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2021-12-08

悟りとは認識の転換/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ・「私」という幻想
 ・悟りとは認識の転換

ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 実は、「悟り」とは、解脱でも、完成でもなんでもなく、認識の転換なのです。

【『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ〈なち・たけし〉(明窓出版、2011年)以下同】

「必読書」に入れた。なんとはなしに、この手の本を軽んじることが、あたかも知性的であるかのような思い込みがあった。

「認識の転換」とは見る(≒感じる)位置が変わることである。ただ、それだけのことだ。そこが凄い。世界とは、「私から見える世界」を意味する。「私が見る世界」と言ってもよい。見ているのは「私」だ。これをどうやって換えるのか? 例えば自分が映った鏡、写真、動画を見る時、我々の視点は外側に位置する。「離れて見る」のが瞑想のスタートだ。

 私は断言するのですが、もしも真に悟りの認識を得る――私は悟ったという言葉は使いたくありません。それは完成を意味するからです――ことができたら、その人の言葉は必ず、仏教とはかけ離れて感じられるような独自な響きを持つのです。独自な形式を持つのです。これだけは間違いのないことです。

 なぜなら、彼らは他人の言葉で語るのではなく、自分の体内から赤子を生み出すように、自分の身体感覚に基づいて、自分の言葉で表現せざるを得ないからです。
 その言葉は、仏教的枠組みを大きく踏み外し、時に矛盾するものであるかもしれない。しかし、彼らはそれを恐れないのです。(中略)
 学者や僧侶は、仏教において悟りとは何かを語ることはできるかもしれません。しかし、彼らの中に悟り体験があるかどうかはまったく別の話です。むしろ、彼らの蓄積された宗教的知識こそが、悟りの認識を邪魔している可能性の方が強いと私は感じています。
 私も仏教の入門書なり専門書めいたものに目を通すことはありますあ、その中に著者独自の悟り観のようなものが感じられるケースはほとんどありません。それどころか、仏教の叡智を切り売りして、世間知に貶めてしまっているものがほとんどという有様です。それらはもはや悟りについての書物ではなく、世の中をうまく生きるための処世術でしかないのです。
 マスメディアは、叡智を世間知に陥(ママ)しめました。人は変わるためではなく、世の中を巧妙に上手く生きるために、こうした本を手に取るのです。
 悟りの認識を得ていないものが仏法を問いても、伝わるのは2500年に亘って蓄積された絢爛豪華な知識の断片だけです。なぜ断片になってしまうかというと、悟りの根幹を語り手が理解していないからです。そうした人の書いた仏教の解説書はいずれも処世術であり、悟りとは何ら関係がありません。こうしたものは、ある種の知識欲を満足させるかもしれませんが、断片的知識と悟りの認識は相反するものなのです。

 那智タケシはクリシュナムルティを手掛かりにして、6年間の動的瞑想を経て悟りに至った。彼自身の言葉が創意に溢(あふ)れている。何かを書くというよりも、泉から湧き出る水のような勢いがある。

 真理は常識や道徳を無視してしまう。真理は世間に迎合しない。そして真理は光を放っている。

 教義は真理の一部であったとしても真理そのものではない。なぜなら真理は言葉で表現できるものではないからだ。そういう意味では仏教が神学さながらにテキスト主義に陥ったのは、悟りから大きく乖離する要因となった。経典を重視したのは悟る人が少なくなったためだろう。言葉は象徴に過ぎない。犬という言葉は犬そのものではない。

 悟りが様式や知識に堕すと言葉が重視されるようになる。印刷技術がなかった時代を思えば、経典を持っていること自体が一つの権威となったことだろう。だが、経典を何度読んだところで悟りを得られない事実が経典の限界を示している。悟りから離れたブッダの教えは学問となった。

 仏弟子となった周利槃特〈しゅり・はんどく/チューラパンタカ〉は4ヶ月を経ても一偈(いちげ)すら覚えることができなかった。一説によれば自分の名すら記憶できなかったと伝えられる。ブッダは一枚の布を渡し、精舎(しょうじゃ)の清掃と比丘衆(びくしゅ)の履き物を拭かせた。唱えるのは「塵を除く、垢を除く」の一言である。やがて周利槃特は阿羅漢果を得る。

 ここで大事なのは行(ぎょう)がそのまま悟りにつながったのではなく、行を手掛かりにして悟りを開いたことだ。修行を重んじるのは悟れない人々である。鎌倉仏教に至っては悟りを離れ、「信」を説くようになってしまった。

2018-11-01

記憶喪失と悟り/『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介


『暗殺者』ロバート・ラドラム

 ・記憶喪失と悟り

『抑圧された記憶の神話 偽りの性的虐待の記憶をめぐって』E・F・ロフタス、K・ケッチャム

必読書リスト その二

 こ れ か ら な に が は じ ま る の だ ろ う

 目のまえにある物は、はじめて見る物ばかり。なにかが、ぼくをひっぱった。ひっぱられて、しばらくあるく。すると、おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、ばたんと音がする。
 いろいろな物が見えるけれど、それがなんなのか、わからない。だからそのまま、やわらかい物の上にすわっていると、とつぜん動きだした。外に見える物は、どんどんすがたや形をかえていく。
 上を見ると、細い線が3本ついてくる。すごい速さで進んでいるのに、ずっと同じようについてくる。線がなにかに当たって、はじけとぶように消えた。すると2本になった。しばらくすると、こんどは4本になった。
 この線はなんなのだろう。なん本ついてくるのだろう。ふえたり、へったりして、がんばってついてくる線の動きがおもしろい。
 急に、いままで動いていた風景が止まった。すると、上で動いていた線も止まる。さいしょと同じ3本になっている。みんないっしょにきてくれたんだ。
 外に出されると、ぼくが見ていた細い線は、ずっとおくまでのびていた。上を見ていると、なにかがぼくの手をひっぱる。足がかってについていく。つぎに止まったばしょには、しずかで大きな物があった。
 それは見上げるほど大きい。どうしたらいいのか、まよっていると「ここがゆうすけのおうちやで」と言われた。おうちも、ゆうすけも、なんなのことかわからなくて、ただ立つだけだ。なにかにひっぱられて、そのまま入っていく。

【『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介(幻冬舎、2001年『ぼくらはみんな生きている 18歳ですべての記憶を失くした青年の手記』改題/幻冬舎文庫、2003年/朝日文庫、2011年)】

 坪倉優介はスクーターで帰宅途中、トラックと衝突する事故に遭い意識不明の重体となる。10日後に意識は回復したものの記憶を完全に喪失していた。

 冒頭のテキストである。私は俵万智〈たわら・まち〉の解説を読むまで気づかなかったのだが「3本の線」とは電線のことだった。「やわらかい物」はクルマのシートだろう。空白マスを挿入した見出しが実にいい。そこはかとない不安と行方の知れぬ先行きを巧みに表している。

 自我とは記憶の異名である。過去をもとにした感情の反応や関係性の物語が「現在の私」を紡ぎ出すのだ。とすると記憶喪失はそれまで蓄積したデータやソフトなどを消去して初期状態に戻したパソコンのようなものと考えることができる。

 更に自我=記憶であれば、記憶喪失は無我を志向し、悟りに近い状態になるのではあるまいか、と私は考えた。が、違った(笑)。

 坪倉の奇蹟は物の意味すらわからなくなった状態に陥りながらも言葉を失わなかったことだ。言い方は悪いが、赤ん坊が無垢な瞳で世界をどのように見つめているかを知ることができる。その意味で若いお父さん、お母さんは必読である。

 電線に対して「がんばってついてくる」「みんないっしょにきてくれたんだ」という純粋な気持ちに涙がこぼれる。大人からすれば景観の邪魔でしかない電線にこれほど豊かな感情を添えている。そんな子供の心を踏みにじり、大人は競争の世界へと彼らを誘導する。

 真っ白な世界が少しずつ色合いを増してゆく。その後坪倉は大阪芸術大学工芸学科染織コースに復学し、努力の末、染物作家として活躍している(卒業生インタビュー | 大阪芸術大学)。

 疑問の一つが解けた。自我を打ち消すことが悟りなのではない。自我から離れることが悟りなのだろう。一瞬一瞬の時を経て経験を積み重ねてゆくわけだが、その経験にとらわれることなく離れることは、時間からも離れることを意味する。ここに至れば過去と未来は死ぬ。現在は過去の集積でもなければ、未来のために犠牲にする時間でもない。現在は「ただ、ある」のだ。

 よく考えてみよう。苦しみは過去から生まれ、不安は未来に向かって抱くものだ。つまり苦悩が現在性を見失わせるところに不幸の根本原因があるのだ。そんなことを気づかせてくれる読書体験であった。



悟ると過去が消える/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

2017-05-14

新しい表現/『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ

 ・新しい表現

『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは

 人間が様々な与えられた観念、断片によって支配され、条件付けられていることを知るためには、まず最初に、自我を支配し、まとわりついた様々な観念の断片に気づき、落とすことが必要になります。つまり、自分自身という存在が断片の集合体にすぎないという自覚――これが逆説的に、あなたを様々な断片の支配から解放する手段なのです。
「私」も含めた一切の事物は、独立した存在ではなく、世界の断片の一つにすぎない――この認識を仏教では、悟りと呼び、そのありようを諸法無我と名づけました。しかし、仏教の既成の言葉では、もはや私たちの混沌とした世界、私たちの入り組んだ精神を解きほぐし、新しい道筋を示すことは困難になりつつあります。真実は、常に時代に即した、新しい表現を求めているのです。

【『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ(ナチュラルスピリット、2014年)以下同】

 預流果(よるか)に至った那智タケシが徒然なるままに綴った短文を編んだもの。言わば箴言集(しんげんしゅう)の体裁だが書籍としての出来は悪い。悟りという強烈な体験に脳が激しく揺さぶられ、酔っ払っているような印象を受けた。ま、それも当然だろうと思う。新しい言葉を紡ぎ出そうとする試みから悟り体験の生々しさが伝わってくる。

 宗教者は古人の言葉をなぞるだけで新しい展開を欠く。時にテキストの奴隷と化して争い合う姿も珍しくない。法という真理は見失われ、律という自制心は形式化し、s時も素っ気もない「法律」という言葉だけが生き残っている。

 世界の中心に特別な「私」、特別な「神」という巨大な断片がある限り、断片はばらばらなままであり、新たな世界を生み出すことがない。

 先日、「真実の智慧とは『ありのままに見る』ことなのだ」(ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳/『ブッダ入門』中村元)と書いた。我々は五官からの情報で世界を認識している。ところが五官には意識(≒自我)というフィルターが掛かっているのだ。そして初めて世界と接触した瞬間のことを完全に忘れ去っている。

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

「見る」ことにはこれほどの衝撃と感動がある。とすれば我々は見ているようで見ていないのだろう。

 あなたは、笑う。あなたは、泣く。あなたは、怒る。葛藤多き日常生活の中で、人間の内に、実に様々な感情が隆起する。しかし、その感情もまた、一つの断片である。ゆえにその断片にいつまでも拘泥することは、あなたという存在を卑小なものに貶める。

 分断された世界で人間がアトム化したことは多くの人々が指摘しているところであるが、量子力学によって存在の意味は一変した。マクロの世界を知れば存在という概念はあやふやになってくる。「原子の99.99パーセントが空間」(『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング)というのだから文字通り「空」の存在といえよう。そのスカスカ状態に電気信号が流れ、化学反応が起こり、自我が形成される。これに勝る不思議はない。

 諸法無我が真理であるならば、様々な事象に実体を見出す我々の思考や感情は妄想であるといってよい。つまり自我とは妄想装置なのだ。世界で繰り広げられているのは妄想の正しさを証明する闘争である。

 自らが世界のゆがみの一つであり、断片にすぎないと認識した時、自我の底蓋が開き、一切の葛藤が自身に根付くことなく滑り落ちる。これを身心脱落という。

 蝉の幼虫が脱皮するように自我をふるい落とすことが悟りか。

 真実は、何かを信じることによってではなく、一つ一つの虚偽を落としていくことによってのみ現れる。

 最後に立ちはだかるのは「自分」という虚偽だ。「我悟る、ゆえに我なし」。

 悟りもまた、あなたの人生においては一つの断片である。

 中々言える言葉ではない。

 身心脱落を脱落する――これを脱落身心という。

 捨てて捨てて、落として落として、超えて超え続けるところに人生の真実があるのだろう。

「1+1=2は正しい。絶対に正しい」という発想からは何も生まれない。むしろ1+1=2を疑うことが今必要なのだ。その1が0.6と0.7であれば1+1=1だし、1.3と1.4ならば1+1=3となる。また二進法であれば1+1=10だ。十進法という前提に束縛されているのが信仰者の姿だろう。

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2017-05-04

「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ・「私」という幻想
 ・悟りとは認識の転換

ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 みなさん、それぞれに「私」という単位を主体にして生きていらっしゃることと思います。つまり、何はともあれ、この世に生きているからにはまず最初に「私」という自意識なり、肉体があり、その「私」の集合体が家族であり、国であり、世界であるというわけです。

 それでは悟りとは何かというと――最初から端的に言ってしまいますが――その「私」というものが幻想であり、虚構であることを自覚することなのです。

【『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ〈なち・たけし〉(明窓出版、2011年)以下同】

 つまり「私」はないということ。「で、そう言っているお前さんは誰なんだ?」と言われそうだな(笑)。「私」とは思考や感情の主体である。近世哲学の祖とされるフランス野郎は「我思う、ゆえに我あり」と語った。キリスト教の場合、神という絶対的な位置から全てが始まるため存在論に傾く。それに対して仏教は現象論だ。デカルトが「我」に思い至る2000年前にブッダは諸法無我と説いた。

 デカルトの方法的懐疑は思考のレベルであり、しかも自我や神を疑うまでに至っていない。野郎の論法でいけば生まれたばかりの赤ん坊や動植物は存在しないことになる。また「我眠る、ゆえに我なし」と言われたらどう反論するのか?

預流果(よるか)恐るべし」――これが本書を読んだ率直な感想である。

 例えば日蓮の『開目抄』(1272年)という遺文には「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」とある。「我れ」だらけで「あんたホントに悟ってんの?」と言いたくなる。こうした自意識を知った信者が祖師信仰(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司)に向かうのは当然の成り行きといえよう。

 那智タケシが悟りを開いたのは上司に叱られている時であった。もうこれには吃驚仰天(びっくりぎょうてん)である。那智は「自我が落ちた」(身心脱落〈しんじんだつらく/元は心塵脱落〉)と禅語で表現している。

 実は、宗教的信念との同化は、これまたエゴイズムの延長線上にあるものなのです。彼らもまた「私の神のために」生き、そして死んでいるのであって、「他人の神のために」という発想は皆無だからです。それどころか「他人の神を殺す」ために、彼らは自分の命も投げ出すのです。というわけで、現代の国家的宗教のほとんどは、エゴイズムの問題を解決するばかりか、助長し、拡大化している始末なのです。
 一つの宗教への信仰は、人類を殺しこそすれ、救わない。個々人の信仰による救済はともかくとして(宗教の問題は後に触れます)、これはまず歴史的事実として私たちが認識しなくてはいけないことだと思います。

 一つ悟れば物事の本質が見えてくるのだろう。一神教の神は自我の延長線上にあり、仏を神格化(妙な表現ではあるが)した後期仏教(大乗)も同じ罠に嵌(はま)っている。教団は党となった。

 農耕――すなわち経済の発展によって、「私」のために生きるようになった我々は、戦争、テロリズム、核、宗教分裂といった危機にさらされた恐ろしい時代を生きています。
 20世紀は二つの大戦によってかつてない数の人間が死んだ激動の時代でしたが、今世紀はそれ以上の悲劇が待ち構えているかもしれません。いや、おそらく待ち構えていることでしょう。

 農業革命が蓄え=富を誕生させ、都市革命が交易を発達させた。続いて精神革命(枢軸時代)~科学革命~産業革命を経て、現在の情報革命に至る。

 精神革命とは二分心ジュリアン・ジェインズ)から脳が統合化され意識が芽生えた時代と私は捉える。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)が説いたカルマ(業)の教えは自我意識を過去世から来世まで延長したものだ。西洋風に言えば「我苦しむ、ゆえに我(≒カルマ)あり」ということだ。諸法無我とはアートマン(真我)の否定である。「我」(が)は存在しないのだから思考や感情は幻想である。人生とは一種のメタフィクションなのだろう。

 トール・ノーレットランダーシュは意識のことを「ユーザーイリュージョン」(利用者の錯覚)と名づけた。



呪術の本質は「神を操ること」/『日本人のためのイスラム原論』小室直樹

2014-07-14

無我/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダールタは、心とも体とも別の自己――すなわち、アートマン(我)――という考えを超え、ヴェーダで提唱されている誤ったアートマンの考え方の虜になっていた自分に気づいて唖然とした。実在の本質はわかれてはいない。無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった。アナートマンは何か新しい実在を表す言葉ではなく、すべての謬見を破壊する雷のごときものであった。シッダールタはあたかも瞑想の戦場で、無我を旗印に、洞察という名刀をふりかざす将軍のようであった。昼も夜もピッパラ樹の下に坐りつづけ、新しい気づきが稲妻の閃光のように次々と解き放たれていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

 出家したシッダールタは二人の師につくがやすやすと無所有処に至り、驚くべきスピードで非想非非想処(天界の最上位である有頂天)をも体得した。

2.ゴータマ・ブッダの出家と修行
非想非非想処と涅槃
滅尽定とニルヴァーナ

 悟りには明確な段階があるのだ。

 傍目からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階にあるからです。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃(サンガ新書、2009年)】

 諸法無我を悟った瞬間が劇的に描かれているのだが致命的な誤りがある。「無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった」――いくら何でも「本質」はないだろう。たぶん翻訳ミスだと思われる。アナートマンとは否定語のアン+アートマンで無我・非我と訳す。訳語としては非我が相応しいような印象を受けるが、非我だとまだ我の存在を払拭できていない。ゆえに無我が正しいと私は考える。

梵我一如と仏教の関係

 デカルトは徹底した思索の果てに我を見据えた。ブッダは瞑想の果てに我を解体した。我は錯覚であり妄想であった。トール・ノーレットランダーシュは意識の正体を「ユーザーイリュージョン」と喝破した。

「私が存在する」という感覚から欲望が生まれる。人生の悩みは一切が私に基づいている。つまり私とは、神・幽霊・宇宙人に匹敵する錯覚なのだ。生はただ縁りて起こるものだ(縁起)。生は川の流れのように一瞬もとどまることがない。そこに「変わらざる自分」を見出すところに凡夫の過ちがある。自分から離れて、ただ生の流れに身を任すことが自然の摂理にかなっている。インディアンは確かにそういう生き方をしていた。

2011-12-21

縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ


自由の問題 1
自由の問題 2
自由の問題 3
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
教育の機能 1
教育の機能 2
教育の機能 3
教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
宗教とは何か?
無垢の自信
真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

 ランスケさんとの出会いは、レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』によってであった。一冊の本を通して人と人とが邂逅(かいこう)する。何と不思議なことか。最初にコメントがあり、ランスケさんのブログで私の記事を紹介していただいた。

「ルワンダ大虐殺」及び「ルワンダの涙」

 我がブログは反応らしい反応が乏しいこともあって、大変ありがたかった。また私が綴る諸法無我についても敏感に応じてくださった。感受性の鋭い人は侮れない。彼の文章に私も思うところがあった。

 そこで議論、というよりは私自身の考えを確認する意味でこの一文を書いておこう。

 諸法無我という言葉(キーワード)が、重苦しい閉塞感の先に光明を見出す切っ掛けとなるだろうか?
 自我という実体が幻想なら、私という記号は人やモノとの関係性のなかで常に変化するのなら、
 私は「自我の地獄」から解放される。
 それは地球上のすべての生物種がそうであるように、
 人も生命の循環のなかに組み込まれた一つの生物種であることの証明だろう。
 人だけが自我という主体を持つ別個の存在という発想の方が歪に思えてくる。
 その関係性は「縁起」であり「慈悲」へと辿り着くのなら、これは幸福のかたちではないだろうか?

Landscape diary ランスケ ダイアリー

「自我の地獄」とは言い得て妙である。「地」は最低を意味し、「獄」には束縛の義がある。我々は生命を自我に閉じ込めてしまった。

 欲望を巡って幸不幸が位置する。大衆消費社会における幸福とは欲望の充足である。矢沢永吉は「愛も金で買える」と嘯(うそぶ)いてみせた(『成りあがり』)。

 で、欲望は「私」に基づいている。もう一歩踏み込もう。私とは「私の欲望」である。

 自我は版図(はんと)の拡大を目指す。我々がこれほど所有に執着するのは、所有物をもって自我を延長・拡大するためと考えられる。財産はもとより学歴、家柄、氏素性に至るまで他人との差別化を図れるものは全て自我に収束される。

 人が権力に憧れる理由もここにある。より多くの大衆を「手足のように」コントロールするところに権力の本質がある。男性にメカマニアが多いのも頷ける。機械は正確に応答するからだ。拳銃は機能性や様式美もさることながら、離れた場所に位置する人物の生殺与奪を決定する力が男の本能に強く訴えるのだろう。

 縁起=諸法無我とは具体的にいえば「コントロール性から離れる」ことを意味する。仏典では権力に潜む魔性を「第六天の魔王」と説く。これを略して天魔と称する。第六天とは有頂天のこと。天は人間界の上に位置する。別名を「他化自在天」(たけじざいてん)とも。他人を化すること自在というのが権力現象とってよい。

 これは本能に基づいたコミュニティがヒエラルキー構造を避けられないことを示していると思う。ブッダが生まれる以前からカースト制度は存在した。それゆえ弱肉強食からの超脱と考えることも可能だろう。

 もう一つ付け加えておくと、仏法が理解されにくいのは我々が幸福を求めるのに対して、ブッダは苦からの解放を説くという微妙な擦れ違いがあるためだ。厳密にいえばブッダが教えたのは幸福になる道というよりは、自由への直道(じきどう)であった。

 前置きが長すぎた。本論に入ろう。

 ただし、私は縁起は人との関係性を含むと思います。世界との繋がりは、生けるもの全てを呑みこんだ連綿と続く循環だと信じたい。

Landscape diary ランスケ ダイアリー:コメント欄

 私は次のように書いた。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 また次のようにも書いた。

 最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 大抵の人間関係は自我に基づいている。国家とは自我である。アイデンティティを規定するのは所属である。「私」が空虚であれば、最終的にしがみつくものは国家しかない。すなわち「私は日本人である」ということが自我の規定となる。

 大阪高等学校寮歌に「君が愁いに我は泣き 我が喜びに君は舞う」との美しい一節がある。かくの如き友情でありたいと私も願う。だが醒めた目で見つめると、その同一性、一体性が戦争の原因ともなり得ることに気づく。

 私が32歳の時、わずか半年の間で6人の後輩を喪ったことがある。文字通り涙が涸(か)れるまで泣いた。その後私は泣くことができなくなったほどである。それこそ身体の一部をもぎ取られるような感覚に陥った。ご家族の哀しみは想像にあまりある。私は彼らの死を力任せに引きずって生きてきた。彼らは私の胸で生き続けた。

「生きとし生けるものは必ず死ぬ」――そんな当たり前の真理に目をつぶりながら賃金を得るため身を粉にして働き、どうでもいいものに金をかけ、刺激を求めることに余念がなく、人の役にも立たない趣味にうつつを抜かし、のんべんだらりとブログを綴っているという寸法だ(※最後のは私のことね)。

諸君は永久に生きられるかのように生きている/『人生の短さについて』セネカ

 そして自我に基づいた人間関係は必ず依存へと向かう。

 現在、自由というようなものはないし、私たちはそれがどのようなものかも知りません。自由にはなりたいけれども、気づいてみると、教師、親、弁護士、警察官、軍人、政治家、実業家と、あらゆる人がおのおのの小さな片隅で、その自由を阻むことをしています。自由であるとは単に好きなことをしたり、自分を縛る外の環境を離れるだけではなく、依存の問題全体を理解することなのです。依存とは何か、知っていますか。君たちは親に依存しているのでしょう。先生に依存して、コックさんや、郵便屋さん、牛乳を届けてくれる人に依存しています。このような依存はかなり簡単に理解できるのです。しかし、自由になる前に理解しなくてはならない、はるかに深い種類の依存があるのです。つまり、自分の幸せのための、他の人に対する依存です。自分の幸せのために誰かに依存するとはどういうことか、知っていますか。それほどに人を縛るのは他の人への単なる物理的な依存ではなくて、いわゆる幸せを招来するための、内面の心理的な依存です。というのは、誰かにそのような依存をしているときには、奴隷になってゆくからです。年をとるなかで、親や妻や夫や導師(グル)、ある考えに情緒的に依存しているなら、すでに束縛が始まっているのです。私たちのほとんどは、特に若いときには自由になりたいと思うけれども、このことを理解していないのです。
 自由であるには、内的なすべての依存に対して反逆しなくてはなりません。そして、なぜ依存するのかを理解しなければ、反逆はできないでしょう。内的な依存のすべてを理解して、本当に離れてしまうまで、決して自由にはなれません。なぜなら、その理解の中にだけ自由はありうるからです。しかし、自由は単なる反動ではありません。反動とは何か、知っていますか。もし私が君を傷つけるようなことを言ったり、悪口を言うなら、君は私に対して怒るでしょう。それが反動で、依存から生まれた反動です。自立はさらに進んだ反動です。しかし、自由は反動ではありません。反動を理解して、それを超えるまで、決して自由ではないのです。
 君たちは、人を愛するとはどういうことか、知っていますか。樹や鳥やペットの動物を愛するとはどういうことか、知っていますか。何も報いてくれないかもしれないし、木陰を作ってくれたり、ついてきたり、頼ってくれたりしないかもしれないけれども、世話をし、餌をやり、大事にするのです。私たちのほとんどはそのように愛していないし、私たちの愛はいつも心配や嫉妬や恐怖に閉ざされているために、それがどういうことかもまったく知りません。それは、私たちが内的に人に依存していて、愛されたがっているということを意味しています。私たちはただ愛して、放っておかず、何か報いを求めます。そして、まさにその求めることで、依存するのです。
 それで、自由と愛は伴います。愛は反動ではありません。君が愛してくれるから愛するのでは、単なる取り引きで、市場で買える物なのです。それでは愛ではありません。愛するとは、何の報いも求めないし、与えていることさえも思わないことなのです。そして、自由を知りうるのはそのような愛だけです。しかし、君たちはこのための教育を受けていないでしょう。君たちは数学や化学や地理や歴史の教育を受けて、それで終わりです。なぜなら、親の唯一の関心は、君たちがよい仕事を得て、人生で成功するように助けることですから。親がお金を持っているなら、君たちを外国に行かせてくれるかもしれません。しかし、親のすべての目的は世間と同じで、君が豊かになり、社会の中で立派な地位を得ることなのです。そして、上に昇れば昇るほど、君たちは他の人々にもっと多くの悲惨を引き起こします。なぜなら、そこにたどり着くために競争し、非情にならなくてはならないからです。それで、親は野心と競争があり、まったく愛のない学校に子供を送ります。そのために、私たちのところのように社会は絶えず腐敗してゆき、絶えまない闘いの中にあるわけです。そして、政治家や裁判官、いわゆる土地の貴族が平和について語っても、何の意味もないのです。
 そこで、君と私はこの自由の問題全体を理解しなくてはなりません。愛するとはどういうことかを自分自身で見出さなくてはなりません。なぜなら、愛していなければ、決して思慮深く、注意深くなることはできないからです。決して思いやることができないからです。思いやるとはどういうことか、知っていますか。大勢の素足が歩く道に尖った石が落ちているのを見たら、それをどけるのです。頼まれたからではなく、他の人を気づかうのです。その人が誰であろうと問題ではありません。その人にはまったく会わないかもしれません。木を植えて大事にしたり、河を見て地球の豊かさに歓喜する。飛んでいる鳥を観察し、その飛翔の美しさを見る。この生というとてつもない動きに敏感で、開いている――これらには自由がなくてはなりません。そして、自由であるには、愛さなくてはなりません。愛がなければ自由はありません。愛がなければ自由は単に、まったく価値のない考えにすぎません。それで、自由がありうるのは、内なる依存を理解して離れ、そのために愛とは何かを知る人だけなのです。そして、新しい文明、違う世界をもたらすのは、彼らだけでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 同一化とは依存であり、依存は形を変えた所有である。そして自我は蓄積物でいっぱいになる。

あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 2年前に父が死んだ。まともに会話をするようになったのは私が結婚してからのことだった。「もう少し……」という思いは確かにある。もう少し教えてもらいたかったこともあるし、もう少し親孝行もしたかった。だが父は死んだ。私は生きている。私は父と共に生きている。やがて私も死ぬ。

 我々は自分の周囲の死を嘆き悲しむ一方で、他人の死を深く心にかけることがない。世界が不幸に覆われている原因はその辺りにあるのだろう。



Krishnamurti with Students, Rishi Valley, India.

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

2011-11-01

縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編


 ヴェーダウパニシャッド(ヴェーダの一部)を参照し、インド哲学から六派哲学六師外道に至り、輪廻解脱を確認し、梵我一如に辿りついたところで既に1時間以上を経過している。

 ものを書く行為には正確さが求められるが、書こうと思っていたことを失念しそうだ。大体、今更私がインド思想史を正確に記述したところで何の意味もない。少々の間違いがあったとしても独創的な見解を示すのが先だ。

 もう疲れてしまったのでメモ書き程度にとどめておく。

 まず現在の私の見解を述べておこう。日本の仏教はその殆どが鎌倉仏教といってよい。最大の問題はなにゆえ鎌倉時代から宗教的進化が見られないのかということに尽きる。本来であればニュートン力学や、アインシュタインの相対性理論、はたまたゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理量子力学超弦理論などに対して応答する必要があった。

 これを避けたことによって全ての宗教は文学レベルに堕したと私は考える。物語力は既に宗教よりも科学の方が上回っている。

 前置きが長くなってしまった。本書は仏教入門として非常に優れている。記述も正確だ。

 アーリヤ人のインド侵入以前にインダス河の流域に高度な文明が発達していたことが、インド考古学調査団の発掘調査によって判明した。ハラッパーモヘンジョダロを二大中心地として、紀元前2300年ころから1800年ころまでの間栄えていたとされる。
 その出土品によれば、シュメール文化との関係が深く、アーリヤ文化とはまったく性質が異なっている。この文明の担い手は現在南インドに居住するドラヴィダ人の祖先であったとする説が有力であるが、確実なことはいまだ不明である。

【『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)以下同】

インドに歴史文化がない理由

 インダス文明は、アーリア人が五河(パンジャブ)地方に侵入する以前に衰えてしまっていたといわれるが、現段階ではよくわかっていない。ともあれ、鉄器をもちいるアーリア人が、銅器をもちいていたムンダ人やドラヴィダ人などのインドの原住民たちを圧倒し、支配したことは事実である。
 紀元前1500年ごろ――あるいは紀元前13世紀ごろ――インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちは、ヒンドゥークシュ山脈を越えて五河地方を占拠した。これ以後、今日にいたるまで、インド文化の中核となっているのは、このインド・アーリア人である。彼らはギリシア人やゲルマン人と同じ祖先をもつ人種であり、インド人の思弁の中には、ギリシア哲学やドイツ哲学の思索の道筋と似たものが見出される。

【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

 つまり東洋と西洋の文化が激しくぶつかり合い、アーリア人支配という政治的側面からヴェーダが作成された。

 ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。

 で、インドはカースト制度に束縛されていた。

 なお、四姓の原語はヴァルナといって「色」を意味し、もともとは白色のアーリヤ人とそうでない非アーリヤ人を区別するために用いられたことばである。

 社会の安寧秩序を守るための宗教といってよい。いまだにインドはカースト社会であることを踏まえると、人間の脳は簡単に数千年も縛られることが理解できる。強靭な物語力だ。

 ちょっと気になったのだが、「ヴァルナ」はひょっとすると色法(しきほう)と関係があるかもしれない。

 ウパニシャッドにおける重要な思想の一つに、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)がある。

 これは知らなかった。そうするとブッダが説いた解脱とどう違うのかね? 梵我一如の違いだけだとすれば、実にわかりにくい。

 こうしたテーマが厄介なのは、当時の人々が何に束縛されているかを知らなければ、ブッダの目指した自由がわからないことだ。

 またインド哲学でいうところの「我」と、デカルトが見出した「我」は似て非なるものだと思う。仏教が説く我(が)は当体や主体という意味で、自我とはニュアンスが異なるように感ずる。

 ことに『スッタニパータ』にみられる無我説は極めて数が多い。

 なにものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた水の少ないところにいる魚のようなものである。(777)

 ここでは、なにものかを「わがもの」「われの所有である」と考えることを否定している。執着、我執、とらわれの否定、超越として無我が説かれている。
 また『律蔵』の中で、釈尊は五比丘(びく)に向かって次のように説いている。

 比丘たちよ、この色は我ではない。もし色が自己であるなら、この色が病いにかかることはないであろう。また、色について、わたしの色はかくあれ(健康であれ)、かくなることなかれ(老いないように、死なないように)といえるであろう。しかし、色は我ではないから、病いにかかるし、あれこれと(自由に)することはできない。……この受が我であろうか。……この想が……この行が……この識が我であろうか。

 このように、色(しき/肉体)及び四種の精神(受・想・行・識)の働きをあげ、そのどれもが我と呼べるものではないとしている。
 無我という語は主に初期仏教や部派仏教で用いられるが、大乗仏教ではこれを「空」の語で表現することが多くなった。

 これで一つわかった。諸法無我であるがゆえに、諸法実相は三諦(さんたい)における縁起となるのだ。大乗仏教は諸法無我=空としたため、中道実相に不要な付加価値を与えてしまったのだろう。

 釈尊の教説「四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。

三諦説「空・仮・中」:日本タントラヨーガ協会

 つまり実体としては縁起しか存在しないのだ。

 縁起とは「縁(よ)りて起こること」である。「縁りて」とは条件によってということであり、あらゆるものは種々さまざまな条件に縁って(縁)、かりにそのようなものとして成り立っている(起)ことである。

 縁起とは人間関係といった意味での関係性ではない。生命次元の相互性・関連性を意味する。

 この縁起を特に法と名づけ、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」とも「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」とも説かれている。そしてこの縁起の法則は、たとえ仏が世に出ても出てなくても永遠に変わることのない真理であるといわれる。

 縁起がダルマ(法)なのだ。

 私論を開陳させていただこう。大乗仏教は部派仏教に対抗するために、バラモン教的政治性を取り込んでしまったのだろう。また差別化を計る目的で教義も豊穣な――あるいは過剰な――論理構造を築かざるを得なかった。その過程で梵我一如の影響を受けてしまったのだ。これが一念三千であると考えられる。

 諸法無我は現代科学が証明しつつある。量子レベルで見れば我々の肉体は蜘蛛の巣や綿飴みたいにスカスカだ。そこに微弱な電気が流れ、なぜだかわからないが「私」が立ち上がるのだ。そして哲学的に吟味すれば、「私」とは世界から分断された存在に他ならない。

 鎌倉仏教は大乗と密教をミックスした日本オリジナルの宗教である。現代においては大乗から部派仏教、そして初期経典へとさかのぼり、ブッダ本来の教えを辿るべきだと私は考える。大乗仏教から政治性や運動性を除かないと、単純なプラグマティズムに堕す恐れがあるからだ。

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無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か
無我に関するリンク集
ウパニシャッドの秘教主義/『ウパニシャッド』辻直四郎
無明とは/『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ