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2011-08-17

「岸壁の母」菊池章子


 昭和29年(1954年)9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード『岸壁の母』が大流行(100万枚以上)した。

 作詞した藤田まさとは、上記の端野(はしの)いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げた。歌詞を読んだ平川浪竜は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく視聴室でピアノを演奏し、重役・文芸部長・藤田まさとに聴いてもらった。聞いてもらったはいいが、何も返事がなかった。3人は感動に涙していたのであった。そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出した。

 歌手には専属の菊池章子が選ばれた。早速、レコーディングが始まったが、演奏が始まると菊池は泣き出した。何度しても同じであった。放送や舞台で披露する際も、ずっと涙が止まらなかった。菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」と語っている。

 昭和29年9月、発売と同時に、その感動は日本中を感動の渦に巻き込んだ。菊池はレコードが発売されたとき、「婦人倶楽部」の記者に端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送った。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかけるプレーヤーもないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものであった。菊池はみずから小型プレーヤーを購入し、端野に寄贈した。

Wikipedia

動画検索:「岸壁の母」菊池章子



星の流れに/岸壁の母

端野いせさん・岸壁の母について
岸壁の母のモデル、端野いせと息子新二
「星の流れに」菊池章子、ちあきなおみ、谷真酉美
「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」
石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

hasino

2011-06-26

戦後の娯楽は映画からテレビに/『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則


 軍司貞則の本を読もうと思い立ち、取り敢えず入手しやすいものを選んだ。ナベプロの創業者・渡辺晋〈わたなべ・しん〉の一代記。芸能界から見た戦後の経済史として読むことも可能で、更にビジネス手法まで学べる。

 昭和30年代生まれであれば、幼い頃に観たテレビ番組の記憶が蘇ることだろう。シャボン玉ホリデーなど。

 戦後の娯楽といえば映画が王者の座に君臨していた。日常の情報は新聞とラジオが支えていた。そこへテレビが台頭してくる。

 NHKの関係者から「すさまじい勢いで受信契約世帯が増えている」という話をきいていた。昭和33年のNHK受信契約世帯は100万世帯だったが、1年後には500万世帯に迫る勢いだという。すごい伸び率である。こんな伸びを示しているものが他にあるだろうか。
 それに輪をかけるように、34年2月に東芝がカラーテレビ第1号を完成させていた。カラーテレビはまだまだぜいたく品で1台52万円だが、各方面から問い合わせが多いという。さらにソニーが昭和35年4月に向けてオールトランジスターテレビを発売するという噂も聞いていた。小売価格は6万9800円だという。
 確実にテレビは普及する。
 白黒(モノクロ)からカラーになり、サイズも自由になる、と渡辺晋は予測した。

【『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則〈ぐんじ・さだのり〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)以下同】

 これは街頭テレビ(1953年/昭和28年)の影響が大きかった。力道山が白人レスラーをやっつける姿を見て、敗戦に打ちひしがれていた日本国民は狂喜した。ま、一種の敗者復活戦みたいなものだったのだろう。

 そして映画の斜陽が始まったのは1960年(昭和35年)であった。

 映画は確実にテレビに喰われ始めていた。劇場へ行く観客が減っているのだ。全盛期の昭和33年に年間11億2700万人を数えた映画館入場者数は、36年には8億6300万人へと激減していた。
 戦後、映画は娯楽の王者であり、テレビ創成期も映画俳優はテレビを「電気紙芝居」と蔑んで絶対にブラウン管には登場しなかった。ところが昭和37年にはNHKの受信契約世帯は1000万台を突破し、4月からTBS系で始まったアメリカのテレビ映画「ベン・ケーシー」が視聴率50パーセントを超えるという事態が生じる。徐々にではあるが「テレビ」と「映画」の関係の逆転現象が起こり始めていた。
 晋と美佐はそれに気づいていた。

 1958年から翌年にかけてミッチー・ブームが吹き荒れる。皇太子の御成婚(1959年)をひと目見ようと、人々はテレビを買い求めた。そして東京オリンピック(1964年)でテレビは全国のお茶の間に備えられた。

日本映画産業統計:過去データ一覧表

 入場者数を見ると1959年をピークに、1960年はほぼ横ばいだが1961年から激減している。この数字からテレビの普及率が窺えよう。

 ナベプロは創業期のテレビ局をバックアップしながら、その一方で落ち目となった映画界に触手を伸ばした。そして計算通り、クレージーキャッツの映画作品を次々と大ヒットさせる。

 大宅壮一が一億総白痴化といったのは『週刊東京』1957年2月2日号でのこと。まだまだテレビが蔑まれていた時代であった。

 テレビというパンドラの匣(はこ)は、広告代理店が企業を統治するメディア情況を生んだ。視聴者はコントロールされる対象に貶(おとし)められた。今となっては単なる世論誘導の道具にすぎない。

 先ほど以下のツイートが流れてきた。

1.もっと使わせろ、2.捨てさせろ、3.無駄使いさせろ、4.季節を忘れさせろ、5.贈り物をさせろ、6.組み合わせで買わせろ、7.きっかけを投じろ、8.流行遅れにさせろ、9.気安く買わせろ、10.混乱をつくり出せ【電通「戦略十訓」】(@take23asn

 完全に統治者の言葉づかいとなっている。ジョージ・オーウェルが描いた『一九八四年』の世界が現実化している。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル