2013-12-31
2013年に読んだ本ランキング
・2012年に読んだ本ランキング
・2013年に読んだ本
ウーム、こうして一覧表にしておかなければ何ひとつ思い出すことができない。加齢恐るべし。これが50歳の現実だ。ランキングは日記ならぬ年記みたいなものだ。自分の心の変化がまざまざと甦(よみがえ)る。ニコラス・ジャクソン著『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』を書き忘れていたので、今年読了した本は66冊。
まずはシングルヒット部門から。
『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵
『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健
『日本文化の歴史』尾藤正英
『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき437の事柄』クリス・ヘッジズ
『心は孤独な数学者』藤原正彦
『人間の叡智』佐藤優
再読した作品は順位から外す。
『なぜ投資のプロはサルに負けるのか? あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』藤沢数希
『金持ち父さん貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター
『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ
次に仏教関連。『出家の覚悟』は読了していないが、スマナサーラ長老の正体を暴いてくれたので挙げておく。
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
『つぎはぎ仏教入門』呉智英
『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
これまた未読本。何とはなしに日蓮と道元の関係性を思った。歯が立たないのは飽くまでも私の脳味噌の問題だ。
『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート
以下、ミステリ。外れなし。
『寒い国から帰ってきたスパイ』ジョン・ル・カレ
『催眠』ラーシュ・ケプレル
『エージェント6』トム・ロブ・スミス
格闘技ファン必読の評伝。ただし内容はド演歌の世界だ。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
宗教全般。
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『宗教の秘密 世界を意のままに操るカラクリの正体』苫米地英人
マネー本は良書が多かった。興味のある人は昇順で読めばいい。
『新・マネー敗戦 ドル暴落後の日本』岩本沙弓
『為替占領 もうひとつの8.15 変動相場制に仕掛らけれたシステム』岩本沙弓
『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・ジャクソン
『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン
9位『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
新しい知識として。
『アフォーダンス 新しい認知の理論』佐々木正人
政治関連。増税に向かう今、高橋本は必読のこと。
『民主主義の未来 リベラリズムか独裁か拝金主義か』ファリード・ザカリア
『官愚の国 なぜ日本では、政治家が官僚に屈するのか』高橋洋一
『さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別』高橋洋一
10位『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹
宮城谷昌光。
『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光
『太公望』(全3冊)宮城谷昌光
ディストピアとオカルト。
『科学とオカルト』池田清彦
『われら』ザミャーチン
8位『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー
科学関連。まあ毎年毎年驚くことばかりである。
3位『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー
『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
7位『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
2位『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
宗教原始と宇宙創世の世界。ブライアン・グリーンの下巻は挫折。必ず再チャレンジする。
5位『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
6位『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン
初期仏教関連。
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
4位『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ
やはり同い年ということもあって佐村河内守を1位としておく。
1位『交響曲第一番』佐村河内守
2013-12-30
小室直樹、米原万里、稲瀬吉雄、J・H・ブルック、磯前順一、他
10冊挫折、1冊読了。
『首切り』ミシェル・クレスピ:山中芳美訳(ハヤカワ文庫、2002年)/スピード感に欠ける。
『チャップ・ブックの世界 近代イギリス庶民と廉価本』小林章夫(講談社学術文庫、2007年)/サブカルっぽいノリで書くべきではなかったか。硬すぎる。
『千の輝く太陽』カーレド・ホッセイニ:土屋政雄訳(ハヤカワepiブック・プラネット、2008年)/出だしが弱い。あるいは私が酒を呑み過ぎていた可能性も。
『あらためて教養とは』村上陽一郎(新潮文庫、2009年)/雑誌への寄稿を「戯(ざ)れ文」と表現する気取りにうんざり。ま、文系なんてえのあこんなものか。直ぐ本を閉じた。
『科学と宗教』Thomas Dixon:中村圭志訳(サイエンス・パレット、2013年)/鋭さを欠く。丸善のサイエンス・パレットというシリーズはなぜこんな不親切な表紙にしたのか?
『科学と宗教 合理的自然観のパラドクス』J・H・ブルック:田中靖夫訳(工作舎、2005年)/前掲書でも紹介されている一冊。宗教と科学の互恵的関係を証明しようという試み。その意図に私は賛同できない。都合のよい事実を集めればどんな物語も可能だろうよ。
『宗教概念あるいは宗教学の死』磯前順一(東京大学出版会、2012年)/哲学用語が多すぎて読む気がしない。
『鳥が教えてくれた空』三宮麻由子〈さんのみや・まゆこ〉(NHK出版、1998年/集英社文庫、2004年)/4歳で失明した著者が鳥の鳴き声によって世界を広げるエッセイ。飛ばし読み。少女趣味の精神世界が肌に合わず。
『クリシュナムルティ その対話的精神のダイナミズム』稲瀬吉雄(コスモス・ライブラリー、2013年)/考えることに酔っているような節が窺える。開いた直後に閉じた。それくらい文体が肌に合わない。
『打ちのめされるようなすごい本』米原万里〈よねはら・まり〉(文藝春秋、2006年/文春文庫、2009年)/最初は読んだことを後悔した。読みたい本が陸続と増えてしまったためだ。150ページほど読んで宗教関連が少ないことに気づいた。巻末の書名索引を辿って『お笑い創価学会 信じる者は救われない 池田大作って、そんなにエライ?』( 佐高信〈さたか・まこと〉、テリー伊藤:光文社、2000年/知恵の森文庫、2002年)の書評を発見。何と「意外に真面目な本だ」と評価していた。共産党代議士の娘はやはり左翼だったのね。瑕疵(かし)では済まされない致命傷となっている。
65冊目『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹(ダイヤモンド現代選書、1976年/中公文庫、1991年)/学問の王道を往く傑作。小室直樹の処女作。社会学ではなくして社会科学。経済学と心理学をも駆使して戦前戦後の日本が同じ行動様式に貫かれている事実を暴く。学生運動の件(くだり)はオウム真理教にもそのまま当てはまる。科学とは原理を示すものだ。この泰斗(たいと)を日本は厚遇しただろうか? 否である。しかし彼の数多い弟子たちが学問の花を開かせている。日本型組織の思考モデルを見事に抽出しており、今読んでも古さをまったく感じさせない。
2013-12-29
ENEOS「油売ってます」
ENEOS「油売ってます」
水道局「水商売です」
東京西川「枕営業です」
熊谷組「トンネル会社です」
王子HD「ペーパーカンパニーです」
#今日の電波
— Hank Thornfeld (@hank_thornfeld) 2013, 12月 19
2013-12-28
真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・自由の問題 1
・自由の問題 2
・自由の問題 3
・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
・教育の機能 1
・教育の機能 2
・教育の機能 3
・教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
・宗教とは何か?
・無垢の自信
・真の学びとは
・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
・時のない状態
・生とは
・習慣のわだち
・生の不思議
・クリシュナムルティ著作リスト
・必読書リスト その五
開いた心
学びとは何かを見出すことは、とても興味深いですね。私たちは本や教師から、数学や地理や歴史について学びます。ロンドンやモスクワやニューヨークがどこにあるのかを学びます。機械の働き方や鳥の巣作りやヒナの育て方などを学びます。観察と研究によって学びます。それが一つの種類の学びです。
しかし、また他の種類の学び――経験から来る学びがありませんか。静かな河に帆を映した舟を見るとき、それはとてつもない経験ではないですか。そのとき、何が起きるでしょう。心はちょうど知識を貯えるように、その種の経験をも蓄えます。そして、次の夕方、同じような感情――喜びの経験、人生にとてもまれにしか訪れない平和の感覚を得ようと願い、舟を眺めるためにそこに出かけます。それで、心は勤勉に経験を蓄えているのです。そして、私たちが思考するのは、このように経験を記憶として蓄えているからでしょう。思考といわれるものは記憶の応答です。その河の舟を眺めて、喜びの感覚を感じたあとで、経験を記憶して蓄え、そのうえでそれを反復したがります。それで、思考の過程が働きだすのでしょう。
私たちのほとんどは、どのように考えるのかを本当は知らないでしょう。私たちのほとんどは、本で読んだり、誰かの話してくれたことを単に反復するだけであり、その思考はごく限られた自分の経験の成果です。たとえ世界中を旅して回り、無数の経験を積み、さまざまな人に大勢会い、彼らの言いたいことを聴き、彼らの風俗、習慣、宗教を観察するにしても、私たちはそれらの記憶を保持するし、そこから思考といわれるものが生じるのです。私たちは比較し、判断し、選択し、この過程によって生に対する何らかの合理的な態度を見つけたいと願います。しかし、その種の思考はごく限られていて、ごく狭い範囲に限定されています。河の舟や、死体がガートの焼き場に運ばれていったり、村の女性が重い荷物を運んでいるのを見るような経験はするのです。これらすべての感銘はそこにありますが、私たちはとても鈍感なので、それは私たちに染みこんで熟すことがないのです。そして、ただまわりのあらゆるものへの敏感さによって、自分の条件づけに制限されていない異なった思考が始まるのです。
何らかの信条に固くすがりついているなら、君たちはその特定の先入観や伝統によってあらゆるものを見るのです。現実との接触を持ちません。君たちは、村の女性が重い荷物を町に運んでいるのに気づいたことがありますか。それに本当に気づくとき、君はどうなり、何を感じるでしょう。それとも、これらの女性が通っていくのはしばしば見ているので、慣れてしまったためにまったく何の感情も持たないし、したがって彼女たちにはほとんど気づかないのでしょうか。そして、初めてあるものを観察するときでさえも、どうなるでしょう。先入観にしたがって見るものを自動的に解釈するでしょう。共産主義者、社会主義者、資本主義者、その他「主義者」という自分の条件づけにしたがってそれを経験するのです。ところが、これらのもののいずれでもなく、そのためにどんな観念や信念の幕をも通して見ず、実際に直かに接触するなら、そのとき君は、自分とその観察するものとの間には、なんというとてつもない関係があるのかと気づくでしょう。先入観や偏見を持たずに開いているなら、そのときは、まわりのあらゆるものがとてつもなく興味深くなり、ものすごく生き生きとしてくるでしょう。
それで、若いうちに、これらすべてのことに気づくことがとても重要であるわけです。河の舟に気づきなさい。通り過ぎる汽車を眺め、農夫が重い荷物を運んでいるのをごらんなさい。豊かな者の高慢さ、大臣や偉大な人々、自分はたくさんのことを知っていると考える人たちの誇りを観察するのです。ただ彼らを眺めてごらんなさい。批判してはいけません。批判したとたんに、君は関係していないし、すでに君自身と彼らとの間に障壁を抱えています。しかし、単に観察するだけなら、そのとき君は人々や物事と直接に関係を持つでしょう。鋭く機敏に判断せずに、結論を下さずに観察できるなら、思考が驚くほどに冴えてくるのがわかるでしょう。そのときは、いつのときにも学んでいるのです。
君たちのまわりのいたるところに、誕生と死、金や地位や権力のための闘い、生と呼ばれる果てしない過程がありますね。君たちはたとえ幼い間でも、ときには、これはどういうことだろうと思いませんか。私たちのほとんどは答えをほしがり、それがどういうことかを【教えて】ほしいでしょう。それで、政治や宗教の本を取り上げたり、誰かに教えてほしいと言うのです。しかし、誰も私たちには教えられません。なぜなら、生は本によって理解できるものではないし、その意義は他の人に倣ったり、ある形の祈りによって察することができないからです。君と私はそれを自分自身で理解しなくてはなりません。それは、私たちが充分に生きていて、とても機敏で、見つめて、観察し、まわりのあらゆるものに興味を持つときにだけ、できるでしょう。そのときには、本当に幸せであるとはどのようなことかを発見するでしょう。
ほとんどの人は不幸せです。そして、心に愛を持たないためにみじめです。君たちが君自身と人との間に障壁を持たないとき、人々を判断せずに、彼らに会って観察するとき、河の帆舟をただ見て、その美しさに喜ぶとき、心に愛が生じるでしょう。自分の先入観のために、ありのままの物事の観察をくもらせてはいけません。ただ観察してごらんなさい。すると、この単純な観察や、木や鳥や、歩いていたり、働いていたり、微笑んでいる人々への気づきから、君の内部に何かが起きるのを発見するでしょう。このとてつもないことが君に起きず、心に愛が生じないなら、生にはほとんど意味がありません。それで、君がこれらすべてのことの意義を理解するのを助けるように、教師が教育を受けることがとても重要であるわけです。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】
「感動」では何かが足りない。クリシュナムルティが説く「学び」とは気づき&理解=変化を意味する。「学んだことのたった一つの証は変わることである」と林竹二〈はやし・たけじ〉は言った(『わたしの出会った子どもたち』灰谷健次郎)。
変わることは「自分の中にまったく新しい何かが生まれる」ことだ。ここでハタと気づく。諸行無常とは世界の有為転変を説いたものであるが、瞬間瞬間自分自身も更新されている事実を示したのであろう。我々がそれを実感できないのは固定した自我を抱えているためだ。
数日前に「学術的成果と真の学びとは別物だ」と書いた(歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男)。学問の世界における学びは技術であり、自我の上に構築され蓄積される。そこには常に成功や名利(みょうり)を欲する異臭が漂う。だから功成り名を遂げた学者連中は勇んで御用学者の道を辿るのだろう。
こんなところにも聖俗の道があるのだ。例えば本を著すチャンスがあったとしよう。大半の人々が何らかの「売る努力」を試みるはずだ。こうして「わかりやすさ」が「大衆迎合」に変貌する。上下の違いはあろうとも迎合に変わりはない。自らの意に随(したが)うことは難しい。
せっかくなのでもうひとつ紹介しよう。
結局、生のとてつもない深みを測ったり、神や真理とは何かを見出すには、自由がなくてはなりません。そして、見出し、学ぶ自由は経験をとおしてあるのでしょうか。
君たちは経験とは何かということを、考えたことがありますか。それは挑戦に応じた感情でしょう。挑戦に応じることが経験です。そして、君は経験をとおして学ぶのでしょうか。挑戦や刺激に応じるとき、君の応答は自分の条件づけや受けた教育、文化的、宗教的、社会的、経済的な背景に基づいています。ヒンドゥー教徒やキリスト教徒や共産主義者や何であろうとも、自分の背景に条件づけられて、挑戦に応じます。自分の背景を離れなければ、どの挑戦への応答もただその背景を強めたり、修正するだけです。それゆえに本当は決して自由に、真理とは何か、神とは何かを探究し、発見し、理解することはできません。
それで、経験では自由にならないし、経験をとおした学びはただ、自分の古い条件づけに基づいて、新しい型を作る過程にすぎません。このことを理解することが、とても重要だと思います。なぜなら、私たちは大きくなると、経験をとおして学ぼうと思い、自分の経験にますます立て籠もってゆくからです。しかし、何を学ぶのかは背景が指定します。それは、私たちは経験によって学ぶけれども、経験をとおしては決して自由がなく、条件づけの修正があるということなのです。
そこで、学びとは何でしょう。君たちは読み書きの方法や静かな坐り方、従ったり、従わなかったりするすべなどを学ぶことから始めます。あれやこれやの国の歴史を学んだり、伝達に必要な言語を学びます。生計の立て方や畑の肥やし方などを学びます。しかし、心が条件づけから自由な学びの状態、探究のない状態はあるのでしょうか。質問が理解できますか。
学びというものは、適応し、がまんし、征服する連続的な過程です。私たちは何かを避けたり、得たりするために学びます。そこで、心が学びではなく、【ある】ということの器になるような状態はあるのでしょうか。違いはわかりますか。習得したり、得たり、避けたりしているかぎり、心は学ばなくてはなりません。そして、このような学びにはいつもたいへんな緊張やがまんがあるのです。学ぶには、集中しなくてはならないでしょう。そして、集中とは何でしょう。
君たちは何かに集中するとき、何が起きるのか、気づいたことがありますか。勉強したくない本を勉強するように要求されるとき、たとえ勉強したいにしても、他のことはがまんして、わきに置かなくてはなりません。集中するために、窓の外を見たい、人に話をしたいという意向をがまんします。それで、集中にはいつも努力があるでしょう。集中には、何かを獲得するために学ぶ動機や誘因や努力があるのです。そして、人生はそのような努力や、学ぼうとしている緊張状態の連続です。しかし、まったく緊張がなく、獲得がなく、知識の積み重ねもなければ、そのとき心ははるかに深く、早く学ぶことができないでしょうか。そのとき心は、真理とは何か、美しさとは何か、神とは何かを見出す探究の器になるのです――それは本当は、知識や社会、宗教や文化や条件づけの権威であろうとも、どんな権威にも服従しないということなのです。
何が真実かを見出せるのは、心が知識の重荷から自由であるときだけでしょう。そして、見出す過程には蓄積がないでしょう。経験したり、学んだことを蓄積しはじめたとたんに、それは心を捕える拠点になり、さらに進むことを阻みます。探究の過程では、心は日に日に学んだことを脱ぎ捨ててしまうので、いつもはつらつとして、昨日の経験に汚染されていないのです。真理は生きています。静止していません。そして、真理を発見するような心もまた、知識や経験の重荷を負わずに、生きていなくてはなりません。そのときにだけ、真理の生じてくる状態があるのです。
こういうことは言葉の意味においてはむずかしいかもしれませんが、心を込めるなら、その意味はむずかしくはありません。生の深い事柄を探究するには、心は自由でなくてはなりません。しかし、学んで、その学びをそれ以上の探究の基本にしたとたんに、心は自由ではないし、もはや探究していないのです。
クリシュナムルティという風によって脳内のシナプスが舞い上がり、そして飛翔する。
我々は経験を重んじる。なぜなら経験こそが自我の骨格であるからだ。私が小林秀雄を信用しないのは彼が経験至上主義者であるためだ(『新潮CD講演 小林秀雄講演 第2巻』)。
認知は必ず誤謬を伴う(認知バイアス)。経験や体験は「自分」というフィルターを通して感得されたものだ。そして記憶は修正と捏造(ねつぞう)を繰り返す(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。
答えは言葉そのものにある。経験の「験」の字は「ためす」「しるす」を意味する。すなわち経験とはその時その場での感覚的シンボルに過ぎないのだ。
我々が経験に照らして物事を判断する時、新たな出来事は古いカテゴリーに押し入れられる。そう。血液型占いと一緒だ。このようにして25歳を過ぎたあたりから「新しい何か」は自分の心の中で殺されてゆく。「私」は傷ついた古いレコードのように同じ反応を繰り返す。「これが私らしさだ」と自慢しながら。
それにしても何ということか。クリシュナムルティは経験も集中も否定する。当然のように努力と理想も否定する(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。彼が肯定したのは自由だけであった。その自由もありきたりではない。極言すれば「感じる自由」であり「見る自由」であった。
我々の心はいつも波立っている。明鏡止水の如く心を静まらせれば、一滴(ひとしずく)の水からも無限の波紋を生むことができるに違いない。
・「知る」ことは「離れる」こと/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
2013-12-27
A級戦犯容疑者
A級戦犯容疑者→岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎/裁判を免れたA級戦犯被指定者 http://t.co/xG5co9YblI
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 27
2013-12-26
『ライ・トゥ・ミー 嘘は真実を語る』のモデル、ポール・エクマン
精神行動分析学者であるカル・ライトマンが、「微表情」と呼ばれる一瞬の表情や仕草から嘘を見破ることで、犯罪捜査をはじめとするトラブル解決の手助けをする姿を描く。主人公であるカル・ライトマンは、実在の精神行動分析学者であるポール・エクマンをモデルにしている。実際にエクマンが体験したことが、そのまま主人公の過去として描かれている部分がある。
【Wikipedia - ライ・トゥ・ミー】
ポール・エクマン(Paul Ekman、1934年 - )は感情と表情に関する先駆的な研究を行ったアメリカ合衆国の心理学者。20世紀の傑出した心理学者100人に選ばれた。アメリカのテレビドラマ『Lie to Me(ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間)』の主人公カル・ライトマン博士のモデルとなった。
マーガレット・ミードを含む一部の人類学者の信念に反して、エクマンは表情が文化依存的ではなくて人類に普遍的な特徴であり生得的基盤を持つことを明らかにした。エクマンの発見は現在科学者から広く受け入れられている。エクマンが普遍的であると結論したのは怒り、嫌悪、恐れ、喜び、悲しみ、驚きである。軽蔑に関しては普遍的であることを示す予備的な証拠があるが、まだ議論は決着していない。
エクマンはあらゆる表情を分類するためにFACS(Facial Action Coding System、顔動作記述システム)を考案した。これは表情に関連する精神医学や犯罪捜査の分野で幅広く利用されている。エクマンは表情以外にも広く非言語コミュニケーションの研究を行った。同情、利他的行為や平和的な個人関係の科学的解明にも尽くした。さらに人々が嘘をつくこと、嘘を見破ることの社会的な側面の研究にも貢献した。ディミトリス・メタクサスとともに視覚的嘘発見器の開発を行っている。
【Wikipedia - ポール・エクマン】
関連書:キネシクス
・カルト教団のリーダーvsキネシクス/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー
2013-12-25
「女性は男性より将棋が弱い」
・「女性は男性より将棋が弱い」
・『将棋の子』大崎善生
・『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
世の中には、なぜという理由がきちんと説明できない事実というものがある。たとえば「女性は男性より将棋が弱い」という事実。もちろん、ヘボ将棋を指す男など苦もなくやっつける女性はいくらもいるのだが、頂点を比べれば、男女の力の差は厳然として存在する。▼いま女性で一番強いといわれる里見香奈さん(21)は一方で女流棋士として活躍し、一方では奨励会という名の棋士養成機関でプロの卵の少年にまじってしのぎを削っている。女性だけが少々甘い基準でなれる「女流棋士」は、男であれ女であれ奨励会を突破しなければなることができない「棋士」とは格がまったく違う。▼その里見さんが奨励会で一番上の三段に昇段し、棋士までもう一歩に迫った。棋士はおろか奨励会三段になった女性すらこれまで一人もいなかったのだから、快挙である。つぎは三段の40人ほどが戦う半年ごとのリーグ戦が待っている。上位2人に入れば、「女流最強棋士兼棋士の卵」から晴れて「女性初の棋士」である。▼とはいえ三段から棋士になれるのは半数以下という。「奨励会員なんてのは、虫ケラみたいなものなんだ」。奨励会の厳しさを描いた「将棋の子」(大崎善生著)にそんな一言がある。棋士を目指す貪欲な少年たちとどう戦うのか。里見さんのこれからは、大げさにいえば「将棋における男と女」の常識に一撃を加えうる。
【「春秋」/日本経済新聞 2013-12-25】
2013-12-24
満面の笑み
セピア調ではあるが、多分それほど古い写真ではない。カメラによる画質なのだろう。外から戻ったばかりか、あるいは部屋が寒いのか。丼から顔を上げた少女が笑い声を立てる。懐かしい光景だ。無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)に「みんなゲラゲラでんぐりかえる(ひっくりかえる)ほど笑った」とある。でんぐり返るという言葉は北海道でも使う。私が子供の時分は「腹を抱えて笑った」ものだ。今はどうか。「爆笑」という言葉が誤って多用されている。本来は大勢の人々がどっと笑う様子を指す言葉だ。でも今時は一人称でも「爆笑した」と言ってのける。音の響きは威勢がよいのだが、「爆笑」には笑わせられたという受け身の姿勢を感じる。身体の運動を欠いた口先だけの笑いがあちこちから聞こえてくる。時に蔑みが込められることも珍しくない。写真の向こうで笑う少女の顔は天真爛漫そのものだ。強烈な伝染性をもって見る者の眼尻を下げてしまう。年の瀬は人それぞれの苦悩を深める時期でもある。そんな人々にこそこの写真を見てもらいたい。少女につられてマグカップのペコちゃんも笑っているよ。
2013-12-23
歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男
・開祖や教団の正統性に寄りかからない
・大乗仏教の仏は“真実(リアリティ)の神話的投影”
・歴史的真実・宗教的真実に対する違和感
さらに、歴史的真実よりも宗教的真実を重んじるとき、必ずしも釈尊に帰れば説得力を持たないこともありうることである。我・法の二空を説き、無住処涅槃を説き、他者への慈悲と永遠の利他活動を説く。こうした大乗仏教は、宗教としては一定の原始仏教や部派仏教よりも勝れているという判定は、大いにありうることである。人間として、虚心に宗教性の深みを問うとき、たとえ『阿含経』や『ニカーヤ』が釈尊の語ったことを確かに記録にとどめているとしても、時に非仏説とも批判される大乗経典の方により心を打たれ、より感銘を受けるものがあることも否定しえない事実である。
【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男〈たけむら・まきお〉(大東出版社、1997年)】
botの入力をしていたところ目に止まったテキスト。読んだのが5年前なので当時の書評は当てにならない。その後私の価値観が激変しているためだ。
竹村の学問的アプローチはプラグマティックなもので望ましい姿勢であろう。ただし日本仏教なかんずく鎌倉仏教を擁護する悪臭を放っている。「歴史的真実よりも宗教的真実を重んじる」との言葉づかいにそれが顕著だ。
ティク・ナット・ハンが法華経の内容に対して「歴史的次元と本源的次元」という枠組みを示している(『法華経の省察 行動の扉をひらく』)。確かに霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)を理解するためにはそう解釈せざるを得ない。
本来であれば「歴史的事実」とすべきであろう(※私の入力ミスである可能性も否定できず)。歴史的事実とはブッダが語った言葉と振る舞いだ。そして宗教的真実とはブッダの悟り以外の何ものでもない。ここから離れて大衆部(だいしゅぶ=大乗仏教)を持ち上げる行為は、悟りを斥(しりぞ)けて理論に接近することを意味する。
理論が人々を救い、欲望から解き放つのであれば、我々は思考によって所願満足の人生を送ることが可能となる。そんな馬鹿なことなどあるわけがない。
学術的成果と真の学びとは別物だ。
学びというのは、不断の、蓄積しない過程であり、「自分自身」というのはつねに変化しつづけるもの、新たな考え、新たな感覚、新たなかたち、新たなヒントです。
学ぶことは、過去や未来にかかわることではありません。
私は学び終えたとか、私は学ぶだろうとか言うことはできないのです。
したがって、精神は絶えず学びの状態でなくてはならないことになりますから、つねに進行中の現在にあり、つねに新鮮なのです。蓄積された昨日の知識を抱えた状態ではないのです。
それを探ってみるなら、あるのは知識の獲得ではなく、ただ学びということがわかるでしょう。
そのとき精神はとてつもなく気づき、目覚め、鋭敏に見るようになるのです。
【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ:竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】
理論とは説明されるものだ。悟りとは何か、生とは何かを言葉で説明することはできない。テキスト化された言葉は真実から離れてしまう。それゆえソクラテスは書字を嫌ったのだ(『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ)。
仏法は啓典宗教ではない(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。その一点から開始しなければ、いかなる仏教研究であろうとキリスト教のサブカルチャー的位置に貶(おとし)められてしまうだろう。
続いてクリシュナムルティが説く「学び」について書く予定だ。
・真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男
・ソクラテスの言葉に対する独特の考え方/『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
2013-12-22
ジョン・ル・カレ、増田悦佐、マシュー・スチュアート、ギュンター・アンダース、ジャン・ハッツフェルド、他
12冊挫折、2冊読了。
『青い城』モンゴメリ:谷口由美子訳(篠崎書林、1980年/角川文庫、2009年)/『赤毛のアン』シリーズを2冊しか読んでいないので何となく手にした。「青い城」って妄想なんだよね。50歳の私が付き合うべき作品ではなかった(ため息)。Wikipediaによると、「少女期から『赤毛のアン』を愛読していた作家の松本侑子は、1990年代に原書で読み直したところ、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが、大量に詰め込まれていることを発見し、1993年に詳細な注釈つきの『赤毛のアン』の改訳版を刊行した」とのこと。松本侑子訳を読んでみるか。
『反撃のレスキュー・ミッション』クリス・ライアン:伏見威蕃〈ふしみ・いわん〉訳(ハヤカワ文庫、2008年)/出だしが乗れず。というか他の本を読んでいるうちに失念していた。
『魔女遊戯』イルサ・シグルザルドッティル:戸田裕之訳(集英社文庫、2011年)/巻頭の殺人事件で掃除婦たちがぞろぞろ付いてくるのが不自然。
『飛ぶ教室』エーリヒ・ケストナー:池田香代子訳(岩波少年文庫、2006年)/昔は「エーリッヒ」だったよな。小学生の時分、我がクラスでは本書のタイトルが大流行したことがある。「飛ブー」と言いながらジャンピング・ニー・アタックの要領で屁をこくのだ。ナチス前夜に書かれた作品らしいが、どうしても馴染めない西洋の香りがする。
『自律神経をととのえるリラクセーション』綿本彰〈わたもと・あきら〉(主婦と生活社、1997年)/飛ばし読み。綿本は粗製乱造気味ではあるが説明能力が高いため、ついつい読んでしまう。あと『綿本彰のパワーヨーガ パーフェクト・レッスン』を読んで卒業する予定。
『隣人が殺人者に変わる時 ルワンダ・ジェノサイド生存者たちの証言』ジャン・ハッツフェルド:ルワンダの学校を支援する会(服部欧右〈はっとり・おうすけ〉)訳(かもがわ出版、2013年)/訳が悪い。もっと性差を強調すべきではなかったか。編集の手薄すら感じた。
『われらはみな、アイヒマンの息子』ギュンター・アンダース:岩淵達治訳(晶文社、2007年)/それにしても、なぜ公開書簡としたのか。たぶん読んだ方がいいのだろうが、何となく腑に落ちないものを感じつつ本を閉じた。著者はハンナ・アーレントの元夫。
『ヒトラーのスパイたち』クリステル・ヨルゲンセン:大槻敦子訳(原書房、2009年)/好著。上下二弾で330ページ、写真も豊富で2800円は安い。ただ私の時間がないだけ。
『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』リチャード・ドーキンス著、デイヴ・マッキーン(イラスト):大田直子訳(早川書房、2012年)/今時珍しい大型本だ。出来としては疑問。『ネイチャー』同様、イラストと文字のバランスが悪い。ビル・ブライソンに軍配が上がる。
『生の短さについて 他二篇』セネカ:大西英文訳(岩波文庫、2010年)/新訳。茂手木元蔵訳の方がいいのは知っていた。親切な古書店主は読者のために翻訳比較を紹介しようと企てたのだが、師走も迫るとそうそう親切にしているわけにもいかなくなったというわけ。amazonのカスタマーレビューを参照せよ。
『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也〈かねとし・たくや〉訳(岩波文庫、2008年)/名訳。他の本が色褪せてしまうほどの衝撃を受けた。半分ちょっと読んだのだが、姿勢を正して最初から読み直すことにした。ストア派の凛々しさが堪(たま)らん。
『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート:桜井直文〈さくらい・なおふみ〉、朝倉友海〈あさくら・ともみ〉訳(書肆心水、2011年)/今年最大の難関であった。とにかく文体が濃密でイギリス文学の薫りを放っている。中世の歴史にこれほど目配りできている作品は初めて。スピノザはダーウィン以前に革命を起こした哲学者であった。彼は合理的思考によって真理を神と表現した。俗人ライプニッツは当時の知性を代表する人物であったが時代の影響から免れることはできなかった。ライプニッツは隠れスピノザ主義者であった。だが彼はスピノザと直接見(まみ)えた後、アンチ・スピノザを標榜した。この謎に迫ったのが本書というわけ。まあ凄いもんだ。この二日間ほどあらん限りの精力を注入して百数十ページを読んだのだが、結局3ヶ月かかって100ページを残してしまった。私が哲学に興味がないためだ。3800円+消費税と値は張るが並みの書籍の4冊分の価値はあるから決して損をすることはない。ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教の闘争』と同じ光を放つ傑作だ。ジョン・ル・カレと文体がよく似ている。
63冊目『危機と金(ゴールド)』増田悦佐〈ますだ・えつすけ〉(東洋経済新報社、2011年)/文章が軽いためゴールド万歳本かと思いきやそうでもない。クルーグマン批判などがキラリと光る。最大の瑕疵はリスクを明示していない点だ。その意味でバランスはかなり悪い。ゴールドの歴史、裏づけのない紙幣の役割、コモディティの中でなぜゴールドなのかがよく理解できる。中長期的観点に立てば、ドル円が下がり初めてからゴールド(現物)を買うのが正しい。
64冊目『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ:菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ文庫、1986年)/旧訳。村上博基訳の評判があまりに悪いため入手し直す。流麗な筆致でぐいぐい読ませる。ただし構成が緻密すぎて時折混乱を招く。もちろん私の脳味噌の問題だ。社員食堂の本棚にあった『スマイリーと仲間たち』を読んだのはもう30年以上前のこと。殆ど記憶に残っていない。カーテンを閉ざした部屋の談合から始まるのだがまるで影絵だ。そして終始会話を基調としてストーリーは進む。本書はイギリス文学の匂いが立ち込める戯曲といってもよい。と突然途中で胸が悪くなった。それ以前の007型スーパーマンスパイから米ソ冷戦構造のリアルな本格スパイを描いた本書が官僚を描いている事実に気づいたためだ。大英帝国の美しい物語は植民地主義に支えれれている歴史を忘れてはなるまい。スマイリーが妻の浮気に平然としているのも不自然である。異彩を放つのは敵方(ソ連情報部)のカーラだ。超然とした振る舞いがどこか映画『ショーシャンクの空に』のティム・ロビンスを思わせる。
2013-12-21
「自民党に復興予算が流れた仕組み」
赤旗記事。「自民党に復興予算が流れた仕組み」の図は必見。/復興予算 自民に還流/2億円献金 違法の疑い/12年 トヨタ・キヤノン…補助金交付先から http://t.co/yUHg20ODaR
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 21
2013-12-19
吉松育美「芸能界の闇」(英語)日本外国特派員協会
・外国人記者クラブにて記者会見|吉松育美オフィシャルブログ「Beauty Healthy Happy」Powered by Ameba
・大手芸能プロダクション・ケイダッシュの幹部で、関連会社パールダッシュ社長の谷口元一氏を11日、威力業務妨害で警視庁に刑事告訴、ならびに東京地裁に民事提訴した
・現役ミス世界一がストーカー被害訴える 世界大会での王冠引き継ぎも不可能に : J-CASTニュース
・脳科学者・茂木健一郎氏、新聞各社への怒りを歌に込めてYoutubeで公開 「日本の新聞~♪ 腐ったメ~ディア~♪」 - ライブドアニュース
・「これで堂々とやれるかも」立花胡桃を“ゴリ押し”しまくったストーカー報道・谷口元一氏にテレビ界が熱視線 - 日刊サイゾー
・“バーニング系”紛糾! テレビ局・スポーツ紙は谷口元一氏のどんな横暴を放置してきたのか(1/2) - 日刊サイゾー
・バーニングプロ周防郁雄、ケイダッシュ谷口元一、K-1石井和義らの関係
・【関東連合】谷口元一による吉松育美さん恐喝事件、世界中のメディアで大々的に報じられる!!! ⇒ なのに、日本のマスゴミは一斉に報道規制・完全に黙殺…産経新聞ですらもダンマリ 在日芸能界ヤバすぎだろ… 2ch「マジで海外では結構大きなニュースになってるよ」「なんで日本のカスゴミは総無視状態なの?」「ここまで酷い事になってたとは」「朝日も産経もみんな同じ穴のムジナなんだよ」 - 中国・韓国・在日崩壊ニュース
・多くのマスメディアが取材し、質問なども多くしたにもかかわらず、12月13日の記者会見について報道したのは吉松育美さんの出身地(佐賀県)の佐賀新聞だけだった!
・バーニング幹部・谷口元一からストーカー&脅迫被害を受けた吉松育美さん、米国ジョン・ケリー国務長官と面会していた!←凄すぎる件 | ガールズちゃんねる - Girls Channel -
2013-12-17
2013-12-12
2013-12-11
Bloggerの検索ガジェットが役立たずの件
適当えんじにあ( ´д`): 自分のサイト内を Google 検索出来る「検索ボックス」を追加する http://t.co/GyjMw7P4E4
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 27
ここを見てやっとできた。/after carnival: Bloggerの検索ガジェットでうまく検索できない...orz http://t.co/PMyfyCOEKU
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 11
@fuitsuono 検索できません。ソースコードの赤い部分の書き換えがURLなっていませんか?設定→基本→ブログのアドレスhttp://t.co/HchOQwxLCN←これに書き換えだと思います。
— えすっぺ (@Initial__s) 2013, 12月 11
@fuitsuono あ、後ろは、jpではなくcomっす。
— えすっぺ (@Initial__s) 2013, 12月 11
事件報道の視聴、実際の経験より強い心理的影響か 米研究
当然だ。被害者よりも多くの情報が与えられるのだから→「報道の視聴は、そこに居合わせたことよりも、急性ストレス反応のより強固な予測因子となった」/事件報道の視聴、実際の経験より強い心理的影響か 米研究:AFPBB News http://t.co/LDk7qiHI4b
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 11
オバマ米大統領、キューバのカストロ議長と握手
死して尚人と人とを結ぶマンデラの人格。/▶ オバマ米大統領、キューバのカストロ議長と握手 - YouTube http://t.co/3EWkiluchY
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 11
2013-12-10
開高健、谷沢永一、向井敏の鼎談『書斎のポ・ト・フ』がちくま文庫で復刊
ネット時代の読書法
昨日(「私のダメな読書法」)の続きを。
読書という大地は広大で、書籍の山はエベレストのように高い。やはり優れたガイドが必要だ。私にとっては向井敏〈むかい・さとし〉が頼りであった。そこに彗星の如く内藤陳が登場する。『読まずに死ねるか!』(集英社、1983年)シリーズはバイブルとなった。
あの頃(30年前)は音楽であれば月刊誌『ミュージック・マガジン』(中村とうよう編集)とNHK-FMの「クロスオーバーイレブン」で探すしかなかった。何という情報の乏しさだろう。レコード購入の選択ミスなどざらだった。
今はインターネットがある。その気になれば情報はいくらでも見つけることが可能となった。
私の経験から申せば、やはり若い時期は努めて濫読(らんどく)すべきだ。10年間で1000冊程度読めば、たどたどしいながらも自分なりの地図ができてくる。ここでガイドとすべきは自分と感性が近い人物だ。私は開高健や谷沢永一よりも向井敏に共感を覚えた。
自分が感動した本のタイトルで検索をする。徹底的に。書評ブログは数が多いようで実は少ない。私はamazonレビュワーまで追っ掛けているよ(笑)。情報はある程度の量がないと精度が上がらない。そして獲物を見つけたら、直ちにそこから別の本を辿るのである。自分の目に止まる本の数は極めて限られている。だから視野を広げる努力をするよりも他人の目を使った方が手っ取り早い。
で、googleも意外と当てにならない。書籍タイトルで検索するのはまだ初心者だ。私はテキストでも検索をかける。それでもダメなら複数キーワードを挿入する。ここに検索センスが求められる。
1000冊という最初の山を踏破した後は、カテゴリーやテーマを決めてまとめ読みするのが効果的だ。アインシュタインの相対性理論だって、10冊読めば何となく理解できるようになるし、20冊も読めばそこそこ語れるようになるものだ。概念を脳に定着させるためには反復が必要となる。関連書に共通する類似部分が理解を深めるのだ。
最初は興味本位でいいと思う。しかしある程度力を蓄えたならば、登るべき峰を自分できちんと設定することが望ましい。自分で高さを実感するからこそ眺望が開けるのだ。そこにはあなたにしか見えない景色が広がっている。
2013-12-09
私のダメな読書法
一枚の写真がある。母がソファで本を読んでいる。その隣に本を覗きこむ私が写っている。まだ4~5歳の頃だ。親が読書をすれば子供は自然と本好きに育つ。幼い知覚は敏感に「知らない世界」を嗅ぎ取り、貪欲に知識を求める。
私は小学1年生から本を読み続けてきた。当時は月に1冊しか買ってもらえなかったので何度も繰り返し読んだ。小学校高学年になると学校の図書室の本を片っ端から読んだ。10冊の貸し出し制限があったのだが、ゲロという渾名(あだな)の図書係を脅して禁を破らせた。あとで図書担当のヨシオカ先生にバレてしまい、「もう二度としません」と100回書かされたこともあった。ヨシオカ先生はハイミスだった。私は「先生(※本当は「ヨシオカのババア」と呼んでいた。命名者はイガラシ)が一生結婚できませんよーに」と心で祈った。
小学校の図書室の半分くらいのカードには私の名前が記されているはずだ。『怪盗ルパン』シリーズに息を飲み、『八十日間世界一周』で度肝を抜かれ、『失われた世界』で眠れぬ夜を過ごし、『黄色い部屋の謎』で知的スリルを味わった。
中学1年の時、国語の授業で『坊っちゃん』を知った。私はフランチャイズ球場ともいうべきイワタ書店へ走った。生まれて初めて買った文庫本は90円だった。それから20年後には3000冊、30年後には5000冊の本を所有するとも知らず。
で、読書法だ。10代後半から20代にかけてはひたすらノートに抜き書きをした。13冊ほどになった。文章を写す作業は著者の思考をトレースする営みでもある。仏道修行で書写行が勧められたのも同じ理由だろう。
パソコンと出会ったのは35歳の時だった(1998年)。以後、気に入ったテキストを入力しまくった。日に1万字ということも珍しくなかった。400字詰めの原稿用紙に換算すると25枚分だ。クリシュナムルティの『子供たちとの対話』に至っては9万字も入力している。そんな無謀なやり方が長続きするはずもない。10年後、腱鞘炎となった。指という指の関節が凝り固まり、肘まで痛くなってしまった。
しかも私は書き写すことで安心して思索を深めることを怠った。保存が目的となってしまい、血肉とすることを後回しにしていた。
キー操作の量は限定された。そこでデジタルカメラで撮影することを思いついた。付箋を張りっ放しにしておくと本が変形してしまう。平均すると1週間で百数十枚の写真を撮ってきた。だが見返すことは殆どない。Skydriveにアップしたままだ。
結局、インプットを疎かにしたままでアウトプットも途絶えた。書評は2年遅れで更新するという有り様だ。
「ムダではない」と思い込んでいた。だがムダが多すぎた。人生の時間は限られているのだから。やはり人も本も出会った時が勝負なのである。そこで相手を知る努力が浅ければ、後々まで中途半端な印象を引き摺るだけで終わってしまう。
しかも読んでいるだけでは相手の話を一方的に聴いているようなものだ。やはり自分の言葉を紡ぎ出さなければ「対話」は成り立たない。
一時期、ウェブ上で読書サークルを立ち上げたこともあったのだが、どうしてもよいメンバーが揃わないと長く続けることが難しい。直接集えるような範囲で人を集めることができれば、いつでも行う準備はあるのだが。
まあ、そんなわけで私のダメな読書法が若い人たちの一助になれば幸いである。共に本を読む仲間を探し続けることが重要だ。
・ネット時代の読書法
・「なぜ入力するのか?」「そこに活字の山があるからだ」
2013-12-08
ナースはマスクをするな~マガーク効果
とある病院の受付で老婦人が何度も聞き返していた。受付嬢はマスクをしていた。病院側の都合もあるのだろうが受付嬢やナースはマスクをするべきではない。視覚が聴覚を補っているためだ。特に障害者の場合、マスクをしているとナースの顔も判別しにくい。コミュニケーションは顔のサインが重要である。人命を預かる病院がそんな事実も知らないことにかえって驚かされる。
病院の受付嬢はマスクをするな。マガーク効果も知らないのだろう。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 6
2013-12-06
Walpola Rahula長老とクリシュナムルティの対談『人間性は変えることができるか』(邦訳未刊)
Krishnamurti - Can Humanity Change - 1. We Are All Caught In The Idea Of Progres. sub esp from iser on Vimeo.
高名なスリランカの仏教学者であったWalpola Rahula長老とクリシュナムルティの対談『人間性は買えることができるか』(原題’Can Humanity Change?’)という本を最近買ったので、読んでみます。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) 2013, 12月 4
日本語訳を切望。仏教者のようだがビビリまくって演説。/Krishnamurti - Can Humanity Change - 1. We Are All Caught In The Idea Of Progres. sub esp http://t.co/DN6PfBOhqS
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
クリシュナムルティは「イエッサー」と敬語を使い、静かに語る。勝負あり。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
これがブッダの弟子だとすれば情けない限りだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
ブッダに寄りかかっているだけの愚か者だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
クリシュナムルティはあらゆる宗教を否定しながらも、ブッダに最大の親近感を抱いていた。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
卑屈な男だ。自分の眼前にいるのはブッダとも気づかずに。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
目は口ほどにものを言う。たぶん本当は違う。言語を獲得する以前は目でコミュニケーションを図っていたのだろう。だから「口は目ほどにものを言う」が正しい。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
それが証拠に優れた映画やドラマは必ず「目にものを言わせる」。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
クリシュナムルティの眼は格闘家と同じ光を放っている。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
銀髪が美しい光を放っている。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
仏とは世界に応じる存在なのだろう。それゆえ衆生が求めなければ仏は存在しない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
仏も悟りも受動的にしか受け取ることができない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
会えばわかる。見ればわかる。聞けばわかる。触れればわかる。五感情報はかくも豊富だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
2013-12-05
レイプという戦争兵器「絶対に許すな」ムクウェジ医師、DRコンゴ
軍や民兵によるレイプが横行し、何万人もの女性が残忍な暴行を受けているコンゴ民主共和国。同国で被害女性を治療する医師の草分けとなったデニス・ムクウェジ(Denis Mukwege) 医師が11月30日、レイプはジェノサイド(大量虐殺)や化学兵器と同様、絶対に許されない一線だと訴えた。
「みんなナチス・ドイツで起きたことを見て、ジェノサイドを怖がっている。化学兵器も恐れ、決して越えてはならない一線としてきた……だが、レイプが戦争兵器として使われることについては、言葉を濁す」とムクウェジ医師は語る。
レイプ被害者の治療のために病院や基金を設立したムクウェジ氏は、これまでに何度もノーベル平和賞の候補に挙がっている。今回AFPの取材には「もう一つのノーベル賞」と呼ばれる「ライト・ライブリフッド賞(Right Livelihood Award)」 を受賞するために訪れていたスウェーデンの首都ストックホルム(Stockholm)で応じた。
紛争地帯のコンゴ東部では、女性が頻繁に標的とされる。ムクウェジ医師は、自分の夫や子供もいる公衆の目前でレイプされた女性たちや、性器を焼かれ痛めつけられてクリニックを訪れる女性たちの凄惨な話を語った。
ムクウェジ医師は、戦争兵器として用いられるレイプが、女性たちとコンゴという国にすさまじい結果をもたらしているという。「レイプは女性と社会を破壊する。認知されることのない子が生まれ、女性は2度と子供を産めない体になる。これはジェノサイドと同じだ。なぜなら女性器を壊すことは、女性をおとしめ、人口増加を妨げることになるからだ」
ムクウェジ医師の病院には毎年、3500人以上のレイプ被害者が訪れ、女性器の再建手術を受ける。「この問題を解決できないDRコンゴの無能さを国際社会も傍観しているだけとは、現代の大きな悲劇だ。残虐行為はもう20年続いており、暴漢グループや民兵たちによる暴行の手口は年々ひどくなっている」と訴える。
同氏は2000年に採択された国連決議を適切な措置の一例として評価するが「『この線を越えることは絶対に許されない』という確固としたレッドラインはない」と指摘する。国連安全保障理事会決議1325号は、すべての加盟国に対し、女性と女子の人権を保護する法や制度、とりわけ性暴力からの保護を求めるにとどまっている。
【AFP 2013-12-04】
・コンゴ民主共和国(DRC)は活動家デニス・ムクウェジ医師の暗殺未遂を捜査しなければならない:アムネスティ発表国際ニュース
・「死を待つ少女たちと彼女たちを救う男性」イヴ・エンスラー
・強姦から生まれた子供たち/『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
戦闘民族「徳之島」の血&徳田虎雄の経営戦略
これは必読のこと。戦闘民族「徳之島」の血&虎雄の経営戦略。/徳洲会はなんであんなにお金持ちなのか? 〜そしてなぜ、医師会に嫌われるのか?〜 - Togetterまとめ http://t.co/PxPKIv7I1z
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 5
2013-12-04
ジョン・ル・カレ
1冊読了。
62冊目『寒い国から帰ってきたスパイ』ジョン・ル・カレ:宇野利泰訳(ハヤカワ文庫、1978年)/実は20代で一度挫けている。たった今読み終えた。感無量。宇野は明治生まれのため癖の強い表現が気になるが50ページくらい進むと慣れる。ジョージ・スマイリーの名が要所要所で登場する。初めてフリーマントルを読んだ時と似た感情が湧いてくる。原書は1963年の末に刊行されたというから、ジョン・F・ケネディ暗殺(11月22日)の頃だ。私が生まれた年でもある。ちょうど半世紀が経つ。米ソの冷戦はヨーロッパを東西に分断した。その象徴がドイツであった。主人公のアレック・リーマスはイギリス諜報部員で二重スパイとして東独の撹乱工作を命じられる。ところが乗りかかった船は思わぬ方向へ動き出す。リーマスは東独へ送られることとなった。冷戦時代はスパイの黄金期であった。イアン・フレミングはスーパーマンスパイ(ジェームズ・ボンド・シリーズ/1953年~)を創作した。そしてル・カレはスパイのリアリズムを描いてみせた。二人とも実際の諜報活動に従事していた過去を持つ。イギリスの作家ではサマセット・モームやグレアム・グリーンも元スパイである。リーマスがコミュニストのリズ(恋人)に対して共産主義批判をする。それは手駒として扱われる自分自身に突きつけられた言葉でもあった。国家や組織というメカニズムに翻弄される人間像を描いて、半世紀後に読んでも色褪せることのない古典となっている。1963年のゴールド・ダガー賞(英国推理作家協会が選ぶ最優秀長編賞)に輝く。それどころか同協会が2005年に発表したダガー・オブ・ダガーズ賞(歴代ゴールド・ダガー賞の最高峰)に選ばれた。1965年にはアメリカ探偵作家クラブ賞(MWA賞)最優秀長編賞も受賞。
「インテリジェンスを読み解く30冊」(対談:佐藤優氏)│手嶋龍一オフィシャルサイト http://t.co/xARUxCsbdc
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 12月 4
2013-12-03
高橋洋一
1冊読了。
61冊目『官愚の国 なぜ日本では、政治家が官僚に屈するのか』高橋洋一(祥伝社、2011年)/反原発もいいだろう。一票の格差も問題だ。しかし、である。種々の政治テーマは枝葉末節にすぎない。カレル・ヴァン・ウォルフレンは日本の権力構造を「システム」であると喝破した。そのシステムを司っているのが官僚なのだ。高橋本を読むたびに私は戦慄する。政治なき国家に。脱官僚を掲げた民主党政権があっさりと頓挫した経緯にも触れている。高橋は東大理学部数学科・東大経済学部経済学科出身の合理主義者である。説明能力も高く、私は密かに「偉大なるオタク」と認識している。ウォルフレンは「東大を潰せ」と結論した。読んだ当時は「何を極端な」と思った。だがウォルフレンが放った矢は正確に的を射抜いていた。高橋が示した数々の事実はあまりにも重い。無知は愚かに通じ、そして悪を支える。官僚を断罪する法制度の整備が必要だ。例えばSPEEDIの情報を隠匿した政治家と官僚は死罪にするのが当然だろう。
オスの子孫に危険を「警告」する遺伝メカニズム、マウスで発見
特定の匂いを恐れるように訓練されたオスの実験用マウスは、精子内のあるメカニズムを介して、その匂いに関連して受けた衝撃を後に生まれるオスの子孫に伝えることができるとする研究論文が1日、英科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス(Nature Neuroscience)」に掲載された。
動物は祖先の心的外傷(トラウマ)の記憶を「継承」し、あたかも自分がその出来事を体験したかのような反応を示すという説に証拠をもたらすものだと論文は主張しているが、これは後成遺伝学(エピジェネティクス)研究の最新の発見だ。エピジェネティクスでは、遺伝子の基礎情報であるDNAの塩基配列に何の変化がなくても、遺伝子が異なる振る舞いを始める要因として、環境要因が挙げられている。
論文の共著者の一人、米エモリー大学医学部(Emory School of Medicine)のブライアン・ディアス(Brian Dias)氏は「祖先の経験が子孫の世代にどのように影響するのかを知ることで、継世代的な神経精神疾患の発症に関する理解を深めることができるだろう」と話す。また将来的には、トラウマとなる記憶の「継承」を軽減できる心理療法の開発につながるかもしれない。
子孫は少量の匂いでも感知
ディアス氏と論文共著者のケリー・レスラー(Kerry Ressler)氏のチームは、マウスの足に電気ショックを与えることで、サクラの花に似た匂いを恐れるように訓練し、その後、このマウスの子孫が同じ匂いを嗅がされた時にどの程度おびえた反応を示すかを調べた。
子孫のマウスたちは、元のマウスの訓練時にはまだ母親マウスの胎内にもおらず、また今回の実験前に同じ匂いを嗅いだ経験は一度もなかった。しかし、レスラー氏はAFPの取材に対し、訓練を受けたマウスの子孫は「はるかに少量の匂いでも感知して反応することができた。これは子孫が(その匂いへの)感受性が高くなっていることを示唆している」と語った。
子孫マウスは、訓練を受けていないマウスの子孫に比べ、サクラの花の匂いに対して約2倍強い反応を示した。一方で、別の匂いには同様の反応を示さなかった。
次に訓練を受けたマウスの精子から子孫に受け継がれた遺伝子「M71」を調べた。「M71」は鼻の中でサクラの花の匂いに特に反応する嗅覚受容体の機能を制御する遺伝子だが、子孫マウスの「M71」においてDNAの塩基配列には何も変化はなかった。ただし、この遺伝子には後成遺伝的な痕跡があった。ディアス氏によれば、この痕跡が遺伝子の振る舞いを変化させ、子孫の代になって「さらに発現する」原因となる可能性があるという。
またこの後成遺伝的な痕跡が今度は、訓練を受けたオスマウスやそのオスの子孫の脳に物理的変化を生じさせ、脳の嗅覚部位にある嗅覚糸球体が大きくなっていた。「これは鼻の中で、より多くのM71神経細胞が、さらに多くの軸索(神経突起)を伸ばすようになるからだ」とディアス氏は説明する。
脳内での同様の変化は、サクラの花の匂いを恐れる父親の精子を用い、人工授精で受胎した子孫でも観察された。また子孫マウスの精子中でも、遺伝子発現に変化がみられた。
レスラー氏は「このような情報継承は、子孫たちが将来の環境で遭遇する可能性が高い特定の環境特性の重要性について、親が子孫に『知らせる』ための有効な手段の一つと思われる」と述べた。
英国の遺伝学者マーカス・ペンブレイ(Marcus Pembrey)氏によると、今回の研究成果は、恐怖症、不安障害、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの研究に役立つ可能性がある。
【AFP 2013-12-03】
エピジェネティック効果や母性効果の不思議について、ニューヨークの世界貿易センターとワシントン近郊で起きた9.11テロ後の数か月のことを眺めてみよう。このころ、後期流産の件数は跳ね上がった――カリフォルニア州で調べた数字だが。この現象を、強いストレスがかかった一部の妊婦は自己管理がおろそかになったからだ、と説明するのは簡単だ。しかし、流産が増えたのは男の胎児ばかりだったという事実はどう説明すればいいのだろう。
カリフォルニア州では2001年の10月と11月に、男児の流産率が25パーセントも増加した。母親のエピジェネティックな構造の、あるいは遺伝子的な構造の何かが、胎内にいるのは男の子だと感じとり、流産を誘発したのではないだろうか。
そう推測することはできても、真実については皆目わからない。たしかに、生まれる前も生まれたあとも、女児より男児のほうが死亡しやすい。飢餓が発生したときも、男の子から先に死ぬ。これは人類が進化させてきた、危機のときに始動する自動資源保護システムのようなものなのかもしれない。多数の女性と少数の強い男性という人口構成集団のほうが、その逆よりも生存と種の保存が確実だろうから。(1995年の阪神大震災後も同様の傾向が出ている)
【『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス:矢野真千子訳(NHK出版、2007年)】
2013-12-02
天然痘と大虐殺/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
・『奴隷船の世界史』布留川正博
・『奴隷とは』ジュリアス・レスター
・『砂糖の世界史』川北稔
・ラス・カサスの立ち位置
・スペイン人開拓者によるインディアン惨殺
・天然痘と大虐殺
・『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
・『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
・『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温
・キリスト教を知るための書籍
・必読書リスト その四
神はその地方一帯に住む無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また、陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主(セニョール)たちに対し、また、現在彼らが仕えているキリスト教徒たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍(いさか)いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。この人たちは体格的には細くて華奢でひ弱く、そのため、ほかの人びとと比べると、余り仕事に耐えられず、軽い病気にでも罹(かか)ると、たちまち死んでしまうほどである。彼らは恵まれた環境の中で育てられたわれわれの君主や領主の子息よりはるかにひ弱く、農耕を生業とするインディオとて例外ではない。
インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない。
【『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス:染田秀藤〈そめだ・ひでふじ〉訳(岩波文庫、1976年/改訂版、2013年)】
インディアンについては、あの殺戮者クリストファー・コロンブスでさえ称賛している。
・侵略者コロンブスの悪意/『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン
彼らはあまりにも善良で人を疑うことを知らなかった。白人が欲しい物は何でも与えた。そして殺された。
インディアンと初めて遭遇した時、白人たちはたじろいだ。彼らの存在が聖書に書かれていなかったためだ。中世の西洋的思考ではキリスト教の神を信じない者は人間として認められなかった。
ラス・カサスの言葉は逆説的だ。神がインディアンを創造したという前提で書かれているが、実はインディアンの善性が神の地位を押し上げているのだ。
インディアン虐殺はピルグリム・ファーザーズから始まっていた。そしてインディアンの多くは白人たちがアメリカ大陸に持ち込んだ天然痘などの疫病(えきびょう)で死んだ。これが反ラス・カサス派の根拠となっている。具体的なデータを私は知らないので判断が難しいところだ。
コロンブスは中米のインディアン諸部族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させた。インディアンたちを黄金採集のために奴隷化し、生活権を奪ったためにインディアンたちは飢餓に陥り、疫病が蔓延し、その数をさらに減らした。白人のもたらした疫病が中米のインディアンを減らしたのではない。コロンブスによる大量虐殺が、疫病によるインディアンの激減を招いたのである。
【Wikipedia:インディアン戦争】
いわゆるジェノサイド“民族大虐殺”というヒットラーの殺した600万人のユダヤ人、イスラム教徒対ギリシャ政教のボスニア大虐殺等と変らない民族大虐殺が起きたのだ。
【先住民族迫害史:アメリカ国立公園特集】
インディアン戦争は苛烈で、捕虜の殺害や、一般市民を攻撃目標にしたり、また他にも民間人への残虐行為が双方で見られた。今日でも知られている出来事としては、ピット砦のイギリス軍士官が天然痘の菌に汚染された毛布を贈り物にし、周辺のインディアンにこれを感染させようとしたことである。
【Wikipedia:ポンティアック戦争】
パレスチナを侵略したイスラエルと同じ手口だ。その後白人たちは珍しい品物を与えることでインディアンの分断工作を図る。
結局インディアンはヨーロッパ人の文明と歴史の前に敗れたといってよい。戦争はトリッキーなやり方で相手を騙した方が勝つ。これが孫子の兵法の極意だ。
・兵とは詭道なり/『新訂 孫子』金谷治訳注
もう一つの歴史の重要な機能とは、「歴史は武器である」という、その性質のことである。文明と文明の衝突の戦場では、歴史は、自分の立場を正当化する武器として威力を発揮する。
【『歴史とはなにか』岡田英弘(文春新書、2001年)】
・歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
その上ヨーロッパ人には合理的な宗教まであった。神を背景とした正義にインディアンたちが適(かな)うはずもない。文字を持たなかったアフリカ人も同じ運命を辿っている。
岩波書店
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