見つけようと研究を始めた。世界の研究結果などを踏まえ、血液中の脂質に着目。2~19歳の自閉症児と健常児計280人の脂質濃度などを調べた。
その結果、健常児は脂質を包んでいる粒子の濃度が、血液1デシリットル当たり約45ミリグラムなのに対し、自閉症児は約32ミリグラムと3分の2程度しかなかった。また、粒子が壊れることで低脂血症になることが分かった。
粒子がなぜ壊れるのかは今後解明が必要だが、松崎教授は「仕組みが分かれば、客観的な診断指標のほか、治療薬開発など治療法の確立が期待できる」と話した。
【自閉症の子どもは「低脂血症」 福井大学などの研究チームが発見 | 医療 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE 2020年8月8日 午前7時10分】
体罰・暴言で子どもの脳が「萎縮」「変形」 厚労省研究班が注意喚起
福井大学子どものこころの発達研究センター教授・友田明美医師の研究によれば、厳しい体罰により、前頭前野(社会生活をする上で非常に重要な脳の部位)の容積が19.1%減少し、言葉の暴力により、聴覚野(声や音を知覚する脳の部位)が変形していた。
【朽木誠一郎:体罰・暴言で子どもの脳が「萎縮」「変形」 厚労省研究班が注意喚起】
・子どもを健やかに育むために~愛の鞭ゼロ作戦(PDF)
・愛の鞭ゼロ作戦 | 健やか親子21
・体罰問題について~必要な体罰というものはありません~
・『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
2016-07-30
自殺念慮/『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・自殺念慮
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
自分は1984年4月に小学校に入学し、無茶苦茶にいじめられました。両親に訴えましたが、基本的に放置されました。担任教師も同様でした。自分はいじめから逃れる術(すべ)はないと思い、そして「終わりにしたい」と常に願うようになりました。それ以来、頭から自殺念慮が消えたことはありません。
2010年の秋頃から自分の自殺念慮は急激に強くなり始めました。自分が抱えた虚しさにいよいよ堪えられなくなり始めたからです。嘘の設定が精神安定剤として効かなくなり始めていました。この虚しさは、例えば事件や事故や災害で息子を亡くした母親が「息子を亡くしてから何をしても面白いとも楽しいとも感じられない。とにかく虚しさばかりが募る」と語る時の虚しさと非常によく似ています。娯楽でやり過ごせる虚しさではありません。むしろ周囲が楽しんでいる中で孤立感を覚えてより悪化するタイプの虚しさです。
【『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史〈わたなべ・ひろふみ〉(創出版、2014年)】
精神科医の香山リカが拘留中の渡邊に『子ども虐待という第四の発達障害』と『消えたい』の2冊を差し入れており、本書で鋭い考察が述べられている。渡邊は高橋本を読むことで秋葉原無差別殺傷事件の加藤被告の動機まで理解できたと語る。マスコミの取材を拒否し、自著以外ではコメントを発してこなかった加藤が、何と渡邊の意見陳述に関する見解を篠田博之(月刊『創』編集長)宛てに送ってきた。
・「秋葉原事件」加藤智大被告が「黒子のバスケ」脅迫事件に見解表明!
渡邊は学校ばかりでなく塾でもいじめに遭ったという。具体的なことは書かれていないが死を思うほど苛酷なものであった。私は自殺念慮という言葉を始めて知った。願望ではなく念慮としたところに貼りついて離れない思いが読み取れる。
ここで見逃すことができないのは「両親が放置した」事実である。渡邊は自覚していないが両親による虐待があった可能性が高い。
幼い頃からゴミ扱いされてきた男が自殺念慮を跳ねのけるべく社会に復讐をしようと決意する。計画は緻密で行動は精力的だった。邪悪ではあったがそこには生の輝きがあった。渡邊の目的はイベント中止であり、誰かを死傷することではなかった。
闇を見つめてきた男の筆致は飄々としたユーモアに満ちて軽やかだ。何よりもそのことに驚かされる。渡邊が抱えてきた矛盾は多くの犯罪を防ぐ確かな鍵となるような気がする。
お笑い芸人が芥川賞を受賞する時代である。犯罪者に直木賞を与えてもよかろう。それほどの衝撃があった。
2016-07-25
支離滅裂な文章/『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎
・支離滅裂な文章
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
徐々に筆者は、被虐待児は臨床的輪郭が比較的明確な、一つの発達障害症候群としてとらえられるべきではないかと考えるようになった。
筆者は現在、被虐待児を【第四の発達障害】と呼んでいる。【第一は、精神遅滞、肢体不自由などの古典的発達障害、第二は、自閉症症候群、第三は、学習障害、注意欠陥多動性障害などのいわゆる軽度発達障害、そして第四の発達障害としての子ども虐待である】。
【『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎〈すぎやま・としろう〉(学研のヒューマンケアブックス、2007年)】
杉山は発達障害の権威らしい。日本で軽度発達障害という概念を樹立した人物でもある。海外の研究や事例も豊富だ。しかし人間性が伝わってこない。本の体裁も変わっていてフォントが大きい二段組で読みにくい。尚、私が誤読しているかもしれないので、お気づきの点があればご指摘を請う次第である。
障害と病気は異なる(※通常は「障碍」と表記しているが発達障害との絡みで今回は「障害」とする)。昔は精神障害を精神病と呼んだ。1982年(昭和57年)には山本晋也が口にした「ほとんどビョーキ」というセリフが流行語となった(流行語 共通史年表)。当時はまだ、普通でない=病気という感覚が支配していた。因みに「気違い」という言葉に苦情が出始めたのは1974年のことである(Wikipedia)。ただしマニアを意味する言葉としてカーキチや釣りキチなどは1980年代まで通用していたと記憶する。少年マガジンで『釣りキチ三平』の連載が終了したのは1983年であった。
現在、精神障害の分類はアメリカ精神医学界が出版しているDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)の第3版以降に基くが、2013年に発表された第5版についてはアレン・フランセス(第4版編集委員長)からの批判もある(『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』)。この業界はきな臭い話が多い(『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン)。
「被虐待児は」→「一つの発達障害症候群」、「被虐待児」→「第四の発達障害」とあるが「人=障害」となっていて支離滅裂な文章だ。そもそも本書のタイトルが致命的で虐待には加害者と被害者が存在するわけだが、親なのか子なのかわからぬ「子ども虐待」という言葉を発達障害に直接結びつけている。
上記引用箇所では「被虐」と読めるが、「表3 発達障害の分類」では第四群の定義を「子どもに身体的、心理的、性的加害を加える。子どもに必要な世話を行わない」とある。これだと「加虐」となる。学研には編集者がいないのだろうか?
説明の拙さや言葉の曖昧さが読み手に不安を募らせる。こんな人物が本当に権威なのか?
私の理解では杉山の主張は「被虐待によって脳がダメージを受け、発達障害と酷似した症状が現れる」ということなのだろう。それにしても被虐(状況)=障害(症状)という設定そのものがおかしい。
拘留中の渡邊博史〈わたなべ・ひろふみ〉に香山リカが差し入れた一冊である。
2015-10-30
「心の病」という訴え/『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・子は親の「心の矛盾」もまるごとコピーする
・「心の病」という訴え
・『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
苦しい生き方を強いられた子は、思春期になって苦しみを訴え、生き方を変えたい、助けてほしいと親に迫る。しかし、多くの親はその訴えを理解しない。なぜなら、親は長い間続けてきた自分の生き方に疑問を持っていないので、子どもが何を訴えているのか見当がつかないのだ。子どもが「辛い」と訴えれば、親は自分の人生観から「あなたには我慢が足りない」としか応えられない。親から見ると、子どもはただ「我がままを言い」「親に甘えて」自立していないように映る。親は「そんな子に育てた覚えはない」とイライラし、子どもは「親がいけないんだ」と言い返し、親子対立は激しくなる。
子どもは分かってもらないと落胆し、挫折し、怒りの気持ちをどこに持っていったらいいか分からなくなる。
そうして、彼らは最後の手段に訴え、「心の病」になる。
【『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】
『子は親を救うために「心の病」になる』というタイトルの核心部分である。子供がうつ病になって困っている親はたくさんいることだろう。ただおろおろしている親はもっと多いことだろう。舌打ちしながら冷たい視線で眺めている父親も少なくない。高橋和巳は「物語の書き換え」を迫る。
以下はうつ病に関する情報である。
・ギリシャ時代に「メランコリー」と呼ばれていた「うつ」は、19世紀に入ってから病気としての概念が確立。
・うつ病の発症には、その人本来の性格や家庭・職場でのストレスなど、さまざまな環境が影響しますが、それ以上に大きな要因は、脳内の神経伝達物質が不足すること。
・そう考えれば、「心の病気」というよりも「神経の病気」と認識できる。
・不足している神経伝達物質を薬で補うことによって、症状は確実に改善される。
・2週間以上、落ち込んだ気分が続くようであれば、うつ病の可能性が考えられる。さらに、落ち込んだ気分と同時に何らかの身体症状があるのも特徴。
・うつ病の抑うつ気分や、意欲低下の症状は、午前中に強く現れる。
【『けんこうさろん』NO.156 2005-04-20発行】
病院に置いてあったパンフレットみたいな代物のせいかデタラメ全開である。一昔前に「心の病は脳の病」という考え方が出回ったが「神経の病気」も同じ穴の狢(むじな)だろう。「薬で治せる」という製薬会社の企業戦略を推し進めるキャッチコピーだ。「驚くべきことに、ほとんどの精神疾患患者で、化学的なバランスのくずれがあるという確かな証拠はなにもない」(『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン、2008年)。ただし、うつ病(メランコリー)がギリシャ時代から存在したことは覚えておいてよい。
いろいろな親子が思春期の「心の病」をかかえて、私のクリニックにやって来る。その問題とは、不登校、引きこもり、万引き、リスカ(リストカット=手首を切るという自傷行為)、拒食症、過食症、過呼吸発作、家庭内暴力、OD(オーバードース=薬を多量に飲んで自殺を図ること)、非行、ドラッグ(薬物)……などである。これらは、親から引き継いだ「心の矛盾」が子の中に生み出した「病」である。と同時に、教わってきた生き方を修正するために子どもたちが始めた抗議行動であり、親子関係を見直すためにとったぎりぎりの手段である。
ここまでしないと、親は訴えを聞いてくれない。振り向いてくれない。
子の苦しみは、親から受け継いだ苦しみである。だから、親の苦しみでもある。十数年間、無心に親に従ってきた子は、心の深いところで、親と一緒に治りたいと願う。親が生き方を修正して親自身の苦しさを取ってくれなければ、自分の苦しみも取れない、と知っている。
病状ではなく病因を見つめる。家庭の内部には外から窺うことのできない闇がある。夫婦はたいていの場合、同じ価値観を共有しており、善悪を巡って争うことは稀だ。家庭には小さな暴力、小さな抑圧、小さな不正、小さな嘘が紛れ込んでいる。人の出入りが少ない家庭ほど風通しは悪い。まして少子化である。フォローできる横の関係も失われている。
他人が親子関係に介入することは困難だ。どうしても親だけ、子だけへのアプローチとならざるを得ない。となればやはり専門家の門を叩くのが望ましいのだろう。
高橋の説く物語はわかりやすい。例外はないのだろうか? また大人の精神疾患はどう考えればよいのか? 一つ答えが見つかると、別の新しい疑問が湧いてくる。
視点を高めることで物語は上書き更新される。因果の書き換え作業だ。重要なのは「更新された物語」よりも「物語の解体」にある。つまり「書き換え可能性」を見出すことなのだ。
2015-10-18
子は親の「心の矛盾」もまるごとコピーする/『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子ども虐待という第四の発達障害』杉山登志郎
・子は親の「心の矛盾」もまるごとコピーする
・「心の病」という訴え
・『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
12歳のころまでは、子どもは無心に親を真似て、生き方を学び、それに従っていく。親を信じて疑わない。すべては親が基準である。それは、やがて大人になって生きていくときの大切な心の基盤となる。
しかし、親も完璧な人間ではないから、気持ちの偏りや悪い心、嘘、辛い気持ち、間違った生き方をかかえている。子どもはそういった親の「心の矛盾」もまた無心に、まるごとコピーする。
親の「心の矛盾」がそれほど大きくなければ、子は幸いである。コピーした生き方は、辛いものではなく、心の矛盾にも大して煩わされることなく、親の庇護の元で、安心して自分の興味を広げ、能力を伸ばしていくことができる。
一方、親の「心の矛盾」が大きいと、それを取り込んだ子どもは親と同じ苦しみを生き始める。もちろん、子どもは無理なことを教えられているとは気づかずに、それに従う。(中略)
かかえ込んだ心の矛盾は、しかし、次の思春期になって爆発する。
【『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)】
我が身を振り返る。幼児期に埋め込まれた価値観、形成される反応、それが個性なのか? 兄弟が似ていないのは親の接し方が違ったせいなのか? 親だって人間なのだから子によって好き嫌いが分かれることもあるだろう。ほんのわずかな心の配り方で子供の人生は翻弄される。苗木についた傷は消えることがない。若木の枝が折れてしまえば樹木の形は変わる。
私の驚くほど飽きっぽい性格は、きっと親に褒めてもらうことが殆どなかったことに起因するのだろう。粘り強さを発揮する前に、粘るだけの価値がないことを異様な速さで見極めてしまう。読書、スポーツ、友人からの相談事を除けば私の情熱を掻き立てるものはない。サラリーマン時代に月給が100万円を超えた時も「こんなもんか」と冷めた気持ちになったことを覚えている。カネも情熱の対象にはなり得なかった。
その代わりと言っては何だが、人助けとなると尋常ならざる能力を発揮する。知恵と悪知恵を巡らせながら、暴力的な示威行為も平然とやってのける。これは完全に父親譲りの気質だ。
上記リンクの安冨本を読んだ時、両親の愛情の薄さをはっきりと自覚した。そもそも愛情を感じたことがなかった。そのおかげだと思うが私には寂しいという感情が欠落している。もちろん友人や同僚が転居をした時など「あいつがいなくなると寂しくなるな」と口にすることはある。しかし心の中では「仕方がない」と割り切っている。
親というモデルを子供は疑うことができない。これは重要な事実である。私は既に五十の坂を越える年齢となったが、いまだに「親の心の矛盾」を理解したとは言い難い。そう考えるとたぶん「平凡な家庭」など存在しないのだろう。千差万別の矛盾を抱えたそれぞれの家庭があるのだ。
あれこれ考えると、まともな親なんて存在しないような気になってくる。ま、親に理想を求めてもしようがないのだが。
・目撃された人々 73
2015-10-09
自分が変わると世界も変わる/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・被虐少女の自殺未遂
・「死にたい」と「消えたい」の違い
・虐待による睡眠障害
・愛着障害と愛情への反発
・「虐待の要因」に疑問あり
・「知る」ことは「離れる」こと
・自分が変わると世界も変わる
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
「あれから何かが変わりました。
それが何かというと、うーん、よく分からないけど、ここ2カ月、心が盛り沢山で、私のキャパを超えていた。体も限界で、体が反応して腸が動いたり、家に帰ってからは脳みそが反応して、頭の中がポップコーン状態で、自分がどこかに行ってしまいそうだった。
この変化は、先生が言うように、いいことだろうけど、その変化に抵抗してみたりもしていた。
この1週間、普通の状態が見えていたり、違うものが見えていたりだった。
『解決はあなたの中にあるのでしょう』って先生に言われて、その言葉が残った。
そうして自分の中に、宇宙が広がった。
突然、それが現れて、訳も分からず大泣きした。そうだったのかって、今、私がここに『在る』、それだけ。
今まで何度も本で読んで、そうなのかなと思ってきたけど、それを実際に感じたら衝撃的だった。なんだか花火のしだれ柳みたいにダイヤモンドが降り注いでくるようで、今、ここに『在る』だけで、幸せなんだと思った。そうしたら美術館で急に色彩が押し寄せてきた時みたいに、幸せが押し寄せてきて、受け止めきれなくて、分からなくなった」
【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】
ブッダは最後の旅でこう語った。「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳)と。やはり「答え」は自分の中にあるのだ。高橋という触媒を得て親からの虐待に苦しみ、のた打ち回ってきた子供の瞳に全く新しい世界が立ち現れる。自分が変わると世界も変わる。「あなたは世界だ」とクリシュナムルティが語った理由もここにあるのだろう。
それはたった一人に起こった「小さな悟り」である。だが彼女に起こったことは誰にでも起こり得る可能性がある。彼女の変化が私を変え、あなたを変え、そして世界を変えるかもしれない。真の幸福とは「ただ在る」ことだった。その奇蹟を自覚し得ないところに我々の不幸がある。余命を宣告された病人や、特攻に向かう若者の言葉が胸を打つのは彼らが「生きる不思議」を悟っているためだ。
「電車の中で、人がなつかしく見える。世界は今まで以上に、色彩豊かで、ずっと立体的で、厚みがある。みんながんばってそれを生きている。
筋が見えてきた。道理が立っている。子を叱る大人の筋と、それに抵抗する子どもの筋、しっかり見える。それぞれがんばっているな、と思った。
以前は人が怖かった。電車が怖かった。親が子どもを叱るのを聞くと、その場から逃げ出した。でも、今は落語を聞いているような感じだ。それはきれいに筋を追っていけるという意味だ」
新しい世界に立った新しい自分が新しい言葉を放つ。「筋が見えてきた。道理が立っている」とは、愛着関係を結んでもらえなかった彼女がコミュニケーション世界を発見した言葉であろう。視界から恐怖の縞模様が消え去った様子がありありと伝わってくる。
飲んだり食べたりすることの楽しみと、人にほめてもらうことの楽しみ、その二重の楽しみを官女は飲み会で味わう。生命的存在と社会的存在の二重の楽しみだ。
「世間」というのはもともとは仏教用語で、「出世間」とは社会から離れて悟りを得る意味であるという。被虐者はもともと半分は「出世間」に生きているようなものだった。だから、普通の人よりは社会的存在から離れやすいのかもしれない。
離れることによって楽しみが二重になる、知ることで世界が広がるのである。
存在についての探求がここにまで及んでくると、彼らの悩みは被虐待ゆえの悩みを越えて人として生まれてきたことの悩みになり、「普通」と「被虐」の違いを超えた解決にまで到達したように思う。
これが私が被虐者=異邦人から教えてもらった存在の秘密である。
しかしながら被虐者は自ら出世間の道を選んだわけではない。彼らは出家者以上に困難多き道を歩んだといってよい。幸福に対する感度は確かに高いだろうが幸福になる確証はない。むしろ不幸と不遇に苦しみ続ける人の方が多いことだろう。
まだまだ書きたいことはある。それほど心が揺さぶられた一書であった。高橋は立派な精神科医であると思う。精神科や心療内科は玉石混交の世界でデタラメな医者も山ほどいる。高橋と出会わなければ救われなかった患者も多かったことだろう。にもかかわらず私の心の温度は沸点に達しない。被虐者たちの言葉に感動すればするほどナイフのように冷めた思いがよぎる。
なぜか? 患者と高橋のコミュニケーションがカネを介したものであるからだ。それを恥じる言葉がどこにもない。わかっている。確かに言い過ぎだ。この世は親切やボランティアで食っていけるほど甘い世界ではない。それでも尚私は「カネを支払わなければならない関係性」に一抹の寂しさを禁じ得ないのだ。
カネは技術に対して支払われる。我々の世界では芸術も音楽も文化も「対価を支払うもの」となってしまった。マネーという通行手形なしで我々は世界を歩くことができない。そんな現実を思い知らされた。たとえ今直ぐ治療すれば助かる命があったとしても優先されるのは支払い能力だ。飢えた人間に施されるパン屋のパンはない。一切は商品なのだ。
「自我があらゆる無秩序の原因ではないでしょうか?」(動画3分39秒/クリシュナムルティ:心の本質 第1部「心理的無秩序の根源」)との問いを思えば、病んだ心は程度問題であって万人に共通するものと私は考える。悩みは尽きることがない。浅い位置で生きている限りは。
2015-10-04
「知る」ことは「離れる」こと/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・被虐少女の自殺未遂
・「死にたい」と「消えたい」の違い
・虐待による睡眠障害
・愛着障害と愛情への反発
・「虐待の要因」に疑問あり
・「知る」ことは「離れる」こと
・自分が変わると世界も変わる
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
今まで気づかなかった自分を知ることこそが真の「自己受容」になり、それによって古い認知や生き方の中で悩んでいた自分が解放され、治療されるのだ。
では、心にとって「知る」とはどういうことかといえば、それは、「離れる」ことである。
子どもが生まれ育った自分の家(住宅)を知るのは、歩けるようになって外から家を見た時である。家から離れて初めて自分の家が友だちの家と違うと分かり、自分の家を知る。何かを「知る」ことは、それから「離れる」ことである。
【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】
離れなければ見えない、との指摘に眼から鱗が落ちる。37歳の男性の体験談が紹介されている。彼は高橋の指摘で初めて自分が虐待されてきたことを理解した。そして母親に知的障害があることを知った。その日の夜は眠れなかった。妻には「とてもショックなことがあった。でも、それは悪いことじゃないから心配はいらない、もう少し一人にさせておいてくれ」と告げた。男性はベッドで横になったまま次の日も眠れなかった。妻が救急車を呼ぼうとすると「大丈夫だ。心は死んだけど、体は生きているから」と応じた。そのまま4日間もの間、一睡もしなかった。
ある種の悟り体験といってよい。虐待と知的障害とのキーワードが彼の人生の不可解だった部分を理由のある物語に変えたのだろう。それまでの人生の構成が劇的に転換された。物語には一本の筋が通ったものの、それは悲劇であった。
幼い日に身につけた自己防衛の術(すべ)が大人になっても尚、認知を歪める。避けることなどでき得なかった矛盾であろう。
「母とのつながり」、愛着関係を信じようとしてきたファンタジーが崩壊した。ないものを「ある」と思って生きてきた。でも、「ない」と分かったら、同時に義務感が消え、自分を責めなくなった。彼を縛ってきた規範がその力を失ったのだ。
しかし、その代わりに頼るべきもの、人生の指針となるものもなくなった。人生を理解できなくなり、「ただ見ている」という視点だけが残った。宙に浮いた心はただ現実を見ていた。愛着や自己愛や信頼の中から自分と人とのつながりをみ(ママ)るのではなく、そこに戻れない彼は、いつの間にか心理カプセルからも辺縁の世界からも離れて人生を見ていた。
心は宙に浮いたままであったが、もう一人の自分が実況中継をするようになっていた。つまり彼は誰から教わることなくヴィパッサナー瞑想(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司、宝島社、2004年)を実践していた。クリシュナムルティが説く「見る」とも合致している。
瞑想とは
あるがままに ものを見ることであり
それを超えていくことです
【『瞑想』J・クリシュナムルティ:中川吉晴訳(UNIO、1995年)】
ところが、どんなにわずかでも、自分を知りはじめたとたんに、創造性のとてつもない過程がすでに始まっているのです。それは、実際のありのままの自分がふいに見えるという発見です――欲張りで、喧嘩好きで、怒って、妬んで、愚かなものなのです。事実を改めようとせずに見る、ありのままの自分をただ見るだけでも、驚くような啓示です。そこから深く深く、無限に行けるのです。なぜなら、自覚に終わりはないからです。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】
知識や概念、はたまた哲学・宗教を通せば、ありのままの自分は見えない。【あるべき】自分は本当の自分ではない。社会は様々な役割を押し付けるが十分な演技力がないと抑圧される。役が身分を決めるのだ(安冨歩/『日本文化の歴史』尾藤正英、岩波新書、2000年)。
彼は突然手に入れた自由に戸惑い、そして怯えた。だがその後、全く新たな存在となる。彼は過去から離れ、欲望から離れることで変容したのだ。
2015-09-30
「虐待の要因」に疑問あり/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・被虐少女の自殺未遂
・「死にたい」と「消えたい」の違い
・虐待による睡眠障害
・愛着障害と愛情への反発
・「虐待の要因」に疑問あり
・「知る」ことは「離れる」こと
・自分が変わると世界も変わる
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
母子の愛着関係が成立していれば、虐待は起きない。
なぜかというと、母親は子どもの痛み、苦しみ、辛さを我がことのように感じてしまうからだ。
子どもが怪我をして泣いていれば、母親は子ども以上にその痛みを感じてしまうので、わが子に暴力を振るい続けることはできないし(身体的虐待は起こりえない)、子どもが寒がっていれば母親はその寒さを感じてしまうから、自分の服を脱いででも子どもを守る(ネグレクトが起こりえない)。子どもがひどく落ち込んでいれば母親は自分の責任のようにそれを感じるから、「どうしたの」と声をかける(心理的虐待が起こりえない)。まして、女の子の尊厳を潰してしまう性的虐待が起こりそうであれば、母親は命をかけてでも娘を守る(性的虐待が起こりえない)。
だから、愛着関係が成立しているごく「普通の」家庭では、児童虐待は起こりえないのだ。そして、愛着関係はごくあたりまえの母子関係なので、誰もそれが「ない」ことを想像できない。
これが、多くの人が虐待を理解できない最大の理由である。
しかし、愛着関係が成立していない家庭があるのだ。
愛着関係が成立しない要因はいくつかあるが、その中でもっとも多いのは、虐待をする母親・父親に何らかの精神的な障害がある場合である。具体的には、
1.知的障害
2.知的障害以外の発達障害のあるタイプ
3.重度の精神障害
などである。
【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)】
実に危うい記述である。愛着理論というモデルの前提が判断基準になっており、データが一つも示されていない(愛着障害については「ハーローによるアカゲザルの愛着実験」などの異論もある)。たとえ臨床から導かれた結論であったとしても一人の医師が扱う臨床例は数が制限される。高橋は多少それを自覚しているのだろう。「虐待の要因」とせずに「愛着関係が成立しない要因」と書いている。また精神障害と知的障害は異なる。文章の揺れが目立つ。
この言い分を真に受ければ、虐待を根絶するためには「三者の出産制限」となりかねない。共感能力の欠如と知的障害・精神障害に相関性があるという事実を示さなければ正当とは言い難い。善悪の規範が曖昧という観点から私はむしろサイコパシー(精神病質)度をチェックする方が有効であるように思う。
例えばアメリカでは「家庭内で一人の子供が虐待される場合、それは父親と似てない子供である確率が高い」というデータがある(『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ、2000年)。中世に至るまでの戦争や紛争で負けた方は男と子供は全員殺され、女は獲得物とされた。要は「敵の遺伝子は滅ぼす」ということなのだろう。「父親と似てない」ことは「他人の子」であるサインと受け止められることは確かにあり得る。
高橋は被虐者独特の言葉遣い(「死にたい」ではなく「消えたい」など)から彼らの感覚世界が常人とは懸け離れていることに思い至る。そんな彼らを「異邦人」と呼ぶ。この呼称についても私は終始違和感を覚えてならなかった。異なる世界を生きてきたから外国人や宇宙人のように見つめることは差別につながりかねない。異なる世界を生きてきたのは彼らが望んだことではないのだ。彼らはサバイバーであり、鞭打たれた者である。だからといって特に別称で呼ぶ必要はないだろう。
M・スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』が1996年に刊行され、マリー=フランス・イルゴイエンヌ著『モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない』が1999年、そしてマーサ・スタウト著『良心をもたない人たち 25人に1人という恐怖』が出たのが2006年であった。アメリカでは25人に1人がソシオパスと推測された。
日本社会でもパワハラ、セクハラ、モンスターペアレントなどの言葉が台頭した。サイコパス、境界性人格障害、ソシオパス、アスペルガー障害、発達障害などが広く認知された。個人的にはテレビの影響が大きいと考える。テレビが先鞭(せんべん)をつけ、病める心理を拡大再生産しているように思えてならない。テレビが社会の規範となることでモラルを崩壊する。公器で許されることは家庭でも学校でも社会でも許されてしまう。その意味では、現代のいじめもテレビが発明したものかもしれない。
・精神科医がたじろぐ「心の闇」/『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック
2015-09-28
愛着障害と愛情への反発/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・被虐少女の自殺未遂
・「死にたい」と「消えたい」の違い
・虐待による睡眠障害
・愛着障害と愛情への反発
・「虐待の要因」に疑問あり
・「知る」ことは「離れる」こと
・自分が変わると世界も変わる
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
人は、生まれつき愛情を受け取るようにできている。だから、生まれてすぐに赤ちゃんは愛情に反応する。母子関係の最初、この世の存在の出発点だ。しかし、求めていた愛情が受け取れないばかりか、それをあからさまに否定されると、子どもは愛情を受け取ろうとする心にブレーキをかけ、ついにはロックして使えないようにする。期待して裏切られるよりは最初から受け取らないと決めるほうが、苦しみは小さく、生きやすいからだ。
被虐者に限らず、人の愛情や親切、感謝を、遠慮したり、躊躇したり、時には拒否してしまう心理は誰にでもある。
しかし、被虐者の場合は、それが人一倍強く、人生全体を支配している。
【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】
これを愛着障害という。生きるために心を閉ざすのだ。そして三つ子の魂は百まで引き継がれる。幼児期に閉ざした心が開くことは稀だ。なぜなら「閉ざした」自覚がないゆえに。
39歳の一人暮らしの男性、青井椋二さんが語ってくれた。
彼は虐待を受けて育った。小さい頃、十分な食事をもらえなかった。もの心ついた頃には、彼は台所の米びつから生の米を食べていた。
「近くに住む叔父の家が農家だったので、家にお米はあったのだと思う。小学校5年生の時、近所のおばさんからお米の炊き方を教えてもらった。自分で炊いて初めて温かいご飯を食べた。すごく柔らかくて甘かった。
小学校に入る前だったと思うが、台所の引き出しの奥に、破けた即席ラーメンの袋を見つけた。その中には麺のかけらが残っていた。ほんの少ししかなかったけど、とてもうれしかった。まるごとの即席ラーメンを食べられることはなかった。だから、18歳で家を出て、自分で働くようになっても、きちんと袋に入った即席ラーメンは、長い間、僕のご馳走だった。
20歳の頃、恐る恐る、思い切って、母親に言ってみた。
『小さい頃、食事をもらえなかった』と。
あの人が何と返事をするかと思ったら、『あんたは食が細かったからね』と、あっさり返された。まったく覚えていないようだった」
コミュニティは崩壊し、セーフティネットの機能を失った。生米を食べて生きる少年に誰一人気づかなかったとすれば、そこに社会は存在しない。虐待する親というたった一本の線にすがって生きることが唯一の選択肢である。
少し前に映画『アクト・オブ・キリング』を見た。インドネシアで100万人の大虐殺を行ってきた「英雄」たちが再現映画を制作する。彼らは笑いながら思い出を語る。殺人の効率化を同じ現場で実演し、昂奮に酔って歌い踊る。そして映画のカットを自慢気に孫たちに見せる。終盤に至ってわずかばかりの罪悪感が頭をもたげるが、多分彼らの生き方が変わることはないだろう。
次回紹介する予定だが高橋は虐待の原因として、親の知的障害・精神障害・発達障害などを挙げている。彼らは共感能力を欠くゆえに子供と愛着関係を結ぶことができないのだろう。
・チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
カウンセリングを受ける中で小学5年生の頃の記憶がありありと蘇る。近所に住む優しいお姉さんがクッキーをくれた。透明の袋は赤いリボンで結ばれていた。そんなきれいなものを見るのは初めてのことだった。お姉さんは「遠慮しなくていいのよ」と声をかけた。彼はお姉さんの手からクッキーを奪うと、地面に叩きつけた。そして「こんなものいらない! いらない! いらない! いらない!」と叫びながらクッキーを足で踏みつけた。
高橋はこれを「被虐待児の『試し行動』」と解説する。私はそうは思わない。試し行動は一種のテストクロージングであろう。少年の行動は鹿野武一〈かの・ぶいち〉やナット・ターナーと同じものである。
・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
「その優しさ」を受け入れてしまえば自己の拠(よ)って立つ世界が崩壊するのだ。少年は本能的にクッキーを拒むことで、優しいお姉さんと親の比較を回避したのだろう。穴の深さを知ってしまえば這い上がる気力もなくなる。それほどの深みに彼は位置していたのだ。
ある地域の保育士によれば、感覚的には1/3から半分くらいの児童に発達障害傾向が見られるという(『ニッポンの貧困 必要なのは「慈善」より「投資」』中川雅之、2015年)。とすると少子化とはいえ子虐待の比率は高まる可能性も考えられよう。私の頭では幼稚園や小学校で定期的に聞き取り調査を行うといった程度の策しか思い浮かばない。
・「ママ遅いよ」
・【衝撃事件の核心】見逃されたSOS…両親からの虐待で死亡した7歳男児の阿鼻叫喚
・「死んじゃう」空腹耐えかね男児万引き 父らに傷害容疑
2015-09-25
虐待による睡眠障害/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・被虐少女の自殺未遂
・「死にたい」と「消えたい」の違い
・虐待による睡眠障害
・愛着障害と愛情への反発
・「虐待の要因」に疑問あり
・「知る」ことは「離れる」こと
・自分が変わると世界も変わる
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
彼女は身体的な虐待は受けていなかった。虐待の種類については次章で述べるが、彼女が受けていたのは「心理的虐待」である。心理的虐待は周りに気づかれないだけでなく、子ども自身も気づくことはない。
心理的虐待は子どもの心の中に奇妙な、矛盾した母親像を作り出す。
彼女は、いつも怖い母親だったと振り返る一方で、「食事もお弁当も作ってくれた」、「叱られたことはなかった」、だから母親は優しい人だった、と言う。
心理的虐待を続ける母親が、子どもに優しいはずはない。叱られなかったのは、子どもに無関心だっただけだろう。しかし、放っておかれたことを「優しかった」と被虐待児は翻訳して理解する。食事を作ってくれたのは、家族の食事と一緒だったという理由だけだろう。しかし、彼女はそこに子への愛情を読み込む。
【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】
私は幼い頃からものを感じる力が人より強かった。3歳の時、スーパーで見知らぬオバサンに「どうして僕の頭にカゴをぶつけて謝らないの?」と大騒ぎをしたことがあるらしい。もちろん憶えていない。20代になって伯母から聞いた。そのことを父が語ったのは更に20年後のことである。私の父はお世辞にもいい親とは言えない。ただ怖いだけの存在だった。しかし正義感の塊(かたまり)みたいな人で判断を誤ることも殆どなかった。きっと父の影響が幼い私に及んでいたのだろう。
正義感というのは厄介なものだ。望むと望まざるとにかかわらず周囲に波風を立ててしまうからだ。しかも敏感に不正を感じ取るために誰も気づかないような温度で怒りに火がつく。そして純粋な怒りは速やかに殺意へと向かう。真剣といえば聞こえはいいが、その中身は殺意である。斬るか斬られるかとの判断から「相手を斬る」方向に素早く行動する。もちろん直ぐ斬るわけではない。物事には段階がある。ただ最終的に「斬る」という覚悟は最初から決めている。
虐待体験だけの寄せ集めであれば私は読み終えることができなかったことだろう。高橋は構成をよく考えている。不眠症の相談に訪れたのは41歳の女性である。彼女は日にちと曜日の感覚が欠落していた。日々の眠りが浅く一日が途切れていないためだった。それが虐待に由来する症状だとは素人には思いも寄らない世界である。
彼女はいつも緊張し、自分を抑え、母親の顔色をうかがい、先回りして生きてきた。そうしていないと、もっとけなされて見捨てられてしまうからだ。母親は、子どもにいつも無関心なだけなのだが、子どもはそこに必死になって自分の期待を投影しようとする。しかし、母親は反応しない。これでもだめなんだ、ここまでがんばってもだめなんだと、その空回りがまた底なしの恐怖を育て、彼女の心は緊張でいつも震えている。身体的な虐待を受けたのとは違う、真綿で首を絞められるような、恐怖と孤独が心を覆う。恐怖に潰されないために、ぎりぎりで自分を支えるために必要だったのが、「優しい母親」という翻訳である。
こうして彼女は、幼稚園の頃から不眠症になった。
脳は因果を求めて物語を形成する。
・物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
幼子にとって母親の存在は「環境そのもの」である。母親は子供の「生きる場」であり別の選択肢はない。生きることは「母親を頼る」ことを意味する。十分な理性も知識もない幼児が母親の是非を問うことは不可能だ。ダメな親であったとしても受け入れるしかない。逃げることも死ぬこともできないのだから当然だ。そこに「歪んだ解釈」が生まれる。人類初期の宗教と似たメカニズムであろう。
カウンセリングを通して彼女は虐待の鎖から解き放たれる。生まれて初めて自由を味わった言葉が悟性の輝きを発する。
「先生、私、生まれて初めて『一日が終わる』という体験をしました。一日って終わるんですね」
「眠れるようになったんです。体が楽になりました。生活が変わりました」
「最近、眠るコツが分かりました。ああ、目を閉じると眠れるんだ、と思いました。体の疲れで眠れるという感じがします。体が『重たい』のではなくて、『眠たい』というのがわかりました。眠たいというのは気持ちがいいものなのですね。
それから、朝起きても肩が重くない。体がこわばっていないんです。『ああ、また朝が来てしまった』という重い気分がないです。眠ると体が軽くなるんですね。
毎朝、新しい気持ちになって、毎朝、幸せって思います」
よく生きることはよく死ぬことに通じ、よき一日の生活はよき睡眠につながるのだろう。死んだように眠れる人こそ幸せである。
一日が、夜に終わって、朝に始まる。その間、完全に意識が消え、時間が途切れる。時計は動き続けていても、人の心の中の時間は夜11時で止まり、朝、6時に新しく始まる。それで、翌朝は前の日とは違う気分になる。だから、一日が終わり、新しい日にちが始まる。
前の日の心は、前の晩に途切れいている。朝、新しい心が動き出すからこそ、毎日、毎日、という区切りができて日付が変わる。一昨日、昨日、今日ができて日にちが数えられるようになり、1週間の曜日ができあがる。
「虐待を受けている子どもは、『普通の』眠りを知らない」という。彼らの不安や恐怖を思えば当然だろう。今度から児童と話す機会には必ず睡眠状態を確認してみようと思う。
最後にもう一つ彼女の言葉を紹介しよう。
「辛いことや嫌なことがあっても、1週間経つとそれがあまり気にならなくなって、初めて『過ぎ去る』ということがわかりました」
ブッダの呼称の一つである「タターガタ」には来る義と去る義とがある。これを訳して如来とも如去ともいう。川のほとりに立って上流を見れば如来、下流を見れば如去である。その中間に「私」という現象が位置する。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 3月 10
「死にたい」と「消えたい」の違い/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・被虐少女の自殺未遂
・「死にたい」と「消えたい」の違い
・虐待による睡眠障害
・愛着障害と愛情への反発
・「虐待の要因」に疑問あり
・「知る」ことは「離れる」こと
・自分が変わると世界も変わる
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
当初、私は元「被虐待児」の「消えたい」という訴えを聞いた時に、うつ病と同じように「希死念慮あり」とカルテに記載していた。つまり、抑うつ感の中で「自殺したい」と思っていると解釈していたのだ。
しかし、その後、「死にたい」と「消えたい」とは、その前提がまったく異なっているのが分かってきた。
「死にたい」は、生きたい、生きている、を前提としている。
「消えたい」は、生きたい、生きている、と一度も思ったことのない人が使う。
(中略)
被虐待児がもらす「消えたい」には、前提となる「生きたい、生きてみたい、生きてきた」がない。生きる目的とか、意味とかを持ったことがなく、楽しみとか、幸せを一度も味わったことのない人から発せられる言葉だ。今までただ生きていたけど、何もいいことがなかった、何の意味もなかった、そうして生きていることに疲れた。だから、「消えたい」。
「死にたい」の中には、自分の望む人生を実現できなかった無念さや、力不足だた自分への怒り、それを許してくれなかった他人への恨みがある。一方、「消えたい」の中には怒りはないか、あっても微かだ。そして、淡い悲しみだけが広がっている。
【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)】
人は「思ったように」しか生きられない。いつでも選択肢は自由なようでありながら実は不自由の中を生きている。面白くないことがあると思い悩み、不安や怒りにとらわれ、思考と感情は同じ位置をぐるぐる回る。我々は想念すら自由に扱うことができない。感覚もまた同様であろう。見るもの、聞くものの刺激に次々と反応しているだけだ。
PTSDなどに代表される「傷ついた心理」の問題もここにある。いじめは行為そのものも悲惨だが、「いじめられた記憶」に苛まれる事後の影響が深刻なのだ。
虐待され続けた子供たちは「死にたい」と思うことすらできなかった。彼らは人間として扱われてこなかったために自我形成をも阻害されたのだろう。虐待という環境下で自由な発想は生まれない。ただ親から振るわれる暴力に怯え、反応するだけだ。彼らは死のうとする意思まで奪われた。
自由な感情すら持てなかった彼らの「消えたい」という言葉は「淡い存在」を示し、自己の輪郭すらはっきりと描けなかった事実を物語っている。
そんな彼らが高橋と出会って変わる。彼らは初めて一個の人間として接してもらった。カウンセリングはコミュニケーションでもあった。人とつながった時、彼らは自分の存在を実感できたことだろう。「私はいてもいいんだ」とすら思ったかもしれない。
人と人とがつながる。ただそれだけで救われることがある。果たして我々は周囲の人々と確かにつながっているだろうか?
2015-09-23
被虐少女の自殺未遂/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
・『生きる技法』安冨歩
・『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
・被虐少女の自殺未遂
・「死にたい」と「消えたい」の違い
・虐待による睡眠障害
・愛着障害と愛情への反発
・「虐待の要因」に疑問あり
・「知る」ことは「離れる」こと
・自分が変わると世界も変わる
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
それから何回かの診察を経て、彼はまた突然話しだした。
「先生、僕は右足の爪がないんです」と言った。
「小学校4年の時、言うことを聞かないから、ペンチで剥がされたんです」
彼は耳を塞ぎたくなる話を、淡々と、他人事のように語った。
【『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(筑摩書房、2010年/ちくま文庫、2014年)以下同】
ページをめくるのに勇気を必要とする本だ。「これはルワンダだな」と思わざるを得なかった。家庭という密室で振るわれる幼児への暴力は、逃げ場のないことを考えると地獄そのものであろう。私の中を殺意が駆け巡った。直接聞いていたら、その場で親を殺しに行くかもしれない。
高橋によれば被虐児童は苛酷な体験をやり過ごすために離れた位置から自分を見る傾向があるという。離人症(解離性障害)になることも珍しくない。それどころか虐待された自覚を持たないケースまである。
その日、彼女(当時10歳の亜矢さん)の学年は校外学習で工場見学に出かける予定だった。工場は電車に乗って三つ目の駅である。
亜矢ちゃんは、朝いつもより少し早く起きて、集合場所の駅に向かって歩いていた。
住宅地の上に大きな青空が広がり、白い雲が二つ、三つ浮かんでいる。気持ちのいい春の日だった。
ふと空を見上げると、白い雲の間にキラキラと光るものが見えた。彼女は立ち止まった。目をこらして見ていると、それはゆっくり風に乗って亜矢ちゃんのほうに落ちてきた。小さな星が光り、それがいくつも連なって首飾りのように見える。太陽の光を反射して金色や銀色になったり、時々、赤や青の光が混じった。
「なんだろう。きれい……」
そう思って彼女が近づくと、光もまた彼女のほうに近づいてきた。温かく、すがすがしい不思議なな空気に包まれて、彼女はじっと眺めていた。それはますます大きくなった。そして、とうとう飛びつけば手がとどきそうなところまで降りて来た。
「つかまえられる!」と、そう思って亜矢ちゃんは光に向かって走り出し、最後にポンと飛び上がった。そして、手が首飾りに触れたかと思ったその瞬間、後ろから鋭い怒鳴り声がした。
「危ない! 馬鹿!」
「何やってるんだ!」
同時に、彼女の体は太い腕に捕まれて、後ろに引き戻された。
自殺未遂であった。高橋は「幻覚的なファンタジーの中で自殺に至る人は珍しくない」という主旨のことを書いている。それは何に由来するのか。多分、「この世は生きるに値しない」と無意識下で脳が判断した時にドーパミンが噴出するのだろう。亜矢ちゃんは死ななかったが、これ自体が臨死体験といってもいいのではないか。
・死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
・光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清
亜矢ちゃんは三つ下の妹と2人姉妹、それと両親との4人家族である。
小学校2年から一切の家事をさせられていた。夕食の支度と部屋の掃除、それからお風呂の掃除、夕方は、保育園に通っている妹をお迎えに行った。保育園の先生に、「いいお姉さんね」とほめられた。4歳の妹の手を引いて帰宅して、お風呂に入れた。忙しかった。
家事が終わっていないと、帰ってきた母親に叩かれた。罰として夕食をもらえないこともよくあった。自分が準備した夕食を目の前にして食べさせてもらえない。亜矢ちゃんは痩せた子だった。1日のうちで彼女が確実に食べられる食事は、学校の給食だけだった。だから、学校に行くのは楽しかった。
それと、本を読むことが彼女の楽しみだった。小学生の頃からずっと、彼女の居場所は玄関の横の板の間だった。そこに座って本を読んでいた。なぜ玄関にいるのかというと、リビングにいる母親から呼ばれたらすぐに動けるように、だ。少しでも返事が遅れると、叩かれた。
「聞こえないのか、何やっていたんだ!」と、ビンタされた。
だから、「亜矢!」と呼ばれたら飛んでいけるように玄関にいたのだ。
母親の機嫌を損ねると、髪の毛をつかまれて、振り回された。ごっそりと毛が抜けたことがある。その時は、飛び散った髪を1本1本指で集めてゴミ箱に入れた。床が汚れているとまた叩かれる。雑巾で血のあとを拭き取った。翌朝、鏡を見ながらハゲになったところをヘアピンで隠して、彼女は学校に行った。
「おばあちゃん、もう疲れた。消えたい」
亜矢ちゃんは、両親が去った後にそう言った。
祖母は児童相談所へゆく。虐待と判断され、亜矢ちゃんは施設に預けられる。約1年後、母子の再統合が実施され、実母のもとへ戻った。それから以前とまったく同じ暴力と家事労働の日々が再開する。
・将来、児童相談所に勤めたいのですが、児童相談所の職員は地方公務員なのですか?:教えて!goo
「No.4」の回答から児童相談所の激務が窺える。当然ではあるが彼らのミスが報道されることはあっても、功績がニュースになることはないと考えてよかろう。しかし、である。こういう仕事は向き不向きがあり、不向きな人々にとっては単なる作業と化すことだろう。教員についても同様で、虐待の可能性を何気ない振る舞いから見抜くこともできないような連中は教職に就くべきではない。そもそも誰も「気づかない」こと自体がおかしい。歩く姿や目の色に必ずサインが出ているはずだ。
亜矢さんは24歳の時に高橋のクリニックを訪れ、セカンドオピニオンを求めた。前の病院ではうつ病と診断されたが思うように病状が好転しなかった。彼女は著者の前で過去を吐き出した。
「先生、私は4年生の時に、自分がある年齢の『ある日』までは生きている、と決めたんです」。高橋は「その日」がそう遠くはないだろうとの予感を抱く。そして「慢性疲労とうつ病の混在で社会恐怖が見られる」と診断。薬物治療よりもカウンセリングを勧めた。
その後睡眠薬を中心とする処方に切り替え、睡眠の取り方と生活リズムの作り方が功を奏す。「先生、ぐっすり眠ることができました。ぐっすり、という言葉は知っていたけど、こういうことを言うのですね。6時間も続けて眠れたのは生まれて初めてです」と嬉しそうに伝えた。
小さい頃から、家では食事にありつければそれだけで幸運だったし、唯一、確実に食べられた学校の給食は、出されたものが全部美味しかった。だから、彼女の中には食べ物の「好き、嫌い」「美味しい、まずい」、何かを「食べたい」という概念はもともとなかった。
それから少しずつ食事が「楽しみ」と思えるように変わっていった。
「先生、私、あと半年くらいは生きていけます。たぶん、そのくらいはお金が続きます。
今は、私は幸せです。安心です。こんな気持ちになったのは生まれて初めてです。
小学校4年の時に、死ぬ日を決めてここまで来ました。今、私は美味しいご飯も食べられるし、暖かい布団もあるし、安心して眠ることも知りました。好きな本も読めます。それから2週に1回だけど、ここで自分のことを話せます。先生に気持ちが分かってもらえます。安心できて、生活ができて、気持ちが通じるってことを知りました。『よくがんばってきたね』と何度も言ってもらえました。これって、幸せです」
「消える」と決めた日まで生きている人生は終わった。
美味しく食べて、ぐっすり眠れて、誰かと気持ちが通じる――これが幸せであった。彼女は文字通り生命の危機から生き延びたサバイバーであった。幼子であることを踏まえれば大病や災害から生還した人々(『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー、2009年)よりも稀有(けう)な存在だ。幸せとは当たり前のことなのだろう。もともとは「仕合わせ」と書いた。
我々は幸せに対する感度が鈍くなっているのだろう。そして我々が望む幸せは本当の幸せではないのだ。心が欲望や消費に翻弄されて常に満たされない渇きを抱えている。
目が見えることも幸せだ。耳が聞こえることも幸せだ。歩けることも幸せだ。呼吸することも幸せである。つまり生きることそれ自体が幸せなのだ。
蘇生した彼女の言葉は爽やかに人生の真実を教えてくれる。
・子供を虐待するエホバの証人/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
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