・『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
・『無(最高の状態)』鈴木祐
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
・『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
・『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
・『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
・『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
・『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
・『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
・「私」という幻想
・悟りとは認識の転換
・ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
・『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
・『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
・『今、永遠であること』フランシス・ルシール
・『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
・『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン
・悟りとは
・必読書リスト その五
実は、「悟り」とは、解脱でも、完成でもなんでもなく、認識の転換なのです。
【『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ〈なち・たけし〉(明窓出版、2011年)以下同】
「必読書」に入れた。なんとはなしに、この手の本を軽んじることが、あたかも知性的であるかのような思い込みがあった。
「認識の転換」とは見る(≒感じる)位置が変わることである。ただ、それだけのことだ。そこが凄い。世界とは、「私から見える世界」を意味する。「私が見る世界」と言ってもよい。見ているのは「私」だ。これをどうやって換えるのか? 例えば自分が映った鏡、写真、動画を見る時、我々の視点は外側に位置する。「離れて見る」のが瞑想のスタートだ。
私は断言するのですが、もしも真に悟りの認識を得る――私は悟ったという言葉は使いたくありません。それは完成を意味するからです――ことができたら、その人の言葉は必ず、仏教とはかけ離れて感じられるような独自な響きを持つのです。独自な形式を持つのです。これだけは間違いのないことです。
なぜなら、彼らは他人の言葉で語るのではなく、自分の体内から赤子を生み出すように、自分の身体感覚に基づいて、自分の言葉で表現せざるを得ないからです。
その言葉は、仏教的枠組みを大きく踏み外し、時に矛盾するものであるかもしれない。しかし、彼らはそれを恐れないのです。(中略)
学者や僧侶は、仏教において悟りとは何かを語ることはできるかもしれません。しかし、彼らの中に悟り体験があるかどうかはまったく別の話です。むしろ、彼らの蓄積された宗教的知識こそが、悟りの認識を邪魔している可能性の方が強いと私は感じています。
私も仏教の入門書なり専門書めいたものに目を通すことはありますあ、その中に著者独自の悟り観のようなものが感じられるケースはほとんどありません。それどころか、仏教の叡智を切り売りして、世間知に貶めてしまっているものがほとんどという有様です。それらはもはや悟りについての書物ではなく、世の中をうまく生きるための処世術でしかないのです。
マスメディアは、叡智を世間知に陥(ママ)しめました。人は変わるためではなく、世の中を巧妙に上手く生きるために、こうした本を手に取るのです。
悟りの認識を得ていないものが仏法を問いても、伝わるのは2500年に亘って蓄積された絢爛豪華な知識の断片だけです。なぜ断片になってしまうかというと、悟りの根幹を語り手が理解していないからです。そうした人の書いた仏教の解説書はいずれも処世術であり、悟りとは何ら関係がありません。こうしたものは、ある種の知識欲を満足させるかもしれませんが、断片的知識と悟りの認識は相反するものなのです。
那智タケシはクリシュナムルティを手掛かりにして、6年間の動的瞑想を経て悟りに至った。彼自身の言葉が創意に溢(あふ)れている。何かを書くというよりも、泉から湧き出る水のような勢いがある。
真理は常識や道徳を無視してしまう。真理は世間に迎合しない。そして真理は光を放っている。
教義は真理の一部であったとしても真理そのものではない。なぜなら真理は言葉で表現できるものではないからだ。そういう意味では仏教が神学さながらにテキスト主義に陥ったのは、悟りから大きく乖離する要因となった。経典を重視したのは悟る人が少なくなったためだろう。言葉は象徴に過ぎない。犬という言葉は犬そのものではない。
悟りが様式や知識に堕すと言葉が重視されるようになる。印刷技術がなかった時代を思えば、経典を持っていること自体が一つの権威となったことだろう。だが、経典を何度読んだところで悟りを得られない事実が経典の限界を示している。悟りから離れたブッダの教えは学問となった。
仏弟子となった周利槃特〈しゅり・はんどく/チューラパンタカ〉は4ヶ月を経ても一偈(いちげ)すら覚えることができなかった。一説によれば自分の名すら記憶できなかったと伝えられる。ブッダは一枚の布を渡し、精舎(しょうじゃ)の清掃と比丘衆(びくしゅ)の履き物を拭かせた。唱えるのは「塵を除く、垢を除く」の一言である。やがて周利槃特は阿羅漢果を得る。
ここで大事なのは行(ぎょう)がそのまま悟りにつながったのではなく、行を手掛かりにして悟りを開いたことだ。修行を重んじるのは悟れない人々である。鎌倉仏教に至っては悟りを離れ、「信」を説くようになってしまった。