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2018-11-08

読書は「世の中を読む」行為/『社会認識の歩み』内田義彦


 ・学問は目的であっても手段であってもならない
 ・読書は「世の中を読む」行為

『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳

 本が面白く読めたというのは、本を読んだのではなく、本で世の中が、世の中を見る自分が読めたということです。逆にいえば、世の中を読むという操作のなかで始めて本は読めるわけですね。

【『社会認識の歩み』内田義彦(岩波新書、1971年)】

 実に含蓄深い一言である。「目が変わった」といってもよい。やはり、「知は力」(フランシス・ベーコン)なのだ。人は学び続ける限り若さを保つことができる。

 世の中を単なる政治や経済の機構と勘違いしてしまえば人間を見る瞳が曇ってゆく。一番大事なのは「人の心」を読み、察することだ。その人の痛みや悲しさを自分の心にありありと浮かべることだ。読むことは感じることにつながる。

 私はブッダやクリシュナムルティを読んできたが、読めるかどうかは全くの別問題である。



翻訳と解釈/『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー
孫子の兵法 その二/『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光

2018-11-07

読む=情報処理/『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳


『社会認識の歩み』内田義彦

 ・劣悪な言論に鉄槌
 ・読む=情報処理

『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

必読書リスト その一

 学者とは書物を読破した人、思想家・天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。

【『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随〈さいとう・にんずい〉訳(岩波文庫、1960年)】

 書評を記そうとして関連文献を紹介していないことに気づき、更にその文献のための別文献にまでさかのぼってしまうことがままある。情報はつながることで強度を増し、あるいは意味を書き換え、はたまた過ちに気づく。

 脳機能は情報処理・計算に集約されるが、具体的には「読む」行為と考えてよい。脳は本を読み、人を読み、世界を読む。膨大な情報から感情という反応に引っ掛かった情報に重みをつけ、因果関係を築き、生き延びる可能性(※子孫も含む)を計算する。

 私の蒙(もう)が啓(ひら)けないのは目先の小事に囚われて感情を優先してしまうためだ。「カッとなって人を殺してしまった」という事件が時折ある。結局のところ「情報の読み方を誤った」のだ。

 地位・名誉・財産という世間の物差しがある。この物差しが示すのは「生存確率の高さ」であろう。しかし幸不幸を決めるものではない。それどころか世間の物差しはショウペンハウエルに言わせれば「蒙」そのものに他ならない。

 日本人の思考からすれば、やはり世界と社会の間に隔絶がある。日常生活で世界を意識することはまずない。政治や経済のレベルで考えても、せいぜいアメリカ・中国・南北朝鮮が浮かぶ程度である。

 読むとは解釈することである。情報は自我というフィルターを通して必ずバイアスが掛かる。合理性とは多くの人々を説得し得る「歪み」を意味する。あらゆる宗教が教義を巡る解釈によって分裂することからも明らかなように、言葉はいくらでも屁理窟をつけることができる。

 実はショウペンハウエルもその一人であった。本書の文体には逆らい難い魅力があり、人をして服せしめずにはおかない響きに満ちている。彼はまた仏教を厭世主義に貶めた哲学者でもあった。我々は騙される。姿形や見栄え、体型、声、文体などに。

読書について 他二篇 (岩波文庫)
ショウペンハウエル
岩波書店
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翻訳と解釈/『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー

2014-07-05

読書人階級を再生せよ/『人間の叡智』佐藤優


労働力の商品化
・読書人階級を再生せよ

 そこで私が必要を強く感じるのが、階級としてのインテリゲンチャの重要性です。かつての論壇、文壇は階級だったわけです。編集者も階級だった。その中では独特の言葉が通用して、独特のルールがあった。ギルド的な、技術者集団の中間団体です。国家でもなければ個人でもなく、指摘な利益ばかりを追求するわけでもない。自分たちの持っている情報は、学会などの形で社会に還元する。
 時代の圧力に対抗するにはこういう中間団体を強化するしか道はない。なんでもオープンにしてフラット化すればよい、というものではありません。
 新書を読むような人はやはり読書人階級に属しているのです。ものごとの理屈とか意味を知りたいという欲望が強い人たちで、他の人たちと少し違うわけです。読書が人間の習慣になったのは新しい現象で、日本で読書の広がりが出てきたのは円本が出版された昭和の初め頃からでしょうから、まだ80年くらいのものではないですか。円本が出るまでは、本は異常に高かった。いずれにせよ、現代でも日常的に読書する人間は特殊な階級に属しているという自己意識を持つ必要があると思います。
 読書人口は、私の皮膚感覚ではどの国でも総人口の5パーセント程度だから、日本では500~600万人ではないでしょうか。その人たちは学歴とか職業とか社会的地位に関係なく、共通の言語を持っている。そしてその人たちによって、世の中は変わって行くと思うのです。

【『人間の叡智』佐藤優〈さとう・まさる〉(文春新書、2012年)】

 読者の心をくすぐるのが巧い。しかも本書が文庫化されないことまで見通しているかのようである(笑)。ニンマリとほくそ笑んだ挙げ句に我々は次の新書を求めるべく本屋に走るという寸法だ。

 佐藤優は茂木健一郎の後を追うような形で対談本を次々と上梓している。茂木と異なり佐藤の場合は異種格闘技とも思える相手が目立つ。その目的はここでも明言されている通り「中間団体の強化」にある。佐藤なりの憂国感情に基づく行動なのだろう。

 共通言語に着目すれば佐藤のいう中間団体はサブカルチャー集団とも考えられる。共通言語から文化が生まれ、規範が成り立つ(下位文化から下位規範が成立/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹)。人々の行動様式(エートス)を支えるのは法律ではなく村の掟、すなわち下位規範である。佐藤は驚くべき精力でそこに分け入る。

 佐藤の該博な知識は大変勉強になるのだが、どうも彼の本心が見えない。イスラエル寄りの立場が佐藤の存在をより一層不透明なものにしている。



問いの深さ/『近代の呪い』渡辺京二

2014-04-25

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー


『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

 ・普遍的な教義は存在しない
 ・デカルト劇場と認知科学
 ・情動的シナリオ


『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 どうして人間はこんなことを考えるのか? なぜこんなことをするのか? どうしてこんなにも多様な信念をもっているのか? なぜ人間はこうした信念に強くこだわるのか? これらの疑問はノーム・チョムスキーの区別を借りて言えば、かつては【謎】(解こうにも、どこから手をつければよいかわからなかった)だったが、現在では【問題】(解凍の見通しぐらいはついている)にまでなっている。

【『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー:鈴木光太郎、中村潔訳(NTT出版、2008年)以下同】

 2012年に読んだ本ランキング1位である。油断していたらもう品切れだ。このまま絶版となるかも。書籍の命は蝉のようにはかない。昨今の出版事情を思えば、望むと望まざるとにかかわらずデジタル書籍の時代に向かうことだろう。

 原著の刊行が2001年で『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス、『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネットに先んじている。これにニコラス・ウェイドを加えて「宗教機能学」と名づけても見当外れではあるまい(※ジェシー・ベリングは個人的に評価せず)。その嚆矢(こうし)がパスカル・ボイヤーである。


 宗教の起源についての説明のほとんどは、次のような示唆のどれかを強調する。すなわち、人間の心は説明を欲する、人間の心は安らぎを求める、人間の社会は秩序を必要とする、人間の知性は錯覚に陥りやすい。

 科学(因果関係)、心理学、社会学、認知心理学がそれぞれに対応する。

 続いて以下の驚くべき指摘がなされる。

・「特定の」宗教を信仰することなしに、宗教を信仰することもできる。
・「宗教」にあたる単語がなくても、宗教はありうる。
・「信じる」という表現がなくても、宗教をもつことはできる。

 実はニコラス・ウェイドが使用する「遺伝」という言葉への違和感は書評を書く段階で初めて気づいた。パスカル・ボイヤーも「宗教が『生得的』だとか『遺伝子のなかにある』」という見方には否定的だ。

 もし「宗教とは、宇宙の賢く不滅の創造主に従うことによって、どうすれば私たちの魂が救われるかを説く教えを信じることだ」と言う人がいたら、その人はたぶん、いろんな土地を旅したり、広くいろんなものを読んでいないのだ。多くの文化では、死者はこの世に戻ってきて生きている者たちを怖がらせると考えられているが、どの文化でもそうなわけではない。ある特殊な人々が神々や死者と交信できると考えられている社会もあるが、この考えもどこにでも見られるわけではない。また、人間の魂は死後も生き続けるとするところもあるが、この仮定もまた、普遍的なわけではない。私たちが宗教について一般的な説明を考え出そうとする場合、その説明はほかの宗教にも通用するものかを考慮すべきだろう。

 実際にフィールドワークを行っている人物ならではの視点だ。テキストはアブラハムの宗教を想定しているが、他の宗教にも同じ問いを突きつけている。つまり「普遍的な教義」は存在しないのだ。

 10代から20代にかけての読書は好きなものを手当たり次第に読めばよい。30代となれば何らかのテーマを決めて取り組む必要がある。そして現代社会の構造を思えば、やはり経済と科学は避けて通れない。人は40代にもなれば何らかの思想を持つ。そこから宗教性を探るのが正しい読書道だ。自分の死が20~30年先に見え始めた頃だ。

 信じる信じないというテーマは騙される騙されないという問題を含んでいる。妙な営業に引っかかったり、悪質な詐欺被害に遭ったり、社会の様々な分野で心理的抑圧を受けるのは、考える力すなわち判断力を奪われた結果といえよう。きちんと人や本から学んでおけば避けられた問題であると私は考える。

 知的格闘を経ていない信は浅はかなものだ。強靭な信は合理性に裏打ちされていることを忘れてはならない。

2014-04-15

読書とは手の運動/『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一


 読書といえば、頭のみを使うと思っている人が多い。それは、誤解で、手を使うのである。本をもつのにも、手が必要である。頁をめくるにも、手の指がなければ、かなわない。読書とは、手の運動なのである。
 ためしに他人の読書している姿をこっそり観察してみるがよい。たえず手が、せわしなく動いているのに気づくだろう。手のひらや、5本の指を器用に動かしながら本を読んでいる。読書は、麻雀と同じように、頭の運動なので、老化を防ぐというが、実際は、手の運動だ。

【『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一〈くさもり・しんいち〉(河出書房新社、2009年)以下同】

 ストンと腑に落ちた。ああ、そうか――。それで後半になると読むスピードが速くなるわけだ。私の場合、読書の速度は左手の荷重に関連しているようだ。たぶん横書きの本が苦手なのは左手が混乱するためだろう。

 本を読む手は指揮者のように動いてとどまることを知らない。乗ってくると右手の指は常に左ページの下を摘(つま)んでいる。また重要な内容と思われるページは両手の指がページ上部を抑えていることが多い。紙の手触りだけではなく、ページをめくる音も大きな要素だ。微速度撮影をすれば楽しい映像ができあがることだろう。

 私がタブレット型端末を躊躇するのは、本能的に手の動きが阻害されることの自覚があったためだと思われる。そう考えると本の大きさと読書運動量は比例するわけだから、巨大な本を読めば情報が脳に刻まれる深度も異なってきそうだ。ヘビー級の本があって然るべきだろう。

 またヌードグラビア以外でも袋綴じは恐るべき威力を発揮する可能性がある。小説の山場は袋綴じにした方が盛り上がりそうな気がする。

 結局のところ会話にジェスチャーが不可欠なのと一緒だ。情報の受信は脳だけではなく脊髄も関係しているに違いない。

「本てなあ、それかね。そいつを読むてえのが解らねえ。お前さまの白眼(にら)んでなあ、其の白えところかね? それとも間(あひだ)の黒えところかね」(牧逸馬『紅茶と葉巻』、『現代ユウモア全集 12巻』より)

 アフリカから来たばかりの黒人が、読書している主人の肩越しに言う科白(せりふ)である。牧逸馬〈まき・いつま〉の名前を初めて知った。長谷川海太郎〈はせがわ・かいたろう〉のペンネームのひとつで、他には林不忘〈はやし・ふぼう〉、谷譲次〈たに・じょうじ〉などがある。林不忘といえば丹下左膳で広く知られる。

 この科白を紹介した後、草森はあれこれと深読みを試みているのだが少々強引だ。たとえ文字を知らなくともページの図と地を入れ替えることはあり得ない。ここには反語的メッセージが込められているのだ。つまり読書とは「黒い」部分を読む行為であるが、真の読書は「白い」余白、すなわち行間を読む営みなのだ。

 黒人の言葉が江戸弁になっているのがご愛嬌。

 草森の文章は気取りすぎていて好きになれない。

本の読み方

2013-12-10

ネット時代の読書法


 昨日(「私のダメな読書法」)の続きを。

 読書という大地は広大で、書籍の山はエベレストのように高い。やはり優れたガイドが必要だ。私にとっては向井敏〈むかい・さとし〉が頼りであった。そこに彗星の如く内藤陳が登場する。『読まずに死ねるか!』(集英社、1983年)シリーズはバイブルとなった。

 あの頃(30年前)は音楽であれば月刊誌『ミュージック・マガジン』(中村とうよう編集)とNHK-FMの「クロスオーバーイレブン」で探すしかなかった。何という情報の乏しさだろう。レコード購入の選択ミスなどざらだった。

 今はインターネットがある。その気になれば情報はいくらでも見つけることが可能となった。

 私の経験から申せば、やはり若い時期は努めて濫読(らんどく)すべきだ。10年間で1000冊程度読めば、たどたどしいながらも自分なりの地図ができてくる。ここでガイドとすべきは自分と感性が近い人物だ。私は開高健や谷沢永一よりも向井敏に共感を覚えた。

 自分が感動した本のタイトルで検索をする。徹底的に。書評ブログは数が多いようで実は少ない。私はamazonレビュワーまで追っ掛けているよ(笑)。情報はある程度の量がないと精度が上がらない。そして獲物を見つけたら、直ちにそこから別の本を辿るのである。自分の目に止まる本の数は極めて限られている。だから視野を広げる努力をするよりも他人の目を使った方が手っ取り早い。

 で、googleも意外と当てにならない。書籍タイトルで検索するのはまだ初心者だ。私はテキストでも検索をかける。それでもダメなら複数キーワードを挿入する。ここに検索センスが求められる。

 1000冊という最初の山を踏破した後は、カテゴリーやテーマを決めてまとめ読みするのが効果的だ。アインシュタインの相対性理論だって、10冊読めば何となく理解できるようになるし、20冊も読めばそこそこ語れるようになるものだ。概念を脳に定着させるためには反復が必要となる。関連書に共通する類似部分が理解を深めるのだ。

 最初は興味本位でいいと思う。しかしある程度力を蓄えたならば、登るべき峰を自分できちんと設定することが望ましい。自分で高さを実感するからこそ眺望が開けるのだ。そこにはあなたにしか見えない景色が広がっている。

2013-12-09

私のダメな読書法


 一枚の写真がある。母がソファで本を読んでいる。その隣に本を覗きこむ私が写っている。まだ4~5歳の頃だ。親が読書をすれば子供は自然と本好きに育つ。幼い知覚は敏感に「知らない世界」を嗅ぎ取り、貪欲に知識を求める。

 私は小学1年生から本を読み続けてきた。当時は月に1冊しか買ってもらえなかったので何度も繰り返し読んだ。小学校高学年になると学校の図書室の本を片っ端から読んだ。10冊の貸し出し制限があったのだが、ゲロという渾名(あだな)の図書係を脅して禁を破らせた。あとで図書担当のヨシオカ先生にバレてしまい、「もう二度としません」と100回書かされたこともあった。ヨシオカ先生はハイミスだった。私は「先生(※本当は「ヨシオカのババア」と呼んでいた。命名者はイガラシ)が一生結婚できませんよーに」と心で祈った。

 小学校の図書室の半分くらいのカードには私の名前が記されているはずだ。『怪盗ルパン』シリーズに息を飲み、『八十日間世界一周』で度肝を抜かれ、『失われた世界』で眠れぬ夜を過ごし、『黄色い部屋の謎』で知的スリルを味わった。

 中学1年の時、国語の授業で『坊っちゃん』を知った。私はフランチャイズ球場ともいうべきイワタ書店へ走った。生まれて初めて買った文庫本は90円だった。それから20年後には3000冊、30年後には5000冊の本を所有するとも知らず。

 で、読書法だ。10代後半から20代にかけてはひたすらノートに抜き書きをした。13冊ほどになった。文章を写す作業は著者の思考をトレースする営みでもある。仏道修行で書写行が勧められたのも同じ理由だろう。

 パソコンと出会ったのは35歳の時だった(1998年)。以後、気に入ったテキストを入力しまくった。日に1万字ということも珍しくなかった。400字詰めの原稿用紙に換算すると25枚分だ。クリシュナムルティの『子供たちとの対話』に至っては9万字も入力している。そんな無謀なやり方が長続きするはずもない。10年後、腱鞘炎となった。指という指の関節が凝り固まり、肘まで痛くなってしまった。

 しかも私は書き写すことで安心して思索を深めることを怠った。保存が目的となってしまい、血肉とすることを後回しにしていた。

 キー操作の量は限定された。そこでデジタルカメラで撮影することを思いついた。付箋を張りっ放しにしておくと本が変形してしまう。平均すると1週間で百数十枚の写真を撮ってきた。だが見返すことは殆どない。Skydriveにアップしたままだ。

 結局、インプットを疎かにしたままでアウトプットも途絶えた。書評は2年遅れで更新するという有り様だ。

「ムダではない」と思い込んでいた。だがムダが多すぎた。人生の時間は限られているのだから。やはり人も本も出会った時が勝負なのである。そこで相手を知る努力が浅ければ、後々まで中途半端な印象を引き摺るだけで終わってしまう。

 しかも読んでいるだけでは相手の話を一方的に聴いているようなものだ。やはり自分の言葉を紡ぎ出さなければ「対話」は成り立たない。

 一時期、ウェブ上で読書サークルを立ち上げたこともあったのだが、どうしてもよいメンバーが揃わないと長く続けることが難しい。直接集えるような範囲で人を集めることができれば、いつでも行う準備はあるのだが。

 まあ、そんなわけで私のダメな読書法が若い人たちの一助になれば幸いである。共に本を読む仲間を探し続けることが重要だ。

ネット時代の読書法
「なぜ入力するのか?」「そこに活字の山があるからだ」

2012-12-01

読むべき本はやってくる


2011-11-04

ゲバラは、いついかなる時でも読書だけは怠らなかった


 工業化計画についての考えにしても、それはチェが戦争の間でも、勉強を怠らなかったことを物語っている。
 じじつ、かれは非常な読書家であり続けた。シエラ・マエストラでも、ゲーテを読み、セルバンテスを読み、さらにはマルクス・レーニンの著作に眼を通していた。戦争以外には何もできない男ではないことを、それは物語っている。かれは医師からゲリラ戦士になり、ゲリラ戦士から革命家へと昇華して行ったが、いついかなる時でも、読書だけは怠らなかった。日記をつけることと本を読むこととは、かれの終生一貫した習慣であった。

【『チェ・ゲバラ伝』三好徹〈みよし・とおる〉(文藝春秋、1971年)】

チェ・ゲバラ伝

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2011-09-24

読書の技術


 書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えてくるのには、相当な時間と努力を必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、そこ以外にはない。

【『モオツァルト・無常という事』小林秀雄(日産書房、1949年/新潮文庫改版、1961年)】

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

2009-03-07

読書という営み/『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬


 20代半ばで読んだ。私は感覚的・感情的・条件反射的な性質が強いこともあって、カルチャーショックを受けた。澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)を「先生」と呼びたくなったほどだ。

 そこに何が書かれているかを要約できなければ、本を読んだことにはならないとした上でこう綴る――

 ラスキンは読書を鶴嘴(つるはし)をふるって金礦(きんこう)を求めゆく坑夫になぞらえております。そして、奥にある金礦に達するためには、外側にある固い鉱石を打ちくだかなければならないと申しております。ともかく、文字という固い、不動なものをつき貫(ぬ)いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。もしここでさらに別の比喩をもってまいりますなら、書物を読むとは、火山の上に噴き出しているエネルギーそのものを知ることであります。

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年『「自分で考える」ということ 理性の窓をあけよう』改題角川文庫、1963年/角川文庫、1981年、増補版/第三文明レグルス文庫、1991年)】

「言葉ではなく意図を、そして意図よりも思想に触れよ」というのだ。私は恥ずかしさを覚える。精神がフリチン状態になったような気分だ。真に正しい意見には人を恥じ入らせる作用がある。

「著者の魂を鷲づかみにして、それを自分の魂に取り入れよ」――澤瀉久敬の轟くような声が私には聞こえる。